第5話 再度上洛ー将軍義輝への誓い

 四月三日、済みきった青空と穏やかな日和となった。上洛する軍勢は、柿崎景家と中条藤資が先鋒となり、紺地に日の丸の旗をそよめかせながら、京をめざした。前回での上洛では海路をとったが、今度は上洛する人数も増え、動員する船舶も大量になることと、陸路の安全も確保できることから、すべて陸路にて京に向かうことになっていた。

 春日山城下の街道には、その勇姿を一目見ようと集まった町人らと見送る在城の武将たちが群がっていた。一行は順調に進み、四月二〇日には近江坂本に到着した。ここで、三好長慶、松永久秀の出迎えを受けた。


 三好長慶は三好家の六代目にあたる。清和源氏の分流小笠原氏より出た。初代義長は阿波三好郡に住し、三好と姓を変えた。代々細川家の家宰として勢力を伸ばし、長慶の父元長が細川春元を管領の地位につけたが、春元の側近木沢と元長の叔父とが手を結び、元長を攻め滅ぼした。


 長慶はこの時一〇歳であったが、元服して誓うことは、父の敵を討つことであった。天文九年に河内で木沢長政を討ち念願を果たした。その後しばらくは地盤固めに精を出し、天文十七年になって政長を討った。春元は力をつけてきた長慶の動きに注目し、将軍義晴、義藤親子を連れて近江に逃れ、時期をうかがっては応戦を繰り返したが、京に入ることはできなかった。長慶は細川氏綱を新管領として擁立し、実は幕府の実権を握るにいたった。


 松永久秀は、元々氏素性、出生は不明であり、阿波の生まれとも、近江の生まれともいわれているが、全く謎である。長慶に仕えて頭角をあらわし、加えて堺の町に目をつけ、蓄財に励んだ。永禄三年には弾正少弼に任ぜられ、翌年には将軍家の相伴衆に列せられた。

 また大和攻略に乗り出し、大和北部を平定占領した。後のことには、長慶の兄弟嗣子の連続した不幸続きは、彼の謀略があったとさわがれ、長慶自身が病死すると、今度は三好三人衆と組んで将軍義輝を攻め殺して、実権を握ろうと策するが、三好三人衆に追われる立場となり、大和にて再挙し対戦した。この時あの東大寺大仏殿が焼失するのである。


 そんな二人であったから、景虎の上洛は迷惑千万な事柄だった。景虎の方も京にいる神余親綱の報告により、二人の所業は聞き及んでいたし、将軍家も二人に操られていることも知っていた。それだけに、将軍家の権威を回復するためにも自分が上洛するんだという意識が強かった。


「久秀殿、景虎の上洛を何と考える。義輝公の要請で遠く越後から、しかもその軍勢の数は前回上洛した倍以上に及び五千にも及ぶと聞く。単に挨拶だけならそれほどの人数もいるまい。群雄割拠の戦国の世に主力の半数にも達する人数で上洛するとは正気の沙汰とは思えぬ。よほどの話が将軍よりあるに相違あるまい」

「左様でござる長慶殿、将軍義輝は何を考えているかわかり申さぬが、今は力のない春元よりも、関東管領として上杉に名跡を継ぎ、名を轟かせている景虎のほうが将軍家にとってはるかに頼りがいがあると考えておるのでしょう」

「久秀殿もそう思われるか。ここは、丁重に景虎をお迎えし、真意をさぐれ、できればこちらの力に与してもらわねばなるぬであろう」

「左様でござる。しかし、あまり策を弄しても、景虎は義に堅い人物と聞いております。ここは、将軍と景虎の二人の行方を見守っているしかないと存ずるが」

「うーむ」

「景虎とて、この京に長く滞まることはございますまい。せいぜい三月程でござる。いかに景虎が戦上手といえ、越後に帰ればそう易々と再び都にくることはできますまい。景虎と相争う相手は、北条、武田と東国には強敵がおりますれば、こちらとしては安心して、将軍家を料理できましょう。ここは何も弄せず、景虎が越後に帰るのを待つのが一番の得策だと思うが」

「それが一番より方策かもしれぬな」

 二人の意見はまとめられた。


翌日、陽が西に傾きかけた頃、

「上杉弾正少弼殿、ご到着でございます」

(とうとう来たか、越後の虎め!)

「こちらへお通し申せ」

「はっ」

 景虎は、直江景綱や柿崎景家等とともに長慶の待つ客間へと向かった。

「弾正少弼殿、遠路大義でござる。まずはこちらへ・・」

 景虎は案内されるまま、上座に着座した。

「三好長慶でござる。上洛の事、義輝公はいたくご心配せられ、坂本でお出迎えいたすようお仰せられ、お待ち申しあげておりました。遠路何事もなくご無事でなりよりでござる。何もお構いできませぬが、ここで疲れを癒されて都へ足をお運び下され」

 隣にいた久秀も挨拶をした。

「松永久秀にございます。こたびの上洛の仕儀、滞りなくおこなわれるよう、義輝公より直々承ってござれば、ご不自由なことあらば、我らに遠慮なく申しつけくだされ」

「長慶殿、久秀殿、お心遣いありがたくお受け申す。今度の上洛は天文二十二年の時以来二度目、過年の折は将軍公にはお目どおりかなわなかったが、是非に今度はお目通りをかなえ御礼言上せねば、某の義が立ちもうさん」

「いやいや、それが為に五千もの大軍を率い上洛されるとは、さすが昨今天下に名をあげておりまする弾正少弼殿でござる。・・左様、酒、肴の用意もできておりますれば、ごゆるりと過ごされるがよい」

「これは忝い、遠慮なく馳走になり申す」

 膳が運ばれ、酒も運ばれてきた。

 盃をとり、酒を注いで飲みはじめた。


「この上洛は、義輝公より昨年来懇願されて決めたことであるが、関東一円からの出陣要請も多く、また甲斐の武田が北信濃にまで手を広げようとしており、その対応に手こずる日々が多いゆえ、上洛の手筈も間々ならぬこと。こたびを逃せばいつのことになるやも知れず、思い切って決心した次第」

「帝も将軍も今日の上洛をたいそうなお喜びようで待ちこがれておる様子。近頃には見られぬ喜びようである」

「左様でござる。弾正少弼殿が都におれば、それだけで百人力、いや千人力でござろう。まさに怖いものなしとはこの事じゃ」

と久秀は、盃を口元に近づけながら話し、そのあと一気に酒を飲みほした。

「この景虎が上洛の段に及んだのは、義輝公にお目どおりをいたし、大平の世に戻すことを約定する為、関東管領職を拝し、悪逆なる賊徒を退治せんが為である。余が将軍家に代わって平定せん!」

 思わず長慶と久秀の盃を持つ手が止まった。

「今、何と?関東管領職と?」

 長慶の盃がこころなしか小刻みに揺れていた。

「うむ、管領職にある許しを請おうと思っておる」

(この越後の虎は何を考えておるのだろう)

 長慶は無気味に思った。

「そうなれば願ってもないこと。関東管領職となれば名誉な職。義輝公もお喜びになり認可することでありましょう」

 景綱が少し身を乗り出し

「北条が武田と結び、関東に領地を求め諸豪族の城館を攻めておる。そのため、わが御舘に度々救援のご使者を出し、またそれに応えて、険しい峠を越えて遠征におよぶ次第。管領職となれば、諸豪族も統一してわが輩下に入り、北条と相戦うことができ申すというもの。これで関東も平穏な姿となり、義輝公も少しは枕を高くして眠れることでござる」

「大和守殿、われら将軍家とは和睦し、今は都を昔日のように活気ある美しき都にするのが夢でござれば、協力は惜しみませぬ。何事でも仰せくだされ」

久秀が口元をほころばせながら答えた。

「さあさ方々、長い旅路でさぞお疲れでしょう。飲んでゆくっくり休まれよ」

「長慶殿、久秀殿、ご歓待忝く存じます。ゆっくりと休み将軍とのご拝謁にそなえます」

 しばらくすると、景虎と側近は席をたち、本陣へと帰っていった。


 翌日、景虎は京に向け出立した。天文二十二年の時にも数多の献上品を持参したが、今回も将軍へ太刀や黄金、御母堂や他の公家衆にも献上品を持参しており、その財力は豊富であった。佐渡金山はまだ後世のことだし、越後国内の銀銀山での財と、青苧などの国内主産物からも相当の財源が確保されていたのである。

 四月二十六日都に入り、威厳を整えて翌二十七日将軍義輝に謁見した。

「長尾弾正少弼殿、ごちらにてお待ち申すように」

景虎は厳粛な面持ちで廊下を歩いて、御座所の入口で止まり、正座して伏した。将軍義輝が入ってきて着座した。

「弾正少弼か」

「はっ」

「遠い所、よう参られた。そこでは話が遠い。近うまいれ」

「ははっ」

 謙信は腰を上げ、中に入り再び座して

「将軍義輝公におかれましては、つつがなくお過ごしの御様子、祝着至極に存じます」

「弾正少弼殿の献上目録でございます」

景虎からの献上目録が眼前に披露された。

「心づくし、ありがたく頂戴いたす」

「こたびは、特に義輝公は免許皆伝の腕前と聞きおよびますれば、国宗を持参いたしました」


 義輝は目録を手に取り、うんうんと頷きながら、満足な微笑をうかべた。そして、目録を三方の上に置くと、

「弾正少弼、大事な話がある。もそっと近くに参れ」

「はっ」

と景虎は三尺ほど前に進んで近寄った。

「長慶と久秀に会うたか?」

「はい、坂本にて」

「あの二人をどう思う?」

「なかなかの切れ者とみました。長慶殿とは先に上洛にて面識もあれば、少し気が衰えたとも思われます。それにひきかえ、久秀は意気盛んにて、長慶殿にとって変わる要注意すべき人物とみました」

「余は細川をずっと頼みとして戦ってまいったが、あの二人にはどうしても勝てぬ。将軍といえども名のみで、実権はあやつらが握っておる。余が頼りにできる人物は、弾正少弼しか見当たらぬ。他の大名に頼んでも知らぬ顔をして、領地を空けるわけにはいかんと言いよる。それに比べたら、関東、信濃からの脅威にもかかわらず、余の訴えを聞いて上洛してくれたこと、そなたのような忠義な武士は古今東西をみても他にはおらぬ。そこを見込んで頼みがある」

「どのような?」

 景虎は、眼光するどく義輝を見つめていた。

「上杉憲政が越後に赴き、弾正少弼殿の世話になり、又関東管領の職務と上杉の姓を譲られたと聞く。みどもからも関東管領職を正式に授けたいと思う。関東を平定し、逆臣らを討伐して再度上洛して、昔日の都を取り戻したい」

「さような事でしたら願ってもないこと。管領職として思う存分の働きをして御覧にいれます。ただ、甲斐の武田が北信濃を狙っており、信濃衆の村上義清らの援もいたさねばなりませぬ。特に武田晴信はなかなかの戦上手のて、攻略するのはそう簡単にはできますまい。関東へは峠を越え道筋も遠く、長い遠征もかないません。三年ほどお待ちいただくことになるかと存知ます」

「うむ、三年か。(長いのう)だが、そちの事ゆえ、天のお味方もあり、きっと武田を駆逐いたし、関東も静かになるであろう。二年や三年あっというまに過ぎよう。その日が来るのを楽しみに待っておるぞ」

「必ずや」


 景虎は将軍義輝の言葉に感激し、きっと関東を平定して再び上洛し、将軍の力になろうと心に誓っていた。

 景虎は五月一日には正親町天皇に拝謁し、八月下旬まで都に滞在し、そのあと堺まで足を運んでいる。景虎が何故堺までいったのか。当時の自由経済都市『堺』を見て、彼なりの経済感覚に刺激を与えたであろう。また、景虎は都に滞在中、将軍義輝より鉄砲と「鉄放薬之方並調合次第」という秘伝書を授けられている。毘沙門天たる景虎にとって鉄砲は最強の武器となると閃いたであろう。その景虎は堺の経済と鉄砲の製造を見て、早速購入する意志を示したに違いない。

秋の声を聞く頃、景虎は京洛郊外に留めておいた軍勢と合流し。春日山城への帰途についた。毘沙門天が都にある間は、将軍家に何事もなく短い安穏な月日が過ぎた。


 帰国した十月二十八日、越後国諸将は太刀等を贈って上洛が成就したことを祝賀した。

その名簿と目録が「侍衆御太刀之次第」として残されている。

「直太刀之衆」「披露太刀之衆」「御馬廻年寄分之衆」に区別されている。

「直太刀之衆」とは、越ノ十郎殿(長尾景信)、桃井殿(有馬助)、三本寺殿(定長)の三名を指し、上杉一門又は一門に準ずる家柄である。それぞれ金覆輪を贈っている。「披露太刀之衆」は中条藤資、本庄繁長、同清七郎、石川重次、色部長真、千坂景親、長尾政景、斎藤朝信、毛利弥九郎、長尾藤景、柿崎景家、びわ島弥七郎、長尾源五郎、新発田長敦、甘糟長重等国衆が記されている。「御馬廻年寄分之衆」は若林、山村、諏訪等八人の名前がある。


 十一月十三日には、信濃より村上義清、高梨政頼からの使者が祝詞を述べ、永禄三年三月十五日には佐竹殿より太刀と金覆輪が贈られ、八カ国の衆として和田、三浦、宇都宮、結城など三十余名が連ねている。


 関東諸将にとって景虎は、敵対すれば完負までに叩かれ、味方とすれば最も頼れる存在の武将であった。しかし、彼らにとって、近隣に北条や武田が存在する以上、景虎ばかりに目を向けてはいられなかった。それゆえ、彼らのとった行動は、景虎来たらば景虎に、北条来たれば北条になびくしか生き残る道は考えられなかった。それがまた景虎にとっては癪にさわる道義であった。

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