第2話 誕生

 享禄三年正月二十一日春日山城で男子が誕生した。父は守護代長尾信濃守為景、母は同族栖吉すよし城城主長尾肥前守顕吉あきよしの娘である。幼名は虎千代と名付けられた。庚寅かのえとらの年であったからそのようにつけられたという。天文五年謙信七歳のとき城下林泉寺に入り、天室光育の元で英才教育を受けることになる。その修行たるや、当時の禅林では厳粛を極めていたといい、朝夕の勤行、行鉢の儀式、日常の座禅に励み、文字に対しても、儒者山崎専柳斎秀仙ひでのりを師として四書五経、老荘諸子の学の講義を聞き、歌道にも励んだ。この幼少からのものが、義篤き武将を育てることとなる。


 長尾氏の家系は、人皇五〇代桓武天皇に遡る。天皇の第四王子葛原かつらはら親王の孫にあたる高望たかもち王が平の姓を賜り、平氏が誕生する。高望王の曾孫にあたる景明は、相模国鎌倉郡長尾荘に居を構え、その子景弘の時に長尾姓を名乗り長尾次郎と改姓する。


 千葉、梶原、土肥、三浦、大庭、秩父、上総諸氏とともに関東八氏と称すほど勢力を拡大し、子孫繁栄と分流による関東諸国に居を広げていった。

 上野に居るを白井長尾、下野に居るを足利長尾、総社長尾、宇留窪うるくぼ長尾、上総に居るを佐貫さぬき長尾といい、其の他にも居を得るものもいた。いずれの長尾諸族も上杉家の被官にして、時として幕府の政権にも関与していた。


 上杉氏は、藤原氏の出と称する。藤原鎌足七世の孫勧修寺高藤から十代を経た重房の時丹波国上杉荘に移り住んでより、上杉とした。建長四年征夷大将軍宗尊親王に随行して鎌倉に下り、武家としてそのまま関東に地にとどまった。頼重、憲房の二代を経て、民部大輔憲顕に至り、足利尊氏を輔佐したことにより、尊氏の次子基氏が関東管領になると憲顕は執事に抜擢され、越後、上野、伊豆三国の守護に任ぜられ、上野平井城を根拠として、関東管領を輔佐して関東の民心の統治にあたった。


 上杉氏の分脈も多く憲顕の叔父重顕の裔は鎌倉扇ケ谷おうぎがやつに、兄憲藤の子朝房は同犬縣いぬがけに、憲顕自身は巨福呂こぶくろ坂を隔てた鎌倉と隣接した山内に居を構えたいた。憲方以後子孫は茲に住していたことから山内上杉家と呼ばれた。


 犬縣いぬがけの上杉氏が山内とともに鎌倉公方の管領であったが、犬縣家は衰退し、扇ケ谷が代わりに管領として両上杉氏と称され、鎌倉政権を支えたが、両家に争いがおこったことが原因で両上杉氏は衰退して行く。憲政の時には、北条氏康により鎌倉を追われ、平井の本拠も奪われ、越後に逃れるにいたったのである。

 景恒が越後に残り守護代となり、越後長尾家の初代となった。それから九代目となるのが、謙信の父為景である。為景は、生涯にわたり百度もの合戦をおこなったといわれる。戦国乱世の真っ只中である。戦いは主君に当る越後守護上杉房能とに始まる。何故主君房能に背いたか、越後守護とはいえ、関東管領上杉顕定の実弟として、鎌倉と近緊密な関係を持ち、兄の要請のままに出兵を繰り返したゆえ、越後国内の経済状況や国人層への負担は大きなもので不満は高まっていくのは当りまえだった。為景は反逆を企て、慎重な計画をたて、房能の養子定実を抱きこんで、反乱の兵を掲げた。反逆を察知した房能は一族側近らとともに、館を脱出して関東へ向かったが、為景らは追撃して、千曲川の手前天水越で捕捉し、もはや逃れられぬと観念した房能らは自刃し、一族は全員討死を遂げた。これで定実が幕府より守護として承認されたが、面白くないのは、上杉顕定であった。


 弟の復讐を遂げ越後を制圧しなければならないと、永正六年七月、顕定は養子憲房とともに八〇〇〇の兵を率いて、越後に攻め入った。大軍に襲われては討死は必定と定実と為景は、春日山や府中を放棄して越中に一旦逃れる策をとった。翌年四月時期を見て反撃に出た、為景は六月越後長森原で顕定の軍と衝突し、この戦いで顕定を討ち取った。憲房は関東に逃げ帰った。越後は平穏に戻ったかに見えたが、もともと南北に細長く小豪族が割拠する地域であり、為景に反旗を翻す豪族もいたのである。また、越中でも畠山氏と神保氏とが争い、そのたびに越中に出兵しなければならなかった。為景にとって戦乱に明け暮れた時代を生きてきた。為景は妻を迎え、嫡男道一が誕生し、越後の安泰を願うため、幕府や朝廷に贈り物をして、越後の守護としての実力を示そうとした。幕府からは、将軍足利義晴の一字をもらって、道一は晴景と名乗った。

 そして、享禄三年虎千代が誕生する。兄晴景とは一九の年の差があった。虎千代にとってみれば、晴景が長尾家の後継者であり、虎千代は兄を補佐するか他家に養子にいく可能性もあったが、晴景が病弱なところがあり、国人衆は虎千代が成人するにつれ、虎千代を後継者にしたいという願望が生まれてくるのは必然といえた。


 林泉寺に入った年に父為景が亡くなり、十三歳で元服した虎千代は景虎と名乗り、栃尾城主として入った。この時から景虎の武勇が発揮されはじめていった。 

 それから五年後、景虎は病弱な兄晴景にかわり、春日山城に入り、守護代として後継をとり、越後統一に向けて政務をとることになったのである。


 景虎は元服すると兄晴景にかわり、中越古志こし栃尾城とちおに入った。この地はどうしても、揚北衆の押さえとして必要な所であり、晴景としては自分より若さと元気溢れる弟を置く必要があった。


 二年後景虎は武勇の様を見せる時がやってきた。守護上杉氏に仕えてきた黒田氏と当主秀忠が、晴景に翻意を抱き、晴景の弟景康を殺害して逃亡したのである。


 秀忠は、定実の使者に対して謝罪恭順の意を示し、剃髪出家すると告げたが、翌年になって再び謀反をおこして蒲原郡黒滝城に篭城したのである。

上杉定実は怒り、晴景に黒田氏討伐の意を告げた。晴景は病弱ゆえに景虎にその役目を仰せ付けた。

「景虎、此度の役目は大事ゆえ、心して勤められよ。我長尾氏の命運がかかっておる。討伐できねば、越後は収まらぬ」

「はっ、兄上。この景虎、黒田秀忠の首必ず持参いたします」

景虎は栃尾城から手勢を率いて黒滝城を攻めた。黒田氏を救援するものはおらず、一方的な城攻めをおこない、秀忠以下一族郎党討死を遂げた。

この戦いの結果は、越後に変化をもたらした。景虎の武勇が広まり、小豪族たちは景虎のもとなら一緒に働きたいと願うようになってきたのである。当然、守護代の晴景から景虎への交代である。病弱な晴景のもとでは、越後は混乱すると誰もが思っていたからだ。


 天文十七年の十二月暮に、景虎は長尾氏の居城春日山城へ入り、兄に代わり守護代となった。これで越後統一は成立したかに見えたが、姉の嫁ぎ先である上田の長尾政景が服従せずに反乱を起すが、味方する上田衆が討たれ、どうすることもできない長尾政景は父とともに降伏を申し出でて、ついに越後は統一された。

これからが、長尾景虎の越後国主としての旅立ちであった。時に二二歳のことである。

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