第8話 川中島

 名を政虎と改めた景虎は、武田が北信濃一帯を席捲しつつあり、春日山にとって脅威となることは明白だった。厩橋にじっとしている暇はなかった。即座に帰国の令を発して、三国峠を越えて六月二十八日春日山城に到着して、在番の諸将より報告を受けた。帰国したのはおよそ一年ぶりとなっていた。その間に状況はかなり変化していた。


 ふたたび武田との一戦が待っていたのである。

 ここで、武田晴信(信玄)のことに話をむけよう。


 武田氏は源義光(新羅三郎)を祖として、信義の時に、武田に館をもち、姓を武田としたのを始まりとする。武田晴信は、武田左京太夫信虎の長男として大永元年十一月三日、甲府館の詰城積翠寺城にて生まれた。母は大井信達の女であった。

 幼名は太郎。信虎は合戦の勝利を祈って勝千代と名付けた。十三歳になった勝千代は、父信虎の命により、関東管領上杉氏の一族河越城主の上杉朝興の娘と縁組した。小田原の北条氏綱と対抗するための政略婚である。しかし、翌年この妻は懐胎死を遂げてしまう。

 天文六年(一五三六)勝千代は十六歳となり、元服して将軍足利義晴の偏諱を受けて晴信と名乗り、従四位下大膳太夫に任ぜられた。

 この元服した年に新たに、左大臣三条公頼の娘を正室に迎えた。晴信の初陣もまた、この年の佐久海の口攻めの時と言われている。

 この時、信虎は七千余りの兵を率いて海の口城を攻めたが、城兵は三千も立て篭もり、折からの大雪もあって、城は落ちそうになかった。城攻めには五倍からの兵がいると言われていたから、当然のこととはいえた。寒さもあり、来春にまた攻め落とすことにしようということになり、撤退することになった。晴信は殿軍となることを所望した。これにはある考えがあった。晴信は三〇〇人の手勢とともに殿軍となったが、兵糧を準備し軍備も整えさせた上、明日夜明けには海の口城に向かい、城を攻め落とすと触れ回った。


 さすがに海の口城では、武田勢は去ったのでこれで大丈夫と、また歳末ということもあり、農民でもある城兵は村の自宅へと帰ったしまった。そこを晴信は攻め込んだのである。

 一〇〇人にも満たない海の口城はあっけなく落城した。

 しかし、その報告を聞いた信虎は、空城になった城ゆえ落とせたのは道理のこととして晴信の手柄は認めなかった。

 天文一〇年六月、板垣信方、飯富兵部らの重臣は、信虎を駿河に追放し、晴信を武田家当主として擁立した。無血クーデターである。信虎は次男信繁の方を溺愛しており、嫡男を擁立すべき重臣らの意向がこのクーデターであった。


 当主となった晴信は、諏訪地方の攻略に着手する。諏訪頼重、高遠頼継を滅ぼし、諏訪高遠の領地を支配下に治めた。そして、今度は佐久攻略に着手した。佐久を領有した晴信は信州への進出を果たそうとするが、強豪村上義清がたちはだかった。義清との上田原の戦いで手痛い敗北を喫した。副将の板垣信方をはじめ、甘利虎康、才間河内守、初鹿野伝右衛門ら重臣、侍大将の多くを失った。この敗北によって、佐久の各所で反武田の動きが活発化した。

 晴信はひとまず小笠原長時を屈伏させ、そののち、村上氏を撃破しようと策を練った。

 天文一九(一五五〇)年小笠原氏を屈伏させるため、行動を起した。小笠原軍の戦意は乏しく、ほとんど戦わずして、各城砦は落城し、長時も城に火を放ち、妻子を伴って、村上義清を頼って落ち延びた。


 いよいよ村上氏との一戦が待っていた。村上氏の本城戸石城は要塞堅固な山城であり、正攻法による攻略は困難だと思われた。だが、義清は主力を引き連れて、高梨政頼との紛争で出陣しており、絶好の機会ともいえた。しかし、そう情勢は簡単ではなかった。危急に際し、義清は高梨氏と和睦を結び、とって返してきたのである。包囲している武田勢に義清の主力が攻めれば、城からの攻め手とあわせて、武田の敗北は見えるものと判断し、晴信は退却を命じた。勇将でもある義清は一気に追撃に移り、武田勢を蹴散らした。日が沈むまでその戦いは続き、武田軍は多数の死傷者を出しながら、退却に成功する。のちに“戸石くずれ”と云われた戦いとなった。晴信としてはまたも義清に煮え湯を飲まされた結果となってしまった。これでは、信濃攻略などいつ終るかと思われたが、思わぬ展開が待っていたのである。


 翌二十年武田の武将の一員として与力していた真田幸隆は調略をもちいて、戸石城の重臣を内応させて簡単に乗っ取ってしまった。真田氏は代々調略が巧妙なのか、のちの昌幸も調略を用いて、各大名を翻弄している。その結果、義清勢力の武将は武田に降伏出仕することとなり、弱体化した村上義清は、上杉景虎を頼ることにして越後に逃走した。

 北信濃を制圧したい晴信は、南の今川、東の北条と敵対関係にあっては、とうていその両面作戦は不利と考え、今川・北条との三国同盟を結んで安泰を図ることが必定であり、婚姻関係を結ぶことによって、背後の心配を取り除いたのである。

 これにより、晴信としては北信濃の完全攻略に専念できることになった。しかし、それは逆に、越後国内で丁度国境を守る高梨氏も武田の脅威にさらされることになり、景虎はその要請にも応えねばならず、また、そのまま放置すれば越後と越中は寸断されかねない。

 どうしても景虎にしても晴信にしても戦って雌雄を決しねばならなかったのである。


景虎が関東へ出陣し小田原を包囲する以前に三回ほど武田と北信濃で対陣していた。天文二十二年(一五五一)、弘治元年(一五五五)、弘治三年(一五五七)にわたって、武田とにらみ合ったが、本格的な戦闘に入らないまま時は流れていた。あくまで、武田は北進を望んでいた。景虎が関東への長期出陣を見計らってか、武田は新たな動きを開始したのである。

 ここからは、謙信と信玄という称号で話を進めよう。


 永禄四年(一五六一)六月も終えようとした頃、ようやく謙信ら越後軍は春日山城に帰ってきた。これほど長期にわたる遠征ははじめてといってよかった。将兵は疲弊しきっていた。足軽等は当然農村地帯に帰り、今年の農作物の作業があった。足軽のほとんどは、農業と戦闘に借り出される二足の草鞋が当たり前だった。自分たちの土地を守ることは国を守ることだった。

謙信がある晩酒を嗜んでいると、すうーと人影が現れた。

「お館様」

「道儀か?」

「はっ」

「武田の動きつかんだか」

「御意」

「中に入って、聞かせてくれ」

 道儀は謙信の間近に座り、一礼してから武田の動静を話はじめた。

「武田信玄はお館様が関東へご出陣遊ばされている隙をねらったかのように、北信濃に兵を進め、千曲川一帯を押させようと、貝津に城を築き、高坂弾正を城将として置いた様子にございます。北条・今川と同盟を結び、南に何の心配もなく北への攻めに集中できましょう。このまま放置すれば善光寺平は武田のものとなのは必定とあいなります。また、信玄は加賀・越中の一向宗徒に対して、もし謙信が川中島に進出しあらば、国境に攻め入るべしとの密書を届けておると思われ、事実その密書を携えた者を捕らえましてございます。これがその密書にございます」

道儀は懐より密書をとりだし、謙信に差し出した。謙信はそれを広げて読み終えると、自らの足許に置いた。


 高坂弾正は後に武田二四将といわれた一人であり、十六歳にして信玄の奥小姓として仕え、騎馬一〇〇騎を預かる隊将となった。もともとは春日弾正と家名を名乗っていたが、その後か川中島合戦の功労により、信州の名家高坂の家名を引き継いだのである。

「そうか、信玄はどうしておる?」

「躑躅ケ崎に戻っておる様子にて新たな動きはない様子。たぶんお館様が関東より春日山に戻ったことを北条方より聞き及んでいるものと思われ自重してるやも」

「ここはひとつ武田にも楔を打っておかねばなるまい。道儀、川中島の動静をいま一度たしかめて参れ。途中高梨政頼にこの書状を渡してもらいたい」

謙信は高梨氏にあてた書状を道儀に渡した。出陣を促す内容のものだったし、武田の内通する者が出ぬよう勧告するものだった。

「必ずお渡しいたします。お館様が動けば信玄も動きを見せるはず。くさの者から知らせがすぐ届くでありましょう」

「頼んだぞ」


 謙信は、直江景綱、柿崎景家、斉藤朝信など重臣らを集め、川中島への出兵の準備をするよう言い渡した。

「こたびは四度目の川中島への出陣となる。過去は大した戦にもならず、信玄との雌雄も今度は覚悟せねばなるまい。それぞれ覚悟して出陣されよ。海津には高坂弾正が守っておる。われらはこれに楔を打つように奥へと進入し、妻女山へ陣を布く」

 絵図面を前にして謙信がその妻女山を指していた。皆からどよめきが興った。

「敵中に活路を求むる策でござるか!」

「これならば、信玄も黙っては見過ごせまい。必ずや一戦を求めて参りましょう」

 謙信は改めて口を開いた。

「朝信!」

「はっ」

「そちは、定長とともに兵を率いて、越中国境に向かってくれ。信玄に呼応して一向宗の輩が不穏な動きを見せるやも知れぬ。其の時に備えよ」

「しかし、お館様。信玄と戦を構えるからには、某も川中島にて一戦望みとうござる」

越後の鐘馗と称される朝信は武田との戦いの方がふさわしいと思った。

「朝信、そちの勇猛果敢な気持ちはわかる。が、武田と一戦を交えるうちに越中より一向宗が攻め入れば、たちまち春日山は危険にさらされよう。これを食い止めるには朝信しかおらぬではないか」

「お館様!。・・分り申した。某、越中国境まで赴き、一向宗徒に不穏な動きあらば、一歩たりとも、越後国内へは入れもうさぬ」

「うん、頼んだぞ。朝信が越中を守ってくれれば、われらは存分に武田と戦えよう。一同心してかかられよ!」

「おぅー!」


 八月八日準備を整えた謙信は、春日山を出発し、北国街道は善光寺平へと向かった。“毘”と“日の丸”の旗印とともに、一万三千の兵を率いて南下していった。精鋭部隊を率いての出陣だった。対する武田も百戦錬磨の精鋭部隊の集まりだった。

「謙信川中島に出陣す」

の報告は、狼煙をもって甲府躑躅ケ崎に危急が告げられ、軍道を走る早馬によって詳細が信玄のもとにもたらされた。

「謙信め、動いたか!」

信玄はすぐに諸将を集め、軍義を開き総動員をかけた。

(こたびは多くの血が流れるやもしれぬ)

 信玄は胸騒ぎを覚えていた。


 春日山城は姉婿の長尾正景が留守を預かり関東からの万一に備え、越中には斉藤朝信・山本寺定長らの有力な武将を本願寺宗徒の越境に備えた。

 先鋒、主力部隊は、新井宿より間道をぬって倉富峠をこえて飯山をへて善光寺へと進出するルートをたどり、甘糟近江守の小荷駄隊は北国街道から一路南下し、柏原から善光寺へと向かっていた。


 先鋒隊は、北信濃の村上義清、高梨政頼らで、二陣として河田貞政、本庄慶秀ら、後備として柿崎景家、北条輔広ら、遊軍として本庄繁長、水原隆家、加地知綱ら、旗本衆は小嶋貞興、須賀盛能、山吉豊守、大崎泰継、桃井義高、安田長秀、宇佐美実定ら、軍奉行は直江実綱という編成であった。

 八月十六日、本隊と小荷駄隊が善光寺に合流到着すると、小荷駄隊と後詰となる部隊を編成し直して、甘糟近江守に命じて善光寺を確保するよう命じた。これが戦国をいく抜く手段戦法ともいえ、両軍衝突ののち引揚げにさいして重要となった。


 本隊は犀川を渡って、川中島に入り雨宮の渡しから千曲川を渡河して、妻女山に本陣をすえた。当然、海津城からは上杉軍の進軍している姿は望見されていた。また、雨宮の渡し附近一帯に遊軍隊を布陣して、いざなるときへの備えを万全とした。


 妻女山は標高五四六mあり、海津城から南西へ一里程のところにあり、武田の勢力範囲の中に楔を打ち込むかたちで、布陣をおこなったのである。妻女山よりは、海津城が千曲河畔にあるのが良く見てとれ、川中島一帯が見渡せた。左手には飯綱山や霊験戸隠山が眺められた。謙信は妻女山の山腹に柵を結い、空堀を掘り急造の山城の備えをみて、長期戦の構えを見せた。当然、この作業は海津城からの物見より高坂弾正の耳へと入っていた。

「上杉謙信自ら一万の兵を持って妻女山に陣を構えてございます。山腹に堀を巡らし、防御の柵をも備えつつありまする」

高坂昌信は重臣らを集めて協議をおこなった。

「直ちに、躑躅ケ崎のお屋形様に火急の狼煙をあげよ」

「はっ」

「こたびの謙信の動きを何と見る」

「いままでの謙信ならば、善光寺より北に布陣してあくまでわが武田を牽制する姿勢で見せておりましたが、こたびはわが武田の領内に入り込み、大胆にも海津を見下ろせる妻女山に陣を構えましてござる。また、川中島一帯も見渡せる絶好の地に陣を構え申した。おそらくは、甲府より出陣されるわがお屋形様に備えてのものと見うけられ申す。一戦を交える覚悟かと」

「うん、だとすれば、お屋形様が到着するまでは、謙信は動かぬと申すか」

「御意にございます。もしや決戦をいどんでいるやもしれませぬ」

「早馬を出せ、急ぐのじゃ」

「はっ、ただちに」

 海津から甲府までの道程は、およそ三六里あり、春日山からの一八里に比べ倍の距離があり、その分地の利の不利が発生する。それを克服する手段が狼煙の利用であった。狼煙の種類により、第一報の緊急事態は告げられる。およそ二~三時間で伝わったとされる。


 その日の内に、川中島で火急なことが発生したことを知ることはできたのである。そして、早馬を一定の場所場所に配置して、乗り継いでいけば、これも一日で走破できた。


 信玄は謙信が関東から春日山に帰陣したことを耳にしてから、今度はおそらく善光寺平に兵を出陣するであろうことは予測していた。

「お屋形様、謙信が動きましてございます。なんと犀川をわたり、妻女山に陣を構えた由にございます」

「何?絵図面を持て!」

「はっ」

「お屋形様、上杉は海津城を見下ろし、善光寺平を見渡せる所に陣を構え、楔をうつ形にて武田の本隊が到着するのを待って、決戦に及ぶ覚悟かと思われます」

と馬場信春が言った。

「謙信の腹は、武田と決戦を望むべきやとも思われます。過去の対陣ではお互い小競り合いに終り、両軍の雌雄決戦には及んでおりませぬ。謙信のこの布陣は武田の主力を誘う格好の布陣でござりましょう。わが武田が海津の対岸にある茶臼山に陣を構えれば、謙信は退路を断たれ、動くことかまいませぬ。それを考えれば、謙信は単なる愚かなる武将としかいいようがありませぬ。何か秘策があるやもしれませぬ。茶臼山に布陣する前を襲撃しようとすれば、海津から打ってでることも考えれば、とくと解せませぬ」

 軍師として重宝されている山本勘助が意見を述べた。

「謙信といえども軍略の誤りはおかすもの。楔を打ち込んだ策は見事なれど、退路までのことは考えてはないのではないか。あくまでわが武田と決戦して、われらを蹴散らす所存でおるやも」

と穴山信良が云った。

「わが武田が上杉に遅れをとると思われるのか!」

飯富昌景が力んだ声で云った。飯富は赤備の部隊で武田の中で相手から畏怖されていた部隊であり、のちに山県昌景と名を改めている。

「そうではない。万全を期したほうがよいと言っておるのだ」

「左馬助はどう思うか」

 信玄は弟の武田信繁に尋ねた。

「謙信はわが武田と決戦を望んでいるのは事実。上杉をここで叩いておけば、北信濃、越中に及ぶ地域は武田の支配化になりまする。そうすれば、西に動くのは容易になりましょう。ここは、誘いにのり謙信を蹴散らしてみせましょう」

「うん、決まった。こたびは上杉と決戦の覚悟にて出陣の仕度をいたせ。よいな」

「ははっ!」

 準備を整えた武田軍は八月一八日躑躅ケ崎を出発した。そのときは一万五千とも七千とも云われるが、八ケ岳山麓の棒道といわれる軍道をとおり、和田峠をこえ、上田から川中島に着く頃には、二万にも達する軍勢に膨れ上がっていた。武田の大軍は、善光寺平を目前に控えた塩崎まで達していた。そこで、海津の高坂昌信からの使者が迎えていた。

「お屋形様、謙信はまだ動く様子はございませぬ。上杉の間者もおそらくこちらの動きを知らせておりましょう」

「上杉の布陣は?」

「はっ、妻女山に本陣をすえ、その山麓一帯に主力を置き、雨宮の渡しに遊軍を置いておる様子にて、犀川周辺には遊軍は備えておりませぬ」

「うん」

 信玄は全く動かぬ謙信の心理を読めなかった。

(いつまで動かぬ気ぞ)

「お屋形様、謙信の動きがわからぬ以上、海津に入るのはやはりとり止めたほうがよろしいかと。物見を出し、上杉の後詰が他にあるか周辺を探索した上で、本陣の場を決めたいと存じますが」

 と勘助が言った。

「うん、よかろう」

さっそく、物見が北方に向かって散っていった。


 妻女山では、謙信が道儀の報告を聞いていた。

「武田勢は信玄自ら二万の兵を率いて、塩崎に到着いたし、われらの動静をさぐった上で本陣の場を決めるものと思われます」

「信玄はどこに陣を構えると思う?」

「はて、信玄はこちらが動かぬのを見て、どこに陣を構えるか迷っておりましょう。主力は海津に入り、後詰として妻女山の南か、北の犀川に置くのが常道でありましょう。ですが、お館様がまだ海津を攻撃せぬことを不審に思い、こちらの動静がわかりやすい場所に陣を構えることも考えられまする」

「というと」

「ここから、北に位置する茶臼山にございます。ここならば、われらの動静はよくわかりまする」

「あの山か!」

 謙信が軍扇を指して言った。

「さようにございます。・・動きまするか」

「良く見えるか。・・いや、まだ迷わせておこう」


「お屋形様、物見が戻りましてございます」

「よし、通せ」

 勘助も信玄の側に伺候していた。

「善光寺におよそ五千ほどの後詰がおりますが、北国街道、戸隠の辺りには伏兵の所在は見つかりませんでした」

「やはり、善光寺におったか。ほかにも伏せておるやもしれぬ。でなければ、あそこに陣を置くこともなかろう」

 信玄がもっともなことだと頷きながら言った。

「お屋形様、ここは海津にはお入りにならず、謙信も眼前をとおり茶臼山に陣を構えるのが良策かと。ここに陣を構えれば、妻女山と善光寺の両方に眼を見張らせませる」

「うん、その通りじゃ」

 八月二四日、信玄は軍を動かし、塩崎から茶臼山に移動を開始し、茶臼山一帯にいつでも動けるように陣を構えた。茶臼山の頂上からは、妻女山の動きも望見できた。しかし、見る限り、あわただしい動きは見られなかった。

 

 謙信は妻女山から悠々と進む武田軍の進軍を見ていた。前方を威風堂々と長い行進をとっていて、いつ攻撃されても攻撃に移動できる陣形を保って進んでいるように見えた。

「さすがは、信玄じゃ」

 謙信は呟いていた。

「お館様、信玄はどこに陣を構えるでしょう。いま、一気に二手にわかれ攻撃すれば、いとやすく打ち破れるように見えまするが」

 柿崎景家がこぶしに力をこめながらいつ戦えるのかという昂揚した声で言った。

「誘っておるでのしょう」

 小嶋弥太郎が信玄の心を見透かすように言った。

「武田の軍師は山本勘助というものであったか?」

 謙信は聞いた。

「はい。勘助でございます。なかなかの術を使い、数々の戦功をたてておると聞いております」

 景家が答えた。

「敵ながら見事な術よ。信玄ゆえ十分に力を発揮できるというもの。信玄はおそらくわれらの退路を塞ぐため、善光寺への道を閉ざすのであろう。兵糧はいつまで持つ」

「あと、一月ほどは荷駄隊からの補給はなくても持つかと思われます」

「わかった」

(まだしばらく我慢比べぞ)

 謙信は武田軍の進軍をじっと見つめていた。

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