第5話 誘い


 いっちゃんの絵は、決して緻密ではなかった。

それは彼女の性格をよく表していて、彼女の作品を見れば見るほど、腑に落ちることが多かった。


 その大きな瞳でモチーフをとらえて、即座に画面へと写し取っていく。そのストロークが人一倍長く、早いひとだった。手首を捻って、感性の赴くままに描かれる色彩にあふれた陰影と、高校の三年間で培われた知識と技術による写実性。どちらがかけても描けない、いっちゃんの瞳に映る世界。


 いっちゃんの絵を褒めると、彼女は決まりが悪そうに、ちょっと上手くできなかったところなんかを話してくれた。


 例えば構成力が足りなくて、どうしても左下に重心が偏ってしまうとか、デッサンしてるうちにわけわかんなくなってごまかしちゃったとか、うっかりペインティングナイフで人差し指を切ったとか。


 言われなきゃ分かんないくらいの、主観的な欠点。それが口をついてしまうのは、称賛に踏ん反り返る性分ではないことと、その作品が、葛藤の末に生み出されたものである所為。


 たぶんいっちゃんはマジシャンに向かない。最後の最後で、自分の手口にしてやられた観客がいたたまれなくなって、全部種明かしをして帰ると思う。


「ファインアートは、裸で人前に立つことだ。」

 呟く俺に相槌を返すのは勿論いっちゃんだ。


「曝け出さなきゃ意味がない。取り繕っちゃつまらない。でも、を、超えてこその絵画だと、思ってるんだけど。」


 前に二人で、大衆食堂で話したことだった。

 美大生の絵と、画家の絵。その差は一体どこから生まれるのだろうかと、塩鯖定食を突きながら議論を重ねた。


「私が私を昇華する為に描いているうちは、やっぱりただの、画家になりたい美大生の絵だよ。」


 画家と美大生では視点が違う。先日の結論だ。

 自身の内なる葛藤や承認欲求を、ひとつの画面にぶつけた絵画。全面に押し出た描き手の圧を、嫌でも浴びさせられる美大生の絵。


 対照的に、一目見た瞬間自分がその作品に吸い込まれていくような、一気に視野の広がる感覚。画家の絵に必ずと言っていいほど感じるその力が、自分には足りないのだと、いっちゃんは筆を走らせながら言った。


「なんていうんだろうね、吸引力?」

「……魅力で良くない?」

「それだけじゃちょっと足りなくない?」

 

 いっちゃんは長く筆を持たない。食い入るように制作を見学する俺をよそに、とっとと画材を仕舞い始めた。今日も今日とて、俺は女子大の油彩画室にいた。彼女は相変わらずの金髪姿で、少し伸びた前髪を鬱陶しそうに左へと流していた。


「もう終わり?」

「飽きるし腕疲れるしお腹すく。」


 集中力が続かない。生粋の文化部で腕力がない。絵を描くという行為は、エネルギーの消耗が激しく、喘息持ちで体力もない自分では、そう長く持続できないのだと、いっちゃんはテレピン油を染み込ませた布で指先を拭きながら補足した。賛否の分かれる匂いに満ちた部屋は、夏休みに入ったせいで閑散としていた。


「…そうだハル。私バイトが変わるので。」


 挙手しながら、真顔で報告するいっちゃん。

ファミレスのバイトではどうしても時給が安いので、知り合いの飲食店に移るらしい。


 そこは車で小一時間かかる隣の隣の隣の隣くらいにある市のお店だけれど、向こうのお店はあまりに人手が足りなく、オーナーもわざわざこの市から通っているので送迎はしてくれるらしい。


「週末がつぶれる。」

「じゃああんまり会えなくなるねぇ。」

「…ってことなので、お祭り一緒にいきません?」


 主要駅からバス停二つ分くらいを交通止めにして行う夏祭り。いっちゃんは踊り流しに参加したことがあるらしく、二時間ぶっ続けで盆踊りはしんどいと、以前話してくれていた。


「明後日六時に駅前集合で。」

「…ねえいっちゃん。」

「ん?」

「俺いつ言おうか迷ってたんだけどさ。」

「えっなに?」

「連絡先交換しない?」


 しばらく空いた間。

 油彩画室は、いっちゃんの笑い声をよく反響させていた。


 このご時世、よく数カ月も伝言だけで意思疎通が出来ていたな、と思う。どうせ二週にいっぺん会うんだし、話したいことはそれまで溜めておいて、週末の約束はそこで取り付けて、二人とも各自のスケジュール帳に予定を書き込めば良いと。いっちゃんがさも当然のようにこのスタンスを貫くので、ついつい俺が順応していた。呑気な話だ。


「早く言ってよ!」

「そういう子なんだと思って…。」

「ちゃんと今を生きてるよ私だって。」

「スーファミ現役じゃん。」

「スーファミ別に古代の利器じゃないから。」


 貸して、と続けていっちゃんは人の携帯に自分の電話番号を打って、電話をワン切りした。そして自分の連絡先に俺の番号を登録して、すぐにLINEの登録を終わらせた。流れるような作業に、本当に現代っ子なんだな、と、俺は勝手に感心していた。


 いつでも連絡してくれて良いからね、と彼女はにこりと微笑んだ。俺はその言葉に甘えて、毎日、おはようとか、おやすみとか、夕焼けが綺麗だとか、そんなやりとりを交わすようになった。


 お互い筆まめではないのに、これだけは欠かさなかったのは、通じる気持ちがあるとか、そんなことよりもまず、これだけ手軽に連絡が済んでしまうような、コンビニエンスな時代に生まれたことをしみじみとありがたがるいっちゃんに、俺はちょっと、なんて返すべきだったのか、いまいち分からなかった。


 せやな、というスタンプだけを送って、1Kの根城で「そういうことじゃなくない?」と呟いたけれど、それに相槌を打ってくれるはずの彼女は今頃送迎の車内。ひぐらしの声を聴きながら、俺はしばらく首を傾げてぼうっとしていた。

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