第七章「事件の予感」

   

 俺たちの視線が、一枚の絵――赤羽あかばね夕子ゆうこの肖像画――に釘付けになったところで。

「御夕食の準備が出来ました。大食堂までお越しくださいませ」

 いるはずのない者の声が耳に入り、ビクッとしてしまう。

 女中の正田しょうだフミが、いつのまにか、俺たちの横に立っていたのだ。

「わあ、びっくりした。音もなく背後から忍び寄る……。フミさん、まるで忍者みたいだわ」

 と、大袈裟に驚いてみせる杉原すぎはら好恵よしえ

「駄目だよ、好恵ちゃん。忍者だなんて、そんな失礼な……」

「あら、そう? かっこいいじゃないの、忍者」

 阪木さかき正一しょういちに注意されても、杉原好恵はケロッとしている。

 大人である正田フミも、特に気にした様子はなく、笑って受け流していた。

「ほほほ……。むしろ光栄でございます。素早い行動を褒めていただいた、と思っておきますから」

 正田フミは、年齢としに似合わぬ機敏な動きを見せる女中だ。女将である蛇心へびごころ安江やすえに命じられて、彼女が俺たちの部屋の鍵を取ってきた時、俺はそう感じたものだった。それを改めて思い出す。

「では、行きましょうか。ちょうど話も終わったようですし」

 その場の面々を促すようにして、立ち上がる珠美たまみさん。

 確かに正田フミの出現は、絶妙なタイミングだった。もしかすると彼女は、もっと早くに近くへ来ていたにもかかわらず、蛇心江美子えみこが語り終わるのを待ってから、スッと姿を現したのかもしれない……。

 そんなことを思いながら、俺は大食堂へ向かうのだった。


 長いダイニングテーブルの片隅に座る、八人の男女。

 ちょうど半分が宿泊客で、残り半分は、この旅館の人々だ。ただし、女中の正田フミと使用人の大神おおがみ健助けんすけは同席しておらず、蛇心家の一族のみ。蛇心雄太郎ゆうたろう、安江、江美子の三人と、もう一人、初めて顔をあわせる人物が一緒だった。

 ゆったりとした黒い洋服を着た女性であり、年齢は八十歳にも九十歳にも見える。老婆にしては背が高く、肩幅もあるようだ。おちょぼ口で目は大きく、鼻も高いので、若い頃は美人と呼ばれていたかもしれない。だが、今では頬の肉がゴッソリと削げ落ちて、目の周りもくぼんでいるため、ギョロリと探るような目付きに思えた。

 その黒衣と相まって、俺の頭に『魔女』という言葉が浮かんでしまう。彼女こそが、かつての一家惨殺事件の生き残り。現在は御隠居様とも呼ばれる、蛇心美枝みえだった。

「よくぞおいでなさった。ようこそ『邪神城』へ」

 蛇心美枝は、しわがれ声で俺たちを迎える。あえて白蛇旅館はくじゃりょかんとは呼ばずに、忌むべき『邪神城』という名称を使うところが、いっそう不気味に感じられた。


 夕食の後、部屋に戻って。

「食事、かなり良いものでしたわね」

 それが珠美さんの第一声だった。

 彼女の言葉に、俺は正直に頷く。

「そうですね。なにしろ突然の宿泊ですから、どこまで歓待してもらえるのか、あまり期待していませんでしたが……。蓋を開けてみれば、素晴らしい料理の数々でした」

 品数が多いだけでなく、一品一品、丁寧に作られているように思えた。もちろん、味そのものも秀逸。

 俺だけでなく、裕福な家で生まれ育った珠美さんまで同じように感じたのであれば、本物だったということだ。

 しかし。

 料理の出来とは裏腹に、夕食の雰囲気は最悪に近いものだったかもしれない。

 そもそも蛇心家の人々と同席という時点で、旅館らしくないではないか。最初から、むしろ大富豪の晩餐会に呼ばれたかのような気分になってしまった。しかもゲストへの気配りが足らぬホストが開いた、あまり招かれたくないような、気まずい食事会だ。

 それでも一応、蛇心雄太郎と安江の二人は、旅館の主人と女将として、俺たちをもてなす努力をしていたようだ。たわいもない世間話を振ってくることもあったのだが……。

 問題は、黒衣の老女、蛇心美枝だった。重苦しい独特の雰囲気オーラを発しており、彼女がいるだけで、その場の会話が弾まなくなる感じ。会話の途中で発言主をギョロリと睨むこともあったくらいだから、食事中の会話は、あまり好まない性分なのだろう。「なるべくディナーは静かに!」というのが、彼女のテーブルマナーなのかもしれない。

 そんな中。

 物怖じしない杉原好恵は、果敢に質問をぶつけていた。

「ちょうど蛇心家の方々が揃っているから、聞いてみたいんだけど……。ここが『邪神城』なんて呼ばれるほど呪われた建物なら、なぜ皆さん、ここを使い続けてるの?」

 答えの代わりに、まずは蛇心美枝が、杉原好恵を一睨み。

 まるで蛇に睨まれた蛙、あるいは、ギリシャ神話の怪物メデューサに石化された人間のように、

「うっ……」

 小さく呻いて、杉原好恵は硬直してしまう。

 それから、わざわざ食事の手を止めて、蛇心美枝が言葉を返した。

「『邪神城』を出ることは、赤羽あかばね夕子ゆうこに屈することに他ならぬ。あの妖魔は、わしらを追い出して、この『邪神城』を乗っ取るつもりでおるからのう。そうはさせぬわ、フォッフォッフォッ……」

 薄気味悪い、悪役じみた笑い声。わざとらしく聞こえることもなく、これが不思議と似合うのが、蛇心美枝という老婆の纏う空気だった。

「気をつけなされ。『邪神城』に足を踏み入れた以上、おぬしらも既に、妖魔に目を付けられておるぞ。此度こたびの標的は、おぬしらやもしれぬ」

「おばあさま、お客様を恐がらせるようなことを言うのは……」

 蛇心安江が、老女の発言を取り繕おうとする。旅館の女将としての立場からだろうが、やはりギョロリと睨まれて、言葉を飲み込むのだった。


「ねえ、一郎いちろうさん。今晩だけでなく、しばらく泊めてもらいませんか?」

 夕食の感想は簡単に切り上げて、これからの行動について、少し話し合うことにした。

「先ほどの話、一郎さんも気になっているでしょう?」

 夕食前、蛇心江美子が語る中には「一週間前、十年ぶりに、あの妖魔は姿を現しました」という発言があった。

 また食事の席では、蛇心美枝が「此度こたびの標的は、おぬしらやもしれぬ」と脅してきた。

 珠美さんの『先ほどの話』が、どちらのつもりであれ。

 俺は頷くしかなかった。

「そうですね。赤羽夕子の亡霊が現れるのが凶事の前触れであり、最近また、その姿が目撃されている以上……」

「近々、何か事件が起きるのでしょうね」

 グッと顔を近づけて、珠美さんが俺の言葉を引き継いだ。


 誤解しないでほしい。

 俺も珠美さんも、野次馬根性で「事件が起こりそうだ」とワクワクしているわけではない。これは、俺たちの旅の目的に関わる話だった。

 蛇心雄太郎には「地方の寺や神社を参拝して回っている」という説明に留めておいたが、より詳しく言うならば、俺たちは『巡礼の旅』の途中。いや、まだ始まったばかりと言うべきだろうか。

 普通、巡礼といえば、宗教的な聖地を回ることに意味があるのかもしれない。だが俺たちの場合、そうではなく、あくまでも死者を弔うための旅だった。しかも、その『死者を弔う』方法に関しても、かなり特殊なものになっている。

 珠美さんと俺が知り合った、緋蒼村の事件。そこで失われた、十人の命。それらを弔う意味で、珠美さんが提案したのは……。

「旅の中で連続殺人事件を見つけ出し、事件を途中で止めることで、十人以上の命を救いましょう」

 十人が亡くなった代わりに十人を救う、という理屈。だからといって「連続殺人を止める」なんて話に限定する必要はないのかもしれないが、そんな回りくどい話になっているのは、珠美さんが俺のことを「素晴らしい素人探偵になれる素質がある」と思い込んでいるからだった。

 ただし。

 彼女が「名探偵になれる」と評価しているのは、厳密には俺ではない。あくまでも『日尾木ひびき一郎』という、この昭和の時代を生きてきた男の方だ。

 その『日尾木一郎』の肉体に、平成時代から来た俺という魂が入っていることを、彼女は知らない。その点、俺としては、騙すようで心苦しい気持ちもあるのだが……。

 これも何かの縁。「『日尾木一郎』のなすべきことを引き継ごう」と考えて、こうして俺は、珠美さんと一緒に旅をしているのだった。

 だから……。


「一郎さん。いよいよ、あなたの出番ですわ」

 今、いつになく真剣な目付きで、俺の顔を覗き込む彼女に対して。

「はい、珠美さん。精一杯、頑張ります。これから起こる事件を、私が解決して……。いや、それよりも、事件を未然に防いでみせましょう!」

 俺は、力強く宣言するのだった。

   

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