最終話 ヒーロー

 友達の出し物は、一言で言えば最高だった。


 私は、誰かの歌で、こんなにも感極まって涙を流したことがあるだろうか。テレ

ビに映るような大物のそれでさえも泣いたことなどなかったのに。






 「へえ、司会をやってたあなたも友達だったんだ!」


 前に知り合った男友達と女友達には、もう一人、大事な友達がいたみたいだ。


 「ああ、まあね。こんなにすごい二人と友達になれたのは嬉しいよ」


 彼は、卑屈の域に達するほど謙虚だった。


 年下の私にも。


 私の兄と、似ているようで似ていない。兄は、自己を殺す勢いで、空気を読みす

ぎるところがある。自分の属する組織をコントロールするために自分の情を干渉さ

せないような。


 相手からすれば、話しやすくて気持ちがいいのだろうけど。


 「あ、ごめん、そろそろ行くね! みんなすごくよかったし、兄に会える勇気を

もらった!」


 「すごくよかった、なんて年下が偉そうだな」


 男友達は笑った。


 「いちいち余計な口挟まないの、怪獣さん」


 またね、と小走りでその場を立ち去る。


 お父さん。


 今ようやく分かった。


 思念因子についての事情を、どうして『ヒーロー』じゃなくて『怪獣』に話そうと

思ったのか。


 見抜いていたのだろうか。『怪獣』の彼が、本当のヒーローだったことを。


 『怪獣』に、あの人たちに出会えてよかった。






 「なんで小川君がこんなところにいるのよ?」


 まだ起こってもいない結末を勝手に想像して涙を流す彼女は、どこか母に似ている

ような気がした。


 「いや、別に」


 体育館の倉庫。


 マットやボールなどが混在するこの倉庫の中は、いつ来ても独特な臭いが立ち込

める。


 「どうせ、ヒデ君はあの鮎川黒音といい感じだから付き合うんだよ!」


 「まだ、決まったわけじゃないじゃん。頑張ろうよ」


 俺は、いつものように他人を励ます。


 「そんなことないよ!」


 佳也子が否定した。


 「どうせ小川君は場の空気を上手くコントロールするために私のこと励ましてるん

でしょ!? いっつも調子の良いこと言って! 他人の気持ちなんて見えてないじゃ

ん!」


 悲しみに打たれると極端に心を閉ざし、物事を決めつけるところも母親そっくり

だった。


 「そんなことないよ」


 俺は、否定する。


 「思わせぶりなあいつにまんまと振り回された私が馬鹿だった…」


 「いい加減にしろよ」


 いつも他人を持ち上げる俺の口から、まさかこんな言葉が出てくるなんて思わな

かった。今は、ありのままに言ってみようと思えたので、そのまま続ける。


 「そうやってうじうじ考えたり、外見だけで他人を判断したり、嫌いな人間を恨

んだり、…自分の好きな人を悪く言う君のそういう部分が、俺は大嫌いだ!」


 こんなに声を張り上げたのは、何年ぶりだろうか。


 きっと家にまだ、妹と父がいて、苗字が母の旧姓に変わる前だろう。


 彼女は、驚いて、何も言わずにただこちらだけを見て、俺の次なる言葉を待って

いた。


 「でもっ!」


 しんとした倉庫に声を響かせながら、俺は覚悟を決めて彼女に伝える。


 「そういう君の感情むき出しなところが、大好きだ」


 今しかないと思ったから、思っていることを全部言ってやろう。


 「好きなものには好き、嫌いなものには嫌いと、誰かにはっきりと言ってしまえ

るところが、ありのままで、人間らしくて、俺にはないもので、すごく綺麗だと思

った。君のことは好きだけど、ヒデのことを好きでい続けるなら応援してやりたい

と、本気で思えた」


 佳也子はまだ、黙ったままだった。


 「もし俺に、チャンスがあるのなら…」


 拳を力強く握りしめる。ヒデと三田村の喧嘩を制するときは何ともなかったの

に、今では身体中が震えてしまっている。


 「お前の男になりたい」


 声は震わせずに言えた。


 「ヒデがだめだったから俺に来たのか、なんて絶対に思わない。むしろ、俺にはあってヒデにないものをたくさん与えたいと、思うから」


 突然、思い出すものがあった。




 「母さん、俺の方でごめん」


 「だから、俺に暴力振るうんだよね? 妹だったら、もっと可愛がれたのにね」


 「ごめんね、拓斗。ごめんね…」


 何度も頬を張られ唇から血を流した息子を抱きしめることなく、その場に跪き、

一人で泣きじゃくる母親。家庭を破壊したあの父親を、俺は何度恨んだことか。




 その姿を真似するかのように、目の前の佳也子は先ほどよりも泣き喚いた。






 私は、どちらかと言えば、直感は冴えている方だ。


 先ほど、立ち去った大きな体育館。ライブを終えてから人の気配を感じなくなって

もなお、まだ誰かがいるような気分になった。


 私がまだ、スマホはおろか携帯電話を持ったことのない年ごろに、兄とは離れて

しまったため、密な連絡など取れなかった。理由は分からないが、父から聞いた情

報で兄の学校を知ることが出来た。


 このまま、会えないままだったらどうしよう。


 本当は、別の学校にいたらどうしよう。


 「母さんは、俺が見るから」


 「お前は、父さんと科学を勉強したいんだろ?」


 「千里だけは、あんたと一緒に住まわせろ。あんたにはその義務がある」


 兄がくれた親切。


 その胸中の涙を見抜くことが出来ずに、素直に受け取ってしまった幼く愚かな

妹。


 そんな兄が、今になってもなお私に会いたいと思うだろうか。今更なんだ、と言

われるだろうか。


 足が竦む。


 まだ、本人にも会えていないのに。


 それでも私は、会いたい。


 兄に、会いたい。


 その時。


 何人も着用している学ランから、見覚えのある顔が見えた。


 五年越しに見る顔は、大きく変わってはいるものの、妹のごっこ遊びにいつも嫌

な顔一つしない、あの優しかった眼差しを、私は覚えていた。


 「お兄ちゃん!」


 私は声をかけた。


 振り向いた彼に、私は確信した。


 あの日の、優しかった兄と、きっと何も変わらない、と。


 成長しても、私のお兄ちゃんだ。


 「ち…、千里…なのか…?」


 五年前はまだ小学三年生だった私の顔を、彼が覚えているのか定かではなかった

が、それでもいい。


 覚えてもらっていなくても、再会できたことに、今は満足だ。


 「うん! 久しぶり!」


 九月の風が、残暑の切なさを纏いながら私たちを横切った。



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