きつねのお祭り

浅葱いろ

こんこんこん

 蜜柑が転がってきた。

 歩む足を止めるが一歩遅く、橙色の果実は足先に当たる。硬くもなく、柔らかくもなく。蜜柑らしい感触が、草鞋の上の足袋を伝って指先を刺激した。


 顔を上げる。砂利道の先に、赤い鳥居が見えた。近所にある稲荷神社である。三崎みさき稲荷神社と言う。

 参詣したことは一度もなかったが、藩校への行き帰りで、否が応でも通りかかるので名前だけは知っていた。

 鳥居の下に、装束姿の初老の男の人が居る。神社に勤めている人だろう。その男の人が、蜜柑を通りに放っていた。僕の足に打つかった蜜柑以外にも、道には橙色が点々と落ちている。


 今日は十一月八日。鞴祭ふいごまつりである。

 土地神である稲荷神に、火防せを祈願する祭だ。確かに、火事は恐い。人が多く集まっているここ江戸では、伝染病の次に火事が恐れられている。だが、この三崎稲荷神社がある水道橋周辺は、武家屋敷が立ち並んでいる一角であった。


 火防せと家業の繁栄を願う、鍛治や鋳物など鞴を扱う職人は近くに住んでいない。

 本来、職人たちが仕事を休んで、祭の一環として道にまく蜜柑を、まく者が居ないから自ずから神社の者がまいているのだ。そして、この往来にまかれた蜜柑は、本来ならば子どもたちが拾うはずだった。


 僕は拾わなかった。

 武家の子だからだ。

 道に落ちている食べ物を拾い、ましてや食すなどとは、はしたないこととして、幼少の頃から固く言い含められている。そういうことは、食べる物にも困る者がすることだ。


 足先にあった蜜柑を蹴る。ころころと、橙色は砂利道を転げていった。袴の裾から朝の冷たい空気が流れ込んでくる。ぶるりと腿を震わせて、僕は藩校への道を急いだ。


 帰りになると、神社の前の道に蜜柑は残ってはいなかった。

 武士の子どもは拾わないし、勿論、武士の妻も、武士自身も拾わない。武士とは縁のない通行人が、蜜柑を拾っていったのだろう。


 真っ直ぐ家に帰るつもりであったが、僕は鳥居の前で足を止めると、何のつもりか気紛れを起こして、誘われるように神社の中に入った。


 江戸の町は「伊勢屋、稲荷に、犬のくそ」と言われるほど、稲荷社が多い。

 僕の家は元々は西の地方にあったが、父上が江戸城勤めになり引っ越しをする際、土地神として家に祀ったのも稲荷神であった。江戸の町の土地神には稲荷が多いので、僕の家に限らず、大体の武家屋敷に稲荷神が祀られている。


 武士は俸禄米ほうろくまいを貰って生活をしている為、農耕神である稲荷を祀るのは縁起もいいのだと言う。だが、縁起を担ぐよりも、僕は江戸の町に来た時、その有様に大層驚いた。どこもかしこも狐、狐、狐だったからである。少し、不気味なくらいだ。

 僕が元々住んでいた西の町は、稲荷よりも地蔵信仰が強かった。


 鳥居を潜り境内に入ると、社殿の手前に一対の狐の像が建っていた。狛狐だ。参道を挟んで、石造りの狐が向かい合っている。その間を通ることに気が引けたが、僕はおずおずと足を踏み出した。

 ぐにゃりと、嫌な感触が足裏に伝う。——うわあ。思わず、情けない声が口から漏れた。


 体重をかけてしまった足をゆっくりと上げると、石畳みの上に茶色いものがこびり付いている。

 伊勢屋、稲荷に、犬のくそ。江戸に多い三代名物の一つ、犬の糞である。狐の石像に気を取られていて、気付かなかった。

 草鞋の裏にもへばり付いているであろう糞を思い、僕は上げた足を下げられなくなる。

 神社で、しかも社殿の目の前で、大便の粗相をするなんて許されるのか。野良犬の姿は境内に見えなかったが、僕は憤慨する。


 そこら辺にある砂利や草で足を拭っても良かった。だけど犬ではなく人であり、武士の子である僕は、神様の前でそんなことは出来ない。けんけんで神社を出る他がなさそうだ。方向転換をしようと思い、上体を捻る。一歩、片足で飛び跳ねると、体を反転させたところで、次は石畳みの溝に足を取られた。


「あ!」


 僕の叫びは、口の中だけで響くものだった。

 前に倒れそうになる体を、寸でのところで持ち上げる。しかし、勢いがつきすぎて、次は後ろへと体は引っ張られていった。社殿の、犬の糞がある辺りに、倒れてしまいそうだ——。


「あ! あ!!」


 何かを掴むように伸ばした両手が、宙を藻掻く。当然、何も掴めないまま、僕は頭を強かに打ち付けた。


 はっとして目覚めると、当たり前だけど僕は三崎稲荷神社に居た。

 社殿を背にして、参道に尻を付けている。

 僕は頭を確認した。犬の糞がついていないことを念入りに確認してから、後ろを振り返る。見間違いだったように、社殿の前からは犬の糞が無くなっていた。ぐにゃりと身の毛もよだつ感触を得た足の裏を確認してみても、糞らしきものはついていない。

 参道に座り込んだまま、先ほどの出来事は幻であったのかと、僕は目を瞬かせた。


 てん——と、地面に投げ出していた足先に、何かが打つかる。顔を上げてみると、足の先に橙色の果実があった。蜜柑だ。

 僕は拾ってはいけないと母上に言われていることも忘れて、蜜柑を手に取った。初冬の空気に曝されて、ひんやりとした温度が手の平に伝わる。


「この蜜柑は美味い!」

「こっちの蜜柑は酸っぱい!」


 子どもの声がした。更に顔を上げてみると、境内に二人の子どもの姿があった。

 歳は七つほど。僕よりも小さい。

 あいつら! と、また口の中だけの叫びを僕は上げた。驚きの声だ。溢れんばかりに両手に蜜柑を持った二人の子どもを、僕は見たことがあったのだ。


 鞴祭も稲荷神を祀る祭りであったが、もう一つ、お稲荷様には重要な祭りがある。二月の初午の日に行われる初午祭はつうまさいだ。

 稲荷神を祀る最大のお祭りであり、江戸の町が一番に賑やかになる一日でもあった。僕も江戸に越してきてから、一度だけ経験をしている。


 初午祭は、稲荷神社に限らず、稲荷神を祀っている家ならば、どこの家でも執り行った。

 民家では、長屋から通りの家々まで、入り口や路地に染め幟が上がり、木戸の屋根には大きな行燈が飾られる。加えて、各家の戸に地口絵や灯籠が掲げられ、江戸の町は一気に華やぐのである。それは、武家屋敷でも同じだった。民家と同じように幟や灯籠で飾り立てられ、稲荷社の前で神楽を行う屋敷もある。そして、この初午祭の日だけは、町民が武家屋敷に入り、屋敷内の稲荷社に手を合わせることが出来た。

 いつもはひっそりとしている屋敷の庭で、町の子どもたちは踊り遊び、太鼓を鳴らして歌を口ずさむ。

 子どものための祭であると、誰かが言っていた。無論、武家の子である僕は踊らないけれど。


 今、目の前で蜜柑を抱えている子どもは、初午祭の際、僕の屋敷で一際目立っていた二人だった。

 周りの子どもたちと一線を画し、踊りの上手さと騒ぎようも際立っていたが、何より目を引いたのは、二人が付けているお面だ。二人は、狐のお面を被っていた。だからこそ僕は、一目見ただけで「あの時の子どもたちだ」と分かったのである。


 何故、ここに居るのだろう——。一瞬、不思議に思ったが、鞴祭にも参加していたのだろうと、すぐに思い当たった。抱えている蜜柑が何よりもの証拠だ。

 二人は、随分と祭りが好きなようだ。僕は鼻白む。初午祭の時も、僕は座敷に静かに座して、二人の騒ぎようを白々しく眺めていた。あんなにはしゃいで、はしたない。


 睨みつけるようにじっと見てしまっていると、流石に二人も視線に気付いたようで、狐の面がこちらを向いた。

 僕は寄せていた眉根を広げて、少しだけたじろいだ。

 能楽に出てくるような狐の面だ。吊り上がった細い目も、赤い舌がちらつく大きな口も、気味が悪い。決して、二人の子ども自体に恐怖を抱いたわけではない。


「あれ?」

「あれれ?」


 二人は駆け寄ってくると、挟み込むように立って、座り込んでいる僕を見下ろしてきた。

 そうして、男児とも女児とも分からない高い声で笑いながら、僕を中心にして、くるくると小走りで回り始める。

 同じ狐の面、同じ白い着物で、同じ背丈に同じ体格、同じ髪型をしており、まるで双子のような二人は、どっちがどっちであるのか、すぐに僕には分からなくなった。


「食べないの?」

「蜜柑」

「美味しいのに」

「それは甘い」

「そう、甘い」

「その蜜柑は美味しい」


 二人の子どもたちに言葉で指されて、僕は蜜柑を拾ってしまっていたことに、今更ながらにやっと意識が向いた。手の平の中にある橙色の重さに驚いて、振り払うように蜜柑を投げ捨てる。くるくると回っていた子どもたちが足を止めた。


「もったいない」

「あーあ」

「食べ物を粗末にするなんて」

「イケナイ子だ」


 参道の脇、敷き詰められている白い小石の上を蜜柑は転がって、手水舎の前で止まる。手水舎の軒下で、紙垂しでがそよそよと風に揺れていた。

 僕は奥歯を噛み締めた。〝イケナイ子〟は、よく聞く単語だった。母上が僕を叱る時に、口にするのだ。


「だって、母上に怒られるし、拾っちゃダメなんだ」


 僕は言い訳をするように、蜜柑を投げ捨てた行為について、もごもごと口にした。


「ほーら」

「ほーら」


 陰気な僕の声と相反して、陽気な声が上がる。それと同時に、空に沢山の橙が舞った。二人の子どもが、抱えていた蜜柑を一斉に空へと投げ飛ばしたのだ。

 青空に飛び上がる蜜柑の姿を追って、僕も天を仰ぐ。

 蜜柑が宙に浮いていたのは一瞬のことで、ばらばらと音を立てて地面に落ちてきた。

 何事。驚き眼で二人の子どもを見ると、表情は面で分からなかったが、声でけらけらと笑っていることが分かった。


「拾おう」

「うん、拾おう」

「もう一度お祭りだ」

「いいね、お祭りだ」

「お祭り、好き?」

「お祭り、楽しい?」

「ちょ、ちょっと……やめて、離して」


 座り込んでいる僕の手を、二人は引っ張った。一人が右の手、一人が左の手を、ぐいぐいと力任せに引いてくる。僕は抗うことが出来ず、立ち上がった。二人の間に挟まれて、右へ左へと寄せられる僕は、さながら操り人形のようである。


「さあ、拾おう」

「ほら、拾おう」

「美味しい蜜柑を教えてあげる」

「酸っぱい蜜柑は?」

「酸っぱい蜜柑は食べられない」

「じゃあ、美味しい蜜柑だけ」

「甘い蜜柑だよ」


 二人は僕の手を握ったまま、空いている手で次々と散らばっている蜜柑を指差した。

 あれは甘い。あれは酸っぱい。こっちは渋い。あっちは甘い。これも甘い。

 二人が蜜柑を拾わせようとしていることに、僕は足を踏ん張って拒絶する。

 蜜柑は拾えない。僕は武士の子なのだ。庶民の子ではない。


「い、要らないよ! 拾わない!」


 ぎゅうと目を瞑って宣言すると、二人は同時に手を離した。踏ん張っていた足が僕の上体を引いて、またしても尻を地面に打ち付ける。

 石畳みの参道ではなく、敷き詰められた小石の上だったから、本当に痛かった。尻に走った痛みに悶絶し、涙目で僕は恨めしく二人を見上げる。狐の面をしている二人からは、やはり表情が知れることはなかった。


「本当は、拾いたい癖に」

「本当は、踊りたい癖に」


 一人が、何処から取り出したのか、太鼓をででんと鳴らした。もう一人が諳んじるように歌い出し、軽快な足取りで音を踏んでいく。

 急に、太鼓と歌で曲を奏で始め、更に踊り始めた二人を前にして、僕は呆気にとられた。ぽかんと口を開け、尻の痛みに込み上がった涙も忘れて、愉快な二人の子どもの姿に釘付けになる。

 子どもが紡ぐ歌詞は、まるで僕を揶揄しているようであった。


 〝オモテ面ばかり立派なふり。

 心の中では羨ましい。

 されど怖いから。

 そうさ恐いから。

 何故なにゆえ恐い。

 かあ様に叱られるのが恐い〟


 かああと顔に熱が集まっていくのが分かった。唇を噛み締めて、地面に着いた拳も握り締める。

 そうだ、僕は羨ましかった。初午祭でこの二人を見かけた時も、武士の子ではない他の子どもを見ていた時も、楽しそうで、愉快そうで、羨ましかったのだ。

 僕はお祭りの日であっても、興に任せて歌い踊り、遊んだことは一度たりとてない。この世に産まれてきた時から、武家の長男として教育をされてきたのだ。

 庶民の子らと見下しながら、本当は心の奥底で、ずっと羨ましかった。


「誰も見てない」

「ここだけの秘密」

「誰にも秘密」

「そう、かあ様は見ていない」


 それは、甘美な誘惑だった。


 僕はよろよろと立ち上がると、二人に促されるがままに蜜柑を拾った。そして、その橙色の果実を食し、歌を教えてもらって歌い、見よう見まねで踊りを踊った。

 太鼓を鳴らし、手拍子を打ち、腹が空いては蜜柑を食べ、また歌っては踊る。

 最初は恐る恐る、手探りで始めたものだったが、暫くが経つと楽しくて仕方がなくなっていた。二人の子どもと一緒になって笑い、歌のやり取りをする程に。

 母上の言いつけを破っているという罪悪感が、また僕を興奮させた。


 やがて、日が陰ってきた。

 境内が夕焼けに包まれ、茜色に染め上げられていく。

 一人が奏でていた太鼓の音を止めると、もう一人が歌う口を閉じた。身振り手振りで楽しく踊っていた僕は、物足りなさを感じて続きを願い、二人に目線を送る。二人は首を振った。


「そろそろ終いだ」

「もうお終い」

「じきに夜が来る」

「夜が来たら帰らなくては」


 二人は暮れ泥む空を見上げて言う。僕は嫌だ嫌だと首を振って、駄々をこねた。


「もっと遊びたい!」


 ふふ——と、一人が笑った。もう一人が、着物の懐から、蜜柑を一つ取り出す。そっと僕の手に蜜柑を握らせると、小首を傾げながら「お土産だよ?」と笑った。


「帰らなくちゃ」

「うん、帰らなくちゃ」

「帰らないでよ。まだ踊りたいよ」

「駄目だよ」

「うん、駄目駄目」

「主様に怒られる」

「主様、優しいけど怒るとこわい」


 二人は肩を抱いて、ぶるると身を震えて見せる。小首を傾げるのは僕の番だった。


「主様? 将軍様のこと?」

 緩慢に首を振って僕の言葉を否定し、二人は笑う。

「そんなものよりずっと偉い」

「将軍様よりもずっとずっとね」

「だって神さまだもの」

「お稲荷様だよ」


 僕は渡された蜜柑を胸に抱いて、え? と目を丸くした。二人の子どもは構わずに続ける。


「犬の糞を神社になすりつけなかったこと、感謝していた」

「そうなの、君は偉い」

「不浄なものはここに必要ないからね」

「綺麗なものだけ」

「だから君は偉い」

「いい子だね」

「あとは掃除をするよう、神主に言ってくれたら嬉しいな」

「うんうん、嬉しい。主様も喜ぶよ」


 主様って? お稲荷様って? 色々な疑問が渦巻いていたが、それと相まったように、突如として視界がぐるぐると回り始める。激しい眩暈だった。直接、頭の中を揺さぶられているようだ。

 立っていることも困難になってきた。地に膝をついてしまうと、顔を上げていることすらが辛くなる。僕は渾身の力を振り絞って、上を向いた。

 二人の子どもが、側に立って僕を見下ろしていた。


 はっとして目覚めると、夕焼けに赤く染まった空が見えた。

 何が起こったのか。混乱する頭で上半身を起こす。僕は社殿を背にして参道に座り込んでいた。

 頭の後ろに犬の糞はない。おろおろと後頭部を確認してから、足の裏を見てみると、草鞋にはべったりと茶色い物体が張り付いている。

 振り返ってみれば、社殿の前の石の上にも、犬の糞がへばりついていた。


 可笑しな夢を見た。

 僕は呆然とした。

 歌って、踊って、蜜柑を食べて——そう、蜜柑。二人の子どもに握らされた手を見てみると、お土産だと言われた橙色が確かにあった。蜜柑が、手に握られている。

 夢じゃあない?

 愕然として蜜柑を見ていた顔を上げる。参道を挟んで建っている、一対の石像が目に入る。

 狐の像だ。吊り上がった目。赤い舌が覗いていそうな、裂けた口。

 瞬間、僕は悟る。意識を失う前に、二人の子どもに見下ろされていた時と、狐の石像に見下ろされている今が、ぴったりと重なったからだ。


 初午祭も、鞴祭も、子どものための祭りだと誰かが言っていた。祭りを楽しんでいたのは、何も人の子だけではなかったのだ。

 その事に気付くと、次の初午祭の時に二人に再会が出来るかも知れないと、僕は手に汗を握った。その日が来るのが、今から待ち遠しい。胸には、二人の子ども刻んだ太鼓の音色が、色濃く残っている。


 だが、その前にしなければならないことがある。

 僕は草鞋を脱いで、犬の糞で神社を汚さないようにしてから、社務所に走った。


「すみません! 犬の糞があるので、掃除をしたいのですが!」

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きつねのお祭り 浅葱いろ @_tsviet

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