第7話 水瓶

 眩い日差しに照らされた早朝。エルロック・ショルメと私はすっかり羽振りの良くなった彼の奢りで、巷で話題となっている小洒落た料理店アンペリアルにて食事をしていた。店内はテラスしか空きがないほど盛況であったが、我々はわざと中央を避けて端の席へと陣取っていた。

 私たちは特に交わす会話も見つからず黙々と食事の手を進めていたが、不意にショルメが私の背後を指し示しながら言葉を発した。

 「君の後ろで背中を向けている男性──そうだな、年齢は三十ちょっと前というところか。彼は今から立ち上がって『釣りは要らない』と言って店から飛び出して行くよ」

 「なんだい、それは。何かの演劇の一幕かい?」

 私が笑い飛ばすと、背後から椅子を引く音が聴こえた。

 「釣りは要らないよ!」

 男はウエイターへ向かってそう呼び掛けると慌てて店から飛び出して行った。

 「──どういう事だね?」

 「なあに、種明かしをすれば何てことはない話さ。君からは見えなかっただろうが、彼は新聞を広げて読んでいた。ところがある記事を前にしてそこから目を離さなくなったのだ。それはある犯罪者の死刑執行が明朝行われるという記事だった。儂も出掛けに同じ記事を読んでおる。体を小刻みに震わせていた事から、この事実を今初めて知ったに違いない。何かに取り掛かるとしたら急ぐのは当たり前だろう? ところで彼は先程から会計前に両替をしようとウエイターへ何度か呼び掛けていた。だがこの喧噪な上に隅っこの席だからな。なかなか店員も気づかずに放置されていたのさ。握っていた硬貨は高額では無かったから、そのまま置いて行くだろうと簡単に推測出来た訳だ」

 「なるほどね。君の説明を聴いているといつも馬鹿馬鹿しいほど簡単なので私でも難なくやれそうな気がするよ」

 「その通り。どんな問題だって一度説明してしまえば、幼児にでも判る程簡単な事だと思えるだろうさ。ねえ君、推理と手品はある面では同じで種を知らないからこそ皆驚くのだよ。だが目の前で展開され裏付けを必要としない手品とは違って、推理には証明し納得させるという作業が必要になる。これは手品で言うところの種明かしさ。種が解かってしまえば誰にでも出来るように思えるし、驚きすら霧散すると言う訳だ」

 「だったら私も一つ予言をしておこうか」

 「予言だって?」

 私の言葉にショルメが面白がって反応する。

 「先程の男性は間もなく戻って来る」

 「ウィルソン──それは予言ではなく必然と呼ぶのだよ」

 ショルメの視線の先には、男性が座っていた座席に残されている財布があった。


 結局好奇心に勝てずに、私たちは戻って来た彼を引き留め事情を聴き出す事にした。彼は気を急かして焦ってはいたがショルメが探偵だと知ると、一筋の希望を託すべく心を決めた様子であった。

 「私の名前はガストン・ジュトルイユ、明日死刑になろうとしているジャック・オーブリユは私の二十年来の友人なのです。どうやったら彼の無実を証明出来るのでしょうか?」

 簡潔に自己紹介した若者へとショルメは大仰とした態度を崩さずに質問する。

 「儂の名前はかの有名な名探偵ハーロック・ショームズ、こちらは儂の奢りで朝飯を食べにやって来たマクなんとか──ウィルソン。彼の事は空気中に含まれている二酸化炭素の様な物だとでも思って、御友人が無罪だと考えている根拠をお話し下さい」

 ジュトルイユはこのショルメの言葉を冗談だと受け取ったのか乾いた笑いを洩らしたが、この男は間違いなく本気で私の名前を忘れた上に、その存在自体も道端の小石と同程度に捉えているに違いない。

 「根拠ですか──そんな物があれば警察へ伝えています。ただ解かるのです。彼はどれほどの大金を手に入れる為だったとしても、愛妻から引き離されてしまうリスクを冒す様な男ではないのです。マドレーヌこそが彼の人生そのものなのですから」

 若者が情熱的に言い放った言葉は私に感銘を与えたが、ショルメの心には何ら響いてはいなかった。話にならないとでも言わんばかりに首を振りながら椅子から立ち上がった。

 「では、彼のその奥様にお会いしてみましょうか。御友人を救う為には心証的要素では無く、明白な事実が必要ですからな」


 ルール並木通りにあるオーブリユの自宅は両側を壁に挟まれた狭くて長い小路の突き当たりにあった。一階建ての小ぢんまりとした離れの様な外観をしている。

 ジュトルイユが呼び鈴を鳴らすと玄関の扉が開かれ、白髪混じりの人の良さそうな老婦人が彼を出迎えた。

 「ああ、ガストン! 来てくれたのね」

 青年が私たちを紹介すると、老婦人が先立って応接間へと案内してくれた。そこは小奇麗な家具に囲まれた書斎のような空間であり家族団欒のおりには暖かさに満たされているのであろうが、今この瞬間は部屋の中央に置かれたソファで泣き崩れている女性の姿によって広々とした室内に寒々しさだけをもたらしていた。

 老婦人は彼女の隣りへと腰掛けると私たちにも対面へと座る様に促し、優しく娘の頭へと手を添えて慰めた。

 「ジャックは絶対に無実です。ガストンもお話ししたとは思いますが、彼はマドレーヌを心から愛しておりました。娘を守る為に誰かを傷つけてしまう事はあるかも知れませんが、お金を手に入れる為に誰かの命を奪うような卑劣漢ではありません」

 「奥様、大変申し訳ありませんが儂らはまだ事件の詳細を良く知らないのです。娘婿さんは一体誰を殺した容疑で逮捕されたのですかな?」

 「ああ、可哀想なギョーム! 彼はジャックの遠縁の従兄弟なのです。二人は決して不仲だった訳ではありません。保険の仲介業をしていたジャックが資金繰りに苦しんでいる時に手を差し伸べたのもギョームでした。ただしギョームは貸金業を営んでいましたから世間様へ顔向けできない人間関係もあり、ジャックは親類としての付き合いを持とうとはしていませんでした」

 「なるほど。ではなぜ黒い交際が疑われるギョーム氏殺害の容疑が一般市民である娘婿さんに掛かってしまったのですかな? 余程の物的証拠か目撃証言でも無い限り逮捕以前に容疑すら掛からないと思われますが」

 ショルメのその言葉を受けて、俯いたまま悲嘆に暮れていたマドレーヌ・オーブリユが初めて顔を上げた。目元は泣き疲れてむくんではいたが、その若き美貌が損なわれる事は無かった。失礼ながら、質素なこの家よりは社交界が似合いそうな程の美人である。

 「ママ、続きは私から──実は先日、ジャックの元へギョームから非常に不愉快な申し入れがあったのです。借金を帳消しにするという提案ではありましたが、その条件はおぞましいもので口にするのも憚られます。当然ジャックは即答で断り、期限はまだありましたがギョームへの借金を清算するために、ありとあらゆる友人知人へと連絡を取ったのです。その矢先に彼が殺され、金庫に仕舞われていた回収金が奪われておりました。警察は借金を清算する為に借金をしようとしていた事実を信じようともせず、資金繰りに困ったジャックが身内を殺害して金を奪った事件だとでっち上げたのです」

 「なるほど。しかしそれはあくまでも犯行動機にしか過ぎません。その程度の理由で警察が御主人を逮捕するはずがありませんな。物的証拠もあったのでしょう?」

 「はい、仰る通りです。あの事件の日、シュレンヌにあるギョームの家の近所で夫の乗っているオートバイと同じ車種が目撃されています。それからギョームの家で私からジャックへの贈り物であったハンカチが見つかりました。そしてこれが決定的な証拠として扱われてしまったのですが、犯行に使われた凶器が夫の持っている拳銃だったのです──」

 「それに対する御主人の弁明は?」

 「あの日私たち家族はガストンと一緒に食事をした後、映画を観に行く予定でした。ところがジャックが食事後に体調を崩した為、彼は家へと帰って眠りにつき、残された私たちだけで映画館へと向かったのです。その間移動は全てタクシーでしたから、オートバイは家に置かれていたはずです。ハンカチについては彼が私には黙っていたのですが、随分前から失くしていたそうです。拳銃は万が一の時の為に鍵の掛かった戸棚へと仕舞ってありましたから、何故事件現場から発見されたのか解からないとの事でした」

 オーブリユ夫人は自身が知っている限りで全ての事を話し終えたのか、期待を込めてショルメを見つめた。隣に座っていた私ですら彼女を安心させる為ならば幾らでも嘘を吐きたくなるような真摯な視線であったが、ショルメはそういう感情とは全く無縁な男であった。

 「なるほど。状況は極めて深刻ですね。しかも時間が一日も残されていない。御主人を救いたいのならば、あなたは涙で枕を濡らす前にハーロック・ショームズを頼るべきだったのだ。例えそれによって借金を重ねる事になったとしても、だ」

 「調査費なら私が払います!」

 ショルメが夫人を責め立てるとジュトルイユが彼女を庇うかのように申し入れた。

 「いけませんわ、ガストン。だってあなた──」

 「いいえ、これ以上あなたを悲しませる訳には参りません。ジャックを救うのは友情に基づく私の義務です。さあショームズさん、手遅れになる前に出来る事全てを行って下さい」

 ジュトルイユの献身的な姿勢に私の胸は熱くなった。しかし冷酷非情人間であるショルメにはその感情が理解できないのか、不可解な表情を浮かべたまま返答をした。

 「いいでしょう。金に糸目を付けないのならば半日もあれば刑の執行を延期させるくらい造作もない事です。時間さえあればハーロック・ショームズに見い出せない真実などありませんよ」

 その自信に満ち溢れた挑戦的な物言いにマドレーヌとその母親は顔を輝かせた。


 「どうするつもりだい?」

 オーブリユ家を出た途端、私はショルメへと問いかけた。

 「どうするって、何をだね?」

 ショルメは私の言葉など上の空なのか、形式的な返事だけを寄越した。

 「死刑の延期さ! そんな簡単に出来る訳がないだろう?」

 私は苛立ちながら問い返した。

 「ああ、それか。そんなのはさも無いさ。社会的地位のある人物が犯行時刻にジャックと一緒に居たと証言すればいい。刑は延期され再調査されるだろうよ」

 「偽証させるつもりかい! 社会的地位のある人物が僅かな金の為にその立場をなげうつ様な真似をすると本気で思っているのかね?」

 「金の為じゃないさ! 真実の為、愛の為だ。騎士道精神だよ、ウィルソン。君なら解かってくれると思っているが」

 その言葉を聴いて、ショルメの企みの全貌が判明した。

 「私に偽証しろと? しかも無償で行わせて、報酬を独り占めするつもりだな!」

 「察しが良くなったね、ウィルソン。だがこれは儂の為じゃない、君の為さ! 君は金の為に偽証する様な偽善者ではあるまい? 正義に殉ずる覚悟を持った男だ。その気高き魂を謝礼などという俗物で穢す訳にはいかないよ──まあ安心したまえ。ジャックの無実は儂が証明するからな。君の嘘はいずれ真実になるという訳さ。ほらほら、こんな処で油を売っていないで、早く裁判所へ行きたまえ。検察官を捉まえて時間を稼ぐんだ。何なら自分が犯人だと供述してもいいぞ。調査は儂独りでも出来るからな──」


 私は裁判所を出るとショルメを探してオーブリユ家へと向かった。するとショルメはジュトルイユの案内で彼の住むアパートの一階にある料理店へ昼食を食べに行ったと教えられた。夫人たちも誘われたが、とても食事が喉を通るような気分ではない、と断ったそうだ。老婦人からは刑の執行を延期出来そうか、と問われたが中途半端な期待をさせたくなかったので、現在根回し中だと答えておくに留めた。

 タクシーでテルヌ広場へと向かい、通りの角に位置する建物の一階にあるビアホール・ルテチアへ入って行くと、丁度ジュトルイユが会計を済ませている処であった。店内に漂う空腹を刺激する芳香によって私の胃袋も皆に聴こえるかのように催促の調べを奏でたが、それを意図的に無視しながらショルメが言い放つ。

 「ウィルソン! 丁度良かったよ。事件について君と検討したいと思っていたのだ。ジュトルイユさん、二人の話し合いの為に部屋をご提供下さる事を拒否なさるまいな?」

 かなり強引な申し入れであったが、ジュトルイユは快く承諾した。

 寧ろ私の方が、ショルメから事件の相談を受ける日が来るとは夢にも思ってもいなかった為、激しく動揺していた。

 私たちはエレベーターで六階へと上がると、彼の部屋を訪れた。応接間と寝室の二部屋で構成された簡素なつくりではあったが、室内は小奇麗に整理整頓されている。

 私とショルメが応接間に置かれている椅子へと対面するように腰を下ろすと、ジュトルイユは三つのグラスをテーブルの上へと並べ、ガラス製の水瓶から蒸留水を注いだ。水の入ったグラス二つと水瓶を私たちの目の前へと置くと、自身は残り一つのグラスを持って窓際へと移動し私たちの話し合いに耳を傾ける姿勢を取った。

 「では、ウィルソン。君の居ない間に分かった事実を話しておこう。事件のあった日、オーブリユ家の三人は友人であるジュトルイユさんと、ここの一階にあるビアホール・ルテチアで食事をした。それからタクシーでテルヌの映画館へと向かうが、途中でジャックは体調を崩して一行と別れて帰宅する。本人の供述によると以降は寝ていたそうだが、誰もその事実を証明できる者はいない。もっとも、その時間にこの近辺から走り出すオートバイを目撃した者もいなかった訳だが。そして映画を観に行ったお三方だが、元々男二人、女二人で席を取っていた為、上映中は離れた場所に位置していた。つまり上映時間中はお互いがお互いの行動を監視出来ていた訳ではなかったのだ──」

 「ちょっと待って下さい! それは私や御婦人方を疑っているということですか?」

 ショルメの発言にジュトルイユは怒りに顔を赤らめながら抗議した。

 「勿論ですとも。拳銃、ハンカチ、オートバイ──もしジャックが犯人でないのならば、これは彼に罪を被せようとした近しい人物による犯行で間違いありませんからな。まあしかし御婦人方の前では言い辛かったのですが、儂は十中八九御友人の犯行で間違いないと確信しております。後の問題は、盗んだ札束を彼は一体何処に隠したのか、というだけです。ねえ、ジュトルイユさん。もしかしてジャックはこの部屋の合鍵を持っていたりしませんでしたか?」

 「合鍵ですか? 幾ら親友でもそんな事──いえ、渡しています! 結構前の話ですが、私が海外へ行っている間、ベランダの植物への水やりをお願いしていたのです」

 「やはりそうですか。自営業のジャックには家族へ秘密にしたまま物を隠せる安全な場所など限らせていますからね。どれ、ベランダの植物へ水でもくれてやりましょうかな」

 ショルメはジュトルイユの返事も待たず立ち上がると、水瓶を片手にベランダへと出ようとする。その背後からジュトルイユの声が飛んだ。

 「ああ、説明が足りなくて済みません。もう数年前から観葉植物を育てるのは止めたのですよ。家に居ない事が多いので」

 「それは残念ですな。園芸は儂の唯一の趣味ですから、是非拝見したかったのですがね」

 息を吐くように嘘を吐くショルメ。窓際にある小机の上へと水瓶を置くと、すごすごと椅子へと戻って来た。

 「さてさて、これからの我々の行動の指針ですが、如何致しますかな?」

 ショルメが私にではなくジュトルイユへと問いかける。

 「如何って──この部屋に札束が隠されている可能性があるのではないのですか? それを見つけるのが先決でしょう」

 ジュトルイユはショルメの思考回路が理解出来ない、とでも言いたげな表情を浮かべながら返答した。

 「いやいや、もう時間が無いのです。ジャックの容疑は殺人であって、窃盗は付随行為に過ぎません。そんな物は後日ゆっくりと探しても良いのです。殺人の容疑を晴らすのに一番手っ取り早いのは真犯人を見つける事。勿論、そんな者が居ればの話ですが。どれ、もう一度一階のビアホールへ行って、今度は食後のデザートでも御馳走になりながら、ジャックの交友関係でもお伺いしましょうかね」

 ショルメの提案にジュトルイユは賛成とも反対とも言い難い複雑な表情を浮かべながら頷いた。その気持ちは解からないでもない。今度は三人分支払わなければならないのだ。私の胃袋は自然と軽快な音色を奏で始めた。

 「ねえ君──」

 ジュトルイユが小用の為に席を外すと、ショルメが小声で私へと呼び掛けて来た。全くもって嫌な予感しかしない。そしてこのような予感は大抵当たる物だ──。


 「ああ、そうです。ウィルソンはどうしても立ち会わなければならない手術の予約がありまして一旦帰らせていただいたのですよ──」

 段々遠ざかって行くショルメの声と共に、部屋の鍵が閉まる音がする。

 あらためて言っておくが私の本業は精神科医である。手術などしたことも無い。

 それは兎も角、〈ここ〉の居心地は最悪であった。

 〈ここ〉とは応接間に設置されている洋服箪笥の中である。ショルメは事もあろうに私を箪笥の中へと押し込んだのだ。そして「誰かが入って来たら扉の隙間からその行動を見逃さないようにしろ」と命じた。当然、私は反発し言い返したかったが、部屋の主人がトイレから出て来ようとしているのを感じて、大人しく扉の向こうへと引っ込んでしまった。今更出て行くわけにも行くまい。それに正直な所、この後何が起きるのか多少は興味もあった。

 それから長い静寂の中、外から差し込む日中の日差しに照らされた室内は心地良い暖かさに満たされ、その余波は箪笥の中にも及んだ。私はいつの間にかウトウトと船を漕ぎ始めていたが、何となく息苦しく感じて目を覚ました。初めは左右へと押しやった服の圧迫感のせいかと思っていたが、扉の隙間から室内を見遣って思わず驚きの声を上げてしまった。

 部屋の真ん中で何かが燃えている!

 私は慌てて箪笥から飛び出そうとしたが、部屋の鍵が開錠される音を耳にして箪笥の中へと舞い戻った。

 部屋を開けて入って来たのはジュトルイユであった。

 彼は燃え広がって行く炎を消すよりも先にベランダへと出て行くと、何も生えていない空の植木鉢を抱えて戻った。そして室内をキョロキョロと見回した末、トイレに目を付け、そちらへと向かう。ところが、そこへ辿り着く前に部屋の外からショルメの呼び掛ける声が聴こえて来た。

 「大丈夫ですか、ジュトルイユさん! 間も無く消防が来ますからね!」

 その声を聴いたジュトルイユは覚悟を決めたかのように表情を引き締めて、植木鉢の中身を取り出して炎の中へと投げ込んだ。そして煙にむせながら部屋の外へと出て行く。

 その背中が扉の向こうへと消えると、私は箪笥から飛び出してジュトルイユが始末しようとした物体を拾おうと試みた。だが燃え盛る炎の中それは不可能であり、それどころか思いっきり黒煙を吸い込んでしまった。私は朦朧とする意識を無理矢理繋ぎ止め、生存本能に突き動かされるように一歩一歩部屋の外へと向かって足を動かし続けた──。


 「いやはや、今回ばかりは君の目撃証言が無ければ全ての証拠が灰と化す処だったよ!」

 一酸化炭素中毒から容態が回復しつつあった私が一般病棟へと移されると、ショルメは面会へと訪れて極めて上機嫌な様子で事件に関して一方的に話し続けた。

 「奴が真犯人なのは初めから解かっておったのだ。明日親友が死刑執行されてしまう。そんな状況で彼の家族へ会いに行く──まあ君のような善意の塊の人間からしてみれば普通の行動だと捉えるかも知れないが、儂のような老獪な目線でみればそこには下心しか感じないね! 実際あの男は友人の奥方の気を引くために調査費を払うと言い出したしな。後は如何にあやつの善人づらを暴くかに掛かっていたのだ。ビアホールへ食事に行ったのは腹が減ったからではなく、その上に奴の部屋があったからだ。まああの店の食事はなかなか美味かったがね。もしあの場に君が現れなかったら何らかの言い訳をして奴の部屋へと上がり込むつもりだったのだ。奴は犯行がばれるはずが無いと高を括っておったから盗んだ札束は絶対にあそこにあると思っておった。ところが、ただ単に見つけただけではジャックが合鍵を使って隠したのだと言い張る事も出来てしまう。そこで奴自身に見つけさせる事にしたのだ! もし部屋が火事にでもなった場合、心理的にはまずは金を安全な場所へと移し替えようとするだろう。だから儂はわざと奴に時間を与える為に消防への連絡係を引き受けたのだ。案の定、奴は儂の意図に乗っかり目撃者の目の前で隠していた札束を取り出してしまった。まあ、その後証拠隠滅まで図る根性があったのは正直計算外ではあったがね。火事を起こした手段などは説明の必要が無いだろう? あの水の入ったガラスの水瓶をレンズとして、木製の床が発火する様に焦点が合う場所へと置いたのだ。まあ上手く行くかどうかは儂も半信半疑ではあったが、最悪君に火を付けて貰うという手段もあったから、失敗に終わる心配などはしておらんかった。ああ、そうそう。犯行に使われたオートバイを盗んだ男も捕まったよ。ジュトルイユは初めから親友に罪を押し付けるつもりで同じ型のオートバイを用意しておいたのだ。劇場周辺へと停めておき上映中の暗闇に紛れて映画館から出て来ると、オートバイでシュレンヌへ向かい目撃者を作る。そして犯行を行った後、何食わぬ顔でテルヌ広場へと戻って来たのだ。オートバイという証拠品は鍵を付けたまま放置すれば〈善意の第三者〉が勝手に持ち去ってくれる。全く! 頭の切れる悪党だよ! 奴の目的は初めから金では無かったのさ。親友から奥方を奪い取るのが犯行動機なのだ。だから表向きは友人の死刑を止めようとしていたが、腹の中では出来る訳がないとせせら笑っていたのだ。ハン! 奴の不幸は事件に取り掛かった探偵が〈ハーロック・ショームズ〉であったという事さ! 君もそう思うだろう、ウィルソン?」

 ショルメは一通り捲し立てると満足したかのように黙り込み、私の反応を窺った。

 私はまだ万全とは言えない喉から無理矢理声を絞り出した。

 「──エルロック・ショルメ」

 私は掠れた声音で奴の本名を呼んだ。

 「おいおい、その名前で呼ぶなといつも言っているじゃないか」

 奴は私が抱いているこの冷めた怒りの理由が解からないようだ。

 「この鬼畜めっ!」


                                 つづく

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