011.おいしいは幸せ

 鼻腔をくすぐるいい匂いにシニエは目を覚ました。見知らぬ木の天井。自分を包む暖かい布団。覆うものがあって寒くない。やわらかいベッド。石床のように硬くない寝床。そしてクンクンと探るように自然と嗅いで顔が横向く。視界に台所に立つメディアと椅子に座るお燐の姿が目に入る。ほっとして夢ではないかと疑った。夢見て眠ったまま死ねるなら。このまま白い人に起こされる前にとぼんやり望んだ。

 振り向いたお燐と目が合う。お燐の耳がピンッと立った。ノソリノソリとお燐がシニエの側に来る。


「まだ寝てるさね?それとも起きるかい?ちょうど朝食の時間さね」

 シニエは布団を押しのけ起き上がる。とたんに朝の寒さがひんやりとシニエを包んだ。寒さに慣れたシニエは気にはならない程度だった。

「起きる」

「そうかい」


 足の悪いシニエを気遣ってお燐がシニエを抱き上げる。お暇様抱っこでテーブルまでシニエを運ぶ。モフモフのお燐の毛の感触にシニエの心が弾んだ。

 シニエを椅子に座らせてお燐も椅子に座る。メディアがカップを二つ。お燐の前に大きいカップを。シニエの前には二回り小さいカップをテーブルの上に置いた。茶色い液体で満たされたカップの口からほんのり白い湯気が上がっている。お燐は両前足ではさんで持ち上げたカップを口に傾ける。

「少しほろ苦いね」

「ココアにマーマレードを加えたのさね」

 ココアの甘さの中にちょっとした苦味がある。匂いには柑橘系の香りが混じっていた。お燐は気にならないが普通の猫ならこの程度の柑橘系でも嫌ったかもしれない。猫は植物性の油を分解する機能がないに等しい。柑橘系に限らず植物性の油なんて口にしたら消化不良で体調を崩す。故に本能で柑橘類を避ける。生前のお燐に合わせて燃やす香草をメディアが注意して選んでいたなんて。実はそれが原因でメディアがアロマキャンドル作りといった香草の加工を怠けるようになったなんてお燐は露ほどにも思わないだろう。

 お燐を見ていてうらやましくなったシニエもカップを手に取ろうと両手でガッチリ挟むが思いのほか熱くて手を放す。

「取っ手を持つんだよ」

 お燐が示したカップの輪っかに指を通す。なるほど熱くない。でも小さいとはいえ陶器のカップは少し重たかった。両手で持ち上げ傾ける。あついからチビリチビリとちょっとずつ啜った。ほんのりと甘い味が広がって体の中も温かくなる。

「さあできたさね」

 メディアが皿を三つ置く。

「鬼灯の森の魔女特性パンケーキさね」

 五センチメートルの厚いパンケーキの二段重ね。上には形がなくなって液体化したバター溜りが広がる。

匂いのもとはこれだったのか。鼻をつく焼きたての香りをシニエは確かめる。

『いただきます(さね)』

 手を合わせて言うお燐とメディアに勝手の分からないままシニエはつられてその仕草を真似る。ナイフで切りフォークで刺すのを真似ようとするが同じようにならない。ナイフがパンケーキを切るというよりは潰した。フォークで抑えてナイフで切るという役割が分からなくて見当違いな位置にフォークがある。見かねたメディアがその手を制してシニエの分を小さな四角に切り分けてやる。

「これならフォークで刺して一つずつ口に運ぶだけでいいさね」

 手からナイフを取り上げ、フォークだけを持たせる。無意識に右手にフォークを受け取るシニエを見て、シニエは右利きさね、と密かに思う。

 パンケーキを一口食べたシニエの目が大きく見開かれる。バターの塩気がパンケーキの甘さを引き立てていた。しかし一瞬華やいだ表情はすぐに曇り顔を青くする。

「全部、食べる?」

 その言葉にただならぬものを感じて目じりを片方上げながらお燐がたずねる。メディアも手を止めて見守る。

「どうしてだい?」

 シニエの表情を見ればおいしかったのはわかっていただけにシニエが顔を青ざめさせた理由が分からない。申し訳なさそうに口をつむぐところがさらに心を掻き立てる。

「怒ってるわけじゃないさね。別に残してもかまわないしね。ただ理由を知りたいのさね」

 申し訳ないといった感じでおずおずとシニエが答える。

「・・・・・おいしい、痛い」

「どういうことだい?」

「おいしい。食べる。体痛い。苦しい」

 おいしいをシニエは知っている。ただ白い人がおいしいものを持ってくるときはいつも痛いが一緒だった。食べた後に体中を痛いや苦しいが駆け巡る。シニエはそのたびにのたうち回りうめき声を上げて壁や床に体を打ち付けた。逃げることはできず、残すと怒られ叩かれ蹴られて無理やり食わされた。吐き出すことも許されない。だからシニエにとっておいしいは痛いだった。お燐とメディアは白い人と違う。残しても無理やり食べさせたりはしない気がした。

「実験で毒を食べさせるためにわざとおいしい物を使ったんだろうさね」

 はあっとため息をつきつつメディアがお燐に教えてやる。お燐の毛がブワッと逆立った。毛を逆立てて明らかに怒ったお燐にシニエは体を硬直させる。

「お燐!」

 メディアの叱咤にお燐の毛が戻る。

「ごめんさね・・・」

「分かってたことさね。だいたいあんたがすべきことは怒ることじゃないさね」

 お燐を嗜めて言い聞かす。メディアはやさしくシニエの硬直を解きほぐすように教えてやる。

「シニエ。おいしいは痛いじゃないさね。パンケーキを食べても痛い思いなんてしないさね」

 シニエはきょとんとした顔になる。言葉の意味が飲み込めていないようだ。

「あたしだって痛いのは嫌いさね」

 だからもっと噛み砕く。

「あたしやお燐だって食べてるさね」

 ヒョイ、パクとフォークで突き刺して口に入れて租借する。

「誰が好き好んで自分で作って痛い思いをしたいさね?」

 自虐的な内容を皮肉って笑う。シニエも考えてみればそれもそうだと納得する。白い人はシニエに食べさせはしてもシニエの前で食べたりなどしなかった。

「そうさね。きっとそいつらは意地の悪いやつだったのさね」

 調子を取り戻したお燐が会話に入る。そしてシニエが余計なことを考える前に片付けようと畳み掛ける。

「いいかいシニエ。おいしいは幸せなのさね」

 お燐が手に持った小さなポットをシニエのパンケーキの上で傾ける。ポットは蜂蜜を入れたハニーポットだった。中にある金色の液体がポットからパンケーキへと注がれる。

「じゃああたしはこれさね」

 メディアが小瓶を三つ持ってきて蓋を開ける。スプーンでそれぞれ中身を掬い取ってパンケーキの上に乗せた。赤の木苺のジャム。紫のブルーベリージャム。黄色のマーマレードジャム。三種のジャムがパンケーキをカラフルに彩る。日持ちの関係でクリームが無いのが残念だ。

 食べてみろと促されて恐る恐るシニエはカラフルに彩られたパンケーキを口に運ぶ。

 蜂蜜は甘く。舌の上に甘さが広がってじんわりと消えていく。ジャムは甘酸っぱくてさっぱりと食べやすい。三種類もあるのでいろんな味が楽しめる。

「おいしいかい?」

「いろんなもので味をたくさん楽しめるのがパンケーキの醍醐味さね」

 感想を聞くお燐とメディアにコクコクと頷く。

 一匹と一人が満足そうに笑った。

 おいしいは幸せをシニエは知った。

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