第六章「赤い妖魔の伝説(後編)」

   

 明治時代の惨劇。

 その言葉を聞いて、まず俺が思ったのは「遠い遠い昔の話だ」ということ。今この時代――昭和の一時期――から見ても『明治』は昔だろうが、元々が平成時代の人間である俺にしてみれば、昔どころか「むかしむかし」と感じてしまう。

 赤羽あかばね夕子ゆうこが引き起こしたという姦通事件も、時代によって、受け取り方が大きく違ってくるはずだ。

 昔の日本には、姦通罪というものが存在していたと聞く。今この時代ならば、不貞行為は道徳的な罪でしかないが、それこそ明治時代ならば、刑法で裁かれる対象だったのだろう。

 そして平成の世になると、この『不貞行為は道徳的な罪』という概念すら、少し薄れていく。「不倫は文化」などという浮気肯定の言葉が、まことしやかに囁かれるようになったのは、平成の初期だったと思う。

 もちろん、いくら平成時代の世界であっても、平然と不貞行為を働くのは芸能人とか、それを真似する一部の一般人のみ。まだ大部分の人々にとっては「浮気は良くないこと」という意識が強かったはず。

 そんなふうに、本題とは無縁な「時代の違い」にも想いを馳せながら。

 黙って俺は、話の続きに耳を傾けるのだった。


――――――――――――


 赤羽夕子による一家惨殺事件があっても蛇心へびごころ家が断絶せずに済んだのは、ちょうど蛇神様じゃしんさまの孫娘の一人が『邪神城』を離れていたからだ。

 美枝みえという名前の彼女は、当時、十六歳。病弱だったために、転地療養という名目で九州まで出かけており、難を逃れたのだった。

 彼女の傍らには、世話役として常に付き添う書生の存在があった。春日かすが良介りょうすけ、二十五歳。『邪神城』に舞い戻った二人は結婚して、新しい蛇心家の祖となった。

 これで、かつての栄光も蘇るかと思われたのだが……。

 残念ながら『邪神城』には、暗く重苦しい空気が纏わり付いたままだった。

「あのお屋敷には、邪神が取り憑いておる」

 という噂が流れ始めたのだ。


 発端は、赤羽夕子の姿が『邪神城』で目撃されるようになったこと。

 人知れず逃亡したはずの彼女が、のんびりと自室で過ごしている……。その様子が何度も、部屋の窓ガラス越しに確認されたのだ。

 問題の部屋は、事件の後に封印されていたが、四階にあるため、敷地内の庭から見上げても結構な距離。だから目撃談も間近からではなく、遠くから見たに過ぎなかったが、

「赤羽夕子に間違いない。特徴的な、血のように真っ赤なチャイナドレスを着ていたのだから」

 目撃者たちは口を揃えて、そう証言する。

 また、彼女の部屋とは別の場所でも、赤羽夕子の存在が屋敷内で感じられることがあった。そちらは姿こそ見えないものの、恨みがましい声が聞こえるのだという。

 そうした話が蓄積されるにつれて、新たな噂が生み出される。

「もしかしたら赤羽夕子は逃げたのではなく、まだ『邪神城』の中に潜伏しているのではないだろうか」

 村人を集めて、大がかりな捜索が行われることになった。春日良介あらため蛇心良介が先頭に立ち、屋敷内をくまなく探したが……。結局、何の痕跡も発見されなかった。

 それでも、窓ガラスに浮かぶ姿は目撃され続けた。頻度こそ減ったものの、何年経っても、何十年経っても。時を経ても当時と同じく、赤いチャイナドレスを着た若い女性の姿で。

 だから人々は噂する。

「やはり赤羽夕子は、邪神だったのだ。人間ではないから老いることもなく、いつまでも若い姿を保っていられるのだ。永遠に『邪神城』に取り憑いているのだ」

 そう。

 その名の通り『邪神城』には、今もなお、邪神が取り憑いているのだ……。


――――――――――――


 江美子えみこが語り終わると、その場に静寂が訪れる。

 重苦しい空気が漂う中。

 気後れすることなく、その静けさを破ったのは、杉原すぎはら好恵よしえだった。

「ずっと『赤羽夕子』って呼んでるけど……。彼女って、昔の蛇神様と結婚して、しかも正式に離婚する前に、事件を引き起こしたのでしょう? ならば、まだ名前は『蛇心夕子』のままじゃないの?」

 しかし江美子えみこは、これを毅然とした態度で否定する。再び、鬼のような形相を取り戻して。

「いいえ、それは違います。『まだ』も何も、最初から最後まで赤羽夕子です。私たちは誰も、あの妖魔を蛇心家の一員とは認めていませんから。この村で『蛇心夕子』と呼ぶ者なんて、一人もおりません!」

 語気を荒げる江美子を見ていると、急いで話題を変えた方が良いと感じるが……。

 俺が助け舟を出すよりも早く、杉原好恵の彼氏である阪木さかき正一しょういちが、きちんと話に割って入っていた。

「その赤羽夕子の姿が目撃されたという話、とても興味をそそられますね。邪神とか妖魔とか言っていますが、話を聞く限りでは、むしろ幽霊や亡霊に近いように思えるので……」

 面白いことを言う。

 邪神も妖魔も幽霊も亡霊も、どれも同じようなものではないか。一瞬そう思ってしまうが、あらためて考え直してみれば、確かに俺の感覚でも、そこには一応の差があった。

 邪神や妖魔は絶対に実在しない、フィクションの中の存在。一方、幽霊や亡霊は「見た!」と言い張る人が出てくる程度には「いても不思議ではない」という存在。

 このあたりの線引きは、阪木正一や杉原好恵――現代超常現象研究会オカルトサークルに所属する二人――にとっては、重要な問題なのかもしれない。

 いや、そもそも超常現象云々について言うのであれば、未来から憑依転生してきた俺の存在こそが、もう超常現象そのものと言えるのだろうが……。

 そう俺が考えている間にも、阪木正一は質問を続けていた。

「『何年経っても、何十年経っても』という話でしたが、一番最近では、いつ目撃されたのでしょうか?」


 ふっと江美子の表情が変わり、遠い目をし始める。

「妖魔が現れる度に、ひとつ、またひとつ。『邪神城』に不幸が訪れる……。そう言い伝えられています。例えば、私の姉である良枝よしえは、生まれたばかりで亡くなったそうですが、その際にも赤羽夕子が目撃されたという話です」

「……よしえ?」

 杉原が名前に反応するが、それには構わず、江美子は語り続けた。

「兄の大介だいすけが――彼は雄太郎ゆうたろうの父親ですが――、大東亜戦争で亡くなった時にも、赤羽夕子は何度か姿を現しました」

 これを聞いて、俺は心の中で「あっ!」と叫んでしまった。

 今の今まで、江美子を『蛇心江美子』ではなく『江美子』と表記してきたのだが……。それは、彼女も蛇心一族の者だという確信が持てないからだった。

 だって、そうだろう。こうして詳しく過去の伝説を語る態度を見れば、確かに江美子は蛇心家の生まれに思える。しかし正田しょうだフミの説明によれば、江美子は蛇心安江やすえの母親のはず。ならば雄太郎ではなく安江の方が蛇心家の血筋であり、彼は蛇心家に婿入りしたに過ぎない、ということになってしまう。

 蛇心雄太郎は自身のことを「現在の当主、つまり蛇神様」と紹介していたので、それだと婿養子でも『蛇神様』になれる、ということになるではないか。『蛇神様』という称号の由来を考えたら、それはそれで不自然な気がする……。

 そんなわけで、雄太郎が蛇心家に婿入りしたと考えても、逆に安江が嫁入りしたと考えても、どうにもスッキリしない感じだった。だが、その疑問も、今ようやく解けたのだ。

 なんのことはない。どちらがどちらという話ではなく、二人とも、生まれつき蛇心家の一員だったのだ。つまり、二人は従兄妹いとこ同士で結婚した、というわけだ。

 そして。

 このように、俺が頭の中で人間関係を整理している間に、蛇心江美子の話は先に進んでいた。


「十年前、父の良介が病死した際も、赤羽夕子の姿が、何度か目撃されました」

 ここで再び、俺は心の中で「あっ!」と叫んでしまう。

 とっくの昔に亡くなった人々の話だと思って聞いていたが、美枝と良介というのは、目の前にいる蛇心江美子の両親だったのか。確かに、彼らの年齢を計算してみれば、そういう関係になるのだろう。

「そして、一週間前。十年ぶりに、あの妖魔は姿を現しました」

 一週間前。

 思いのほか最近の話に、その場の人々が――俺も含めて――ハッとする。

 あらためて蛇心江美子に意識を向けると、いつのまにか彼女は、壁の方を眺めていた。たくさんの肖像画が並んだ、薄茶色の壁。その中の一枚を指差しながら、彼女は俺たちに告げる。

「昔と変わらず、あの絵と同じ姿で、四階の部屋の窓ガラスに映っていたのです」

 蛇心江美子の示す先に描かれているのは、真っ赤なチャイナドレスを着た、燃えるような赤毛の女だった。

 そう。

 最初に大広間を通った時、妙に印象に残った肖像画の女。彼女こそが、邪神とも妖魔とも呼ばれる、赤羽夕子その人だったのだ。

   

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