第7話 小田原城包囲

 十二月十日、太田三楽が一万余を率いて出陣した。進軍するにつれ、その数は増していった。景虎は出陣の様子を本丸よりじっと見詰めてその勇壮な行軍を見送っていた。その景虎自身も翌日には、上杉勢五千を先頭に、関東の諸将の一万が出陣していった。


 出陣の前には、いつもの如く、春日山より持参した仏像と毘沙門天に祈願を行なった。


 空は晴れ渡っていたが、強い風が吹いており、毘の旗印と日の丸の旗印は風につよくゆられており、いつもより雄大な行軍に見えていた。先陣から後方を見ると、はるかにかすんで見えるほどになっていた。


「上杉景虎出陣す!」の報告は、十二日には小田原にいる氏康のもとに届けられた。報告が早いのも、北条の諜報集団“風魔”による力だった。

 氏康はこの知らせを聞いて苦悩していた。出陣して景虎と一戦を交えるか、小田原にあくまで立て篭もるかである。もし、城から出て野戦となれば、景虎の率いる上杉軍団に勝利することは困難だが、関東勢を含めた連合軍となれば、もろく崩れ去ることも容易であると考えられる。しかし、それは博打に近い賭けとなる。もし破れれば一気に北条王国は滅びてしまいかねない。やはり篭城が一番得策かもしれないと考えていた。だが、このままじっと傍観しているのも腹正しいのも事実であった。


 氏康はふと、天文十五年の河越の戦いを思い巡らしていた。

(あの時は、無茶な戦を仕掛けたものよ。こちらは寡兵之八千の兵、上杉・足利の軍勢は八万、十倍もの敵との賭けであった。まったくこの俺は血気盛んな年頃出会った。領地を拡大していくのに必死であった。だが今は、祖父早雲が築きかげた領地を失ってはならぬのだ)

「殿、とのっ!」

「いかがした佐馬助」

小姓の佐馬助があわてた足どりでやってきて、甲府へ遣わした左近が戻ってきたことを告げたのであった。

「内藤左近殿が甲府より戻られてございます」

「左近が戻ったか・・(これはよい知らせかも知れぬな)・・よし通せ」

左近が早足で廊下を踏み鳴らしながらやってきて、部屋の入口で一礼して片膝をついた。

「左近、ただいま躑躅ケ崎より信玄公の返書を携え、戻りましてございます」

「遠路大義であった。左近、近こうまいれ」

氏康は近くに来て早速返書を見せるよう手招きした。

「こちらが返書でございます」

 左近は懐より返書を出して、氏康に渡した。氏康は返書を開き、目を皿のようにしてみていたが、しばらくすると眉が少し引きつっていた。

「うーむ。・・これだけか、仕方あるまい」

「殿、信玄は何と?」

 氏康はその返書を左近に手渡した。左近はそれを読み、遠く甲府にまで足を運んだのにと残念でならなかった。その返書には、信濃攻略で手が一杯なので、とりあえず騎馬二百と雑兵三千を送るとあった。この程度の援軍なら、氏康にとってなくてもどうでもいいものであった。


「これで決まったのう。信玄が後詰に出てくれれば、出陣して挟撃する策もとれたであろうに。篭城じゃ。主な城以外は捨てる。これより使者をたてて、小田原に結集するよう伝えよ。居残る城主にも、むやみに討ってでるようしてはならぬと伝えよ」

「はっ、ただちに」

 

 河越城代大道寺正繁より、上杉軍が城を取囲むという報告が氏康の元に届いた。上杉軍は一万五千という大軍ながら、攻撃を仕掛けることはしなかった。

一方、太田三楽は二万の兵で滝山城を囲み、一万の兵で高月城を取囲んだ。

 包囲して十日たっても城からは何も攻撃をしかけてはこなかった。試しにこちらから攻撃をしかけると城内より弓矢鉄砲を雨霰の如く撃ってくる。しかし、城門を開けて城外へは出てこない。

 さらに十日がたったが、北条側は全く動く気配を見せなかった。景虎はやむなく全軍に撤退を命じ、自らも厩橋城に帰着した。景虎は帰る途中に、今度の出陣は直接小田原を攻めると決意していた。


 翌年になり一月も終りに近い頃、景虎は景綱を呼んだ。

「景綱、兵糧米の手配は大丈夫か」

「お館様、昨年来この近辺はあい続く戦乱と、天候にもめぐまれず作柄がよくありません。その中を東西南北に足を運ばせ極力集めましたが、我越後勢の分は二ヶ月ほどしかなりませぬ。まして、関東諸侯の分は、凡そ半分と思われます」

「すると、やはり小田原攻めは一ケ月が限度か・・何ともならぬか」

「はっ、これ以上農民より収奪すれば、農民共も北条に見方するやもしれませぬ」

「そうだな。景綱、よく手配してくれた。かねての通り二月三日が出陣じゃ。全軍に伝えて手抜かりのないよういたせ」

「はっ、早速に。此度は某もお供つかまつりまする」

「うむ」

景綱は過日の出陣では、厩橋の留守隊となっていたため、小田原に出陣の際は是非に同道したいと思っていたのである。

(我に毘沙門天あり、天は我に力を与えたまえ!)

 景虎は何度もその場で念じていた。


 二月三日の朝が来た。晴天の為か冷え込みが強く、霜で凍てついた田畑は白く輝いていた。風はこの時機にかけての強い北西風が吹いていた。

「毘の旗を立てかけよ!」

 毘の軍旗が立ち、強い北西の風にあおられて、毘の文字が生き物にように浮かびあがっている。続いて紺地に鮮やかな日の丸の旗が立てられ、それは遠くからでも鮮明に見てとれることができた。


 景虎はいつもの通り本丸で毘沙門天に戦勝を祈願し、左手に数珠、右手に軍配を持った出で立ちで現れ、馬上の人となり、全軍に出陣を下知した。

「おうー!」

彼らの喊声は風に乗り、遠くまでこだましていった。

 厩橋城に集まった軍勢は越後勢をいれ約五万、途中合流する関東諸将の軍勢が五万とも六万ともいわれ、十万をも超す大軍となった。

 景虎は、所沢を経て相模原、横浜、鎌倉を通り三月十三日大磯に本陣を設けた、景虎は途中北条領内を通過する際に民家を焼き払うよう命じたが、北条軍の戦意は薄く、小競り合いで終始し、北条との本格的な戦闘には入れず、思惑通りにはいかぬことを感じた。景虎はやはり小田原での勝負しかあるまいと思った。

景虎はすぐさま、小田原への進軍を命じた。


 一方、小田原の氏康は、上杉軍の誘いの手に絶対に乗ってはならぬ事を厳命し、下知あるまでは城から打ってでてはなるぬと念を押していた。

 小田原城は標高三十mの高台に本丸を設けた本格的な平城であり、その縄張り面積は大きく、堅固な縄張りとなっていた。後の天正十八年の秀吉の小田原攻めの時には、さらにその縄張りは拡大し、東西五十町、南北七十町、周囲二十キロに及ぶ大城郭となっていた。

 それには及ばないが、春日山城に比べれば、その面積規模とも想像以上に大きな要塞と見えており、さすがの景虎も小田原を落とすのは困難だと感じていた。

 太田資正は、ここぞとばかりに兵二千余を率いて、蓮池門に突進するが、案の定城兵からの多数の矢と装備が整いだした鉄砲を受けて、死傷者が続出し、後退するに至った。之を見た他の武将達も遅れてはなるものかと攻撃を仕掛けるがびくともしなかった。

「運は天にあり。毘沙門天は我にあり。死なむと思えば生き、生くると戦えば死するものなり。武士たる者、死は一定と思いて戦うべし。死を恐るるな。名こそ惜しめ」

 景虎は全軍を叱咤激励する。


景虎直卒の越後勢も城門に向かって突入を試みるが、小田原城からの反撃も激しく、容易に突破口が開かない。

 景虎は苛立ち、自ら馬上の人となり、手綱を引き締め、

「行くぞ!斎藤、本庄!」と叫ぶや、馬上の人となり、馬を走らせた。旗本たちはあわてふためき、

「お館様に遅れをとるでないぞ!」

「越後の力、とくと見せてくれるわ!」

と、五十数騎と雑兵一千余りがどっと打寄せた。

 城方も近づく旗印が、見慣れた坂東の侍たちのではなく、上杉、それも景虎自らだと悟るのに時間はかからなかった。

「越前守殿、いまこそ打ち出でて景虎が首をとりましせぬか」

「いや、何か策があるかも知れぬ。ここで打って出れば景虎の思うつぼと云うもの。大将たる者そう易々と先頭には立たぬ」

 普通、戦場では総大将自ら先陣にたつことはない。偽者、身代わり者を使って敵を誘い出す謀が多いのだ。誰も、景虎の顔を知らぬのだ。目標は大将としての印なのだ。

評定衆の笠原越前守は進言を退けた。

「殿の言いつけを守れ、絶対に出てはならぬぞ!」

「はっ、そのように」

「近寄れば、弓鉄砲を使って追い払え!」

「御意」

 上杉軍が喊声をあげて殺到してくる。

「弓を射よ!」

「鉄砲で狙ってうて!」

弓矢が雨霰と降ってくる。

「お館様を守れ!」

「退がれ!退がるのじゃ!」


弓矢の届かない線まで下がった。景虎はやはり城から兵が一歩も外へ出ぬとわかると、馬から降りて城からよく見える広い場所まで行き、側近らに兵糧を用意させ、茶をたてて悠然と飲み乾してから本陣へと帰っていった。

 この場面を見ていた北条の城兵たちは、見よあの大将の悠々たる態度をとささやきあった。あれが上杉景虎かと目を見張った。北条の豪傑なぞは、いまに打ち出でて敵が大将の首を頂戴つかまつると息巻いたが、思いとどまるほかなかった。氏康もこの所業のことを聞くと、あらためて武功にはやって景虎の巧みな誘いには決して乗らぬよう布告した。


 その後の上杉勢、関東勢の攻撃は一進一退を繰り返していた。日がたつにつれ、大軍の寄せ集め部隊の弱みか、戦意・気力ともに薄れていくのが漂っていた。それは日数が過ぎればすぎるほど高まったいった。

 景虎ももはや戦う気力がない関東勢とそれを見ても出てこない北条の戦略に落胆していった。

(これ以上はここに居ても無駄じゃ。八幡に寄って早く春日山に戻るとするか)

と景虎は考えていた。そんなおり、三楽斎をはじめ諸将が、本陣まで進言をするため詰めかけた。

「関東一円の諸将雑兵十万余を従え、北条の本拠地小田原にまで足を踏み入れ、氏康を封じこめたのですから、新管領の威光は十二分に回復したと思われます。この上は、何の憂いがあって滞陣するのでありましょうや。管領としての役割は果たされたのです。ここで退きましょう」

 景虎もこう言われたのでは否とも言えず、兵達も長い包囲で疲れ、食糧も不足してきたころでもあり、全軍に囲みを解き、撤退するよう布告し、鎌倉八幡宮へと向かった。


 この事態を逸早く氏康に知らせたのも、風魔一党の諜報網だった。上杉軍撤退するという知らせに、追撃し待ち伏せ攻撃する余地があるかも探らせた。その中で、景虎は鎌倉に向かっていると知らせてきた。ということは、関東管領の就任の儀式のためと察知し、どこかで襲撃できるかもしれないと思った。


 閏三月十六日、鶴岡八幡宮の社前には、関白近衛前嗣、前関東管領上杉憲政他関東諸将が出席して満ち溢れ、また、この儀式を見ようという町人や武士達が路上を埋め尽くしていた。


 景虎は将軍より許された網代の輿に乗り、梨地の槍と朱柄の傘を近臣に持たせ、緋毛氈の鞍覆いをした曳馬を引かせ、柿崎、斎藤、直江等の重臣を従えて、境内を進み、鳥居の前で輿を降りた。参道を歩いて石段を上り、社殿に入ると、拝礼して拝賀の儀を終え、上杉家の家督を継ぎ、上杉の姓と上杉憲政より政の字を賜り、上杉政虎と名を改めた。これにて新関東管領が誕生した。景虎はさすがに感激のためか緊張していた。馬上にある成田下総守長康を叱咤したのは、この時であった。


 景虎はこの儀式のために舞い上がっていたのであろうか。大いなる失敗であった。長康は何故叱咤されねばならぬか納得がいかなかった。激怒して兵を引き連れ帰国する所業に及んだ。この成り行きを見ていた長康に心を寄せるものは、早々と鎌倉をあとにした。


 北条氏康にとって大いなる機会が訪れるかもしれなかった。隙が出来たのである。風魔によって情報を得た氏康は、即刻出撃準備を命じて、上杉軍を攻撃するよう下知した。

 しかし、景虎はやはり軒猿の報告により北条方の動きを察知し、鎌倉を離れることを決意し厩橋城に戻っていった。景虎はこのあとしばらく心労のためか腹痛をおこし寝込んでしまった。しかし、病状が良くなった頃、春日山より急使が来た。武田軍が再び北信濃の地に進攻してきたのである

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