第6話 ユダヤのランプ

 「おい、ウィルソン! これを見たまえ」

 人は豊かな生活を送る為には働かなくてはならない。例え顧客がどんなに嫌な人間で、どんなに気に入らない存在であったとしてもだ。

 その日もショルメのカウンセリングの為にパーカー街219番地を訪れた私であったが、部屋へ入るなりショルメは配達された郵便を差し出して来た。

 「またベーカー街宛かい? いや、パーカー街ハーロック・ショームズ様となっているな。差出人は──アルセーヌ・ルパン!」

 私はショルメに促されて手紙を開けてみた。

 『親愛なる名探偵殿

  国内でも御多忙なあなた様にこのような依頼をするのは失礼かと存じてはおりますが、万全を期して申し上げさせていただきます。

  六月二十五日の木曜日。この日はイギリスへと留まる様お願い致します。

  報酬は後日、エルロック・ショルメ名義の口座へと振り込んでおきますので御確認を。

  それでは本日も良き一日をお過ごし下さい。

  犯罪などに関わる事のない一日を──』

 「つまりは招待状と言う訳さ!」

 私が手紙から目を上げると、ショルメは両掌を擦りながら楽しげに告げた。

 「やっこさん、よほど儂の事が恐ろしいとみえる。まあ確かに〈ルパン対ショームズ〉は儂の二連勝と圧倒的な戦績を残しておるからな!」

 「こんな明白な挑発に乗っかるつもりかい?」

 私は訊く前から答えを知ってはいたが、それでも訊かずにはいられなかった。

 「勿論さ! ルパンの陰に犯罪あり。犯罪を防ぎ、悪事を暴く事こそ儂の生き甲斐なのだ! 当然、君も来てくれるだろう? 友よ」

 私は決してショルメの友では無いが、他人の出費でフランス旅行が出来るチャンスを逃すほどお人好しでも無かった。


 その日の午後のドーヴァー発の船に間に合った私たちは、カレーへ着くと急行列車に乗ってパリを目指した。旅の間、ショルメは最近のルパンの活動に関する記事へと目を通し、対面で座る私の存在を無視したかのように黙り込んでいた。そんな中、ふと彼が漏らした言葉は「〈あの女性〉は何処に──」だけであった。

 パリ駅を出た私たちは、ここまで来て初めて途方に暮れる事となった。ショルメが予想していたルパンからのアプローチが何も無かったからだ。仕方なく北駅近くのレストランで食事でもしながらルパンの接触を待つ事に決めた。

 「ハーロック・ショームズ様?」

 歩いている私たちを背後からの女性の声が呼び止める。

 ショームズは振り返ると、返事もせずに黙って女性の反応を窺った。

 女性は若く地味な服装をしている。しかしながら、それがかえって品の良さを際立たせている。整った顔からは知性が溢れていたが、同時に隠しきれない憂いも抱えている様子であった。ショルメが無言なのは言葉が通じなかったせいだと判断したのか、彼女はフランス語から英語へと切り替えて言葉を続けた。

 「お願いです! ダンブルヴァル男爵邸へ行ってはいけません。この事件を解決する一番良い方法はあなた様がこのままイギリスへとお帰りになられることなのです」

 「マドモアゼル、ショームズ無き事件の解決など有り得ませんよ。それに儂は誰かに行くなと言われたら、意地でも行きたくなる天邪鬼でしてな。申し訳ないが御要望には沿えられませんね」

 「ああ! だからベーカー街へと送ったのに──」

 女性は強いショックを受けたかのように、フラフラとしながら私たちから離れて行った。

 「どういう意味だろうね?」

 女性の姿が見えなくなると、私はショームズへと問い掛けた。

 「さてね。今の女性の行動から判った事は、儂たちが知らないベーカー街宛の手紙がある事、それから目的地がダンブルヴァル男爵邸だということだな」


 ショルメは他の事件捜査過程で知り合ったというパリ市警の警官へと電話をして男爵の住まいを訊き出した。それからタクシーを拾ってミュリョ通り十八番地へと向かう。

 ミュリョ通りはモンソー公園に面して豪華な邸宅が立ち並ぶ、高級住宅街であった。その中でも十八番地にある邸宅はまさに〈お屋敷〉と呼ばれるに相応しい贅を尽くした芸術作品であった。屋敷の前方には青々とした木々が立ち並ぶ庭が広がり、本館から少し離れた所に使用人たちが暮らす建物が見える。裏庭には人工的に造られたであろう大きな池があり、この家の住人が持つ財力を存分に誇示していた。

 門扉を潜って前庭を抜けると玄関で使用人に迎え入れられた。案内されるがままに二階の客間へと通されると、そこは博物館の一室をそのまま移設したかの様な希少な芸術品に囲まれた空間であった。

 「こりゃすごい」

 ショルメが品々を見て回りながら素直に感嘆する。

 「見たまえ、これを。紺青色の顔料を使って貧しい者たちの姿を描いている。まだ無名の画家だとは思うが、何か強く訴えかけて来る物を感じないかね?」

 ショルメが感心しながら魅入っている絵画を、私も彼の背後から眺めた。

 「デッサンが狂っているね。この画家は絵画の基礎を勉強した方が良さそうだ」

 私の感想を耳にすると、ショルメは可哀想な物を憐れむ様な目で私を見た。

 「君みたいな頭の固いイギリス人は美術館に大量生産された眼鏡が飾ってあっても『造りが美しい!』とか言って見入るのだろうな。やれやれ、才能ある画家が貧乏生活を送るのも無理はないわい」

 「さすがはホームズさん! おっしゃる通りです!」

 客間へと入って来た上品な物腰の若い紳士は、左手で杖を突きながら満面の笑みを浮かべてショルメへと近づいて行く。

 「ヴィクトール・ダンブルヴァルです。こちらは妻のシュザンヌ、それから娘のソフィーとアンリエットです。世界的に高名な名探偵を我が屋敷へとお招き出来まして、光栄の極みでありますよ!」

 男爵は御機嫌な様子で傍に従う家族を紹介すると、私たちと握手を交わして行く。

 「いかがでしょう? 送りました新聞記事は役に立ちましたかな。それから小切手が換金されていないようですが旅費の精算はフランが御希望でしたか、それともポンドで? ああ! 成功報酬と併せて御請求されるおつもりだということですね! 誠に心強い限りです」

 一方的に盛り上がる男爵へとショルメも私も事実を伝えるきっかけを得られず躊躇していた。すると男爵夫人が気を利かせてくれたのか、夫へと呼び掛ける。

 「でもヴィクトール。ドミニックによれば、シャーロック・ホームズは実在しないという話ではありませんでしたか?」

 「アリスはそうは言っていなかったがね。どうせ呼ぶのならばパーカー街の偽物よりもベーカー街の本物の方が良い、と。君も賛成してくれたと思っていたが」

 男爵は客人の前で口を挟んで来た妻を窘めた。

 「ああ、ダンブルヴァル男爵。儂らは丁度今話題に上がったパーカー街の探偵なのですよ。ショームズとウィルソンです。まあ、コナン・ドイルの脳内に居住しているベーカー街の探偵よりも遥かに役に立ちますから御安心下さい」

 ショルメの告白を聴いて、しばらくは動揺を隠せなかった男爵であったが、やがて気を取り直して言葉を続けた。 

 「まあ、ホームズとワトソンで無いのならば、フォックスとロバートソンでも構いませんよ。いずれにせよ、盗まれた〈ユダヤのランプ〉を取り戻して下さるのならば大歓迎ですし、報酬もお支払い致します。いかがでしょう、解明できそうですか?」

 「それなのですが──事件を解明する為には何が起きたのかを知らなければなりません。実は我々自身、何の為にお宅へお邪魔したのか解かっていないのですよ」


 「アルセーヌ・ルパンですか──」

 ショルメから〈ルパンの手紙〉の存在を聴いた男爵は、その名前を噛み締めるように呟くと首を振りながら否定した。

 「いやいや、盗まれたランプにはルパンが目を付ける程の価値は有りませんよ。あなた方が倫理的に秘密を守って下さると信頼して明かしますが、ランプは二重底になっておりまして、一族に代々伝わるルビーとエメラルドを散りばめた黄金製のキマイラ像が隠されています。それこそが価値の有る物なのですが、その存在をルパンが知っているはずがありません」

 「その秘密を知っているのは誰です?」

 ショルメが核心に近づいたとでも言いたげに目を光らせる。

 「私と妻と娘たちだけです──いや、もしかしたらアリスもソフィーから聴いていたかも知れませんが、彼女は私たち家族の一員ですので疑う余地はありません」

 「先程から名前の出ているアリスさんとはどなたです?」

 「アリス・ドマンは娘たちの家庭教師で、今は妻の親友でもあります。今日は丁度休みを取っておりまして、恋人とデートでもしているのではないですかな」

 「アリスに彼氏はいないわ!」

 男爵の軽口に上の娘であるソフィーが反発する。

 「行こう! アンリエット」

 ソフィーが妹を連れて客間から出て行った。

 「やれやれ、怒らせてしまったようだな」

 男爵は溜息を吐きながら妻へと笑いかけた。

 「八歳と六歳ですから。二人とも多感な時期なのですよ」

 夫人も夫へと笑みを返すと、私たちへと会釈をして場を中座した。

 「素敵な奥様ですね。理解力も包容力も、そして何と言っても洞察力までお持ちのようだ。我々がベーカー街の探偵では無い事に気づくとは正直驚きました」

 私は気づかない方に驚くのだが、この場では黙っていた方が賢明だろうと判断した。

 「そうですね。しかし、妻には不自由をさせているのかも知れません。見ての通り私は体の一部が不自由な為、家族で滅多に外出をしません。子供の教育、来客のもてなし、代理人を通した邸内を飾り付ける芸術品の買い付け、今はそれが生活の全てです。ですので先週の土曜日も夜十一時頃から私たちは隣の寝室で眠っておりました。そして日曜の朝に私が目を覚ましてこの部屋へと入って来ると、窓が開いていたのです! 調べてみると一枚の窓ガラスの錠の周囲が半円形に切り取られていました。その窓の外にはバルコニーがあり真下は花壇となっております。慌てて花壇の様子を見に行くと、そこには梯子を立てた様な二つの窪みが残されていました」

 「なるほど。おっしゃる通りの状況だとしたら、この部屋で賊が最も価値を見い出した物は古いランプだったということになりますな」

 男爵の状況説明を聴いて、ショルメは鼻を鳴らした。

 「確かにキマイラ像がこの部屋にある美術品の中で最も市場価値が高いのは事実です。しかし先程も申し上げた通り、キマイラ像がランプの中に隠されていることを知っているのは家族の者だけなのです!」

 「では答えは簡単でしょう。犯人が家族の方なのか、ランプの中身を知っている者が家族以外にいたかのどちらかです。少しお時間を戴いて調べてみても宜しいですかな?」

 「勿論です。この屋敷の中はどの部屋でも自由に出入りしていただいて構いません」


 「どう思うかね、ウィルソン」

 バルコニー下の花壇を調査し終えると、ショルメが珍しく私に意見を求めて来た。

 「まあどう見てもアリスという家庭教師が怪しいだろうね。むしろ君が男爵へ彼女からパリ駅前で声を掛けられた事を伝えなかった事に驚いたよ」

 「被害者へ変な先入観を与えたくなかったからな。とりあえず現時点で内部犯の犯行だと確証を得る事が出来た。見たまえ、梯子を立てかけた痕を見て何か気が付かないかね?」

 ショルメの指摘を受けて私は花壇へと屈み込んだ。

 「二つの窪みが平行でないとか? 幅が狭すぎるとか?──降参だ、解かる訳がない!」

 「梯子に乗って体重を掛ければ多少は脚がずれるはずなのだ。こんなに綺麗な状態のまま穴が残るはずがない。フェイクだよ。ちなみに切り取られた錠だが、窓の内側に微細な硝子の削り屑が残っていたよ。開けた瞬間に飛び散った可能性も否定できなかったので黙っていたが、内部犯ならば梯子など不要でバルコニーへ出る事が出来るから室外から切ろうが室内から切ろうが大差はない。問題は、では誰が犯人かという事さ!」

 「ルパンが関わっているとしたらやはり若い女性の手引きがあっただろうから、私の意見は変わらずアリス嬢一択だね」

 私は確信を持って断定した。

 「儂も同じ結論に辿り着いて困っているのだよ。アリス嬢が共犯ならば、なぜルパンは儂たちをフランスへと呼んだと思う? 放って置いてもベーカー街の探偵など現れない。そう考えるとまるでルパンは儂たちにランプを取り戻させようとしているかのようだ──」

 「百歩譲ってそうだとしても、ルパンなら自分自身でも部下を使ってでも盗品の一つくらい余裕で取り返せるだろう?」

 「君の言う通りだ。要はこの事件を解決することが必ずしも我々の勝利には結びつかないような気がしてならないのだよ」

 「犯罪の片棒を担がされているということかい?」

 「不可解だよ、ウィルソン。実に不可解だ」

 それだけ呟くとショルメは思考の檻に囚われたかの様に黙り込んで、食事中も男爵一家に謎解きをする訳でもなく、あっさりと客室へと引き籠もってしまった。


 翌日、家庭教師のアリスと対面したショルメであったが、彼女への挨拶もそこそこに私を誘って公園の散歩へと出掛けた。

 「ねえ君。ルパンの事など気にせずに事件を解決すればいいじゃないか」

 私はムッツリと黙り込んだショルメへと呼び掛けた。

 「うん? ということは、君はあの娘さんの表情を見なかったということかね。堅固な意志を秘めて覚悟を決めた瞳を。あれは犯罪者の眼ではないよ。自身の信じる正義を恥じない殉教者の眼差しだった」

 ショルメの指摘はどちらかといえば精神科医である私が気づくべき兆候であった為、私は多少の気まずさを感じながらも質問を重ねた。

 「それではどうするつもりだい? 犯人を頼らずにランプを取り戻すなんて不可能に等しいだろう?」

 私の何気ない言葉を聴いてショルメが飛び上がらんばかりに激しい反応を示した。

 「それだよ、ウィルソン! ルパンがしたくても出来なかった事──それは関係者の誰にも知られずに盗品を取り戻すことさ! 蛇の道は蛇だからね、裏世界にランプが出回れば難なく入手出来る物なのに、世に出て来ない事を奴は苦々しく思っていたに違いない。そこで名探偵ハーロック・ショームズを御招待したという訳さ!」

 「しかし、例えそうだとしても君だって取っ掛かりが掴めていない訳だろう? アリスを説得して情報提供して貰った方が早いだろうに」

 「彼女は口を割らんよ。だが裏を返せば誰かを庇っているということだ。彼女が庇うに値するような人物は君だって一人しか思いつかないだろうさ」

 「えっ?──いや、しかしそんな」

 私は困惑を隠せなかった。可能性だけならば初めから容疑者であって然るべきだったのであろうが、そんな裏切りをする必要があるとしたら──いや、それこそ想像する事さえ嫌悪されるべきである。

 「なあ、ウィルソン。男爵一家を上手い事言って散歩にでも連れ出してくれないかね。その間に儂が部屋の中を探ってみよう」


 男爵に頼んで一家総出で公園内を案内して貰い、屋敷へと帰って来るとすでにショルメは出掛ける準備を整えていた。

 「男爵、事件の解決は近いですぞ! 行くぞ、ウィルソン」

 彼に連れられて乗ったタクシーはヴィクトル・ユゴー通りを走って行く。車がセーヌ川近くまで辿り着くと私たちは車を降りた。目の前には質素な雰囲気のアパルトマンが建っている。

 「どうしてこの建物だって判ったんだい?」

 「パリ市警には貸しがあると言っただろう? 暖炉の灰の中から燃え残った文字と数字が書かれた切れ端を見つけたのさ。この季節に暖炉へ灰が残っているということは何かを燃やしたかったということだ。儂は〈友人〉に電話して切れ端の文字に該当する住所を予想して貰ったのさ。近場なのは間違いなかったから、すぐに判明したよ」

 ショルメは建物へと入って行くと管理人室へと直行した。ドアを叩きながら呼び掛ける。

 「警察だ! ちょっと訊きたいことがある!」

 初老の管理人は億劫そうにドアの隙間から顔を出した。

 「警察? 私ゃ、何も悪い事はしていないよ」

 管理人の目が踊っている。明らかに何かを隠しているようだ。

 「あんたには用はない。住人の事で素直に教えてくれたら我々はすぐに居なくなるよ」

 身分証を所持していないショルメは明らかに身分詐称であったが、管理人に弱みが有ると見るや、それに付け込んで間髪入れずに質問する。

 「ここの住人に身なりは悪くないが、いつも同じ様な服を着ている男性がいないかね? 多分、最近顔を隠した若い女性が訪れたと思うのだが──」

 「ああ、それなら三階のブレッソンさんだね。女性の事は知らないが、気立ての良い伊達男だよ。金が無いのだけが玉に瑕だがね」

 「有難うよ──あんたももう少しマリファナを控えた方がいいぞ」

 そう言い捨ててショルメがエレベーターへと向かった。私も一緒に乗り込んで三階へと到達する。エレベーターの扉が開くと同時にショルメが叫んだ。

 「クソッ! 買収されていたか! ウィルソン、奴は階段で下へ降りたはずだ! 追ってくれ! 儂は室内を物色してみる」

 ショルメが目の前の開け放たれたドアへと手を掛けるのを横目で見ながら、私は階段を駆け下りて行った。途中、自分の本業が何だったかと自問したが、一旦は脇へ除けておく事にした。

 階段を降りきると目の前を走っている男の背中が見えた。そのまま追い掛けて行くと、どうやら男はセーヌ川に係留してあるボートへ乗るつもりらしかった。

 男がボートへと乗り込むと同時に大きな水飛沫が上がった。どうやら慌てたせいでオールを手放してしまったらしい。私は勢いをつけて渡り板を駆け抜けると幅跳びの要領でボートへと飛び移った。そのまま男を押し倒す形となり、お互いが主導権を握る為に狭い船内を転がりながらマウントポジションを争った。だが若い男の体力には勝てず、しばらくすると私は男によって組み伏せられてしまった。ようやく顔を上げた男は私たちの乗ったボートが岸辺から随分と流されている事に気づいて慌てた様相を呈した。

 「くそっ! 俺は泳げないんだ!」

 「おーい、ウィルソン! 無事か?」

 その時、遠くからショルメの声が聴こえて来たので私は横たわっていた船底から首だけを持ち上げた。川辺の道を並走する馬車が見える。おそらくそれに乗っているのだろう。

 「今助けてやるからな!」

 その言葉と共にショルメがライフル銃を構えるのが見えた。

 「おい、嘘だろ!」

 銃声と共に男が川へと飛び込んだ。放たれた銃弾は近くの岩を穿ったので当たってはいないと思うが、驚いてバランスを崩したのか、撃たれるよりはマシと思って飛び込んだのだろう。

 「どうだ! 成功だ!」

 馬車の後部座席に座っているショルメが嬉々として勝利の雄叫びを上げた。しかしながら私とて医師の端くれ。泳げない人間を見捨てる訳にはいかない。

 私は立ち上がって上着を脱ぐと、大きく息を吸ってセーヌ川へと飛び込んだ──。


 「思ったのだが、事件が起きるたびに君が入院している気がするが、気のせいかね?」

 私の過ごしている病室を訪れたショルメがいけしゃあしゃあと言ってのけた。

 「まあそれはともかく、事件は無事に解決したよ。ブレッソンの部屋には何も無かったが、奴がボートを係留していた付近の川底から重石の付いた防水袋が見つかった。その中にユダヤのランプが入っていたよ。男爵に確認して貰ったところ、中にキマイラの像がそのまま残っていたそうだ。一番困ったのが「一体誰が盗んだのか?」と男爵から問い詰められた時だ。ブレッソンの名前を出してしまってはアリス嬢の覚悟が無駄になってしまう。儂が答えに詰まっていると、謀った様なタイミングで召使が郵便受けに入っていた手紙を持って来た。まあ謀っていたとは思うがね。その手紙にはこうあった『アリス・ドマンの気高さと献身に敬意を表して──アルセーヌ・ルパン』。男爵はそれだけで納得し、アリス嬢へと感謝の言葉を述べた。男爵夫人が感動の余り泣き崩れる姿を君にも見せたかったよ! いや、今回だけはルパンも良い仕事をしたと讃えようじゃないか!〈あの女性〉に相応しい好漢だと思ったね──まあ何にせよ、ルパンの挑戦状を真っ向から受けて立ち、最良の形で達成した儂こそが最も讃えられて然るべきだとは皆思っているだろうがな。勿論、君を救った事を恩に着せるような事などしないよ。まあ実際に泳げない儂が救った訳ではないしな。でも君から感謝をされても不思議ではない程度には貢献したとは思ってくれているだろう? ねえ君」

 川で溺れた私は感染症にかかり、四十度を超える発熱だけでなく肺炎まで併発して寒さに震えながら頭の上には氷嚢を乗せていた。一度咳き込むと苦しみの余り全身が反り返り、頭が上下に激しく揺さぶられる。

 その動きを自身の言葉への賛同だと捉えたのか、ショルメは満足したような表情を浮かべながら頷いて病室から出て行った。

 エルロック・ショルメ──この偽善者めっ!


                                 つづく

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