あたまにひびく

稲荷 古丹

あたまにひびく

 朝、崎山課長は大変ご機嫌な様子で私の席に近づき、

「石海君、この前のヤツ纏まってるかい?」

 と、にこやかな顔で私を見下ろした。

 はて何であったかと眉根を寄せてから「あっ」と小さく叫んだ。


「その様子だと忘れてたね?」

 四十そこそこのはずの課長の顔に少年のような笑みが広がる。

 三日前に課長と共に参加した懇談会の報告書の作成を途中で投げていたことを思い出した私は慌てて立ち上がって頭を下げた。


「すみません!すぐに取り掛かりますので」

「いやいや、急かしてる訳じゃないよ。そんなに重要なものでも無いし。ただ一応提出はしなきゃいけないから暇な時に仕上げておいてね」

 声には出さなかったが私は内心とても驚いていた。


 崎山課長は何かとイライラしていることが多く、小さなミスでも分かろうものなら溜息と皮肉をたっぷり交じえてこちらに釘を刺してきたものだ。

 それがどうしたことか最近は随分と寛大になったと専らの噂だったが実際にミスを犯したというのに随分と対応が柔らかくなっている。

 見れば随分と機嫌も良く元気が有り余っているようにすら感じる。その理由は何となく察しているが。

 私は恐る恐る課長に尋ねてみた。


「それにしても課長は最近随分と元気になられたように見えます」

「実は私もそう思う。自信が付いたというか、若々しくなったというか。いや髪の毛一つで変わるものだねまったく」

「髪の毛ですか?」


 やはりそうだった。

 崎山課長と言えば、まず目につくのがまるで漫画のような頭頂部から額にかけての無毛地帯だった。オヤジハゲのお手本のような髪型がいつの頃から黒々とした髪の毛に覆われ遂にはどこからも頭皮が見えない程黒々とした頭になっていたのだ。


「自分じゃ全体は見えないが、中々良い感じに生え揃ってるんじゃないか?」

 それを聞いて私はまた驚いた。

「てっきり植毛かカツラだとばっかり…あ、いえ何でもありません」

「ははは、誰だってそう思うさ。ところがこの通り正真正銘の地毛だよ」

 そう言って課長はぐいぐいと髪を引っ張って見せた。


「羨ましい限りです。私も最近額が広くなったというか生え際が後退してきておりまして。一体どんなことをなさったんです?」

「育毛剤だよ。ただし、市販のものとはちょっと違うがね」


 得意げに笑う課長はポケットからエメラルド色をした小さなスプレーを取り出して見せた。スプレーには飾り気のない書体で『月下神樹』と書かれている。

「何ですかこりゃ?」

「大きな声では言えないがな。まだ一般には知れ渡っていない優れモノなんだ」


 そう言って課長は携帯端末を取り出し、とあるホームページを見せてくれた。

 画面の中で爽やかな森林を背景に艶やかなロングの黒髪をなびかせた若い女性がスプレーを手に微笑んでいる。

「ここだけで取り扱ってる商品でね。この前の休みの日にたまたま出先で見つけたのさ」

 

 課長の話はこうだ。

 その日は家族にせがまれてオーガニック商品を扱う展示会を見に行ったが自然素材の化粧水などに夢中になる妻や娘とは逆に特に見たいものもなく、せいぜい新規の取引先でも見つかればいいかと適当にブースを見物して回っていたそうだ。

 やがて個人営業店の出展ブースが立ち並ぶコーナーに立ち寄った際に、若い女性に呼び止められたらしい。


「突然すみません。大変失礼なお申し出かもしれませんが、ぜひ貴方にウチの商品を使っていただけないかと思いまして」

 そう言って彼女が紹介してきたのが、件のスプレーだったそうだ。

 何でも、さる南西諸島で神を呼ぶ薬草として重宝されてきた植物のエキスから作り上げたもので、この草のお蔭で島には一人もハゲがいないらしい。


 当然、課長はそんな胡散臭すぎるものに手を出す気にはなれなかったが効果が出ようが出まいが無料だからと試供品とホームページのアドレスの載った名刺を手渡され、半信半疑ながらも付けてみたらしい。


「すると結果はこの通り!いや世の中にはまだまだ凄いものが眠っているものだね」

 すぐさまサイトで商品を購入し今ではこれ無しでは考えられないレベルでお世話になっているそうだ。


「俄かには信じ難いです。まだ怪しい気がしますよ」

「その気持ちはよく分かる。実際私もそう思うんだが、これ以外は何にもしていないんだ。食生活も変えていないし他の育毛剤だって一切使ってやしない。それでこの効果なんだから、こりゃ本物だよ。どうだ、良ければ少し使ってみるかい?」

「いいんですか?」

「同じ悩みを持つ者の好みというやつさ。それに、いずれ上の方に企画書を提出して、ここと業務提携を結んでみようかと考えているんだ。体験者が多ければ話も通しやすくなる」

「そういうことでしたか。でしたら断る理由はありません、ぜひ」


 早速課長からスプレーを借り受けると手鏡で生え際の下がった額を確認し一吹きした。少しひんやりした感覚を覚え霧状の液体が『じわり』と頭皮に染み込んでいく感覚を覚える。

「どれくらいで効果が?」

「こいつは即効性だから、すぐに実感できるはずさ。ああ、そうだ今日一日貸してやるからシャンプーした後、寝る前にもう一回やっておくといいぞ」


 課長の言葉を私は半ば受け流すように笑い、その日の夜は取りあえず言われた通りにやってみた。ところが次の日の朝、洗面台で額を確認した私は仰天した。

 それまでつるつるだったはずの部分には既に産毛が生えていたのだ。いてもたってもいられず私は一目散に身支度を終え電車に飛び乗り会社に駆け込むと、課長のデスクに半ば突進するような勢いで飛びついた。


「課長!ご覧下さい!」

 課長は興奮気味の私の様子にも慌てることなく品定めするように私の頭を一瞥し、

「お、早速か。やはり本物だな。こりゃすぐにでも提携の話を纏めておいた方が良いかもな」

 と満足げに頷いた。


「何か必要なことがありましたら手伝いますよ。良いものを紹介してくれたお礼です。交渉の際にもついて行きますよ」

「随分乗り気だな。しかし向こうも結構忙しいと思うぞ」


 そう言って課長は携帯端末を私に見せると例のホームページに『お詫び』と大きな見出しが出ており、余りの人気の為に生産数が追い付かず一時販売を休止するという旨が書かれてあった。


「ええ!そんなぁ」

「個人営業だろうし、仕方ないさ。だがこの機に乗じて流通や生産の拡大を考え始めてるかもしれん。企画を通すならやはり今すぐが良いだろうな」

「もう少し効果を実感したかったのですが」

「心配するな。俺はもう少しで満足するところまでいくから、余った分は譲ってやるよ」

「本当ですか!そりゃ有難い」

「その代わり、交渉とか企画書作成はしっかり手伝ってもらうからな?」

「そりゃもう任せておいて下さいよ」


 私は胸を張って課長に約束すると、早速自分のデスクへ戻って仕事へ取りかかった。その日は馬鹿みたいに業務がはかどりいつもなら眠くて仕方がないはずの午後でさえ眼が冴えて生き生きとした気持ちで過ごせた。

 課長の言うように髪の毛一つで人間とは大きく変わるものである。あるいは人間が変わる理由なんてそんな小さなことで良いという事なのかもしれない。


 その日の夜も就寝前に額にスプレーを一吹きした。まだ中身は半分以上残っているが一日に一吹きが目安だと言うので逸る気持ちはあるが我慢しなければならない。

「焦るな焦るな。いくら即効性があるとはいえ、一日一歩。楽しみはゆっくり味わわないとな」

 高揚を抑えつつスプレーをベッド脇の机に置いて布団に入り、徐々に意識が落ちかけた頃、


 ―しゅる―しゅる―しゅる―


 微かだが額にくすぐったさを覚えた。痒いというよりも皮膚の表面を何かが這っているような奇妙な感覚に眠気が覚めた私は読書灯を付けて手鏡を覗き込んだ。

 別段変わった所は見られなかったし違和感も消えていたがスプレーを拭いた部位が気になって触ってみた。

 短い毛特有のざらざらと指に引っかかるような硬めの感触が返ってくるだけで特に何も変わったことはなかった。


「何だろう、かぶれたのかな?」

 首を傾げつつも私は灯を消して布団に潜り込んだ。

 翌日起きて確認してみたが、やはりこれといって不審な点は見られず昨夜よりも新しい髪の毛が存在感を増してきたことに寧ろ気分が高まった。


 それから数日が過ぎて、侘しかった額に十代の頃を思い出させる活気が息づいてきた頃、私は課長と業務提携の件についての話し合いを会議室で進めていた。


「―それでですね課長。あ、髪の毛に虫が!」

 私の目の前に座っている課長の頭頂付近を掃って虫を追い払ったが課長は身じろぎも返事もせず、机の資料すら見ておらず視線は中空を漂っていた。

「あの、課長?」

「あ、ああ、うん」


 私の訝しげな声に初めて気づいたと言わんばかりの慌てぶりで課長はいそいそと用意した資料の紙束を拾い始めた。

「どうしたんです?最近ぼんやりし過ぎですよ?」

「そうかな?うーん、風邪でも引いたかな?最近ちょっと頑張り過ぎてるとこあったからね」

「気持ちが若々しくなっているのは分かりますけれど、体の方はそうもいかないんですからちゃんと養生して下さいよ?じゃ、続けます」


 その後も会議は続いたが課長は幾度となく意識が遠のいたかのようにぼんやりするばかりで話し合いはまったくと言っていい程進まなかった。

 仕方なく会議室から出ていこうとして一度振り返った時、私はぎょっとした。


 課長は生気の無い目で天井を見つめ、だらりと口を半開きにし涎を垂らしていた。

 急いで他の社員に応援を頼んで課長を担ごうとしたが、そこでようやく課長は正気を取り戻し、大丈夫だとかぶりを振ったが同僚達や上司の勧めもあってその日は早退してもらうことにした。



 ―しゅるしゅる―しゅるしゅる―しゅるしゅる―


 額を何かが這いずっている。

 海中を漂う藻の触感に似た心地の良いこそばゆさが撫でまわして掻き回していく。優しく静かに皮膚をこじ開けて入り込み熱を吸い取っていく。

 

 ―しゅるしゅる―しゅるしゅる―しゅるしゅる―


 おいでおいで。

 声が近づいてくる。

 それが何なのか考える力すらも霧散していく。

 ただ従えばいい。声のする方へ行けばいい。

 ―月の下で皆が待っている―



 私は飛び起きた。

 ここ数日同じ夢ばかり見る。悪夢か吉夢か、もしくは現実なのか夢なのかすら定かではない。頭が自分の意思とは無関係に左右にブレて焦点が合わない。

 額が痒い。夢とは真逆で熱を帯びて締め付けてくるかのように苦しい。


 喉がカラカラに渇いている。ベッドから抜け出し冷蔵庫を開けると、飲みかけていた一リットルペットボトル入り炭酸飲料を直に飲み下した。強烈な刺激に二、三度咳き込んだが、頭のブレは消えてくれた。痒みも次第に収まってくれたがそれでもジンジンとした鼓動のような鈍痛は残っていた。


 ペットボトルを冷蔵庫に戻しベッドに向かうと、脇に置いたスプレーを手に取った。夜だというのにエメラルド色のどろりとした中身が嫌にはっきりと認識できた。

「これだ、これを付け始めてから妙な夢ばかり見る。それにこの痒み。やっぱり何か良くないものでも入ってるんじゃないのか?」


 昼間の課長の異常事態も無関係とは思えなくなってきた。業務提携については考え直した方がいいのではないか。


 ―月の下で皆が待っている―


 月、スプレーに書かれた『月下神樹』の無機質な文字がまるで何かの生き物のように歪んで見えて少しだけ嫌な気持ちになりつつ私は窓辺に立ってカーテンを開けた。

 雲一つない空にポツンと満月が浮かんでいる。まるでこちらを監視しているかのように思えてすぐに視線を落とした。


「馬鹿馬鹿しい。月が何でいうんだ、ん?」

 見下ろした先には奇妙な光景が広がっていた。

 外灯に照らされた薄明るい道路をおぼつかない足取りで人々が歩いている。単なる酔っ払いかと思ったがそれにしては数が多過ぎるし、よく見ると寝間着姿で裸足のまま歩いている人が殆どだ。

「こんな夜中にどうしたんだ?」

 皆、ゆっくりとした動きだがバラバラになることはなくどこか一つの場所を目指して進んでいるようだった。


 ―月の下で皆が待っている―


 幻聴か。夢の中で聞いた声が頭の中で繰り返し木霊している。額の痒みがまたジンジンと熱を帯び始めた。

「呼んでいる、何か分らないが俺も呼ばれている」


 抗い難い誘惑に誘われるかのように私はスプレーを握ったまま外へ飛び出し『彼ら』の列に加わった。ただ私の足取りははっきりしており、どんどんと彼らを追い越し行き先へ進んでいく。道中、私は何人かに声をかけてみた。


「あなたも声に呼ばれたのですか」

 反応は皆無で皆一様に焦点の合わない目を見開き、口をだらりと開けて、まるで昼間の課長のような顔で歩き続けていた。

「正気なのは俺だけか。いや、頭の中に声が聞こえるなんて正気なのかどうか」


 やがて列は様々な方向からやってきた別の列と混ざり合い徐々に大きなものとなり、その内彼らの最終目的地であろう運動公園に辿り着いた。


 そこは近隣でもかなり大きめの場所で遊具は一切ない砂地だけが広がる空間なのだが、その中心に無数の人間達が集まり固まっていく光景はどこかおぞましい。

 私は運動場の端に等間隔で植えられている街路樹の影に隠れてその様子を窺っていたが、公園の中央までは外灯の光が届かず彼らが何をしているのか分からない。

 月は相変わらず中天に輝いているがそれも光源としては役立たずだ。


「こんなに大勢の人達が一体何をしようとしているんだ」

 集まっていく人々の列を見ながら独り言ちていた時、私は目を見開いた。群衆の中に見知った顔があったからだ。


「課長!」

 思わず叫んだ私の声にも反応せず課長は、あの死人ような顔つきのまま他の人々と同じように公園の中央に向かっていく。と、その中に奇妙な人間が目についた。


 誰もが一つの場所を目指す中で動かずにじっとこちらを見続けている女。

 長く艶やかな美しい黒髪の女性が遠くからでも分かる程の笑みを浮かべている。

 私は彼女に見覚えがあった。

「ホームページの、写真の女!」


 女は空を掴むように腕を掲げて月を指さした。

 その瞬間、私の額にドリルで抉るような凄まじい痛みが走った。

「ぐあああっ!い、痛い!」

 立っていられなくなり地面に転がりながら私は額を掻き毟った。痛みは益々強くなりギシギシと頭蓋骨を砕かんばかりの衝撃に私は涙を流して叫び続けた。


「やめろ!やめてくれ!」

 額の毛を掴むとぶちぶちと簡単に抜け落ちたと同時に痛みが抜けたような感覚を覚え、私は無我夢中で額の髪の毛を抜き去った。

 痛みが消え去り息も絶え絶えの私は衝撃に疲労困憊の頭を何とかもたげて起き上がった。辺りには抜き去ったばかりの髪の毛が、まるで陸揚げされた魚の様に―


「う、動いてる!?」

 まるで一本一本が何かを求めるかのようにびちびちと跳ねては力尽きたかのように動かなくなっていく。

「これは髪の毛じゃない!生きているのか!?」

「何だ、やっぱりお前は正気なのかい」

 後ろから描けられた声に飛び上がる程驚いた私は振り返り後ずさった。すぐ近くに、あの女がいた。


「アンタ一体誰なんだ!これは何なんだ!」

 女は質問には答えず地面に落ちた私の髪の毛だった『モノ』を手に取ると心底つまらなそうに嘆息して投げ捨てた。

「たいして根付かなかったのか。もう少し豪快に塗ってくれてないとねぇ」

「根付く?一体何を」

 言いかけて公園の中央を目指す課長の後ろ姿が目に映った。

「課長!課長しっかりして下さい!」

 課長は私の声に反応する事もなく群衆の闇に融けていった。


「無駄よ。ここにいる誰も彼も脳みそはもう吸われつくしてカラカラに干乾びちゃってるわ。あの体はもう月下神樹の苗木そのものよ」

「そんなバカな!」

「馬鹿な奴ら。ちょっと見栄えを良くしたいからって、簡単に自分の頭に毎日せっせと種を植え付けてくれるんだからね。」


 女の高笑いに私は凍り付いた。

 何もかも分からないが、あれは育毛剤などではなく寄生植物とでも言うべき代物だったのだ。課長の頭一面に生えていたのは髪の毛ではなく植物!それが頭蓋骨を割り脳髄を啜り成長し続けていたのだ。


「一体何をする気なんだ!」

「あらホームページをよく読んでないのね?これは元々神を呼ぶ薬草なのよ。その為に多くの人柱が必要になるってとこまでは明記してなかったけれどね」

 女は興奮を抑えきれない様子で月を見上げる。

「さあ神のお出ましよ!」


 彼女の声に反応するかのように公園中央の群衆達が手を掲げ始めた。否、それは手ではなかった。

 髪の毛だ。

 髪の毛が異常に伸び上がり、絡み合い、混じり合い大きな樹へと成長していく。まだ中央に到達していない人間の髪の毛も異常な速度で伸び上がり、その下で人々が次々に干からびてミイラになっていく。


 私はもう声をあげられない程の恐怖を覚えた。もはや脳だけではなく体中のありとあらゆる生命力が養分として吸われているのだ。


 ―しゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅるしゅる―


 あっという間に公園の中央に巨大な十数メートルはあろうかという樹木が無数のミイラを押しつぶして出現した。月に照らされたグロテスクな樹は、どくんどくんと幹や枝を躍動させ倍速カメラでも見ているかのような速度で真っ赤な花をつけ始めた。

「あははは!やったわ!遂に私は神を降臨させることが出来た!」

 放心状態の私など目もくれず女は高らかな勝利宣言を上げて月下神樹に近づく。

「さあ月下神樹よ!私に神の英知を―」


 ―ぶぶぶ―


 微かだが私は何か空気が震えるようなヘリコプターのローター音に似た奇妙な響きを耳にした。


 ―ぶぶぶぶ―ぶぶぶ―


 それは一つではなく複数の音が重なり合い段々と大きくなっていく。


 ―ぶぶぶぶおん!―


 背後から大気が一息に駆け抜けていく音がしたかと思った時、何かが『どさっ』と樹に落ちた。


「な―っ」

 余裕を見せていた女の動きが止まった。

 それは蜂だった。

 人間よりもずっと大きな、毒々しい黄色と黒の模様に彩られた巨躯の蜂が口吻を伸ばし花の蜜を吸い始めた。さらにどさっ、どさっ、と次々と同じような蜂が月下神樹に取り付き始め一斉に花に食らいつく。

 樹は身じろぎする様に躍動を強めていくが徐々にその動きが小さくなり花も次第にしおれていく。


「何をするの!やめなさい!神の恩恵をあずかるのはこの私よ!」

 焦った女が樹に向かい走っていくが蜂達はお構いなしに蜜を貪っては花を枯らし飛び回って次の花に向かっていく。その内の一匹に女がぶつかり「ぎゃ」と短い悲鳴を上げて彼女が私の目の前に転がって来た。


「うぐぐ」

 全身砂と血に塗れた女がぎろりと私を睨んだ。

「ひっ」

「時間が無い!お前も早く養分になれ!時間を稼ぐんだ!」

 女が仰向けの私に掴みかかって来た。振り払おうにも恐怖で力が入らない。咄嗟に私は持ってきたスプレーを押してしまった。


「ぎゃっ!?うごごぼ!」

 噴射された内容物は女の口の中へ飛び込み、たまらず女は仰け反って咳き込んだ。

「ぎっ、ぎざま!よぐも!?もっ、もっ、おごっおががががあがが!!!」

 女の体が一瞬痙攣し喉の辺りを掻き毟り始めると口の中からおびただしい量の月下神樹の蔦が飛び出した。獣のような悲鳴を上げる女の体の内外を蔦が蝕んでいったと同時に女は目の前から瞬時に消えた。

 飛んできた蜂が月下神樹の苗となった彼女の体をついばみ、再びどこかへ飛び去って行った。


 私は仰向けのまま動けなかった。

 やがてどれくらい時間が経ったのか、あるいは一分もかからなかったのか分からないが月下神樹は完全に萎み枯れ果て、蜂達は霧が晴れるかのように―ぶぶぶ―と羽音を鳴らしながら飛び去って行く。

 彼らの口から花の蜜らしき大きな雫が垂れ落ちて地面に大きな水溜りを作ってはすぐに乾いていく。

 ふと、私の上にも雫が落ちて来て避ける間もなく蜜が激突し、弾け、私は強烈な甘ったるい匂いに耐え切れず意識を手放した。




 翌朝。

 気絶した私は公園の掃除をしに来たおじさんに揺り起こされ、意識を取り戻した。

 辺りを見渡したが蜂の痕跡はおろか、あれだけ巨大に生い茂っていた月下神樹の影も形も消え去っており無数のミイラも来ていた服すらきれいさっぱり消えていた。

 悪い夢だったのかとフラフラと立ち上がり、おじさんに礼を言い私は自宅に帰った。


「それにしても何かアンタ甘い良い匂いがするね。どんな酒を飲んだんだい?」

 おじさんの声もどこか遠い夢のようなものに感じられた。


 しかし紛れもない現実であったことは確かだ。

 課長はその日から行方不明になり、件のホームページはいつの間にか存在自体が消えてしまった。手元には作りかけの業務提携用の資料が残っていたが構わずシュレッダーにかけて捨てた。


 課長がもうこの世の何処にもおらず戻ってこないことは私だけが知っている。しかし言った所で誰が信じるというのだろう。奥さんと娘さんは死ぬまで帰ってくることのない課長を待ち続ける事になるのは心苦しいが、私もこの身に起きた事実を受け入れようとすることで精いっぱいなのだ。


 あの日から数日たった私の体は必要以上に若々しくなった。引っこ抜いたはずの髪の毛が元に戻り痒みも変な夢も見ることは無く、悪かったはずの目や肩や腰も健康そのものになり力も強くなった。


 あの蜜、甘ったるい月下神樹の蜜のせいだと私は思う。

 女は月下神樹を神だと言ったが本当の神は、あの蜂達で奴らの文字通りの『おこぼれ』にあずかることが神の英知とやらを手に入れる手段だったのではないか。

 今となっては何も知る術はない。


 それにしても私の体から甘ったるい匂いが取れない。

 何度も何度も毎日シャワーを浴びているというのに私の体の内側から甘ったるい気が遠くなりそうな香りが湧いて出てくる。


 人ごみの中を歩いているとよく人にぶつかる。皆、私に寄ってきている。匂いに誘われる蜂のように寄ってきては私に触れようとする。


 ―ぶぶぶ―ぶぶぶ―


 街の騒音に混じってあの羽音が頭に響く。

 幻聴なのか現実なのか。

 ああ、もうすぐ満月だ。お願いだ。

 もう誰も私に近づかないでくれ。


 ―ぶぶぶ―ぶぶぶ―

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あたまにひびく 稲荷 古丹 @Kotan_Inary

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