第12話

 逃げ込んだ路地裏の暗がりが、少しずつ僕の心に鬱積した恐れを癒していく。闇が心を癒すなんて、何を中二病みたいなことを考えてしまうのだろうか。いや、こんなことを考えることが出来るんだから少しはマシになってきたのだろう。

 でも今思い出しても体が震えるのだ。

 瑠璃さんを通して魂の有り様を見ることが出来なくなってしまったあの瞬間の、あの心を覆っていった真っ黒な感情。

魂のあり方を目にしなくてはいかないという思いが知らないうちに強迫観念となり、見ることがどうしても怖くて、体の震えを止められなくなってしまったのだ。


「ご主人サマ、落ち着きました?」

 

 眼鏡から人の姿に戻り、そう声をかけてくれる瑠璃さんの声を聞いても、未だに自分の体が言うことをきかないと見せつけられてしまう。 


「……うん、ゴメン」

 また口を吐いたのはのは強がりだった、

 怖いと言えば良いんだ。無理なんだと言えば良いんだ。でもこう言わずにはいられなかった。


 『男なんだから』


 数時間前、コウヘイが口にしていたその言葉が脳裏を掠める。

 あぁ、そうだったんだ。本当に僕はバカみたいに強がっていただけだったんだ。自分にはきっと何かをなすことが出来るだなんて、そんな夢想を抱いて、めぐり様の言葉からおかしな自信を身につけてしまって……本当に、バカみたいだ。

「無理はしなくても良いんですよ。少しお休みしましょう?」

 頭に乗る手が今の僕には同情にしか感じられない。優しいのだ。どうしようもなく、瑠璃さんの手は優しいのだ。

 それが僕の気持ちを麻痺させるのが分かる。

 まるで何もしなくても良いよと言われているみたいな気がして仕方がなかった。

 でも何かをしたい。僕が誰かを救うことが出来ればという気持ちだけは本物だった。誰かから与えられたものでも、押し付けられたものでもない。救いたいという気持ちだけは間違いのないものだった。

 だから不甲斐なくてどうしようもなくて、その優しい声に口を噤んだまま、暖かな掌を肩に感じたまま、僕は動けずにいたのだ。

「……でも主様には一言断わりをいれないといけませんね」

 しかしそんな優しい停滞も、瑠璃さんの言葉で一瞬のうちに終わってしまう。

 

「そう、だね……」

 分かっていた。止まるにしても、進むにしたってあの人に今の状況を伝える必要がある。

 それにもう一つ分かったことがあるのだ。僕が人の魂を見ていく中で、人の一生を瞬きの内に知る中で。


 彼女は、めぐり様は、一つ嘘を付いているのだと。


 でもその嘘が白日のもとに晒されてしまった瞬間、僕たちの関係は憎み合うものに等しい何かに変わってしまうという確信があった。

 だから何があってもめぐり様には会いたくなかった。


 しかしそんな僕の後ろ暗い思いも、

「じゃ、行きましょっか?」

 こんなにも簡単に飛び越えて、瑠璃さんはニコリと笑顔を浮かべてしまうのだ。


「や、やっぱり行くの?」

 瑠璃さん……なんて笑顔してるんだよ。

 というか今までの僕のシリアスな雰囲気を返してくださいよ。何故か瑠璃さんがこんな風に振る舞う時だけ以前の僕に戻れるような気がするのはきっと僕の気のせいではないだろう。


「えぇ、もちろん!」

 その響きが耳に届いた瞬間こう思った。

 あぁ、デジャヴだ。いや……笑い話のもならないんですけど。




 思わず目を閉じた次の瞬間、路地裏から見覚えのある大きな屋敷の庭に立ちすくんでいました。

「……何度来ても慣れない」

 遠くに見える雷雲も赤く染まる山も僕は本当に目にしたくはなかったのだ。ここが嫌なわけでは決してない。色々な人と出会って、色んなことを教えて貰ったこの場所を嫌いになんてなれるはずがなかったのだ。


 でもやっぱりダメだ。

 あの屋敷を目にすると心の中が騒ついて落ち着いていられない。以前は平然と見て取れたはずの風景だって、僕の焦りを掻き立てる。


「主様〜! 主様〜! 道幸さまと一緒に戻ってきましたよ〜!」

「……ねぇ、やっぱり会わないとダメなの?」

「そりゃ勿論ですよ。一応私たちの上司であらせられますから。現状を報告しなくてはお暇をもらう事は許されませんよ」

「……」

 応えることができない。瑠璃さんの声に、優しい声に応えることができなくて、ただ体が震えてしまう。

 そしてそんな時に限って聞こえてくるのだ。

「どどど、どうしたのよ、いきなり! 少し待ってなさい!」

 吃りながらも少し耳に痛い、でも軽やかな声。

 御簾の向こうから見て取れるその慌てた姿だって、僕にとっては少し嬉しくなるような姿だった。


 でも滲み出してしまう、真っ赤な色が視界いっぱいに。まるで絵を描いている時に、間違っておかしな色を足してしまった時の後悔のようにいっぱいに広がっていく。それに耐えきれなくなり、思わず俯き下を向いてしまう。


 ダメだ。急いでこちらに出てくる支度をするめぐり様のたてる音が、僕の耳には急を知らせる早鐘に聞こえて仕方がない。

 何度目になるだろう。もうダメだと……頭の中がその言葉で埋め尽くされて身震いが止まらなくなってしまった。


 そして次の瞬間、僕は絶対言わないと決めていた言葉を口にしていた。

「——ー瑠璃さん、ゴメン」

「え? ご主人サマ?」

「やっぱり無理だ。少しの間だけ、一人にしてくれないかな?」

「ご主人サマ……」

 今、瑠璃さんはどんな顔をしているのだろうか。トーマスのような怒った表情か、ソラちゃんのような悲しみにくれた表情か……いずれにしても僕は俯いたまま瑠璃さんの顔を見る事が出来ない。

 なんと言葉にされるのだろうか。覚悟……じゃないか、諦めたまま彼女の言葉を待っていると、深いため息が耳に届いた。

 あぁ、きっとこれは呆れられてしまったのだろう。嫌だけど、きっと耐えられないだろうけど、恐る恐る顔を上げる。


「……ッ!」

 あったのは笑顔だった。まるで母親のように、僕を諭すような、受け入れてくれるようなそんな表情。責めて欲しかった、何を言っているんだって、甘えるなってそう言って欲しかったのに。なんでそんな風に笑顔を見せるんだ。

 あの世に吹く風がいやらしく身体に纏わり付いてくる。理由は分かる。それはここが『自分の重ね続けた罪』を見つめ直すための場所だから。

 そして今の僕にとっては、『逃げる事実』をありありと指し示しているのだ。


 しかしこんな、あの世の痛烈さの中にあって瑠璃さんだけは違う。

「分かりました。主様は適当にごまかしておきます。でも……落ち着いたら、必ず帰ってきてくださいね?」

 こんなにも優しいから、だから僕は大したことも考える事が出来ずにこう口にするしかなかった。


「……ゴメンッ!」


 駆けだす。

 もう彼女の姿を見続ける事なんてできない。もうどうしたら良いか分からないからがやりたいと言っていた事を、投げやりに走り出しとり間もないままに一気に走り抜けていく。

すっかり焼け焦げ、剥げ切った山。

 賽の河原で、虚ろな目で石を積み上げていく子供。

 痛ましい光景が視界の隅に映った。自らの人生に後悔したままこの場に流されてきた魂の形を僕は目にした。

「いやだ! 見せるなよ……視界に、入ってくんな!」

 幾度目かになる弱音。

 暴言を吐いて駆け回る根性なし。

 それが今の僕だ。それを自ら叱責するように必死に身体に鞭を打って足を動かす。

 でも少しずつ動かす足ががくがくと震え、胸を打つ鼓動は酸素を求め、今にも弾け飛んでしまうのではないかと思うほどに、その速度を今まで感じた事のないほどに高ぶらせていた。


「……ハァ、ハァ、ハァ!」

 それでも走り続けるのにも限界があった。

 息も絶え絶えになり、最早見慣れてしまった河原に倒れこむように膝をついてしまう。それでも胸の中心にあるモノは僕を駆り立てるのだ。

 動け、動けよ……逃げ出したんだから、どこまでも逃げ続けろよ。そんなワードばかりが頭を擡げてくる。

 そして気付いたのだ。

「……一人になって、問題が解決する訳もない!」

 きっとそれだけじゃないくて……

「一人じゃ、もっと怖いじゃないか! 何にも出来ないって、思い知らされるじゃないか!」

 そう、僕は逃げたいわけじゃなくて、諦めたいわけじゃなくて、何もできない事がどうしようもなく嫌だった。そしてこんな弱々しい自分を、みんなが見捨ててしまうんじゃないのか。

 それだけがどうしても怖かったのだ。

 

 だから蹲ったまま僕は動けなかった。

 ならばこれ以上動く事はない。静かに、ただ静かにここで蹲ったままいつまでも過ごしてしまおう。そう考える事が出来るくらいに、僕に纏わり付いている冴えたあの世の空気はゆっくりと流れている。

 それは優しい停滞だ。

 何の意味もない、僕が嫌ったはずのそれを、僕は少しずつ受け入れ始めていた。

 まるで身体が、頭が、早鐘を打っていた心臓だって重くなっていく。

 最後には自分を保っていた意識だって、ゆっくりと水の底に沈んでいくかのように掻き消えていくようだ。


 受け入れよう。もう辞めてしまおう。もう……僕は何もやれそうにないんですから。

 瞼を閉じて……あぁ、きっとほんの一瞬のことのはずなんだから。無の闇に落ちてしまう事なんて、何にも考えない石みたいになるのなんてきっと簡単な事なんですから……。


「あ、道幸くんじゃないか」

「本当だねー。今日は奇妙な事が多いねぇ」


 しかしまるで小説のようだとでも言うんでしょうか……いや、言うのだろうか。

 こんな時に、僕が停滞を受け入れてしまおうとした瞬間に現れるのだ。まるでヒーローみたいに。


「秦広王と……赤髪のおじさん?」


 でもまぁ、それが初老の男性二人って、あまりにビジュアルが渋すぎやしませんかね。


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