002.シニエは生きたいし、行きたい

 猫は顔を近づけてじい~と大きな目でシニエを見下ろした。シニエを写す黄金色の瞳に魅せられていると瞬いて光が消えた。猫が瞬きしたのだと気づいたときには。

「なんだい。小さなガキの。しかも生者さね」

 フン、と生臭い鼻息をシニエに吹きかけて顔を離す。遠くに行ってしまった瞳を名残惜しく思いながら、シニエはことのほか強い鼻息に仰け反った体を起こす。痩せて骨と皮ばかりの体。伸び放題でふけの混じったぼさぼさの白髪。薄汚れた粗末な巻頭衣一枚で包まれたシニエなど猫にとって道端の石ころのようなものだった。

 興味を失った猫はそのまま背を向けて歩き出す。


「・・・待って」

 勝手に声が出た。水分を失ったカラカラに乾いた咽が発した声は聞こえるかも分からないほどか細い。それでもかすれた声は火の中に消えてしまいそうなオレンジ色の猫を引き止めた。

「なんだい?あたしは忙しいんだよ」

 上半身をひねり足先は向こうを向いたまま振り返る猫。いらだたしげに聞こえるのは変わらないのにガラガラ声には先ほどよりも棘がない。これがこの猫の素の声なのかもしれない。

 しかし止めといてシニエは困った。引きとめた声は勝手に出たものでシニエも何で引き止めたのか分からなかったからだ。知らないシニエが勝手に猫を止めたのだ。知らないシニエの考えなどシニエが知るはずもない。

「で?」

 ちょっとの間で声のトーンが上がった。機嫌が悪くなる猫にますますシニエはうろたえる。無い袖は振れないから答えも返せない。

「ふざけるんじゃないよ!ガキはこれだから嫌いなんだ。そうやって庇護欲誘ってれば大人がいつも導いてくれると思ったら大間違いさね!」

 業を煮やした猫が踵を返し、キシャアアアアアと牙をむき出しにして怒鳴り散らす。シニエを丸のみにできるほど口は大きく開かれ。毛がピンと針のように逆立っている。むわ~と吐く息が生暖かい。申し訳なくてシニエの身は縮こまり。ニャーニャーと浴びせられる金切り声をただ受け止めた。


 猫はひとしきり怒鳴るとすっきりしたようで。声のトーンを落として、やれやれ、と首を振った。そして今度は穏やかに落ち着いた声で。

「(どこかに)きたいんだろ?違うかい?」

 代弁して答えて問うた。

 猫に代弁された答えにシニエは衝撃を受ける。

「・・・きたい」

 猫の言葉を。生きたいと口を動かし噛み砕くと。思いのほかその言葉はすっきりと胸に納まってビックリした。そうか。シニエはきたいのか。どうやら猫を引きとめた知らないシニエは生きたいのだとようやく気づいた。


 ガラガラ。

 ちょうど遠くでまた大きな音がした。

 もうもうめらめら。

 シニエは太陽の中にいる。

 そうだ。痛いのはいやだ。猫の登場に忘れていたことを思い出す。このまま燃える痛いより猫についていくほうがいい。いいや。生きたいのだと知らないシニエのことを教えてくれた猫について生きたいと思った。


「答えは決まったようだね。あたしときたいんだろ?」

 シニエの心移りを察した猫がニタリと凶悪な笑みで笑った。

 コクリと頷いて。

きたい」

 シニエも呟いた。互いに言葉と意味が違っていながら道が重なっていると一人と一匹は気づかない。


「いいよ。連れてってやるさね。でもあたしは忙しいんだ。仕度に手間取るなら置いてくよ!さあ、三秒で仕度しな!」

 ふるふるとシニエが首を振った。

「(持っていくもの)ない」

「あにゃ。一秒も必要なかったね」

 だらりと両腕をぶら下げであからさまに気落ちする猫。髭までたらりと垂れて弧を描く。なんだか申し訳なくて辺りを見回したが、目に入るのは瓦礫と火ばかりで何もない。

「まあいい。約束さね。連れて行ってやる。といってもあたしは道を作ってやるだけさね。あんたはただついといで。ほかは何にもしないよ。足があるんだ。自分で歩きな」

 そう言って再び背を向けるとピコピコと耳が動いてピンと立った。

「そういやあんた名前はなんてんだい?」

 短い付き合いでしかないと思いつつ。いつかの袖擦れ合うも多少の縁思い出固有の色名前があってもいい。ロマンチストな猫は訊ねた。

「シニエ」

「シニエだね。あたしはおりん。しがいない化け猫さね。呼び捨てでお燐と呼ぶさね」

 シニエはわかったと頷く。そしてふと言葉の中で不思議に思ったことを聞き返す。

「化け猫?猫じゃない?」

「物の怪のたぐい・・・と言ってもわからんさね。ようは幽霊。美猫びびょうとでも思えばいいさね」

 『幽霊』とは『お化けの美人』を指す言葉だ。化け猫はお化けの猫。幽霊の猫なら美猫だ。

「美猫?」

「なぜそこだけ疑問系なんだい!」

 思わずカッとなって振り返り叫んだ。シニエはこてんと首を傾けている。

「美化け猫ではない?」

 ああ、そういうことか。子供の持つ着眼点の自由さは予想外だとお燐は肩をすくめる。

「にゃ~うん。そうさね。猫ではなくて化け猫さね」

 怒るものでもなし、訂正するほどでもない。甘噛みを知らぬ子猫に悪意はない。とりあえず『美』を否定してはいないのでお燐はそれ以上の言葉を飲み込んだ。

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