画餅

空 凡夫

第1話 「画餅」

「画餅」


私が古くから知るこの女性(富士子)は、若い頃は美貌の持ち主だったであろう面影をよどんだ目元にわずかに残しながら、白髪交じりの荒れた髪を束ね直した。

窓外の並木を揺する風音の他この世から全て消えてしまったかの冬の夜半、出がらしの薄い3杯目のコーヒーをすすりながら、その人は消え入るような小さな声で、誰も座っていない椅子の方に目をやりながら、ポツリまたポツリと語り始めた。

富士子の母親は昨年他界し、父親も二十数年前に既に他界している。母親は、父親である正直の波乱万丈の半生を共に生きて、相当稀有で過酷な苦労を重ねてきたと思えるのだが、当の本人は、その最も困窮極まった数年間が、自分にとって一番生き甲斐を感じて幸せな時期であったと、臨終も迫ってからしみじみ回想して語ったという。



「正直」


正直は、昭和九年に三重県鳥羽郡安楽島(あらしま)町に住む武田正太郎の六男坊として生まれた。

武田家は、清和源氏の流れを汲む武家の子孫として二十五代続いており、正直は二十六代目だと教えられていた。清和源氏とは、源氏の中でも最も有名な氏族を輩出した系統で、源頼朝・足利尊氏・武田信玄・今川義元・明智光秀など、歴史に名を遺した武将を輩出していると言われる。

正直の生まれ故郷の安楽島町という所は、現在は鳥羽市に属す。鳥羽水族館や伊勢湾フェリーの鳥羽港などが近くに在り、鳥羽や伊勢を観光する拠点の一つとして、簡保の宿などの観光旅館が散在している。

また、安楽島町には、「第六十震洋隊基地」という太平洋戦争の遺構があり、地下壕跡が残っている。戦時中はこの基地に、ベニヤ製の水上特攻兵器「震洋」が配備されていた。

正直の父親の正太郎は、学業には優れていたと言われ、大学への進学を熱望していた。しかし、武田家の長男として家督相続のために地元から離れる事を許されず、進学を断念せざるを得なかったため、半ば自暴自棄になって若い頃から放蕩の限りを尽した。田舎では噂になる「妾」を囲ったり、頻繁に上京しては銀座などで豪遊していたという。

正直が娘の命名について、父親の正太郎に意見を求めた際に、自分の孫になるにも関わらず、正太郎は「富士子」などと古めかしい名前を提案した。後になって判った事だが、富士子というのは、正太郎がお気に入りで通った銀座のクラブママの名であった。

「わしの放蕩三昧の悪癖を封じる手段として、親がわしを強制的に結婚させた」と正太郎は嘯いていた。志摩郡加茂村から安楽島の正太郎のもとに嫁がされた正直の母親ろくは、それほど遠方でもない実家にたまに帰郷することも許されず「人身御供」にされた様なものだった。

正太郎は妻に冷淡で、悪態をつくばかりだった。大人しい控え目な性格のろくは、正太郎の亭主関白に耐え忍ぶ暮らしで、女中奉公に来たのも同然の実に気の毒な女性であった。

安楽島にもほど近い明野には戦前から陸軍の飛行学校もあり、この周辺には工場や軍事関連の施設が多く、これらを狙って米軍の艦載機が頻繁に飛来するのが見られた。

太平洋戦争も末期、「撃ちてしやまん」の決戦標語の下、狂気の本土決戦が叫ばれた。昭和二十年六月には、伊勢湾や志布志湾など実際に連合国軍の上陸が想定される地域に、特攻の任務を請けた部隊が配置され、上陸に備えた訓練が実施されるようになった。

決死の水際作戦などという無謀な「特攻」に呼応して、伊勢湾周辺には俄か召集された年若い少年兵が多く集結していた。

心優しいろくは、加茂村の実家に一人残した自分の母親を不憫に思う気持ちを集結した少年兵達に託して、自分の子供の様に慈しんだ。戦時中でも、田舎である安楽島には、魚介類を始め畑作物などの食べ物はまだ豊富にあった。ろくは、兵隊に炊き出しや弁当を提供して励ます事で、正太郎に代わって「銃後の勤め」に勤しんでいたのだ。

自分の女房の悪口しか言わず薄情だった正太郎だが、正直や正治を含めて七男三女という十人もの子供をろくとの間に儲けた。正直は七番目に生まれ、八番目が弟の正治、兄が五人、姉が一人、妹が二人。正直の一つ上の兄と末の子は幼くして亡くなった。

正直の姉は小百合と言った。十代から白血病を患っていたので生涯独身であった。若い頃から身体は病に侵されつつあったが、心臓と胃腸が丈夫で六十歳まで存命した。屋内は歩ける状態だったので入院はせず実家に住んでいた。正太郎は自分の娘にも薄情で、小百合を疫病神の様に疎んじていた。そういう経緯もあって、正直が自分の屋敷を建てて正太郎から独立してからは、正直が姉の小百合を引き受けて二階に居候させていた。

妹は俊子と敏江と言った。親の厄介になっていた時も、独立して近くの借家に住む様になってからも、正直の屋敷を実家の様に思って、全く気兼ねをせず頻繁に出入りしていた。

正直は長男でもなく五人も兄が居りながら、正太郎からの「厄介」払いで、姉小百合の面倒を見る事を押し付けられていた。文句一つ言わずに、病気の姉を引き受けた訳で、「義理堅くて損な性分だ」と言われる所以である。正直は、良くも悪くも寛容な人間で、当時は意に介さなかったが、正直の屋敷には、姉と妹という口煩い小姑が三人も居た訳だ。

「御前は、小学校低学年の頃まで呆けておった」と兄達から言われる様に、正直は知能の発達に遅れがあったのかも知れない。

正直は、近くの安楽島小学校へ通うはずであったが、毎朝登校する時間になると押入に隠れて、学校へ行こうとしなかった。兄達が正直の耳を引張って、無理に学校へ連れて行こうとしても、

「おらは学校へは行かん」毎日そんな様子で低学年の間は、まともに登校さえしなかった。

「御前は、馬鹿正直でお人好しだけが取り柄だ」父親や兄達が正直の事を話す時、いつもこう言って嘲笑した。正直は、人に嘘をつく事ができなかったので、人もまた自分に嘘をつくはずがないと考えた。

正直は、自分を裏切る事の無い動物が好きだったのであろう。信頼し切った純粋な目で、正直をじっと見つめる忠実な犬というものが、幼い頃から大好きだった。

自分が飼っていたシロをとても可愛がっていた。学校へ行けと促されると、正直は愚図愚図しながら、シロを連れて遅い時間になって登校した。

同級生達が授業を受けている教室に、平気でずかずか入って行った。そうして正直の指定席にされていた窓側の一番後ろの席に座った。

「何やん?正直、今し来たか?」と先生が笑顔で迎えてくれた。正直は無邪気に

「今し来た」と、相手の言葉を繰り返して答えた。

そして暫く、運動場で生徒達が走っている様子を窓から見物していた。

「おう!もっと早う!シロもこっち来て応援せんか」と手を叩いて喜んで、同級生達が迷惑そうに白い目で見ているのも気にしないのだった

退屈になると黙って帰ろうとする正直に先生が声をかけた。

「正直?もう帰るんか?」

「おら、もう帰る」と答えて、ぷいとそのまま帰ってしまう児童だった。

「御前は、自分の名前を漢字でよう書かんかった」小学校の三年になっても、そう言われ馬鹿にされていた正直であった。

戦時中、海沿いはどこも攻撃される怖れがあり、志摩は半島だったので、鳥羽からの疎開先として指示されたのは、榊原温泉などの奈良方面の山手になった。ただ実際は、榊原まで疎開しない間に終戦になった。正直は後々長らく、いずれは榊原温泉へ行かねばならないという目的地意識が消えなかったようだ。

正直は学徒動員の年齢にはまだ少し早かったが、高学年だったので「幼少団」を組織して、その団長として終戦まで竹やりなどの訓練を指導していた。戦時中の緊迫した状況にあって、この「幼少団」で有無をも言わせぬ体験をしたことが、「国を守り命を守る」という年齢相応の責任感を正直に自覚させ、人の先頭に立って指導することに興味を持たせたのであろう。

正直は、幼い頃から「清和源氏の流れをくむ武士の子孫である」と教えられると同時に、儒教にある「五常 仁、義、礼、智、信の徳に沿って生きる様に」と教えられていた。正直のものの考え方の根本になったこの儒教思想というものは、「仁 人を思いやること、義 私欲に囚われないこと、礼 上下関係を守ること、智 勉学に励むこと、信 嘘を言わないこと」であった。

これらは、多分に「親」や「兄」にとって都合の良い「家父長制」を維持するための思想なのであった。要するに、正直のものの考え方は封建的で保守的なものであった。

正直は、書道を特に誰かに師事したという訳ではなかったが、書に関しても相当の達筆で、「榊莫山」の自由な書風を好んだ。趣味もあって立派な「書」に多く触れる様に努め、毛筆で書く機会が多かった。

絵を描くのは苦手で図工は嫌いだったが、書道との関わりで水墨画は好きだった。特に茄子の絵を好んで毛筆で描いた。趣味といえば、将棋は一度も負けた事が無かった。

正直は、幼少から読書が好きで多くの書物を読んでいた。正直の書棚に並ぶ蔵書を見れば、誰もがその数に圧倒された。

蔵書の中に、若い頃に読んだマックス・ヴェーバーの「職業としての政治」という薄っぺらな一冊の文庫本があった。マックス・ヴェーバーは、「経済学・社会学を筆頭とする社会科学・歴史学のあらゆる分野に通じ、とりわけ戦後日本の社会思想に計り知れない影響を与えた社会学者・思想家」と言われる。

正直は、この本の中で述べられている「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめて、じわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」という部分に深い感銘を受けた。正直も根気強さには自信があった。

正直が「政治家になりたい」と考える様になったのは、この書物の影響が大きかった。一方で正直は、若くして首相の地位にまで上り詰め、「今太閤」と讃えられた田中角栄に強い関心を持っていた。人心を鼓舞するためには、モチベーションを自在に操る話術が必要なので、「田中角栄」の演説の上手さを尊敬していた。

ヒトラーについても、その功罪は別として、神がかった演説の上手さ、民衆を魅了した圧倒的なカリスマ性は尊敬できた。

正直は「政治家になる」ためには、自分の言葉で自分の考えをより多くの相手に的確に伝えることができなければならないと考えた。ドイツ語を始め外国語というものに興味を持って、他国語での会話の勉強を始めたのも、通訳がいなければ相手の言葉を理解できないのでは、満足な意思疎通さえできないと考えたのがそもそもの動機である。

正直も地元から離れる事を正太郎から許されなかった。進学を希望する様な大学は地元には無かったので、大学への進学は諦めて実業に就く道を選んだ。

大学で学ぶ道が閉ざされたので、正直は専ら独学せざるを得なかった。政治学を始め、社会学、法学、経済学、経営学、心理学まで、自分が志す所に関係のありそうな専門書を片端から読む様になった。

父の正太郎は、武田家の家業として林業と不動産業を継いでいた。正直は、商業高校を卒業して直ぐ、父の元で家業見習いとして働き始めた。

正直は、材木商が「材積の見積り」をする様子を熱心に観察して、その手法を完全に習得した。

「それは間違っとる」ある時、専門の職人が材積を算出するのを聞いて口を出した。そして、本職より正確な見積りを算出して見せて驚かせた。

家業との関りからも、早くから正直は田中角栄に関心を持ってその動静に注目していた。「コンピューター付きブルドーザー」の異名をとりながら、人情の機微をとらえ、気遣いの細やかさで人心を掌握してそれを鼓舞する田中角栄の存在は、事業を興す正直の目標であると同時に、「政治家」を志すようになった動機そのものであった。

「土方は地球の彫刻家だという言葉を実践して、土建会社の経営で成功し、二十八歳で議員初当選を果たした」というようなエピソードにも大いに触発されていた。

思ったことは何でも口に出す正直は、話のスケールが大きいので、駆け出しの頃は「大言壮語」の様に受け取られ、「うそ吉」などと陰口をたたかれることも多かった。

とにかく正直は好奇心が極めて旺盛であった。例えば、地場産業とも言える真珠の養殖を見て、いかだの浮体であるフロートに注目して、耐久性に優れた樹脂製品の製造を考えた。

正吉は音楽は苦手ではあったが、「キング・オブ・ロックンロール」と称される「エルヴィス・プレスリー」の「格好良さ」にも憧れ、ロカビリーに興味を持ったことが、後にエレキギターなどの音響製品製造に結び付いた。

このようにして正直は、二十代後半には、林業や不動産業を手始めに次々と意欲的に事業を興こした。昭和三十五年、池田勇人内閣が国民所得倍増計画という長期経済政策を掲げた。時まさに高度経済成長の時代で、正直の事業にも追い風が吹いた。

二十八歳の時、満を持して、安楽島の小高い地に二千二百坪の広大な林野を手に入れて、前面の道路から出入りする台形の敷地を造成した。

道路に面して門扉を設け、その内側に本格的な日本庭園を造った。わざわざ宮大工を雇って、その奥に金閣寺の外観を模した純和風の屋敷を新築した。この屋敷は、後に、時代劇映画の撮影現場の候補に挙げられ、実際に担当の監督が視察に来たこともあった。

道路から門扉を入ると、左に広い駐車場と、お抱えの運転手や植木職人が寝泊まりできる平屋があった。そこから石の階段を数段上がると、竹と天然木で造った飾り門があって、その内側が本格的な和風庭園になっていた。庭園が広くて手入れが大変なので、専属の庭師が二人、ほとんど年中出入りしていた。

飾り門を入ると空池があり、いばら饅頭を作る時に使うサルトリイバラが生えていた。空池には小さな太鼓橋が掛かっていた。

空池の左側には水を湛えた池があり、ここには長めの太鼓橋が掛かっていた。この池には、生き物を飼うのが好きな正直の趣味で、見事な錦鯉が多数泳いでいた。

この池の奥に湯殿の建物があった。お湯は何を燃料に沸かしていたのか不明である。湯船の湯を抜く栓は湯殿の外側にあった。

湯殿の裏には家庭菜園があって、千重が野菜を栽培するのを楽しみにしていた。菜園にはウサギ小屋が置いてあった。

飾り門から空池に掛かった小さい太鼓橋を渡ると、二階建ての母屋の玄関になっていた。

玄関を入って右手には、後に、応接用に和室を三間増築した離れがあった。母屋の玄関を入ると広いホールがあり、突き当たりに炊事場の土間と、食事をする為の畳の間があった。ホールの右手に客人用を兼ねた洗面所と便所があった。

母屋の和室は全部で六間あった。一番手前の部屋にテレビとお膳がおいてあり、家族の食堂兼居間になっていた。但し、この屋敷では「家族団欒」という習慣は無かった。襖を取り払うと大広間になった。毎日の様に、ここに板前を呼んで接待の宴会が催された。

六間の座敷を囲む様に回廊があり、便所はその突き当り一番奥の寂しい位置にあった。富士子が生まれてから子供部屋として与えられた十二畳の和室は、回廊の左側突き当りにあった。富士子の部屋の窓の外直ぐ近くに、正直が大事にしている秋田犬クロの小屋があった。

玄関前のホールから二階に上がる階段があった。二階にも和室がいくつかあったが、千重も富士子も一度も上がった事がなかった。正直の書斎にしていた部屋の他は、立花や小百合や泊まりの客人が使っていたと思われる。

屋敷には、使用人とお手伝いを二人ずつ雇い、お抱え運転手も二人雇ってあった。

当時まだ珍しかった大型の高級外車リンカーンコンチネンタルが正直は好きで、仕事関係の送迎全般に使っていた。社用車は、他にベントレーや国産車、計五台を用意していた。

正直自身は、教習所の生意気な教官の指導を聞く気がしなかったので、運転免許は取得できず、生涯免許を持つ事はなかった。

使用人と言えば、その人格と人間性を正直が大層気に入って、自分の右腕、懐刀の様に信頼して大事にしていた「立花」について、話しておかねばならない。

日本のボクシング全盛期は一九六0年代といわれ、当時のチャンピオン:ファイティング原田は、王貞治や長嶋茂雄、大鵬とともに国民的ヒーローだった。

立花も、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)に憧れて、「拳で一発逆転」を狙って、プロボクサーの道を選んだのであろう。しかし、プロボクサーになった立花は、現役の時、スポンサーの意向で八百長試合を要求され、持ち前の正義感から八百長を引き受けるのを嫌って引退した男だった。元プロボクサーによく聞かれる話だが、喧嘩の腕を見込まれて用心棒として雇われたこともあった。その頃に度々傷害事件を繰り返して、警察の手を煩わせていた。

担当の警察も、立花本人の性格や正義感は認めていたので、地元で実業家として有名になっていた正直に、立花の素性を詳しく話して身元引受の依頼をしてきた。

これを契機に堅気になった立花は、まだ二十代の後半に安楽島の正直の屋敷に住む様になった。庭の手入れや屋敷の管理、用心、更に正直の娘「富士子」が生まれてからは、富士子の遊び相手という子守まで引き受けてくれた。

当時はボクシングのテレビ中継も週に十本以上あった。プロボクシング界の裏面に嫌気がさして去った立花は、ボクシングの番組を見る事も、話題に触れる事も決して無かった。

屋敷の池に飼われていた鯉の中に、一匹だけ「丹頂」という頭の部分に赤い班のある大き目の錦鯉が混じっているのを富士子が見付けて可愛がっていた。

太鼓橋の上からこの丹頂に見惚れていた富士子が、誤って池に落下したことがあった。この時、回廊の奥で用事をしていた立花は、正直の大事な一人娘の一大事を聞きつけて「お嬢~!」と叫びながら回廊を大急ぎで駆け付け、池に飛び込んで助け上げた。

またある時、庭で遊んでいた富士子が、湯殿の栓に蛇が巻き付いているのを見付けた。母親に

「湯殿の栓のところに、蛇の赤ちゃんが居た」と告げたが、忙しさに馬耳東風の千重は、

「へぇ、そうかん」と笑顔を見せたきり、気にも留めなかった。

暫くして、湯船の湯を抜こうとやって来た千重が、栓に手拭いを巻き付けて引っ張ろうと手を伸ばした。そこから一匹の蛇が這い出て、千重は悲鳴を上げて腰を抜かしそうになった。

縁側の籐椅子に座って見ていた小百合が、事も無げに

「千重さん、それはマムシじゃ」と言った。驚いた立花が駆け付けて金ばさみで捕まえ、マムシを一升瓶に入れて、

「こらぁ上等な赤マムシや!しかし、奥さん、噛まれんで命拾いしたなぁ!」と胸を撫で下ろした。

正直の屋敷は、中部新聞に勤めていた次男や、大成建設に勤めていた三男が、厚かましくも、自分の上司や客を接待するのに頻繁に利用した。

その時によっては、客を一週間も十日も平気で泊まらせることもあった。しかもその家族も含めてすべてであるが、その間の食事の賄い、寝床の世話も何もかも無償で、正直の資力で世話してやるのであった。

単に屋敷に連れて来るばかりでなく、非常識にも、屋敷への送迎に正直の雇っている運転手と自家用車を平気で利用した。

芸能界と言わず、世間ではよく聞かれる話ではあるが、身内に羽振りの良い者が出ると、寄ってたかって「蜜」を吸いに集まって来る。景気の良い間だけ「友人」「知人」も増える。

正直の父親や兄たちも、その立場を利用して、正直を散々利用するだけ利用しておきながら、口頭で礼を言えば良い方で、生涯一度たりとも何の謝礼もお返しも無かった。

こういう面では、正しく「清和源氏の流れを汲む」封建制度そのものと言えた。長兄源頼朝に散々利用された挙句、平家を滅ぼして用済みになってからは、兄頼朝の命令で冷酷にも死に追いやられた弟の義経や範頼を髣髴とさせる。

正直は、この屋敷ができてからは、取引先の重鎮の接待を主に屋敷に招いてする様になり、大勢の客人で屋敷は連日賑わった。正直は酒は強くなかった。毎日の様に、付き合いでウィスキーのボトル二本程度を飲まない訳にもゆかず、肝臓への負担は増すばかりであった。肝硬変から肝癌へ移行するリスクが高まる典型的なパターンであった。

正直を「器用な人」と言う人もあったが、事実は極めて旺盛な好奇心と観察力を持つ「地道な努力の人」であった。商業高校を卒業してからは必要に迫られて、法律・経営・会計・設計・建築など、様々な知識を全くの独学と実学で貪欲に修得した。

師と仰ぐ田中角栄には、「昭和十二年、十九歳の時、神田錦町に共栄建築事務所を設立。測量から試案の製作、設計、計算、仕様書の作成、工場業者の選定、工事監督と、何から何まで死に物狂いで働いた。」というエピソードもあり、正直は大いに影響を受けていた。

正直は、不動産業、林業、建設業、リゾート開発、樹脂製造業、音響機器製造業、海上フロート製造業等々、最終的には十以上の事業会社を経営した。会社の設立から企画、人材の採用と総務、経理事務などは言うまでもなかったが、これらの事業について、製品の発案から設計図を書くところまで、主要業務は全て自分一人で熟した。

当時から大手として有名であった駿河電機の一番下請けの地位を獲得しようと企てた事があった。高級旅館を一軒借り切って、可能な限りの盛大な接待を実施した。駿河電機の担当者を社用車のリンカーンコンチネンタルで送迎して感激された。この接待は大成功を収めた。

フロートの耐久性からヒントを得て始めた樹脂製造では、「割れない洗面器」という商品で、「武田化成工業」の名が一躍有名になった。

当時の射出成型機は、原料を入れて洗面器が1つ出来上がるのに五十秒かかった。機械から出て来る洗面器の底に、「絶対割れない」と書かれたシールを貼りつけたという。

武田音響機器という会社では、スピーカーやエレキギターなどを製造していた。

合成繊維が注目された昭和四十年に、西独のナイロン加工の機械を三千万円で導入して、ストッキングを製造しようとした。ところが、ナイロンが機械の中で溶けて癒着して正常に加工できず、この企画は失敗に終わった。

意欲的に次々新規に事業を手掛けるので、中には、この事例の様に初期の思惑通りに運ばず、資金の回収ができない場合もあった。

「桐一葉落ちて天下の秋を知る」しかし、しょせんは鳥羽の田舎町が舞台である。突如として現れた正直の如き三十代の若輩者が、当時珍しい大型高級外車を運転手付で乗り回すだけでも十分派手で周囲の目に付く事だった。

しかも、正直は高級料亭にも頻繁に出入りした。自分達が店に入ると、そのまま店を貸し切りにして、その場に居合わせた他の客の会計も驕りにした。

正直の臆する様子も無い豪勢な羽振りは、とにかく目立ち過ぎた。年齢不相応に威風堂々たる態度が、古参の実業家誰もの鼻について、周囲に妬まれ恨まれる事が多くなっていった。 

かつてのライブドアの堀江社長ではないが、「出る杭は打たれる」で四面楚歌、何か少しでも隙があれば陥れてやろうと、虎視眈々と常に背中を付け狙われる様になった。

性善説の正直は、考え方が楽天的過ぎて、事に臨むにあたって全く無防備であった。しかも年齢不相応に傲慢な正直の言動や態度が周囲に敵ばかり増やし、味方をしてくれる有力者が居なかった。

名古屋警察の刑事が屋敷にやって来て、「詐欺・恐喝の容疑」で任意同行を求められた事があった。この勾留中、正直は信念を持っているので、

「お上の施しを受ける様な真似はしていない」と、留置所での食事の支給を拒否した。止むを得ず、女房の千重が毎日手作り弁当を届けねばならなかった。

この事件も、正直を陥れてやろうと悪巧みをした者の罠に嵌められたのだった。夫の無実を信じる千重の「内助の功」で、その事件に関係ありそうな契約書や領収証を懸命に探し出し、それらを証拠として警察に提示し、嫌疑が晴れて漸く留置場から解放されたのだ。

幼少から正直は、犬が大好きということは既に書いた。屋敷の庭は広大だったので、用心の番犬として、大きな秋田犬を放し飼いにしていた。秋田犬の名はクロと言った。

クロの小屋は、屋敷の外れ湯殿の手前にあった。正直に娘が生まれてから物心つく頃まで、クロは凛々しく屋敷の番犬を務めた。正直や千重が娘の富士子を抱いて、庭の湯殿の前で撮っている写真の背後には、いつも元気なクロの姿が写っていた。

クロは、偶に屋敷の庭を抜け出して、かなり遠方まで徘徊する事があった。登下校の時間に通学路を通ると、学生達に

「わぁ!大きな犬や、格好ええなぁ!」などと歓声を浴びて、クロは得意だった様だ。

「お宅のクロが来てますけど、どうしましょう?送って行きましょか?」と交番から電話が入って、パトカーで屋敷まで送り届けられる事もあった。

そんな健気なクロが、ある日、庭の隅で血を吐いて死んでいた。毒を混ぜた餌でも食べさせられたとしか考えられなかった。クロは、飼主や信用できる人間が与える食べ物しか口にしない、用心深い利口な犬だった。クロに毒餌を与えたのは、クロが信用している屋敷内の人間の仕業だと推測された。何の恨みか、誰がやったか未だに分からない。

正直は、裏切る事の無い忠犬のクロを家族の様にとても可愛がっていた。この事件は、正直に大きなダメージを与え、かなり長い期間ショックを引き摺っていた。

この様な間接的な手段に寄らず、拳銃や日本刀を持って、直接正直の命を狙って屋敷に怒鳴り込んでくる「正義漢」も居た。

暴力団の抗争などと違う所は、問答無用で殺しにかかるのでなく、表で先ず口上を述べるのだった。そして屋敷に入ってから、「殺したい」と考えた理由を演説するのだ。

ボディーガードでもある立花が駆け付けて、直ぐに静止しようとした。正直は、立花が羽交い絞めにしている男に向かって穏やかに、

「貴方もここまで思い切った行動を取ったのには、それ相応の理由があるはず。とにかく、貴方が私を殺したいと思う理由を聞きたい。それを聞いたうえで、貴方の言う事が正しく、私が貴方に殺されるのが当然だと納得できれば、私は喜んで貴方に殺されましょう」と言って、武器も取り上げないで、その「正義漢」を部屋に通すのだ。

大袈裟であるが、秀吉が奥州征伐に赴いた時、丸腰の単身で伊達正宗を説得したという「太閤記」にあるエピソードを思い出す。

正直が男と暫く冷静に話し合うと、男は説得されて素直に大人しくなった。正直は

「貴方の考えはよく理解できました。しかし貴方のした行為が、銃刀法違反や現住建造物不法侵入などで法に触れるなら、その件に関しては、これから警察に自首して下さい」と言って、運転手に送らせて一緒に警察まで出向くのだ。

正直は取り調べにも同席して、横から事の次第を説明して弁護する。最後に正直は、

「貴方の正義感や情熱を国家のために活かしなさい」と、男に諭すのであった。

事業拡張に没頭する傍らで、正直の究極の目標は政界に打って出る事であった。

正直は、自民党青年局に所属していた。議員の全国遊説に同行する事もあった。

地方選(市議選)に出馬した時は、資金力や知名度からは当選も期待されていた。しかし、年齢に相応しない傲慢さが反感を呼んだ様で、この上更に行政権力まで持たせる事を怖れられ、甲斐なく次点であった。

晩年、正直は娘に冗談半分に話した。政治家になりたかった本当の理由は、

「若者を説得して、右翼思想の青年を育て、『国賊追放団』とでも言うべき組織を作りたかったというのが本音かも知れない」と。

一方で正直の兄達は、正直と違って父親の正太郎似で、小賢しくドライで要領が良く、社会人としてほどほどに成功するタイプであった。

ただ、弟の正治だけは、正直と同じく母親似で、人情に脆く一途なところがあった。

三十代半ばだったか、正治は、ある女性と懇意になった。その女性は極道者と深い関係があり、金銭の借りもあったらしい。その女性と一緒になろうとした正治は、その極道から命を狙われる身になった。

ある時、正治が正直の元に助けを求めて逃げて来た。正直は正治を屋敷に匿った。何度も

「正治を出せ」としつこく迫る極道に、

「正治は、私の弟、身内なので、お前達には渡さん」と言って追い返した。金銭的な問題についても、正直が間に入って、極道に手切れ金を渡して仲裁し、正治を助けてやった。その時の事を正治は、

「あの時、正直兄が、他の兄達と同じ様に、そんな男は兄弟に居らん、自分には関係無いと、知らん顔をしていたら、わしはコンクリート詰めにされて、伊勢湾に沈められたに違いない。だから、正直兄は、わしにとって命の恩人や」と言って、正直への恩義をいつまでも忘れず、その後も何かにつけ正直の事を気に掛けてくれた。



「女房千重」


正直の女房千重の母親は千代といった。

千代は、京都舞鶴の裕福な旧家に、姉が三人、兄が二人の四女として生まれた。優しい両親と兄や姉に守られ、のんびりと平穏に育った御嬢さんであった。

舞鶴と言えば、「岸壁の母」で歌われる「引き揚げのまち」としても有名な地である。旧海軍関係の施設の多い街で、美しい赤れんが造りの倉庫群は、明治・大正の浪漫が薫るノスタルジックな風情がある。

舞鶴鎮守府に初代司令長官として赴任したのが、あの日本海海戦で有名になった東郷平八郎であった。「東郷は、自分の娘を中舞鶴の小学校まで、地元の子供達と一緒に徒歩で通わせていたという。舞鶴に根づき一般の人々とも気軽に交流を深めようとする、東郷の気さくで進歩的な人間像が伺われた。」というエピソードからも解るが、舞鶴では「海軍」が庶民の憧れの的であった。

千代の姉達は色が白くて別嬪で、当時エリートの海軍士官の元に嫁いでいた。海軍の華やかな出征パレードの日、千代の姉達は沿道に立って、肩章の付いた白い制服を着てオープンカーの上で敬礼をする若者達の凛々しい姿を見守っていた。

千代は、そんな姉達の姿を見て、自分の姉である事をかねがね誇らしく思っていた。

千代の妹の「おてちゃん」という子は、抜ける様に色の白い別嬪だったのに、病弱で7歳で死んでしまった。

「こんなに早く死んでしまうのなら、色白の別嬪を千代と代わってやれば良かったのに」

千代の母親がふと呟いたのを聞いてしまった。それ以来千代は、

「私だけが何故百姓みたいにこんなに色も黒く、別嬪でないんやろうか」と常々卑下していた。

千代は、二十歳の春、良縁があって岡山県美作の医師の元へ嫁いで、優しい夫と仲睦まじく暮らした。ただ残念な事に、待ち望まれた後継ぎがなかなか生まれず、千代は大層気に病んでいた。

夫は、お手伝いを雇って千代の負担を軽くし、至れり尽くせりに気を遣ってくれた。美作という地には、湯郷温泉という中国地方きっての出湯の里があった。湯郷温泉は歴史も古く、「岡山県美作三湯」の一つで、別名「鷺の湯」とも呼ばれる名湯である。

この温泉は、婦人病などにも効果があると有名だったので、夫は、温泉旅館で千代にゆっくり湯治をさせた事もあった。千代は独りでは何もできないお嬢さんだったので、身の回りの世話を焼く女中までつけてやった。夫は、医師の立場からも色々と心配りをしてくれた。千代は、その優しさにかえって気兼ねして、十年以上の間、嫁ぎ先に居た堪れない針の蓆の思いで暮らしていた。

 その頃、又蔵という体格の良い一人の若い男が、偶に患者としてこの医師の元に通院する事があった。この又蔵は、元々は多気郡大杉谷(たきぐんおおすぎだに)の生まれで、家は林業に従事していた。大杉谷というのは、三重県多気郡大台町と奈良県との県境の大台ヶ原山に源を発する宮川の上流の渓谷である。

又蔵は親の林業を継ぎたいと考えて、岡山県美作本所で親方をしていた親戚を頼って修行に来ていた。又蔵の親方は、杉や檜の苗木を山に植林する造林から林産事業まで、一貫して手広く営んでいた。成木を伐採して収穫し丸棒としてそのまま卸したり、その丸棒や間伐材を加工して、建築現場へ運搬する仕事までやった。

偶々、屋敷の一部を改装するという現場に、又蔵が材木を運び込んだところ、その現場の施主が千代の嫁ぎ先の医者であった。又蔵は、そこで見掛けた千代を

「さすが医者様の奥様だけに美人な人だな」と見初めてしまった。それ以来又蔵は、体調の悪い時には、必ずその医者に通う様になった。又蔵が仕事の合間に立ち寄るカフエの若い女給達にも、この噂は直ぐに広まった。

夫の医院で働く看護婦や患者から、千代も又蔵の噂を聞いていたが、自分より7歳も若い又蔵を評判の男前くらいに見るだけで、さして気にも留めていなかった。

田舎者の又蔵は、良く言えば純朴だったので、若気の至りもあり、医者の奥様にも関わらず、思ったままの言動を恥じなかった。

程無く夫の知る所となった。代々医者の由緒ある家柄でもあり、何かと煩い世間体を考慮して、千代は離縁する事を決心した。夫は、十年以上子供ができない原因についての思いもあって、あえて引き止めなかった。

千代が独身に戻った事を知った又蔵は、千載一遇の機会を逃さず、千代に思いを告げた。

又蔵は、このまま美作で千代と一緒に暮らす訳にはいかない、親方にも迷惑がかかると考えて、岡山を出る事にした。千代を連れて、実家のある大杉谷に戻り、千代三十三歳、又蔵二十七歳の時に再婚した。

大杉谷に戻って、手広く営んでいた家業の林業を継ぎ、一層勤勉に働いて裕福に暮らした。

千代にべた惚れだった又蔵は千代を大事にして、お手伝いを雇ったり優しく気配りをし、ほどなく四人の子宝にも恵まれた。

千重は、又蔵と千代の長女として生まれた。千代の次女は百代といった。口数の少ない控え目な性格で、自分の事以外には無関心で、学校を出てからも働く事が無かった。

三女は厚代と言った。男の子の様に活発で好奇心が強く、感情的でやや我が儘とも言える一本気な性格であった。四女はしずと言ったが、可哀想に三歳で亡くなってしまったという。色の白い美人になりそうな女の子であった。

「厚代と代わっていれば」千代はふと思ったが、自分が母親に妹のおてちゃんと比べられた時のショックを思い出して、決して口に出さなかった。

数年後、又蔵の一家は大杉谷から宮川を下って、下流にある度会郡小俣町(わたらいぐんおばたちょう)に引っ越した。小俣町は現在は伊勢市になり、JR伊勢参宮線宮川駅や近鉄山田線小俣駅が最寄りになる。伊勢参宮街道の最後の宿場として栄えた町で、日紡(現ユニチカ)の工場などが近くにある。

千重達娘三人は、物心ついてからは小俣町で育ったので、両親の事や故郷として懐かしく想い出すのは、大杉谷ではなく小俣町の風景であった。

昭和十八年、又蔵は、一家の大黒柱であった三十代半ばという最も大事な時期に、海軍省による充員召集の「紅紙」令状を受け取って、呉海兵団に入団することになった。

又蔵が出征したのは、長女の千重が小学校二年生の時だった。又蔵が出征するまでに、既に四人の娘に恵まれていたことは、千代にとってせめてもの幸いであった。

又蔵は、千代や娘に優しく、真面目によく働く男だったので、又蔵が軍隊に取られるまでは、三人の娘は裕福に育てられた。近所の子供のほとんどが、絣や木綿の着物を着ていた頃に、千重達は贅沢な絹の着物を着て、上等なフェルトの草履を履いていた。

又蔵の「軍歴証明書」の記載によれば、又蔵は、呉海兵団に入団して、毎日が競争の連続ともいうべき練兵場での軍隊新兵訓練を経て、海軍二等機関兵として航空隊附を命じられた。続いて、海軍一等機関兵として第四十六警備隊附を命じられた。翌昭和十九年五月末に、多磨丸に便乗して呉を出て、高雄やパラオを経由して七月九日にヤップ島に到着した。

又蔵は、根が真面目で体力もあったので、「お国のため、家族のため」と、一生懸命に軍務に勤しんだのであろう。間も無く海軍上等機関兵から機関兵長に命じられた。

しかし、翌昭和二十年の十月には、戦争栄養失調症で除隊・入院を命じられている。

がっしりとした体格で、林業で鍛えた頑丈な又蔵だった。まともな食料も無く、大トカゲを食べて飢えを凌ぐ日々に、体重は六貫近く減り、見る影もなく痩せ衰えてしまった。

極度の栄養失調で戦える状態でなくなった又蔵は、昭和二十年十一月に召集解除となった。駆逐艦「響」に便乗して内地に送還されて、野比海軍病院(現国立久里浜病院)に収容された又蔵は、暫く終戦を知らなかった。

この野比海軍病院で、内地に送還された傷病兵の診察に当たっていた軍医「梶原貞信さん」が、NHK「証言記録 兵士たちの戦争」の中で、「人間魚雷 悲劇の作戦」として、回天特別攻撃隊で自ら体験した記憶を証言している。

終戦から二年後になって、もはや回復の見込みも無いと判断された又蔵は、何の報せも無く、野比海軍病院を退院させられた。

女房と娘達が待ち焦がれていると信じる思いだけで、横須賀からはるか遠い三重県の小俣町まで、又蔵は一人で帰って来た。弱り切った身体を気力だけで奮い立たせて、足を引き摺りながら歩いて来た。千重が小学校六年生の時であった。

又蔵は、出征する前とあまりに変わり果ててしまった姿で、亡霊の様にふらふらと歩いて来た。その姿を見て、千代も千重たちも、それが待ち侘びた夫・父の又蔵であると、直ぐには気付けなかったほどであった。

戦死者十万人と言われる激戦地から、幸運にも生還できた又蔵であった。しかし、復員後はもはや精も根も尽き果てて、養生に努め回復を願ったが虚しく甲斐は無かった。

又蔵は虫の息で「寿司が食べたい」「煙草を吸いたい」と呟いていた。千代は、浜に行ってアオサを拾って巻き寿司を作り、煙草の葉を手に入れて紙で巻いてやった。

半年も経たない間に、山田赤十字病院御薗病舎に入院して、肺結核で亡くなってしまった。

又蔵の葬式の日は五月も下旬、初夏を思わせる日差しがじりじり肌を焼いた。千代は、小俣町営墓地に新しく墓所を買って「山本家」の墓を建立した。これが「小俣の墓」である。

残された千代は、生まれてこの方一度も働きに出た事の無い人であった。それどころか、お手伝いさんの居ない生活さえ経験が無かったので、日常の家事や買い物は全てお手伝いさんに任せる有様で、お米の炊き方さえ知らない「お嬢様」であった。

千代が頼り切っていた又蔵が出征してからは、生活力が全く無い母親千代と、幼少の娘三人だけの家族になった。千代は、一年と経たない間に、その日の食費にも困る様になった。

又蔵の兄の寅蔵は、早くに出征して、強運にも復員していた。又蔵の最期には、病院を見舞いに訪れたり、通夜や葬式の世話もしてくれ、野性的な外見に似合わず、千代達に親切にしてくれた。一方の寅蔵の嫁さよは、お嬢さん育ちの千代を羨ましがって、以前から妬んで憎んでいた。

「住まいも借家だから、いざとなれば最後の頼みも無い」と言って馬鹿にした。惨めな状態になった千代を見て、無心でもされては大変だと怖れ、疫病神の様に避けた。

可哀想な母親の様子を見て、長女の千重はじっとしていられなかった。畑の納屋でも良いから、叔母に馬鹿にされずに、母親が安心して住める家を手に入れてやりたかった。

千重は、母親と妹達の食べ物を手に入れるために、毎日の様に仮病を使って学校を休んだ。近所の畑仕事を手伝って、野菜の屑などをもらって来ておかずの足しにするのだ。

千重は、尋常小学校から中学にかけての義務教育も、ほとんど学校に行かなかった。

義務教育を卒業する十五歳、就業可能な年齢になるのを待って、千重は、近くにあった五十鈴製糸という工場へ働きに行った。糸が切れない様に蒸気が満ちた暖かい工場内で、蚕から取った絹で糸を作る工場だった。

それ以来、世間一般では高校一年生であるはずの十五歳という年齢にも関わらず、毎日勤勉に働いたので、千重は工場長に大層気に入られた。工場長は、千重の並大抵でないやる気に関心を持ち、千重の身の上話からその境遇を知って、自分の娘の様に可愛がった。自ら費用を全て負担して、千重にバレエや日本舞踊やバイオリンまで習わせてくれた。

千重の熱心で丁寧な作業ぶりは、他の女工達の前で褒められ表彰された。それが他の女工達の反感を買って嫌がらせをされた。朝工場に出勤すると、千重の使う機械は油で汚されたり、正常に動かない様に悪戯され、作業ができない日もあった。

千重の工場の給与で、千代や妹達の生活には困らなくなったので、千重は、この工場で十八歳まで働いた。千代も裁縫程度はできたので、近所の布団屋で手伝いをしていた。

二人の妹はというと、姉の千重が気丈で、せっせと働いて面倒を見てくれるのに甘えて、自分で生活費を稼ごうという気さえ起こさなかった。

二女の百代は、十九歳の時に見初められて良縁に出遭ったが、学校を出てから働く事が無かったので貯金は全く無かった。千代は、百代の嫁入り道具の用意をしてやれない事を哀しんでいた。

母親に恥をかかせないために、千重がその後食堂で働いて作ったへそくりで、妹が一人前の嫁入り道具を支度する多額の費用を全て出してやった。しかし、御多分に洩れず、この当時の千重からの援助に対して、百代から感謝の言葉は生涯聞かれなかった。

三女の厚代は、婿養子を迎えて千代の姓を継ぎ、結婚してからは多気に住んだ。



 「中川食堂」


 千重は、一生懸命働く事で、より多くの収入が得られ、母親の千代を安心させられる事に気付いた。欲が出て来て、もっと多くの収入を手にする方法はないかと考えた。

より多くの金を手に入れるためには、「下剋上」の世の中で、人に遣われていたのではダメだ、自分で何か商売をする、経営者にならなければダメだと考えた。食べ物商売なら自分に向いているので、経営者にもなれるのではないかと考えた。

五十鈴製糸の工場を辞めた千重は、調理師の免許を取る為に、伊勢会館のレストランに就職して調理場で働き始めた。調理場で修業をしながら調理師試験の勉強をした。

そして、小中学校もろくに通わなかった千重にとって、非常に高かったハードルを乗り越えて、調理師の試験に一発で合格した。

調理師の資格も取れた千重は、次は個人経営の食堂のノウハウを学ぼうと考えた。丁度その時、伊勢駅前の銀座新道商店街にあった食堂で、二名の求人が出ていたのに応募して採用された。千重が二十歳の時であり、その食堂を営んでいたのが中川家であった。

この時、中川食堂を経営する夫婦には、店を手伝う二十五歳の息子が居た。中川の息子には既に女房も居て、女房は中川の子供を妊娠していた。

ところが、この息子の嫁は無愛想な性格で、食堂の客にも評判が悪く、食堂を繁盛させる事に執心していた中川の両親に嫌われていた。

千重が中川の食堂に出る様になってから、千重の姿が見えないと

「今日は、いつもの若女将は居ないんかいな?」と、客の方から尋ねられる様になった。明らかに「若女将」を目当てに、食堂に来る客が、目に見えて増えてきた。

中川の両親は、千重の若さによる集客力と、天然の愛想良さ商売上手に目を付けた。客商売に全く向いていない息子の嫁の事は、かねがね疎ましく思っていた。中川の両親は、息子に離縁させて、代わりに千重を後妻にして若女将として迎え入れたいと目論んだ。

折しも、妊娠していた嫁が出産準備に里帰りをしている時に、中川の両親は、息子と嫁に離縁の話を持ち掛けた。

案外にも、嫁は離婚に反抗をせず、産まれて来る子にも未練は無いと親権を放棄して、あっさり離縁に応じた。昭和三十一年に生まれた、この先妻の子は女の子で順子といった。

息子の離縁が成立したので、中川の両親は、

「母親の千代さんの面倒も見ますから、是非、うちの息子と再婚してやって下さい」と、千重に土下座せんばかりに懇願した。

中川の食堂は、元は伊勢駅前銀座新道商店街に本店だけがあった。再婚した千重がいよいよ本気で働く様になってから、ますます繁盛して支店を出して二軒になった。

「若女将さんは、今日はこっちの店に出んのかいな?」

「いえいえ、もう間も無くこっちの方にも顔を出すと思いますんで、もうちょっと休んで行っとくんなはれ」、支店から本店に電話で

「~さんが、こっちの店で待ってなはるから、ちょっと顔出して」と千重に連絡が来る。支店に駆け付けた千重が、天然の愛想の良い笑みで、

「いやぁ~さん!えらい待ってもろうて、また来てくれて嬉しいわぁ」

「わざわざ、わしのために」と客は喜んで、ビールをもう一本頼んで飲んで帰る。

こんな調子で、若女将千重目当ての客がどんどん増え、中川食堂はますます繁盛した。

千重と中川の間には長女典子が生まれ、典子の誕生は中川や姑にも大歓迎され、七五三に着飾った写真も残っている。

千重は元来、商いというものが好きで、あまりに活き活き楽しそうに働くので、中川は一人にされた様な気がして淋しがった。商売優先で夫など眼中に無い千重の態度に、中川は僻んで、外で遊ぶ癖が付いてしまった。夫の帰宅が遅くなっても、朝帰りをしても、千重は特に気にせず問い詰めもしないので、中川は望みを失って自暴自棄になった。

中川は千重に惚れ込んでいたので、自分の妻が若女将として人気者になり、客に贔屓にされる様子に焼き餅を焼いた。何かとプレゼントを買って来て、千重の気を惹こうと努めたが、効果はもう一つであった。

食堂を繁盛させる事が、楽しくてしようの無かった千重は、客からのプレゼントは、必ずそれを身に付けて、客の期待に応えて喜ばす商売熱心さであった。

千重のそんな様子を見ていた中川は、ある日、千重に似合うと思ってブラウスを買って来てプレゼントした。千重は、好みに合わないと言って、袖も通さず素っ気なくした。今度ばかりは怒り心頭に発した中川は、千重の目の前でブラウスを引き裂いた。

この様にして、お互いの気持ちのすれ違いの累積で、夫婦仲が険悪になった。すっかり気持ちも冷えて拗ねた夫は、食堂から自分の関心を反らすために、食堂経営とは別に工場の経営を始めた。

そんな頃、千重が長女の次に妊娠したお腹の子が双子だと判明してから、中川は「畜生腹」と言って、千重に対する暴力が始まった。妊娠中の千重は、夫に二階から階段を蹴落とされた事もあって、このままでは自分ばかりでなくお腹の子供の命にまで危険が及ぶと心配して、中川と離婚する決意をした。

中川の家を出る際、親権を巡って、長女典子の両手を千重と中川が引っ張り合った。千重は、典子の腕が痛いだろうと心配して、可哀想に思って手を放したのだが、典子は

「私を見限ったと思って哀しかった。お母さんに最後まで強く手を引いて欲しかった」と、後になって千重に打ち明けた。

中川は、後にその工場へ働きに来た従業員の女性を妾にした。この妾は、千重が中川と離婚してから、中川の後妻として入り込んだ。

中川の両親は、母親の違う子供が既に二人も居るからと、この後妻には子供を産ませなかった。後妻は、二人の前妻を恨んで、前妻の娘である継子の順子や典子に陰険な嫌がらせを続けた。

最初の妻の娘の順子は、中川の家が居心地の良いはずもなく、早々に嫁に出た。

中川は、千重との娘典子には、後妻の手前、厳しく当たったが、可愛く思う面もあったのか、自宅を新築した際には、典子専用の部屋を設けたりもした。典子が年頃になってからは、中川が娘の良縁を遠ざけたがって、非常識な妨害ばかりしたので、典子は結婚適齢期を過ぎてしまい縁遠くなってしまった。

この後妻は、夫中川が癌で入院してから、退院後は日ごとに衰弱して行くのを良い事に、主な財産の全てを自分に名義変更する書類に署名捺印させ生前贈与させてしまった。夫の没後も、順子や典子には遺産を一切相続させず、強欲に執念深く復讐を全うした。

千重は、双子を妊娠したまま中川家を出て、小俣町の実家に戻ったので、双子の幸子・幸恵の二人は祖母千代の家で生まれ、そのまま祖母の元で育った。二人は、小俣の小学校・中学校に仲良く通う事になった。

小俣は狭い田舎町だった。両親共に居ない家庭に祖母と三人で暮らす幸子と幸恵の二人は、珍しいというだけで特異な目で見られ学校では虐められた。

 この時、思わず典子の手を離してしまったのは、「我が子の腕が痛かろう」と案じた母親の深い愛からであったのであろう。

しかし、中川を一家の大黒柱として認め、家庭円満に生きていくことが、ひいては娘の典子のためであり、母親として我が子のためにそれに向けての努力を試みるべきではないかなどという考えは、我の強い千重には思い浮かぶはずがなかった。

千重はその美貌と商才から、何かにつけ自由奔放で高慢になっていたのだ。



「千栄寿司」


千重は、中川とは離縁したものの中川の食堂を五~六年手伝った事で、食べ物商売のノウハウを学ぶ事ができた。

へそくりをして貯めた幾許かの資金を元手に、寿司を中心にした料理屋を開業しようと決意した。小俣町の母の借家にも近い宮川の辺で、商売に適当な場所を探した。

自分の元手だけでは足りないので、二百万円ほどの融資を獲得したいと考えて、幾つかの金融機関に足繁く通い詰めた。担保も実績も信用も無い一人の女性なので、当初は全くの門前払いであったが、百五銀行が千重の熱意と根気に負けて応えてくれた。

銀行の融資が降りる事になったので、三交不動産を通して、宮川で目を付けていた五十坪の敷地を手に入れた。地元の工務店と具体的な建築計画について相談をして、延床四十坪強の店舗付平屋住宅の新築請負の契約をした。

いよいよ工事が始まった。工事中は進捗状況が気になるので、三ヶ月の間毎日の様に実家から歩いて現場を見に通った。工事期間中に千重は大阪に出掛けた。

「大阪千日前の道具屋筋に行けば、プロの使い勝手にふさわしい、選び抜かれた道具の数々が、何でも一通りそろう」と聞いていたので、看板やのれん、提灯、食器類や業務用厨房機器・雑貨一式を見て回った。

見ているだけでも楽しかった。千重が「良いなぁ」と思う物は、いくらでも目に付いた。しかし、良い物はやはり値が張る、全て揃えるのは無理なので、一種につき三十個ずつ位の予定で選んで注文した。

中川食堂で働いていた頃から、自分の店を持てた暁には、店の名は「千栄寿司」にしようと決めていた。店の名前を入れた開店記念の粗品として、湯呑と爪切りを五百個ずつ注文した。

工事は順調に進み、料理屋としての構えが姿を現してきた。千重はわくわくしていた。平屋の住宅部分が出来上がり、店舗部分の内外装に取り掛かって、テーブルや椅子などの調度品が運び込まれた。

ランチもやりたかったし、洋食メニューも作りたかったので、当時珍しかったオーブンレンジを厨房に入れた。金銭登録機も、チーンと音の鳴る「二十二号レジスター」という最新型の機械を買った。ソフトクリームが好きだったので、専用の機械を買って、厨房の隅に設置した。

「かき氷は無いんかいな?」と言う客も居そうなので、夏場に向けて氷かき機も置いた。

昭和三十八年、国を挙げて東京オリンピックを迎える前の年だった。応援してくれる人達から届いた、お祝いの花輪や招き猫や縁起物の額を飾って、いよいよ「千栄寿司」のオープンとなった。

千重寿司は、宴会用の個室七つと、椅子二十席ばかりの小じんまりとした店だったが、千重の夢の実現に向けて、第一歩を踏み出すことができた。

開業後は、日によっては、一時に五十人の団体客もあり、狭い店は立錐の余地も無く、正に溢れんばかりの大繁盛であった。

「女将、わしはカウンターに立ってもええから」と言う客や、

「わしは、こっちの座敷に、顔見知りが居るから、相席で腰掛けさせてもらうで」と言って、座敷の隅で飲食する客も居た。満席で店に入れない客に断りを入れると、

「折詰に入れてもらえば、持って帰って食べるから」と言って、外のタクシーなどの車中で食べる有様だった。

来てくれる客はみな千重のファンなので、女将の手を煩わさぬよう、女将の気を惹くよう、女将に気に入られようとあれこれ気を遣うのであった。

漸次、馴染の客も増えて、奥山議員の様な地元の有力者を始め、不動産・リゾート関係では伊勢観光の社員などの常連もできた。この伊勢観光の常連は、千重が中川を追い出された経緯を知っていたので、

「どう?千重さん、伊勢駅前にビルを建ててやるから、そこに千栄寿司の本店を出したらどうかいね」と有難い提案もしてくれた。

すぐ近くには、割烹「黒田屋」もあり、周辺には古くからの老舗や有名店も存在したが、宮川に千栄寿司ができて繁盛し始めてからは、全くの閑古鳥になったそうだ。

仕出し弁当などの発注者は、ほとんどが男性だったので、その心を掴んで百食単位で弁当の注文を受けた。近隣に元からあった仕出し屋を出し抜いて繁盛した。

とても交通便利とは言えない、路地奥という不利な立地で、駐車場も無かったにも関わらず、千栄寿司はたいそう繁盛した。

その理由として考えられたのは、どこか間の抜けた様な楽天的な千重との会話に、客のストレスが解消され、癒されたからではないだろうか。

商売や経営に苦悩する客が、千重に悩みを打ち明けて相談した。それで何が解決する訳でも無いが、天然ボケとも言える千重の受け答えに、気分が紛れて何かほっとして帰って行くのだった。

一旦ファンになってしまうと、女将と懇意で顔馴染みなのだと「ええ格好」がしたくて、顔つなぎに足しげく通った。「釣りは要らん」どころか、チップまで握らせてくれた。

客が立て込んで千重の手が回らない時は、勝手の分かった馴染客は、厨房の中まで入って来て冷蔵庫から自分でビールを持ち出した。

「女将さん、ビールもらうから、ちゃんと付けといてよ」と、セルフサービスだった。

暫くすると、混み合う時間帯は、千重一人では賄い切れなくなった。近くにあった日紡の工場で働いていた若い女性に声を掛けて手伝いに来てもらった。

最も忙しい時間にだけ短時間の手伝いに来てもらうので、時給は相場の十倍近く弾んだ。その代り、客が喜びそうな若くて美人で愛想の良い子を選んだという。

銀行からの融資金二百万円は、あっという間に全て返済する事ができた。昭和三十八年に開店して、昭和四十五年大阪万博の年に店を畳むまでの七年間に、相当の売上を稼いだ計算になる。

この事実は、いざとなれば、何時でも自分が頑張って、一億くらいの金額なら稼いで見せると、その後の千重の人生における大きな自信につながった。

しかし、千重のこの自信は、一方で、配偶者などの千重を頼もしく思って近付くパートナーを甘やかす原因にもなってしまった。

父親の又蔵が出征して生活費が得られなくなって、困窮した母親が

「ここは借家だから、いつ家賃が払えなくなって、追い出されるか分からない、安心して住める家も無い」と惨めな思いを味わった事が、千重は忘れられなかった。二度と母親に同じ様な哀しい思いをさせたくなかった。

これで漸く、母親を路頭に迷わせる事無く安心して住まわせてやれる、自分の住居を持てた事が何より嬉しかった。今此処に、母親と娘の四人で一緒に暮らせる自分の家を持ち、此処から二人の娘を学校に通わせてやる事ができたのだ。

千栄寿司が繁盛して手が足りなくなった時期、妹の厚代夫婦は「仕事が無くて、生活が苦しい」と言っていたので、月給を払って夫婦で働きに来てもらった事があった。

ところが、当時まだ若かった厚代は、男っぽく大雑把で気ままに突然休んだり遅れたりで、肝心な時に間に合わなかった。

ある日、厚代が手伝いに来てくれるのを当てにして、助六弁当の注文を二百食も受けた。厚代夫婦が出勤して来ないので、店を夜十一時に閉めてから徹夜して、翌朝までに千重一人で二百食全て仕上げた事もあった。千重の作業は、信じられない早業であった。

また、当時小学生だった幸子と幸恵の二人が、店を手伝ってくれる事もあった。

「近所の八百屋にきゅうりを買いに走った事を覚えている」幸子が、予想以上に客が多くて材料が足りなくなった日の思い出話をするのを聞いた。

千栄寿司が、あまりに急激に繁盛したので、周囲の店から反感を持たれ、商売敵として恨みをかう事も当然出て来た。

「あの店が、あんなに流行るのは、実は裏で売春を斡旋しているからだ」とか

「地下室があって売春宿になっている」等の根拠の無い風評が流された。

この様な噂は、名古屋警察の耳にも入り、千栄寿司の馴染客でもある刑事が

「出鱈目なタレこみとは分かっているが、そういう訴えがあると、一応我々も一通り調べざるを得ないんです」と言って、令状は持たずに店内の任意調査をしに来た事もあった。

千栄寿司の繁盛ぶりは、隣町でも評判になって来たので、次第に遠くからも噂を聞いて、色々な職を持つ客が来てくれる様になった。

千重は、どんな客にも分け隔てなく愛想が良かったので、皆「女将は自分に気があるんでは」と、期待して「鼻の下を伸ばして」また来てくれるのであった。

千重の愛想の良さは、天然で無邪気とも言える明るい雰囲気を伴っていたので、どの客も色事で応援する様な物言いは、後ろめたい気持になってし難かった。

その実、意外にも千重は、相手の職業を聞いて、自分の将来の伴侶になり得るか否かは、しっかり判別していたと言う。

伊勢市内のタクシー運転手で、熱心に通ってくれる客が居た。その男は、千重が年老いた母親を連れて道を歩いていたりすると、業務中でも目敏く見付けて、タクシーを横に停めて

「女将さん、どこかお出掛けですか?」とにこやかに声を掛けてくれた。千重は、長く歩くのが大儀な母親をタクシーに乗せて、実家まで送ってもらった。お礼を言って降りる千重に、母親が

「千重あんたお金払ったかいね?」と尋ねるので、

「そんなもん、伊勢でタクシー代なんか払ったことないがん」と、得意気に笑って答えた。



  「出会い」


少し月日は遡るが、ここからは、正直の生涯における唯一の素晴らしい伴侶となった女房千重との出会いについての話である。

正直のお抱え運転手が、「社長!好い店を見付けましたよ」と言うので、昼食を摂るのに伊勢駅前で車を降りて商店街にあった食堂に立ち寄った。

「中川食堂」は、昼時で大変混雑していたが、そこだけ日が射した様に明るく、活き活き動き回る一人の女性を見た。正直は、その愛想の良い女店員に心を惹かれた。

それ以来、伊勢方面に用事のある無しに関わらず、正直は何度かその店に通って、その店員の女性と顔見知りになった。

笑顔で挨拶を交わし、多少の会話をする様になって、その女性が「千重」という名で、食堂の経営者の奥さんである事など、凡その事情も知る事ができた。行く毎に、中川食堂の客は増える様で、間も無くもう一軒の支店ができた。

それから暫くして、中川食堂でその女性の姿を見掛けなくなった。店の人にそれとなく尋ねると、詳しい事情は言わなかったが、店を辞めたという話であった。正直は暫く意気消沈していた。

「伊勢から少し離れた宮川という所に、千栄寿司という料理屋が開店したらしい」と人伝に聞いて、店の名前も気になるので、早速その店に行って見た。正直の期待が叶って、その店で、思いがけず千重と「運命の再会」をする事になった

隣町からも色々な職を持った客が、千栄寿司に来てくれる様になったころである。そんな中に、

「お仕事は何をなさってます?」と千重が尋ねると、

「工場関係の仕事をしてます」と答えていた、小柄でがっしりした体格の無骨な中年男性が居た。

千重は、その風貌から、まさか幾つもの会社を経営している実業家だとは夢にも思わなかった。単なる雇われの「工員」だと思って、こういう男と結婚すれば、平凡でのんびりした生活ができそうな気がしていた。

「その男は、中川の食堂にも頻繁に客として通って来て、私をドライブに誘ったり、プレゼントをくれた事もあった」と、千重は後になって気が付いた。

千重の夫の中川の方が「その男」の事を色々調べて、「若いやり手の実業家」と知って警戒していた。しかし、当時はまだ「その男」の全盛期だった。他に良縁も多いと聞くので、まず大丈夫だろうと、夫の中川は軽く見ていた。

「その男」である正直が、千重を初めて屋敷に招待した日の事である。

正直の運転手が、狭い路地まで入れなかったリンカーンコンチネンタルを大通りに駐車して、歩いて店まで千重を迎えに行った。店の客でもなく初めて見る顔だったので、

「今日、武田と言う人と約束はしてますが、貴方は存じません。どちらさんですか」と千重は尋ねた。

当時の正直は、「飛ぶ鳥を落とす勢い」とも言われるほど、事業は盛況で景気が良く、「良い」縁談も数多であった。

正直が漸く懇意になった千重は、しょせん小料理屋の女将に過ぎなかった。しかも、千重は再婚だったので、正直の屋敷に居た小姑の小百合と俊子は、家柄も出所も格が違うなどと猛反対をした。

小百合の場合は、白血病の余命幾許も無い自暴自棄から、正直の結婚という慶事への反感、嫁いで来る千重の幸運に対する嫉妬であった。

一方の俊子の場合は、現状のまま正直が独身であれば、その妹として、多少なりとも遺産相続などの期待ができた。それが、今さら嫁に入って来られては、自分の遺産の取り分が減るという心の狭さからの嫌がらせであった。

先の結婚に懲りていた千重は、平凡な勤め人との気楽な結婚を望んでいた。

思いがけない実業家からの求婚で、千重が最も望まない様々な困難が待ち受けていた。

正直が千重を見初めた頃は、まだ正直の事業も順風満帆で、運転資金の回転にも不安はなく、三度に渡る国税庁の査察を受けても、滞りなく追徴に応じる余裕もあった。

しかし、正直の猪突猛進とも言うべき放漫経営には限界も見えていた。千重との結婚を考え始めた頃には、正直の事業は既にピークを過ぎて、下り坂に差し掛かっていた。

正直は、いつでも事業資金として活用できる様に、現金が入って来ると、銀行などに預ける事無く金庫に積んで置いた。現状の事業を担保に融資を受けた資金であろうが、目の前に資金がある限り、それを百%回転させ様とした。その事業が成功して資金が回収できるまで、常に債務超過の状態だった。

一つ事業が軌道に乗れば、それを担保に資金の工面をして、すぐまた次の事業を企てる。回転が中絶するという万一の事態に備えて、用心するという考えは持たなかった。

正に「自転車操業」に陥って「止まったら死ぬんじゃ」の無茶な経営であった。

事業が順調に回らず、手形のトラブルも増えて、投資した資金が思った様に回収できないという事が多くなった。資金繰りが苦しくなって、従業員に払う給料にも困る事態となり、使用人もばらばらと辞めて行く様になった。

一方で正直は、遺伝的な喘息の持病もあり、健康面には常に不安を抱えていた。

免疫力や抵抗力も乏しかったのか、二十八歳の時、歯科で親不知を抜歯したのが原因でその後に敗血症になった。敗血症というのは、細菌感染症が全身に波及して、急性循環不全や菌体内毒素によるショック症状や血管内凝固による多臓器不全などで早晩死に至るものである。

この時、正直も一旦は心肺停止状態になったが、すんでのところで一命を取り留めたのだ。それ以来、歯科によらず医者に掛かる事に懲りて、めったな事で病院に行かなくなった。

三十代になってからは、癌の診断で放射線治療や抗癌剤の投与を受けて十分に奏効しなかったので、当時未承認の有償治験薬だった丸山ワクチンを特別なルートで手に入れて投与を受けた事もあったほどである。

もとより国の世話になりたくない正直は、保険証を持たない主義だったので、この時も医療費は全て自己負担になった。累積の医療費だけでも莫大な出費であった。

正直は、自分の持ち前の根気強さに感心する事があるが、伊勢駅前の食堂で千重を見初めてから既に十年の歳月が流れていた。付き合いを始めてからでも既に数年が経つが、結婚について千重は首を縦に振らなかった。

その間、千重は、正直から随時事業の苦しい実状を聞いて、経営の状況を十分に観察していた。どんどん逃げて行く使用人の様子を知って、何とか自分が助けてやる方法が無いか考えていた。

「逆境」に惹かれてしまう千重は、正直の事業が順風満帆で最盛期の頃であれば、他に良縁も出て来るであろうと、自分は二号さんなどになる気は無いのでさっさと身を引いたであろうし、正直との結婚を決意する事など無かったと言った。

誰の目にも家運衰勢が明らかになって、正直が

「今現時点で、不渡りの可能性が高い手形だけでも四千万円はある」と告白した時、

それなら、今の自分と五分五分で釣合いそうだ。一緒に苦労して頑張ろうという気力が湧くと思って結婚を決意したと言う。「添うて苦労は 覚悟だけれど 添わぬ先から この苦労」都都逸

小姑二人に猛反対された千重であったが、正直の屋敷にしょっちゅう出入りしていた父親正太郎に贔屓にされ大層気に入られていた。正太郎は、当時の武田家の家長で、封建的な武田家にあっては絶対的存在であった。

「千重を武田の嫁として迎える事に決めた。以後そのつもりで対応する様に」と正太郎が親戚一同を前にして宣言した事で、もはや誰も表立っては千重に嫌味も言えなくなった。

いよいよ入籍となったが、この頃正直は既に結婚の儀という状況ではなく、式を挙げる事もできなかった。正直が千重とつきあいを始めた頃であれば、まだ正直の全盛期に近く景気が良かったので、せめてその頃に婚姻の記念写真だけでも撮っておくべきだった。

正直は基本的に、常に自分自身や家族を喜ばす事は嫌い、他人にばかり気を遣う慈善事業家だった。

千重は、母親が舞鶴の出身という縁もあり、引き揚げの街舞鶴を歌った歌曲「岸壁の母」と二葉百合子のファンであった。

正直は、千重との結婚に当たっては、結婚式など一切の儀礼を行っていなかったので、さすがにそれだけは心残りであった。そこで、千重が好きなこの歌手二葉百合子を屋敷に呼んで、千重と生まれて来る娘のために歌ってもらう事にした。

所属事務所に支払ったギャラと本人への心付けは、合計すれば相当な費用であったが、大事な記念行事という思いで都合を付けた。

二葉さんには、鹿の剥製を飾ってある離れの座敷を楽屋として使ってもらった。千重に

「良いお子様が産まれます様に」と挨拶して二葉さんは帰った。その二日後に富士子が生まれた。

正直と千重の間には、未だ入籍していない時に一人男の子ができた。正直にとって実に残念な事であったが、早産で亡くなっていた。それから四年後に産まれた娘が富士子であった。

うっかり者の正直と千重は、娘が生まれてから初めて、自分たちはまだ籍が入っていない事に気が付いた。富士子の誕生日は、本当は二月十五日であったが、正直がその翌日に役所に行って入籍したので、戸籍上の誕生日は十六日になった。

千重が正直と婚姻を結ぶ決め手になった正太郎であったが、富士子が生まれた時には、

「何やん、女か」と吐き捨てる様に言った。また、正太郎は、幼少の頃、身体が弱かった富士子を

「この病もん」と無下にして、孫としてあまり可愛がる事も無かった。


千重は、正直と結婚する前の昭和四十五年に、自分が築いた料理屋千栄寿司を閉店した。それまでの賑やかな客の出入りもなくなって、店舗を兼ねた家屋はひっそりとしていた。

千重が店舗付住宅を新築して以来、母親の千代に移り住んでもらっていたので、ここが母親の家すなわち千重の実家になった。

千重が安楽島の正直のもとに嫁いで自宅を出てから、この実家には、千代と幸子と幸恵の三人がそれまで通り仲良く住み続ける事になった。

千重は、二人の娘が気になるので、安楽島の屋敷に引き取りたいと思って、二人を正直に顔合わせさせようと考えた。

正直の屋敷に、千重が初めて二人の娘を連れて来た時、幼い二人は広い屋敷に喜んではしゃいで走り回った。

「この田舎者!小娘たちよ!風紀が乱れるではないか!静かにせよ!」と、偶々正直の屋敷に来ていた正直の妹の敏江が、二人が驚いて震え上がるほどの大声で怒鳴った。かく言う敏江は、実家である正太郎の家から兄の家に邪魔しに来ていただけで、「一客人」の身分であったが。

この時正直はというと、二人の姿を認めながら、仕事の事を考えていた忙しさに紛れて、廊下を足早に歩いて自室に入って、二人の目の前で冷たくドアを閉めた。この時の正直の態度を目の当たりにして、二人がこの時感じた第一印象は、

「此処には、私達の居る場所は無い」と痛感して、二人は千重が住む安楽島に転居して、千重と一緒に住む事を拒否した。それまで通り、祖母と三人で小俣町の家で暮らす道を選択した。

千重が正直と結婚して富士子を妊娠中に、安楽島での生活に悩んで実家へ戻ろうとした事があった。幸子と幸恵の二人は、自分たちの境遇を嘆いて、母親千重に対する憤りに号泣して、

「お母さんはまた、次に生まれて来る私達の妹まで、私達と同じ境遇にするて言うの!?そんな勝手なことをして、自分の娘が可哀想やと思わんの?!」と涙ながらに訴えて、千重を実家から追い返した。

この時も、千重には母親としての認識が欠けていたので、幸子と幸恵二人の娘たちが、自分たちを見捨てた母親に対する鬱積した怒りを感じ取ることもできず、更に同じ自分勝手を重ねようとしていた。二人の娘に涙ながらに訴えられても、なお気付かない千重であった。

千重と一緒に暮らすのを嫌がった二人であったが、それからも千重は何度か正直の屋敷に連れて来た。富士子が生まれてから、乳飲み子の富士子を二人が抱き抱えて、ぬいぐるみや玩具と一緒に、庭で撮った記念写真も何枚か残っている。

事業に忙しい実業家の正直の元で、雑事に紛れて千重は実家を訪問し難くなった。

男勝りに活動的で車の運転も達者で、フットワークの良い妹の厚代が、代わりに頻繁に実家に顔を出してくれた。千重は、

「私の代わりに、二人の娘を遊園地などへ連れてやってくれる様に」厚代にお金を渡して頼んだ。厚代は、自分の娘の面倒もいずれ見てもらいたいし、子供の世話が嫌いではないので、気持ち良くこれを引き受けてくれた。

厚代は、自分が姪達に良く思われて好かれたいという気持ちで、二人を喜ばせているこのお金が、二人の母親である姉の千重から預かっている資金だとは言わなかった。

「可哀想に!姉ちゃんは、あんたらの事を放ったらかして」など、つい無意識に千重の事を薄情な母親の様に話すので、幸子と幸恵の二人もそう思い込まされてしまった。

この頃の二人の思いが、「三つ子の魂、百まで」、その後もずっと母親千重に対して親近感を持てなくなった原因であろう。



 「ひとつぶだね」


富士子は、母親の千重三十五歳、正直が三十七歳の時に生まれ、幼稚園入園前の五歳まで鳥羽安楽島の屋敷に住んでいた。

富士子が生まれた翌年の昭和四十七年は、田中角栄が、「日本列島改造論」という政策綱領を発表した年で、我が国経済行政の一つの節目であった。田中角栄は、日本の政治家として正直が最も尊敬していた人物である。富士子が生まれた翌月に自由民主党総裁選挙が控えていた。

富士子が生まれてから二歳頃までの富士子自身の記憶には無いいくつかの「想い出」が、写真に残っている。正直の母親ろくに抱かれて、屋敷の庭で撮っている写真の背後には、正直が大切に飼っていた秋田犬のクロが、まだ元気な姿で写っていた。屋敷の庭で撮られた写真には、珍しく正直に抱かれて笑顔を見せているものもあった。

千重が富士子を実家に連れて行った時に、実家の前の路地で、双子の義姉である幸子や幸恵に遊んでもらっている写真がある。富士子が幸子や幸恵と一緒に、安楽島の海水浴場や松阪の中部台運動公園に連れて行ってもらった時の写真もあり、カルピスの包装紙の様な可愛い水玉模様の水着を着せられて写っている。

鳥羽港の海上パビリオン「ぶらじる丸」船上で、祖母の千代に抱かれて撮った記念写真もある。この時の写真には、千重が誘ったのであろうが、珍しく典子義姉の姿も見られる。

小俣の実家へは本当に頻繁に連れてもらっていた様で、富士子の満面の笑みからも、祖母に可愛がられていた事が良く解る。

しかし、写真では推測もできないが、当時から富士子は喘息が酷く、咳き込んで吐くのはしょっちゅうなので外出時は大変だった。バスなど車が特に苦手だった様で、母親の千重はともかく、連れて行く者の手を煩わせた。

富士子が三歳の頃の事である。前日の夜に自分の目で確かに見た不思議な光景を一体誰に話せば良いか迷っていた。自分の父親の正直は、いつも忙しそうにしているので、こんな話をするのはどうも気が引けた。他に、正直と同じくらいこの屋敷に古くから住んでいそうに思えた、叔母の小百合に話してみようと思った。

「昨日、髪の毛を丁髷(ちょんまげ)にせずに、だらっと長く垂らしたおさむらいが、屋敷の廊下を歩いているのを見た。回り廊下の角を曲がったから、私が追い掛けて行って見ると、洗面所の方でふっと消えた。」と富士子が話すと、

「その武士は、ずっと前から此処に住んどる、御前も見たのか?そのお侍は既にこの世の者ではない。幽霊じゃ。一度二階に上がって来た事もある。」と小百合は平然と言った。

病身で外出のできない小百合は、ほとんど終日屋敷の二階に居た。客人などが、表に停まった車から降りて門扉を入って来ると、飾り門を抜け太鼓橋を渡って、屋敷に出入りする様子を窓からじっと観察しているのだった。

幼少の頃の富士子は、「この子は、身体が弱い」「やまいもん」と、病弱である事を常日頃からマイナスに言われていた。富士子はそれを気に病んで、自分の存在意義を示して、名誉挽回するために、正直の来客接待を盛り上げる役目を演じる事に努めた。

例えば、客人から手土産としてもらった人形に、一つ一つ忘れない様に、その客人の名前を書いたメモを付けて保管した。客人が来た事を知ると、窓から眺めたり、先に座敷をそっと覗いて見たりして、客人の顔を前もって確認しておいた。そして、その客人から土産にもらった人形や玩具を選んで用意した。

「いらしてたんですか?私は、この人形が一番気に入って、寝る時もこれを抱いて、何時も一緒なんです。そうでしたね、この人形は、叔父さんに戴いた人形でしたね♪」と、その客人の前で演技をして喜ばせる。

客席に出れば、歌を歌ったり、幼児なりに創意工夫して考えた接待サービスをして客人を喜ばす「おませな」幼児だった。

富士子はまた、辞書を見るのも好きだった。

「私は、新しく『薔薇』という字を覚えたんですよ♪」画数の多い難しい漢字を覚えては、正直の元へ訪れる客人の前で披露して、褒められるのを楽しみにしていた。

その当時の富士子が、人前で笑顔を見せるのは、客人である相手を喜ばすためだった。千重の実家に連れて行ってもらった時、幸子や幸恵がテレビ番組を見て笑っているのに、富士子は冷めた退屈そうな顔をしているので、

「ふじちゃん、おもしろないの?何で笑えへんの?」と不思議そうに尋ねられ、

「今は別に笑う必要がないから」と富士子は答えた。

安楽島にも、周辺には幼児や子供は居た。小高い斜面に奥まった屋敷は、常に門が冷たく閉ざされて、周辺の住民からも「何か胡散臭い」と警戒されていた。屋敷に籠る富士子に同年代の遊び相手はできなかった。

屋敷の中に居る限り、富士子の話し相手は全て大人で、しかも父親の会社の利害関係者ばかりだった。富士子は、話しをするのも笑顔を見せるのも損得計算の演技でしかなかった。

富士子は、一見如何にも無邪気そうに子供らしそうに振る舞う、演技をしている自分が嫌いだった。その反動で、大人になってからも「子供らしさ」というものを否定して、自分の子供以外の子供は嫌う傾向がある。

富士子に与えられた「子供部屋」は、十二畳の和室で大きな押入れがあった。そこに沢山のプレゼントや土産品を保管していた。

調度と言っては、母親の御下がりの三面鏡と、父親の御下がりの事務机が、ぽつんと置いてあるだけで、だだっ広く寒々としていた。

窓からは、クロの小屋が直ぐ傍に見えた。正直に大事にされていたクロは、屋敷の端っこで正直の愛娘を見守る忠義な番犬だった。富士子が窓から手を伸ばせば、クロの頭を撫でてやれそうだった。哀しい事に、富士子の記憶の中にクロは既に居なかった。

部屋の窓からも見える菜園にはウサギ小屋が置いてあり、富士子がうさぎを二匹飼って可愛がっていた。このうさぎは、ある晩イタチに襲われて、翌朝ぺちゃんこになった無残な姿で、小屋の外の畑に横たわっていた。

富士子はまだ生き物に「死」というものがあることが理解できなかったので、この現場を目にしても何が起きたのかよく解らず、何故うさぎが動かなくなったのかと涙も出なかった。

安楽島の屋敷では、富士子に専任の子守兼家庭教師役が付いていた。言葉遣いや作法、常識、小学校低学年程度の基礎的な知識や書道を教授してくれた。幼稚園や学習塾や習い事に出る必要も無かった。

富士子が四歳の頃まで、誕生日になると、屋敷に黒装束の男達が現れ、

「お嬢さんに、お祝いです」と立派な舟盛りを届けて帰った。これは立花の心遣いだったと思われる。

立花は、大事に扱われ過ぎて身体の弱かった富士子を気遣い、オートバイやスケーターなど、富士子が乗って遊べる運動になりそうなおもちゃを調達して来てくれた。立花は、お手伝いさんなどが見て驚いている前で、富士子をそれらに乗せて、後ろから勢いよく押して庭を走るのだ。

「お嬢、音の出るおもちゃも面白いんでっせ」と富士子にパトカーや消防車のおもちゃを買って来てくれた事もあった。

「男っぽくて硬派の濃いキャラクターの人やったけどなぁ」富士子の記憶には、はっきり印象が残っているが、この立花と一緒に写った写真は不思議なことに一枚も無い。

「お菓子を買いに行きたい」と二人居たお手伝いに富士子が言うと、立花を始め付き添いを連れて運転手付の高級車で出掛ける。その仰々しさに、外へ出るのも億劫になった。

「土で団子を作って遊びたい」と言うと、お手伝いさんに

「破傷風になりますから、土を触ってはいけません」と制止される。

幼稚園にも馴染めそうになく、通えそうにもない、体力の乏しい幼児であった。

当時の富士子が、屋敷の外へ出掛ける行事として楽しみにしていたのは、母親と小俣町の実家に遊びに行く事であった。安楽島小学校の前からバスに乗って、鳥羽駅から国鉄電車に乗って行った。

富士子は、小俣の祖母と会って話すのが何よりの楽しみだった。富士子は、祖母の前ではとにかく饒舌であった。

「さすがに武田さんの子だけあって、それはようしゃべる。口に物が入っている時以外は、ずっとしゃべってる。千重もたいがいようしゃべるが、ふじちゃんの比やない」と、祖母はいつも感心していた。

富士子にすれば、実家に遊びに行っても、義姉の二人には嫌われて全然相手にしてもらえないので、ひたすら祖母と話すしかなかったのだ。

富士子は、祖母が楽しそうにする様子を見るのが嬉しくて、祖母が話したいと思う事、嬉しそうに話す事を何度でも繰り返し聞いた。

例えば、祖母は、亡くなった夫の又蔵の想い出話などは、いくらでも話していたがった。

「お婆ちゃんは、お爺ちゃんの事が好きで、いつも長いこと仏壇の前で拝んでるから、お爺ちゃんの話を聞かせて」祖母は、セピア色の古い写真を出して来て、そこに写っている又蔵を富士子に見せた。

「これが爺ちゃんや、背が高くて男前やろ?この横に立ってる若い女の人は、カフエで働く女給さんで、爺ちゃんの追っ駆けや」と。見れば、又蔵の隣に、頭にパーマをあててワンピースを着た化粧の濃い女性が写っていた。

「婆ちゃん、爺ちゃんがこんな男前で心配やなかったん?」

「それがさね、爺ちゃんは、いつも、『これがわしの可愛い女房の千代や』て言うて、皆に紹介してくれるから、婆ちゃんは全然心配やのうて、嬉しかったんよ」

 遊び相手の居ない富士子は、生き物が好きで、安楽島の屋敷の庭で採ったかたつむりを可愛いと大事に飼っていた。

「かたつむりを煎って飲ませれば、癇の虫に効く」と聞いた千重が、小俣の庭で採ったかたつむりを煎って粉にして、富士子に飲ませた事があった。富士子は、小俣の炊事場でまな板の上にかたつむりの殻を見付けて不思議に思った。

千代と二人で近くの田んぼへ行って、オタマジャクシを沢山採るのも楽しみの一つであった。

実家に遊びに来た時の富士子の様子を邪険な目で傍観していた幸子と幸恵の二人は、

「この子は、無邪気な子供らしさが全く無い。可哀想に、健全な大人にはなれそうにない」と冷たく嘲笑した。

富士子が祖母に買ってもらった晴れ着を着て、千重と三人で伊勢大祭に言った事があった。吹奏楽団などのパレードを見た後、小腹が空いたので駅前のジャスコに立ち寄った。

おやつに蒸しパンを買ってもらって、三人で食べた時、パンの裏側に薄紙が付いていた事に三人とも気付かなかった。全部食べてしまってから、富士子が

「あれ?裏に紙が付いてたんやわ!知らんと食べてしまったね」祖母と大笑いした事があった。

この日は、珍しい事に、大湊に住んでいた千重の妹百代が一緒だった。祖母や千重と並んで、晴れ着姿の富士子に、目を細めて笑い掛ける様子が記念写真に残っている。

国鉄伊勢駅の構内には、「悪い本を食べるヤギの箱」というものが設置されていた。「ヤギの箱」は富士子より背が高くて、サメの様な恐い顔が描かれていた。

「その口に本を入れると、牙の生えた口が動き出して、本を食べてしまうに違いない」と富士子は恐がっていた

「でも、もしかして、悪い本でない本を口に入れたら、吐き出すんかな?」と思って、長い時間じっと観察していた事もあった。

「婆ちゃん、そっちには、ヤギノハコが居るから、恐いよ!」と言って、祖母の手を引いて箱の傍を通るのを避けた。

当時の国鉄宮川駅は、駅員が一人しか居なかった。便宜的に、改札を通らない客は乗車しないものと判断する様に決めていた。

ある日、千重が富士子を連れて、宮川駅から電車に乗ろうと駅に向かって歩いて来た。既に駅の手前まで電車が来ているのが見えた。駅の入り口まで回って改札を通っていたのでは、間に合いそうになかった。

千重は手前の踏切を斜めに横断して、改札を通らずに、線路から直接ホームに上がった。

まだ汽車のドアが開いていたので、千重は、片腕で富士子を抱き抱えて、もう一方の手で手すりに摑まった。そして、ステップに右足を乗せて左足を車内へ踏み入れた時、その左足を挟み込んでドアが閉まった。汽車はそのまま発車した。

駅を出てから暫くは、誰も気付く事無く走り続けた。間も無く、汽車が宮川の上を渡る危険な鉄橋に差し掛かる。その寸前だった。

「何か?人の声がする?」偶然、何となく窓から車外を覗いて、欠伸をした乗客の学生が、ステップに掴まる千重に気付いてくれた。その学生は驚いて、急いで緊急ドア開閉レバーを操作して、ドアを開けてくれた。

「早く入って!大丈夫ですか?」二人を車内に引き込んで助けてくれた。

その学生は、隣の田丸駅前のうどん屋の息子だった。翌日、千重は、菓子折りを持ってその店までお礼を言いに行った。

富士子が、もう一つ楽しみにしていた「お出掛け」があった。それは、千重に「鳥羽水族館」へ連れて行ってもらう事だった。富士子は、一般的な子供とは少し違う「変わった」子供だったので、富士子が最も好んで見るのは「エイ」であった。

富士子は、水槽の中を自由気ままにゆったり泳いでいるエイを見るのが好きだった。

「砂底に潜って貝などを食べる種類もある」と説明が書いてあった。水槽の底の方で、静かにじっとしているかと思えば、偶にユラユラッと泳ぐ姿が好きだった。

「尾に毒棘を持っている種類もいて、刺されると死ぬ事もある」などという説明を聞くと、富士子はゾクゾクした。性格が屈折していた富士子は「毒を持つ生き物」に興味を持った。

海の近くで生まれ育ちながら、富士子は「水」を怖れる子供だった。富士子が初めて水族館に連れてもらった時だった。深くて大きな水槽に落ちそうになりながら、眼下に初めてウミガメを見た。

「これは、きっと人食いガメに違いない」その大きさに驚いた。ショックだった。その印象がトラウマになって、それ以来、水族館に行っても、ウミガメのコーナーには絶対に近寄らなかった。

このころは、まだ正直の事業が、ピークはとうに過ぎたとはいえ、何とか強引にでも回転していた。事業に忙殺されていたのであろう、当時の富士子の話には、ほとんど父親の正直が登場しない。富士子にとって「父親」とは、常に「仕事」をしているものであった。

当時の正直は、世間一般の「父親」らしくなく、富士子にとっては、在宅の「師匠」の様な存在で厳しく近寄り難かった。正直が富士子に話すのは、「帝王学」や「事業内容」や「景況」であった。父親であるより「実業家」であった。サラリーマン家庭における様な父親像はなく、「親子の会話」というものも無かった。

正直が娘を連れて外出するのに消極的だったのは、いわゆる子煩悩からではなく、娘が誘拐される怖れや暗殺されることを心配して、警戒していたからでもあった。

しかし、この誘拐や暗殺を心配するのも、父親として我が子を愛しく思う気持ちというより、それが結果として、自分の事業遂行に支障を来すという理由であった。



「歩三兵(ふさんびょう)」


正直は、三十歳代前半までに三度も「心肺停止」状態になりながら、その度に蘇生していた。三度目は三十八歳、富士子が生まれた翌年であった。

元来、アルコールに強くはなかった正直だが、普段から接待酒を浴びる様に飲んでいたので、肝臓は早くから異常を指摘されていた。血圧も高く、心臓には常に負担が掛かっていた。

過労が心不全を惹起し多臓器不全に至って心肺停止状態になったこともあった。この時は、医師が「死亡診断書」まで書いて帰った。親戚一同に連絡を取って屋敷に集ってもらい、葬儀屋に依頼して枕経の手配までしていた。

過去にも心肺停止状態から蘇生した事のある正直だったので、千重は、どうしても「死んだ」という事が信じられなかった。

「顔の色つやも唇の色も死んだ人には見えんし、武田さんは絶対に生きとる」と言い張って、泣きながら枕もとを離れなかった。

千重の祈りが通じた訳ではなかろうが、医師が帰って何時間も経ってから、正直が瞬きをした。千重が直ぐに目敏く認めて

「武田さんは、やっぱり生きとるがん!今瞬きしよったに!」と叫んだので、家中が大騒ぎになった。

「千重さん、気持ちは分かるけど、そんな阿呆な事あるかいに」と暫くは誰も相手にしなかった。そうこうしていると、正直が口を開いた

「皆どうしたんか?」

呆気にとられて見守る中、千重に抱えられて起こされ、経帷子を着た姿で布団の上に座位をとった。慌てて医師を呼んだ。駆け付けた医師も腰を抜かさんばかりに驚いたのは言うまでもない。

田中角栄に憧れ、鳥羽安楽島の「今太閤」を目指して猪突猛進して来た正直は、不死身の様なしぶとさを見せながらも既に四十二歳であった。正直は、自らの能力を過信してそれに頼り過ぎ、常にワンマン経営であった。

安楽島に屋敷を建てるまでの二十代、結婚するまでの三十代、破竹の勢いで事業に没頭する正直は、他の事業家から「剃刀」などと恐れられたほど、事業経営に対しては人事も含め非常にシビアだった。それであればこそ、十以上の事業を何とか回転させることに成功した最大の強みであった。

ところが、結婚すなわち所帯を持つということを考えるようになって、正直の考え方が保守的になってしまったようだ。正直はそれまで、攻めることだけを考えて進んできたので、守りというものが苦手であった。

正直が、いくら将棋が強いと言っても、「歩三兵」で適うのは相手が将棋の初心者の場合に限るべきであった。「玉将」一人、他は「歩」ばかりで、「飛車・角・金・銀」が居ないのでは時間の問題であった。しょせん先が見えていた。

正直には、自分の意志を継げる後継者を育成しようという考えが全くなかった。意気に感じて神輿を一緒に担いで行こうと言う支持者も、恩義を感じて力になりたいと思ってくれる協力者も居なかった。常にワンマン孤軍奮闘でしかない現実に、気付けなかったのが致命的で悔やまれた。

更に娘が生まれて「子を持つ親」の思いに共鳴できるようになって、人情にももろくなり、自分の部下(お抱え運転手)が会社を裏切って、ライバル会社に情報を売ったという事実を知っても、「家族のため」と泣きを入れられて許してしまった。この甘さが「蟻の一穴」となって、ついには全事業の倒産につながっていった。

また、正直が目当てにする資金は、必ずしも自分の手元にある資金に限らなかった。例えば、千重と結婚後の事だが、正直は、銀行から二千万円を借り入れた際、その担保として無断で千重の不動産に抵当権を設定していた事があった。

事業が思った様に運ばず、正直は資金が回収できず融資金の返済ができなかった。銀行が債権回収のために、抵当権を行使する旨を不動産の所有者である千重に連絡して来た。それで初めて、この事実が千重に発覚した。

千重は、ようやくの思いで自分の家を手に入れて、苦労した母を守ってやり、安心させられる様になったと一安心していた時だった。命懸けで築いた家を盗られたのでは、また母を路頭に迷わす事になる。

「これは一大事」と驚いた千重は、抵当権を抹消するために、正直の債務を代理で返済せざるを得なかった。元利合計で二千万円をはるか上回る金額になったが、千重はすんでのところで自分の不動産を守る事ができた。

寝耳に水のこの様な事件があって以来、用心のために、千重は不動産の名義を自分の母親の千代に書き換えておいた。


昭和五十一年七月二十七日、自由民主党衆議院議員で元内閣総理大臣の田中角栄が、受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された。いわゆる「ロッキード事件」一点に、世間の関心は集まっていた。子曰。人無遠慮。必有近憂。(しいわく。ひととおきおもんぱかりなければ。かならずちかきうれひあり。)

この年正直は、和歌山県でゴルフ場の開発を計画した。多額の事業資金の融資を受けて、意欲的に用地の買収を続けていた。残るは一ケ所ばかりというところで、正直は原因不明の高熱で倒れて計画は水泡に帰した。高熱の原因は肝癌であったらしい。

もとより、正直の意志を継いで事業を継承できる者は居ないので、ゴルフ場開発計画はその時点で途絶した。獲得途中の用地は、国道と繋がる肝心な場所の取得ができていなかった。莫大な資金を賭けて、強引に取得した林野の土地には、担保価値など無いに等しかった。

投じた事業資金は、回収の目処も立たなくなった。融資を受けた金融機関に膨大な債務だけが残った。他の事業の運転資金の工面もできなくなり、将棋倒しの様に次々と資金繰りが付かない悪循環になった。

正直の十一社に及ぶ事業は、寄り合い所帯だったので、連鎖倒産が避けられなくなった。正直は、十一社の負債合計六十億円の返済を迫られる債務者になった。

社用のリンカーンやベントレーなどの車や換金し易い動産は、真っ先に売却して返済に充てざるを得なくなった。

事業が順風満帆に運んでいる時でも、正直ワンマン経営では、十分に目配りが行き届くとは言えなかった。ましてやこの危急の事態に及んで、重病に伏せる正直一人の力量では、もはや如何ともし難かった。

この様な時期にも、誰一人として正直に助言してくれる者は無く、唯一辛口の忠告をしてくれたといえば、腹心の立花一人だけであった。

「大将の船が沈むまで、わしは付いて行きまっせ」と忠義を示していた立花であった。

しかし正直は、まだ春秋に富む立花の将来を考えて、当時既に居た花嫁候補と一緒に、強引に名古屋へ行く様に勧めて追い出した。今も健在なら七十歳代である。

屋敷に居候していた小百合は、白血病で既に亡くなっていた。屋敷で働いていた使用人にも、随時他の仕事を紹介して暇を出した。また一人また一人と辞めて行き、もぬけの殻の様に淋しくなった屋敷には、正直の家族三人だけが残った。

正直は、常に事業資金の工面の事しか頭に無いので、もとより家族の生活費の事など全く眼中に無かった。事業が悪循環に陥り始めると、正直から生活費をもらえない千重は、その日の食費にも不自由する様になった。

正直は全く知らなかったが、立花は、屋敷から出て行くまで、自ら外で肉体労働をして日銭を稼いでいた。その稼ぎで、おかずになりそうな食品や、富士子が喜ぶラーメンやジュースなどを買って、それらを黙ってテーブルの上に置いてくれた。千重に生活費の援助までしてくれていた。

千重と富士子は、米やおかずを買うお金も無いので、立花が買って来てくれた総菜、蒲鉾やちくわやラーメンを食べていた。幼い富士子は、「出前一丁とスプライトのセット」を無邪気に楽しみにしていた。

千重は富士子を連れて、海岸まで半時間以上歩いて行った。初夏の日差しは厳しかった。

「ふじちゃん、こういう海藻は、みな食べられるでな」浜に打ち上げられたワカメやアオサを拾って来て、味噌汁に入れて食べた。

広い屋敷内には、色々な食べられそうな野草が自生していた。たんぽぽの葉やわらび、せり、つるむらさき、ゆきのした、よもぎ、零余子(むかご:高級食材)等を摘んで食べて飢えを凌ぐ日も多くなった。

この様な時期でも、家族の現状に目もくれず、正直は平気で客人を屋敷に連れて来て

「食事の支度をしなさい」と言うのだった。千重や富士子が食べる米さえ無い状況を知ろうともせず、

「何でも良いから用意しなさい」と、むしろ語気を強めるのだった。

この様な状況になっていても、正直の親や兄達や親戚は、

「そのうち跳ぶのは時間の問題だ」と何の協力もせず傍観するだけだった。世話になった正直を疫病神扱いにして、支援を申し出るどころか、

「武田家の恥を晒すな、みっともない真似はするな」と、口煩く干渉するだけだった。

新聞屋や牛乳屋が、何度も煩く集金に来る度に

「今は払うお金が無いので、また改めて来て下さい」と門前払いする始末だった。

後で判明した事だが、正直に比べれば、女性である千重はまだ心配性だった。女房の勘で、

「いよいよ逃げ出す事になりそうだ」という雰囲気を事前に感じて、大事な荷物を多少は実家へ移動していた様である。家具などで想い出があったり値打ちのありそうなもので、二度と取り返せそうにないものを少しでも運び出したいと考えた。妹の厚代の自宅には大きな倉庫があったので相談したが、厚代は

「そんなもん預かる場所は無いがん」と冷たく断った。

お金で買える物は、また先で何とでも取り返せるかも知れないが、写真や想い出の品は二度と戻らない、「大事な荷物」というのは、女性でしかも母親と言う価値観に基づく物であった。

事実その通りの結果になった。その時に千重が持ち出して、実家に保管して置いた物以外、今では何も残っていない。まるで、空襲に遭って着の身着のまま焼け出されたも同然なのだ。

正直は、取引先の社長の招待で広島県の呉に行った時、「音戸の瀬戸公園」を訪れて、「平清盛像」を見た事をふと想い出した。

「今ひと時の陽があればと、さすがに権勢を誇る清盛公もいらだち、遂に立ち上がり、急ぎ日迎山の岩頭に立ち、今や西に沈まんとする真赤な太陽に向い、右手に金扇をかざし、日輪をさし招き『返せ、戻せ』とさけんだ。すると不思議なことに日輪はまい戻った。」

平清盛公の「日招き伝説」を思い出すに至って、正直は万策尽きた事を悟った。

首を傾げたくなるが、表向きは実業家の看板は上げていても、正直の最終目標は、あくまでも「政界に打って出る事」だった。債務を逃れるためとは言え、恥をかくような事はできなかったのだ。つまり、自己破産という実に合理的な最後の手段を正直は選べないのであった。

清和源氏の流れを継ぐ「武士家系」の誇りとしても、責任は

「潔く自害という形で果たすべきだ」というのが正直の信念であった。

富士子にも幼い頃から、女性の自害の仕方は

「恥ずかしい死に様を見られない様に、両膝を紐で縛って、頸動脈を指で探り当てて、短刀で引き切る」と、具体的に伝授していた。


ずっと後になってから思い出したのだが、正直の記憶に残る「妙な話」があった。

正直の事業が、まだ順風満帆で栄華に酔っていた頃、一人の「易者」が安楽島の屋敷にやって来た。その男は、屋敷の中をうろうろ歩き回った。

「此処は神の宿る場所だ。人間が住むと災いに巻き込まれる。家主はもう5年もせぬ間に没落する。自重せねば死に目に遇うぞ。家主は男の後継ぎに恵まれない、産まれても育たん。女の子は産まれ家主が宝のように大切にする。その子は強運の持ち主で、家主はその子と引き換えに強運を失うであろう」と予言したのだ。

この屋敷の建てられた場所は、昔、首刈りの処刑場だったと聞く。正直と千重の間には、長男が産まれたが、早産で死んでしまった。そしてその後に富士子が生まれた。

神の御託宣とあれば、この予言を聞いて正直はもっと警戒して自重せねばならなかったが、

「しょせん易者の占いだ」と、いつの間にか忘れてしまっていた。

奇しくも結果的には、ほぼその通りになってしまった。

キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストが、

「十二弟子の中の一人が私を裏切る」と予言した時の情景を描いたのが「最後の晩餐」である。有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの作品である。二十世紀末に行われた修復の結果、描かれた「晩餐」の皿の上には、「魚料理」が載っている事が判明したそうだ。

或朝、富士子が千重と屋敷で最後の「晩餐」ならぬ「朝食」を食べていた。その皿の上には、富士子の好物の鯖の塩焼きが載っていた。

正にこの朝食の最中に、「易者の予言」が実現する事になった

きちんとした身形の見慣れない何人かの男性が屋敷にやって来て、ずかずか部屋に入って来た。目に付く物で換金できそうな物に「差押物件標目票」と書かれた紙を貼って回った。千重も富士子も生まれて初めて見る、裁判所の執行官と債権者による「差押」の光景であった。

正直は、一言も言わなかったが、事前に裁判所からの通知も来ていたのであろう。

「蟻の一穴天下の破れ」と言われるが、正直を裏切った使用人は、一人や二人ではなかった。それらを寛容に許して見逃した結果、遂には幸運に見限られる事になった。

庭の池には二千万円分の錦鯉が泳いでいたが、正直の栄華と事業の崩壊を告げるかの様に、全て死んでしまった。誰かが毒餌を撒いたのか、伝染病が原因だったのかは分からないが、次々と腹を上にして浮かび上がった。

かつて、使用人や訪問客で賑わった屋敷も、今はひっそり暗く淋しく居た堪れなくなった。

万一の事態を予想して備える事をしなかった正直には、もはや手の施しようも無かった。二十八歳の時に築いた安楽島の屋敷を捨てて、

「もはや、一家心中するしかない」と覚悟を決めた。

正直は、昇る朝日を目指して、足元もろくに見ずに突っ走ってきた。そして、案の定、取るに足りない程の小さな石に躓いて倒れた。しかも、正直が「昇る朝日」だと信じていたのは、実は沈みつつある夕日であった。

昭和五十一年九月二十四日、四十二歳厄年であった。秋分の日に近いとはいえ、九月の残暑は厳しかった。

正直の財布には、電車賃に足りるだけの小銭しか無かった。荷物は当座の着替え程度で、鞄に入るだけの夏布団も詰めた。富士子はお気に入りのぬいぐるみ一つ抱いて、着の身着のままに近い状態で安楽島の屋敷を飛び出した。



「西成区梅南」


正直は、女房と五歳の娘を連れて、安楽島の屋敷を這う這うの体で飛び出した。高熱に浮かされた頭は空虚にふらふらして、自分の足で歩くのが精一杯であった。

正直の考えでは、私は自害する目的で屋敷を後にしたのであって、これは、債権者から逃れるための出奔ではないのだった。死に場所を探すのであって、行き先の宛があった訳ではなかった。

安楽島からバスに乗り、近鉄鳥羽駅から各停と急行を乗り継いで大阪に向かった。

上本町行の電車は「急行」とは名ばかりで、ほとんど乗り降りする客のいない様な駅でも執拗に停車するので、思う様に進まなかった。

本当であれば、正直は病床で安静にしていなければならない身体だった。重篤な肝癌によると思われる高熱で、正直は憔悴し切っていた。

電車の揺れに身を任せて、うつらうつら微睡む正直の頭には、昨日までの出来事が前後不覚に走馬灯の様に浮かんでは消えた。

ともすれば今も、お抱えの運転手が走らせるリンカーンの後部座席で、居眠っているだけの様な気がした。料亭で接待をする約束があるので、運転手が正直を迎えに来るはずだった・・・。

庭の池には無数の錦鯉が泳いでいた。愛犬のクロが正直を見付けて、喜んで跳び付いた。

正直は、屋敷の大広間で、大勢の客人を前に得意になって講演していた。

屋敷の桜は、今年も満開で見事だった。何故かその下に御座が強いてあり、居住まいを正した武士が切腹の支度をしていた。その隣の御座には、武士の妻が娘を伴って正座し、夫の後を追って自害する覚悟をしていた。

正直は十一の事業会社の帳面を付けていた。いくら計算し直しても赤字は消えなかった。赤い数字を消さなければ、赤い数字から逃げなければ。追い縋って来る赤い数字が目の前一杯に揺れ動いて、はっとして覚醒すると電車の窓外に踏切が流れて消えた。

奈良県に入ると、急行は急行である役目を思い出した様にスピードを上げて先を急いだ。

「もう直ぐ大阪に入る。何処へ行くのか、何処で降りるのか、はっきり決めんといかん」

まだ正直の意識は五里霧中であった。

「大阪の西成という所は、人が最後に流れ着く街、外から入って来る者に優しい街」かつて誰かに聞いたような気がした。

「こういう時は、先ず西成に行くのだ」正直には漠然とした予感があったのかも知れない。

運転手付きの車で大阪に何度か来たことのある正直は、上本町という街は比較的整然としていて、雑踏に紛れたいと考える自分たちには相応しい場所でないと考えて、鶴橋で一旦電車から降りた。ふらつきながらも奈良線に乗り替えて難波に出た。

「見て!『なんば』って書いてある!なんば!?」富士子は「なんば」というのは「とうもろこし」のことしか知らないので、初めて難波に来てその駅名が書かれているのを見て驚いた。

「ここで沢山とうもろこしが採れるのかな?」想像しておかしくなって一人ケラケラ大笑いして、周囲を歩く人たちに変な目で見られた。

「とにかく西成へ出るためには、地下鉄に乗らねばならない。御堂筋線ではない。そうだ、四つ橋線だが大国町で降りたのではいかん」地下鉄の乗場を目指して地下街の雑踏を歩きながら、朦朧とする意識の中で、ああでもないこうでもないと、思考はまとまらなかった。

とりあえず花園町で降りて、階段で地上に上がってぶらぶら歩き始めた。

梅南辺りまで歩いて来た時、偶々、窓ガラスに「空室あり」の張り紙を見掛けた。藁をも掴む思いで、その建物へよろよろ歩いた。周囲に同じ様な町工場が建て込んだ中に、こじんまりとした鉄工所があった。工場の入口に近付くと、溶接の火花がチカチカ目に飛び込んだ。機械の音は然程でもなかったが、辺りには機械油の臭いが立ち込めていた。

元は宿直・仮眠室として設けた部屋を利用しなくなったので、住みたいという人があれば貸しましょうというのであった。

「貼り紙を見て、訪ねて来ました。小さい子供の居る家族三人なんですが、部屋を貸してもらえますか?」

「ええ、結構ですよ。四畳半一間で良かったら、入って見て下さい。」

家主に案内されて、ペンキの剥げた鉄製の急な外階段を鉄工所の2階に上がると、日当たりの悪そうな四畳半が三部屋並んでいた。

戸を開けて入ると、使い込まれた古畳が無造作に板の間に敷いてあった。板の間の根太の隙間からは、階下の工場の灯りが見えた。部屋には小さい腰窓が一つ、窓を開けるとすぐ目の前に向かいの建物の壁で、手が届きそうだった。

日曜や昼休みを除いて、作業時間中は機械の音の止む事はなさそうだった。慣れるまで、機械油の臭いからは逃がれられなかった。

仮眠用の部屋なので、戸には鍵もなかった。他に、共同で使う便所と炊事場があった。

家主の案内で、手前の部屋に声を掛けてもらった。家主が

「この部屋は外国人が出入りして、ちょっとややこしいんですわ」と言う通り、最後まで誰が住んでいるのかよく分からなかった。奥の一軒は三人世帯で、家主は、

「ひでお君ていう三歳の男の子が居てはります。良い人ですから、また後で声掛けて見て下さい」

真ん中の部屋が空いていたので、ともかくもそこへ落ち着く事にして、家主に家賃など入居の手続きを頼んだ。畳の上に荷物を降ろすと、正直は、空気が抜けた様に、畳の上に崩れ落ちて寝転がった。

富士子は、慣れない油の臭いに気分が悪くなったので、炊事場へ行って水道の水でうがいをした。咳き込みそうな予感がして、今咳が出始めたら吐きそうだと不安になった。女房の千重は、二人の「病人」を抱えて、

「私一人だけでもしっかりしていなければいかんに」と、深呼吸をして自分を励ました。

間も無く家主が領収書を持って上がって来たので、千重は、封筒からお金を出して、敷金と一ヶ月分の家貸の支払いを済ませた。家主が出て行って、千重は

「とりあえず、お隣さんに挨拶をせんといかん」と、鳥羽駅で買って来た手土産を袋に入れ直した。

引越の挨拶というからには、家族そろって顔を出さねば格好が付かないので、恐る恐る正直に声を掛けて見た。起き上がって胡坐をかいて、暫く呆然としていた正直は、思い切った様に「うん」と膝を叩いた。

富士子も何とか立ち上がって来たので、部屋を出て奥隣の部屋の前に立って様子を窺った。テレビの音や家族の話し声が聞こえていたので、戸をノックした。

「初めまして、今日から隣の部屋を借りて住む事になりました武田です。主人の正直で、私が女房の千重、この子が娘の富士子です」と自己紹介をした。

隣のひでお君世帯は、初対面にも関わらず、親しい親戚の様に愛想良く笑顔で迎えてくれた。家族そろって実に親切な人達だった。

「買物は、すぐそこにイズミヤがありますし、銭湯は、浪速温泉ちゅうのがありますわ。分からん事があったら、何でも聞いとくんなはれ」大阪は初めてで、右も左も分からない不安で戸惑う正直達を励ましてくれた。

人の良さそうな夫婦の笑顔を見ているだけで、元気づけられる思いだった。

 安楽島の屋敷の様子を見ていて、千重は、遠からずこの屋敷を出る事になるだろうと、かなり以前から心配していた。鳥羽を出るに際しては、当然それなりの資金が必要になると考えて、ある程度のまとまったお金を借りる当てを探していた。

千重には、三重に二人の妹が居た。直ぐ下の百代には、嫁入り道具から結婚資金の全てを自分が準備してやったという貸しがあった。百代の夫は、大手の優良企業に勤めて収入も安定して、余裕のある生活をしていた。

末の妹の厚代は、鉄筋建築業を自営していて、列島改造の公共工事の流れに乗って、当時は相当景気が良かったはずだが「そんな貸すような余裕は無い」と薄情に断った。

千重は、百代に頼んで、口煩い夫には内緒でお金を工面してもらって、いざという日のために、封筒に入れて大切に保管していた。その封筒のお金があったおかげで、ここまでの交通費や、仮住まいの敷金や家賃も何とか支払う事ができたのであった。

しかし、これからここで生活して行くためには、千重がパートにでも出て、いくらかのお金を稼いで来ない限り、明日の米さえ買えなかった。おかずは無くて辛抱しても、千重が実家から内緒でもらって来た米が無くなるまでに、米だけは買わねばならなかった。

もとより「絵に描いた餅」が食べられると本気で信じている正直は、当面の生活費は全てどこからか湧いて来るお金で、放っておいても何とかなるものだと、このような千重の気苦労を窺い知ることさえ無いのだった。

 「とにかく西成に行けば野宿でもできる」と思っていた正直は、とりあえず雨露の凌げる部屋にたどり着けて、三人ともほっとして崩れ落ちる様にそのまま畳に転がって休んだ。

この時まだ一家心中する覚悟でいた正直は、どうせ死ぬのならもうお金など惜しむ必要もないと思った。

翌日遅く起き出した正直は、初めて家族で大阪に出て来た記念に、難波の街を少し歩いてみようと、千重と富士子を伴って仮眠室を出た。花園の駅から四つ橋線で難波に出た。

せっかく難波にまで来たのだから、冥途の土産でもないが、噂に聞く「喫茶店」というものに入ってみようと、偶々目についた「アメリカン」という店に三人で入った。正直と千重はコーヒーを注文し、富士子は生まれて初めてクリームソーダというものを飲んだ。

九月も下旬とは言え、少し動くと汗だくになる暑さで、扇風機も無い風通しの悪い部屋は、高熱の正直には特に応えた。汗だくになっても銭湯にも行けず、洗面器の水でタオルを絞って拭くよりなかった。

暫くは着たきり雀で、安楽島の屋敷で着ていた服装のままだった。正直たちの身形や言葉遣いは、こういう場所には不相応だった。元はそれなりの暮らしをしていたはずの家族が、突然こんな所に住まざるを得なくなった事情を想像して、隣のひでお君世帯も親切にしてくれたのであろう。

正直は三十代にも肝癌の診断を受けた事があった。放射線治療や丸山ワクチンなど抗癌剤の投与を受けても十分に奏効しなかった。肝臓は、他の臓器に比べて再生能力が優れているので、肝臓内で障害が起こって病状が進行しても、自覚症状が現れ難い「沈黙の臓器」と呼ばれている。従って、肝臓に癌の自覚症状が現れた時には、既に相当進行している可能性が高いと言われる。

三十代以降は医者にも掛からず、治療もしていないので、常に癌の再発という不安を抱えていた。最後に倒れた原因も、自分では、この肝癌の再発ではないかと思っていた。

止むを得ない状況で、無理をして自力で歩いては来たが、正直は四十℃近い高熱が下がらず、気力だけで持ち堪えていた。本来であれば入院治療が必要な状態であったが、時間も費用も無く保険証さえ持たなかったので通院もできなかった。正直の姿が、あまりに悲惨だったので、

「うちの作った野菜スープで、美味しないですけど、滋養に良いと思いますんで、良かったら飲んでちょうだい」隣の奥さんは、心配して何かと気を遣ってくれた。

そんな或る日、何処から噂を聞いたのか、自ら「屠殺業者」と言う親切な人が、突然、正直の部屋に駆け込んで来た。鈍く光る長い牛刀を手に持って、その先に刺された肉の塊を正直の目の前に差出した。

「これは、わしらが難病の特効薬と信じている物や。牛の肝臓に稀にできる癌細胞やけど、これをオブラートに包んで飲みなはれ」ぜえぜえと、息せき切って一気に喋った。突然の事態に驚いたうえに、見た事も聞いた事も無い得体の知れない物体に、正直も千重も半信半疑であった。

しかし、病院にも行けず薬も無く、このままではもはや助かるとも思えない。

「どうせ死ぬのなら、特効薬と言ってくれるのを信じて」、正直は、言われた通りに、その肉塊を飲んでみる事にした。信じられない事だが、翌々日には高熱も下がって、身体も随分と楽になった。正直は、一命を取り留める事ができたのである。

数年後、仕事関係で親しくしている人が、

「最近は先生も元気そうですが、一度きちんと検査は受けておかないといけませんよ」と言って、強引に日赤病院へ連れて行ってくれた。一通りの検査を受けたが、不思議な事に、肝臓に癌は見付からなかった。

米を買う金にも困る生活なので、扇風機も無く、窓は小さいのであまり換気の役にも立たず、蒸し暑い日は辛かった。暫くは銭湯にも行けず、汗をかいても、タオルを絞って身体を拭くしかなかった。幸い洗濯機は炊事場の隅に共用のものが一つ設置されていたので随分助かった。

安楽島の屋敷の家風呂は、庭に独立して建てた「湯殿」になっていた。来客の利用も多かったので、浴室だけで八畳ほどもあり、その手前に六畳ほどの脱衣場があった。

六歳になる娘の富士子は、見ず知らずの他人と一緒に入る風呂は、旅館の大浴場くらいしか知らなかった。

西成に来て、富士子は生まれて初めて「銭湯」という場所へ行く事になった。何を持って行けば良いのかも分からないので、ひでお君の家族が銭湯に行く時に声を掛けてもらって、最初は一緒に行った。

鉄工所のすぐ近所に、隣の家族も利用している「浪速温泉」があった。自宅に浴室のある世帯が少ない地域だったので、銭湯を利用する人が多く、男湯も女湯も何時行っても賑わっていた。

屋敷の湯殿を当たり前に見慣れて育った富士子には、銭湯など想像もできなかった。銭湯初体験の印象は、これから始まる新しい生活を予感させるカルチャーショックと言っても過言でなかった。

入口で、大人百二十円、小人六十円、という入浴料金を払わなければ風呂に入れない。脱衣場でも洗い場でも、目の前に繰り広げられる初めて見る光景に、自分もここで生活するのだという覚悟を実感させられた。

と言っても、まだ幼い富士子には、銭湯に行く楽しみも直ぐに見付かった。それは、「いたくらのメロンソーダ」と言う、とても美味しそうな色をした飲み物だった。富士子は、

「いつか、もう少しお金がある様になったら、きっとあのソーダを買ってもらって飲みたいな♪」と目を輝かせるのだった。


病み上がりの正直は、布団の上に起き上がって食事をするのが精一杯で、まだとても働きに出られる状態になかった。部屋にはテレビも無く、情報源はラジオだけだった。

家族の中で、比較的丈夫で、まだ健康に恵まれていると言えたのは、千重一人だった。当座の生活費を稼ぐ必要に迫られて、千重は、鉄工所の周辺の町工場に求人の貼り紙が無いか、富士子を連れて見て回った。

鉄工所の近くに「革のベルト工場」が在り、そこでパートの求人をしていた。千重は、その工場の求人に応募して、その日からパート作業に就いて生活費を稼ぐことにした。

千重が、パートタイマーに出る様になってから、富士子は母親の顔が見たくなると、その工場をちょくちょく覗きに行った。人の好い経営者が、

「富士子ちゃん、よう来たね」と、いつも愛想良く迎えてくれた。

「富士子ちゃん、レモンケーキ食べるか?オレンジジュースもあるで!お母さんお仕事やから、ここで遊んどりな」と話し掛けた。

千重は、革紐でメッシュのベルトを手編みする内職を持ち帰ってする事もあった。

この工場長は、真面目に良く働いてくれる千重を気に入って、

「鉄工所の二階は、宿直室やから鍵も掛からんし物騒やわ。良かったら、わしがもうちょっとましなアパートを探して借りたるで?」と提案してくれた。

「せやし、そないに困ってはるんやから、ほんまやったら、きちんと役所に申請して、生活保護を受けはったら宜しいのに?」と、親身になって勧めてくれたりした。

生活保護の受給については、健康保険制度にさえ加入しない正直の考え方として、

「国家のお荷物になっては、生きている価値も無い、恥だ」と受け容れなかった。

安楽島の屋敷で、過保護なまでに守られて育った富士子にとって、西成に来てからの毎日は、唖然とする程の驚きの連続であった。

ある日、鉄工所の前の道端に、縄跳びのビニール紐を置いて、二階へ水を飲みに上った。水道で水を飲んでから、階段を降りようとして、富士子がふと下を見ると、見知らぬ中年の男が、富士子の縄跳びを自転車の荷台に括り付けていた。

階段を駆け下りた富士子は、自転車で走り去る男の後ろ姿を見送って呆然と立ち尽くした。僅か二~三分のコマ送りの映画を見る様な出来事だった。

ある時、富士子が「散髪屋さん♪」と言って、隣のひでお君の頭をはさみでチョキチョキと、虎狩にしてしまった事があった。人の好い奥さんは

「丁度そろそろ散髪に行かせる時期やったしかまへんよ」と、寛容にも笑って済ませてくれた。

当時、正直には、相当余裕のある生活をしているはずの兄が何人か居た。父親の正太郎も、独り身になってから、富士子が小学校高学年になるまで安楽島に健在だったはずである。

皆そろって「君子危うきに近寄らず」の薄情な人達で、正直の債務の噂を聞いて巻き込まれるのを怖れていた。

特に次男と三男の二人の兄は、正直の景気が良かった頃に、随分と世話になったはずだった。しかし、正直が病身のまま屋敷を飛び出した事を知っても、その後の消息に関心を持つ事も無かった。ましてや見舞いになど来るはずが無かった。

ただ一人、正直の弟の正治だけは、兄の近況を気に掛けて、鉄工所の二階の仮住まいを探し出して、独りで訪ねて来てくれた。

「よう!ふじちゃん!元気にしとるんか?ふじちゃんが喜びそうな洋服を百貨店で買うて来た。プレゼントやで!ケーキもあるで!」と上等なワンピースを何枚か買って、手土産まで下げて見舞いに来てくれた。

西成に来てから、ほとんど着たきり雀だった富士子は、久しぶりの新しい洋服を見て大喜びした。千重が小俣の実家に富士子を連れて行ってくれる日にも、正治がプレゼントしてくれたワンピースを着て行った。その一つに、えりもとに刺繍の飾りがついた黄色いワンピースがあった。富士子は特にそのワンピースを気に入って、それから何年も大事に着ていた。

富士子の大好きな「小俣のお婆ちゃん」は、富士子が新しいワンピースを着ているのを見て、

「ふじちゃん、良いお洋服買ってもらったね!お婆ちゃんが、そのお洋服に似合いそうな可愛いバッグを買ってあげよ。」と言って、小公女の絵の付いたピンクのポシェットを買ってもらった。

次第に元気を取り戻した正直は、近所を散歩したり、萩ノ茶屋にあった将棋クラブに顔を出したりする程度にまで回復した。正直は、将棋の強さも半端ではなかった。相手をした人は必ず

「賭け将棋をしはったら、小遣い稼ぎくらいいくらでも出来まっせ」と勧めてくれた。プライドが高く、融通の利かない正直は、

「そんなやくざな真似は、ようしません」とせっかくのアドバイスを一笑に付した。

「家族が、こんなに困っているんやから、此処に居る暫くの間だけ、一時凌ぎでええんやから」と、千重と富士子がいくら哀願しても、正直は頑固に首を縦に振らず、当座の生活費を一円たりとも稼いでくれようとはしなかった。

このような正直の態度は、妻子という所帯を持つ責任感を全く欠いたものであった。日々の食費はいったいどこから湧いて来ると考えていたのであろうか?

正直が好んで出入りしていた、この将棋クラブを経営していたのは若い男であった。この男は大阪市立大学の法学部卒だった。当時、大阪市立大学と言えば、先ず頭に思い浮かぶのは「学生運動」であった。

彼もやはり、学生時代から在日韓国人や朝鮮人の問題に関心があった様で、「新左翼」とか「極左」と呼ばれる思想を持っていた。

丁度この昭和五十年代は、日本赤軍が多数の無差別テロ事件を起こした時期であった。彼は、四条畷高校や北野高校から大阪市立大学に進んだ先輩として、「田宮高麿」やその忠臣「森恒夫」の思想に共鳴していた。正直自身は、全く正反対の右翼思想を持っていたので、彼の考え方に興味を持った。

その男の名は「湯村雅佳」と言い、同じ市大法学部出身の奥さんと学生結婚していた。将棋の力量には自信を持っていた湯村だったので、初めて全く適わぬ相手に出遭って、正直に強い関心を抱く様になった。湯村は、

「学生時代は、火炎瓶を投げては検挙され、留置場から出ては、また火炎瓶を投げる繰り返しだった」と言っていた。

将棋以外の話をする様になって、正直の右寄りの考え方に、湯村は始めは一々反論していた。自分と全くと言って良いほど正反対の考え方に出遭って、衝撃が大きかった分、正直の話を真剣に聞いていた。

以前には考えられなかったが、正直は、富士子を散歩に連れて行く様になった。

「これも社会勉強の一環だ」と言いながら、娘の手を引いてあいりん地区まで歩いた。

道路のそこここには、将棋倒しになりそうなくらい放置自転車が停めてあった。初老の男が引いて歩くリアカーの後ろを、紐で繋がれた犬が足取りも軽やかに忠義に追い掛けていた。毎日が「散歩」の様な生活は、何より散歩が好きな犬にとって幸せそうに見えた。

昼間から歩道に寝ている人もいて、富士子は怖がったが、巡回する警官の姿も見られた。ホームレスの人達を集めて、マイクロバスに乗せて、日雇い労働に連れて行く様子を富士子に見学させたりした。

正直の目で見るあいりんの姿は、かつて人から聞いたりテレビで見た通りだったが、やはり実際に肌で感じる空気は全然違った。あいりんは労働者の街であった。マルクスが言うところのルンペンプロレタリアートに属する人達をあちこちで目にする事ができた。

正直は、道端に座るホームレスの様な人達にも、実に気軽に話し掛ける習慣があった。ある時は、道端に座って、辞書の様な書物を熱心に見ている人が居たので、笑顔で歩いて近寄り、暫く言葉を交わして戻って来た。富士子が、聞き慣れない言葉を訝しんで、

「お父さん、何を話して来たん?」と尋ねると、

「今のはドイツ語の会話や」と答えた。更に正直は富士子に諭した。

「人というものは、氏・素性や外見だけで、その人の全てを判断してはならん。」「人それぞれ、今の様な姿になったには理由がある。」「今の人は、あんな身形をしていても、ドイツ語が堪能や」


安楽島に居た頃は、富士子の身体も弱く、わざわざ外へ習い事に出る必要も無いと、伸ばし伸ばしにしていた幼稚園だった。

「ふじちゃんは本を読むのが好きで、きっと色んな事を習って勉強するのが好きやで、幼稚園に行かせてやらな可哀想やが。費用は私が出してやるから、ふじちゃんを幼稚園に行かせてやり」と千代は言ってくれた。早生まれの富士子は、既に六歳になっていたので、公立の幼稚園では、途中から入って慣れる事ができず、虐められる心配があった。

それで、花園にあった私立の幼稚園に、中途入園させる事になった。入園試験で、先生から

「お名前を書いて下さい」と言われた富士子は、

「ひらがなで書くんでしょうか?漢字ですか?それともローマ字でしょうか?」と答える。ませて捻くれた幼児になっていた。

幼稚園の下校時に、富士子は自分で靴を履こうともせず、いつまでも突っ立っていた。

「どうしましたか?」と先生に見咎められ、

「私の靴が出ていません」と不平を言う。

「自分の靴は、自分で靴箱から出して履きなさい」と叱られた。富士子は、不承不承、靴を履きながら

「コートをお願いします」と言って、

「外套は自分で着るものです」と、呆れた先生にまた叱られる有様だった。

「幼稚園の先生は失礼なので、もう行きません」と、下校してから母親に言った。

「お遊戯なんて、馬鹿らしくてやる気がしません」と言って、真面目に練習しなかった。富士子は、保育士の先生にお尻を叩かれるので、幼稚園でお遊戯をさせられるのも先生も嫌いだった。

病気で休みがちではあったが、それでも何とか半年は幼稚園に通った。

「今日は、みんなで、りんごの絵を描きましょう」と、園児達の前の机に丸ごとのりんごが置かれた。富士子は、

「りんごは、皮の赤い色と果肉の白い色のコントラストが好き」だったので、富士子が画用紙に描いた絵は、がぶりと齧った歯型のついたりんごだった。

りんごの皮には、赤紫の毒々しい色が塗ってあった。しかも、そのりんごは、お皿の上に載っていた。そのお皿には、唐草模様のようにも見える異様に凝った模様が、しつこいまでに詳細に描かれてあった。富士子は、つる植物をアレンジしたような「模様」を観察するのが好きで、色んなものに描かれた模様に拘る子供だった。

このころからの習性は、後々インドの仏教美術に関心を持ち、曼荼羅に憧れるようになって、インドへの旅行を夢見たことでもうかがい知れる。

幼稚園の頃は、富士子の持病の喘息も酷かった。はしかにも罹ったが、保険証が無いので医者には行けず、日にち薬だった。熱が下がって回復するまで休ませて、正直が富士子を負ぶって通園した事もあった。自分の娘を負ぶって歩くなど、正直も随分「父親らしく」変わっていたのだと思う。

花園幼稚園は給食の制度が無かったので、富士子は千重の手作り弁当を持参した。千重は富士子を溺愛していたので、お腹を空かせては可哀想だと、必要以上に心配した。

アルマイトの弁当箱には、うさぎの絵が描かれていた。富士子はまだ幼稚園児で、しかも小食だったのに、二段重ねになっていた。その片方には、朝から炊いた貴重な白飯が、米粒を縦に並べたかと思うほど、ぎっしりと詰め込まれた。もう一方には、食べ切れないほどの色とりどりのおかずが並べられ、デザートの果物まで入っていた。

自分の家の苦しい状況が理解できて、親思いの富士子は、

「これは、見るからに相当の費用がかかっている。最近の家の食卓では、まず見られない豪華さだ。これを今ここで、自分一人で食べてしまっては申し訳ない」と、一口も食べずに弁当箱を閉じた。

「ふじちゃん食べないの?」と、不思議がる先生や友達に、

「今日は朝御飯を沢山食べ過ぎて、お腹一杯やから、また帰ってから食べる」と言って、澄ましていた。

そして、弁当は、帰ってから夕飯の食卓に広げた。

「ふじちゃん、お弁当食べんやったん?」娘の気持ちを察して千重は涙ぐんだ。富士子の弁当を囲んで、家族三人で仲睦まじく夕食をするのだった。

花園幼稚園のフェルトの帽子は、高級な素材感とデザインが気に入って、小学校に上がってからも富士子は大事に被っていた。


西成に来てから、すっかり逞しくなった富士子は、近所の八百屋に行っても、

「おっちゃん、私の家にうさぎを飼ってるねんけど、餌に葉っぱが沢山要るねん。この葉っぱ、もし捨てるんやったらちょうだい」と、無邪気そうにお願いする。八百屋の店主も

「そんな葉っぱでええねんやったら、どうせほかすから皆持って行き」と笑って、キャベツの外葉や大根の葉や傷みかけたほうれん草などを放り込んだ段ボール箱ごと出してくれた。

富士子は、それを持ち帰って味噌汁の具に入れるのだ。狭い台所には、フライパンも油も無かったので、炒める事はできなかった。

気の利く富士子は、肉屋の店先でも

「おっちゃん、私、すき焼きに入った肉の脂が大好きやねん。また、すき焼きする時に入れたいから、その牛脂て言うのんちょうだい」

まるで「じゃりン子チエ」である。今にも「ウチは日本一不幸な少女やねん」とでも言いそうだ。どの店の店員も、相手が幼ない女の児なので、いつも笑って機嫌良く応じてくれた。

一方の千重は、小俣や安楽島という田舎の生活しか知らなかった。西成に来てからの食生活は、ある意味では、戦時中より酷いとも言える惨めな哀しいものであった。

千重は、隣の奥さんに教えられて、近くのイズミヤに歩いて買物に行った。ある日、富士子は、幼稚園で初めてできたお友達のクリーニング店の綾ちゃんと2人、母親にイズミヤに連れてもらった。綾ちゃんとペアで、小さくて固いタッチのうさぎのぬいぐるみを買ってもらった。

千重の母親は年金で生活を立てていたが、亡くなった夫の軍人恩給が入ったので、多少の余裕があった。千重は実家の母親を頼りにして、小俣へ「無心」をしに出掛けていた。その時に富士子が祖母に撮ってもらった写真が残っていたが、こんな時期にも関わらず、幸せそうに満面の笑みを湛えて写っている。

千重は、年末年始をこの寒々とした部屋で過ごすのは、いくらなんでもあまりに富士子が可哀想だと思った。富士子の幼稚園が冬休みに入るのを待って、小俣の実家へ連れて行って、正月明けまで預かってもらった。そのおかげで、この年のクリスマスもお正月も、富士子は大好きな祖母と一緒に過ごした。

ただ、可哀想にも、鉄工所の部屋に一人残された正直は、年末年始を一人寂しく過ごしたのだ。

千重という人は、娘のことを思いやる時には、一方で亭主のことはまた別のこととして考えるのか、正直が娘のいない年末年始を独り過ごすことをどう感じるかは気にしないようだった。

正直の方も、年末年始に娘を実家に預けて、自分を独り残して平気な女房の行動に、特に異議を唱えないのか、口を出せる資格が無いと自覚しているのか・・

この西成に居た頃は、さすがに家族の写真は一枚も残っていない。正直の体調も悪く、生活にも慣れず大変な時期だったからとも考えられないことはない。しかし事実は、着の身着のままで飛び出して来た正直家族には、先ずカメラが無かったのだ。

富士子の小学校新入学の4月になった。富士子は、市立梅南小学校へ行く予定であった。

千重は、学校指定の制服なども、ランドセルと一緒に、実家の母親に甘えて「新入学祝」として買ってもらって用意していた。

明日は入学式だという日になって、突然、

「お父さんが仕事で親しくなった人が、生野区にある家を貸して上げようと言ってはる。明日、その家に引越すから、用意する様に。」と千重は正直から告げられた。

四畳半一間の部屋は、ほとんど来た時のままだったので、引越と言われて慌てるほどには、荷物も増えていなかった。安楽島から西成へ来てからまだ半年少しだった。

「やっと、ここにも慣れたのにー」と富士子は面倒な気持ちはあった。しかし、

「二度ある事は三度ある」で、また次の引越しがありそうな気がした。特別名残惜しいという感じは持たなかった。

こういう訳で、荷物を持って鉄工所の二階から出たのは、梅南小の入学式当日だった。入学式の前の日、富士子は良ちゃんと、

「私、梅南小の場所よう知らんし、入学式の日は、良ちゃんと一緒に登校しよな」と約束をしていた。

この「良ちゃん」という男の子とも富士子はよく遊んだ。良ちゃんは富士子と同い年で、髪の毛を長く伸ばしていたので、最初は女の子かと間違えたほどだった。良ちゃんは、いつも神出鬼没で、近所の何処に住んで居るのか、最後まで知らなかった。

翌朝、良ちゃんは、鉄工所の二階へ急な階段を駆け上がって、

「ふじちゃん!学校行こう!」富士子の部屋まで誘いに来てくれた。事情を説明する暇も無く、

「良ちゃん、ごめんな!今、着替えてるから、先に行っといて」

「ふじちゃん、学校の場所分かる?」

「うん、お母さんと一緒に行くから」と送り出して、それきり二度と遇う事は無かった。

良ちゃんに、嘘をついたまま別れた様な形になって、富士子はいつまでも心残りだった。



「生野区勝山北」


西成の将棋クラブを経営していた湯村もその一人だが、正直は、将棋クラブに通っている間に懇意に話しをする人ができた。

そんな中に、天満で輸出入貿易を扱う商社を経営しているという社長が居た。その社長は、正直の経験や知識が、自分の会社の業務にも役立つと評価してくれた。

「私の会社の相談役としてのポストを用意しますので、是非当社に来て下さい」と言った。おまけに、正直の家族の現状を知って、

「それは、お気の毒ですね。私は、生野区勝山北に一戸建てを所有しています。現状は空家にしていますので、良かったら、そこへ引っ越して住んで下さい」と、家賃にも触れずに貸してくれる事になった。

しかし、後になってよく考えれば、この社長は、「我社の相談役に就く」という条件で、住居の提供を申し出てくれたのである。従って、住居を使用するからには、社長の会社に勤める必要があった。そうでなければ、単に「社長の好意に甘える」ことになってしまうので、せめて賃貸契約の体裁を取るべきであった。その条件の方を遂行しないで、その社長の持つ住宅に、家賃も払わずに住む事は、常識的に考えても通らない甘過ぎる話であった。

田舎者の正直は、性善説とでも言うほかないが、人の好意を不用心にそのまま受け容れてしまうきらいがあった。社長の言葉に応じて、その会社に勤めるのか否かをはっきり決めないまま、目の前の人参の方に気を取られてしまった。

鉄工所の二階の部屋に帰って、唐突に、西成から引越しする予定を千重に告げた。明日は「入学式」という前日の急な話だった。千重は、とまどいながらも、区役所へ住民票の移転手続きに行った。その足で、東桃谷小学校へ入学手続きのし直しに行った。

その前日まで、富士子は、西成の梅南小学校の入学式に登校するつもりで、梅南小の制服を広げたり畳んだりしていた。富士子は、梅南小の制服が気に入っていたので、それを着て、おばあちゃんに買ってもらったランドセルを背負って、写真を撮りたいと思った。しかし、この頃はカメラが無かった。

正直には、仕事に限らず、予定を前もって家族に相談する様な習慣が無かった。全くの急遽、梅南小の入学式当日に、生野区勝山北へ引越しする事になった。狭い一間の宿直室なので、大して荷物も無く、大き目の鞄二つと風呂敷包一つで足りた。この頃、富士子は、世の中に「引越業」という仕事がある事さえ知らなかった。

部屋の掃除をして、ひでお君の家族に、お世話になったお礼を言って、鉄工所の家主に挨拶して出て来た。実に簡単な引越しだった。あまりにあっけなくて、富士子には空虚感が残った。

引っ越した先は生野区勝山北という地名であった。この辺りは、現行住居表示の実施(1973年)前は、旧東成郡鶴橋町大字猪飼野であった。文献に「古代・仁徳天皇の時代に、上町台地の東麓一帯は百済からの渡来人が多く、古くは『百済野』と呼ばれていた。その渡来人たちがブタ(猪)を飼う技術を持っていたことから、この地域を『猪飼野(いかいの)』と呼ぶようになる。文献上の日本最古の橋がこの辺を流れる『百済川』(現在の平野川)に猪甘津橋が架けられ、時代が下って江戸時代になると『つるのはし』と呼ばれたことから現在の『鶴橋』の地名の元となる。」とある。

西成区と生野区で、入学式の日程が違っていたのは助かった。引っ越した翌日が、東桃谷小学校の入学式だった。

富士子は、せっかく買い揃えた梅南小の制服がもったいないので、それを着て行った。東桃谷小は、帽子だけが学校指定の黄色い通学帽で、服は私服だった。富士子は、黄色い通学帽を被って、

「小俣の婆ちゃんに買ってもらった赤いランドセル」を担いだ。この赤いランドセルは、入学祝に祖母が買ってくれたもので、富士子は嬉しくて一日に何度も背負う練習をしていた。

千重に手を引かれて、初めての登校をする事になった。背伸びをすれば学校が見えそうなくらいで、歩いて十分とかからなかった。

幼稚園とは違って、公立の小学校だったので、富士子の感じる雰囲気もかなり違った。どの子も庶民的で明るく元気で逞しいので、富士子はすっかり気後れした。

元々この地域に住んでいる子らは、それぞれ顔見知りの幼馴染が居たが、富士子は全くのよそ者だった。富士子が知っている顔も無ければ、富士子を知っている子も居なかった。

お互いに「~ちゃん!」と、気軽に楽しそうに名前を呼び合うのを見て、ますます富士子は疎外感を持った。逃げ帰りたい気持ちになった。一方で、屋敷に閉じ込められていたも同然だった幼い頃も、友達のいないことは同じだったので、

「友達が何だ?友達なんて」という投げやりな気持ちもあった。

富士子は三組になった。担任の先生は中川先生という女の先生だった。男女共に十五名ずつ程度の生徒数なので、一クラス三十名前後、富士子は、あいうえお順で十六番だった。出席番号という言葉を初めて聞いた。

富士子には今日初めての通学路で、往きは母に手を引かれて近道を歩いて来た。富士子独りで逆向きに歩く帰り道は、途中から左右に分かれて方向が分からなくなった。

富士子は、道端でメソメソ泣いていた。同級生のくにちゃんという子が通り掛かった。

「どうしたん?帰り道が分からんのやったら、ここでじっと座ってれば、そのうち家の人が心配して迎えに来てくれるワ♪」くにちゃんは、その場にしゃがんで一緒に待ってくれた。

下校の時間が過ぎても、一向に戻って来ない娘を心配した千重が、間も無く迎えに来た。色が白くてお稲荷さんの白狐の様な顔をした、くにちゃんは「バイバイ♪」と、元気に手を振ってまた独りで帰って行った。

この家の近くに御勝山公園があった。ここには、「御勝山古墳」という前方後円墳があり、戦国時代から大阪の陣の古跡がある。明治二十三年には、約四万三千坪の広大な敷地を持つ大阪府立農学校(大阪府大の全身)があった。その跡地には、石碑が残されている。

勝山北の一戸建ては、安楽島の屋敷を当たり前に見て育った富士子には、むしろ狭くて小さい家にしか見えなかった。実際には、遊びに来た同級生が、

「大きな家で、ええな!」と羨ましがるくらいだった。

門扉があり、前栽には池まであった。十分立派な和風の二階建て邸宅であった。玄関を入ると、奥に長い広い三和土があり、框が横向きについている。そこを上がって引戸を開けた部屋が、富士子の勉強部屋になった。二階にも和室が三間あったが使い道も無かった。

炊事場は広くて、当時としては贅沢なダイニングキッチン仕様になっていた。千重が内職で使う為に工場から借りた動力ミシンを置く場所も十分取れるほどだった。

社長が住んでいた当時に使っていた冷蔵庫や洗濯機がそのまま残っていた。社長に確かめると

「使い古しを放ったらかしで申し訳ないですけど、良かったらどうぞ使って下さい」という事だったので利用させてもらった。富士子が勉強するのに丁度良い古い事務机もあったので、遠慮なく使わせていただいた。

半年ぶりに、「衣・食・住」が一応そろって、ほっとできる暮らしに戻れた。

富士子は幼少から、屋内で飽きずに本ばかり見ている子供だったので、この様な境遇にも関わらず、学校の成績は比較的良かった。先生の授業が十分理解できて、学習が嫌いでなかったので、富士子は学校に苦手意識は持たなかった。

一年生の担任の中川先生は、おおらかな優しい先生だった。富士子は、生まれて初めて、先生から暑中見舞いの葉書をもらった。官制葉書ではなく、水色の和紙に涼しげな蟹の絵が印刷された、暑中見舞い専用の葉書で、二十円切手も貼ってあった。

「毎日暑いですね。二学期も元気に来てください。」きれいなペン字で書かれてあった。その親しみのこもった文面を富士子は今も懐かしく覚えている。

 学校の図書の時間に、「カエルの誕生」という図鑑を偶々手に取って開いて見た。

そこに初めて目にした「カエルの卵」というカラー写真に、富士子はすっかり魅了されてしまった。顕微鏡写真というものを初めて見たので、カエルの卵の細胞分裂の神秘的な営みに、鳥肌が立つほどの感動を覚えた。

富士子は、「オタマジャクシの形が大好き」と言う変わった女の子であった。それ以来、毎週図書の時間になると、富士子はその同じ図鑑を借りた。その図鑑の貸出票には、2年間、富士子の名前ばかりが並んでいたそうだ。

富士子は、喘息もあって元来身体が弱く、好き嫌いが多くて痩せて身体も小さかった。

「お前は心臓が弱いから、走ってはならん」と言われていたので、息急き切ってはしゃぐ事もなく妙に静粛な子供であった。学校へ行っても、他の子供達の様にはしゃいだり活発に走り回って遊べなかった。

安楽島の閉鎖的な屋敷では、自由に外に出て遊ぶ事もできず、一緒に遊ぶ同年代の友達とも出会えず、異常とも言える過保護な生活を送らざるを得なかった。

富士子は、体育の授業も休んで見学していたので、縄跳びを始め子供の屋外での運動や遊びは何一つできなかった。学校の体育の授業でやる跳び箱もマット運動も縄跳びも全くの初めてで、どれ一つまともにできない可哀想な児童だった。

悔しいと思った富士子は、家の前の車が通り抜けできない道路で、日が暮れるまで縄跳びの練習をしていた。負けず嫌いな努力を根気良く続ける頑張り屋でもあった。隣に住む女の子で、2年上の色が黒くて背の高い大西さんがいつも教えてくれた。

大西さんの家の向かいに漢方薬店があった。そこには、富士子と同い年の蘭子という女の子と、後に知ったことであるが、先妻の連れ子だという理由で不釣り合いに貧相な身形をさせられた姉が居た。蘭子は、如何にも裕福な家庭に育った子らしく、良い体格をしていた。家にはグランドピアノが置いてあり、東桃谷小学校に通わず朝鮮学校に通っていた。

「ピアノ弾かせて」富士子は、この蘭子と仲が良くお互いの家にも行き来した。

千重が西成で親切にしてもらって世話になったベルト工場は、通えなくなるので辞める旨の連絡をした。急な話で惜しまれた。この工場の社長が勤勉な千重を気に入って、生活保護の申請を勧めたり、借家の斡旋まで申し出てくれたことに対して、正直は

「亭主である自分を差し置いて」とやきもちの様な反感を持って断わらせた。

生野区に来てからは、勝山北の針金工場の求人に応募して、パートで働きに出ていた。グルグルとこの工場での千重の作業は、ハンドルを手で回して、木製のドラムに針金を巻きつけて、一定の長さになれば切り取って袋に入れるのだ。革の鞄の側面の蛇腹を動力ミシンで縫製する仕事や、揮発性で臭いのきついゴム糊を革に塗って台紙を張り付ける仕事は、千重が内職に自宅へ持ち帰った。富士子も出来る限りそれを手伝ったので、様々な内職の「達人」を自負している。

富士子は、下校後、この工場の前に有った資材置き場でよく遊んだ。富士子が工場に顔を出すと、工場長の森田さんが、

「これでお菓子でも買うといで」富士子に百円玉をくれた。富士子は、それを持って、近くのナルトヤパンに行って、駄菓子やジュースを買うのだった。

この工場でも、一生懸命働く千重は、森田工場長に可愛がってもらえた。赤目の滝とぶどう狩りや鳴門の渦潮など工場の慰安旅行には、他の従業員の家族と一緒にいつも親子で連れてもらった。よそ行きのワンピースを着た富士子が、千重や他の従業員家族と並んで、森田さんが撮ってくれた記念写真も何枚か残っている。

自分の夫が、千重に親切にするのを気分良く思わなかった森田さんの奥さんは、やはり、千重にも富士子にも意地悪であった。

 富士子は、母親に連れられて「つるのはし跡公園」という変わった名前の公園に行った事があった。生野区史にこう書かれている。

「この公園は、『つるのはし』という日本書紀にも記述がある日本最古の橋『猪甘津の橋』の古跡とされている。この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和二十七年、記念碑を建てて当時の親柱四本を保存した。」

この公園の向かいに「高岡ベーカリー」という地元で評判の焼き立てパンの店があった。ショーケースに並んだ焼き立てのパンを客が一々指さして注文し、店員が真っ白い大きな包装紙に包んで渡す。この販売方法が珍しくてうけて、いつも沢山の客でにぎわっていた。

ある日、富士子は、母親に連れられて初めて桃谷商店街に行った。桃谷商店街までは、歩いて十分とかからなかった。商店街の中の道は、幅が狭い割に人通りが多いので、軒を並べる店が一層繁華に見えた。

偶々、富士子は、大好きな金魚などを売っている「観賞魚の店」を見付けた。何気なく店の中に入って、陳列された水槽を見て回っていると、富士子が一番好きな「エイ」の水槽を見付けた。それは「淡水エイ」八千円と表示されていて、鳥羽の水族館で見たエイに比べると、随分小さくて可愛らしく見えた。

富士子は、水槽の底でじっと動かないエイの姿に、すっかり見惚れてしまった。

「これ、死んでるんかな?」心配になって水槽に顔を近付けた。まさにその瞬間、エイは、「ヒラッ」と水底で静かに羽ばたく様にしてわずかに移動した。

「わぁっ!」富士子は、ときめいて目を輝かせ、それから何度も瞬きした。

富士子は、それからずっと、そのエイの事を忘れられなかったが、まだ独りで桃谷商店街の店まで歩いて行く勇気は無かった。

大阪万博から七年が経っていたが、桃谷商店街では、白衣を着た「傷痍軍人」が見られた。戦争の悲惨さと反戦を訴えていた。

「私は沖縄戦で負傷しました」などと書かれた板を背中に貼り付けた六十歳位の男がいた。テープレコーダで大正琴の様な音楽を鳴らしながら、両足の膝から下が無くて、包帯を巻いた膝でにじり歩いていた。男の前の地面には、「祈平和」と書いた箱が置かれていた。中には、お金が入っている時もあれば空の時もあった。

歴史として戦争を知っていても、富士子達は、戦争の悲惨さを想像さえできなかった。ただ、目の前の膝から下が無い男の姿を見る事の恐怖から、目を背けるしかなかった。

一戸建てに住むようになってから、家風呂があったので銭湯に行く必要は無くなった。あけぼの温泉という銭湯が直ぐ近くにあった。ある時、富士子は、その銭湯の前の道で、見知らぬ中年女に声を掛けられた。

「ちょっとお嬢ちゃん、手を怪我したんやけど、お医者さんの場所を教えてくれる?」掌に十円玉を握らされたので、富士子は怪しいと思って離れようとした。女は怪我をしていると言った方の手で、富士子の腕をぐっと握って引っ張ろうとした。恐くなった富士子は、持たされた十円玉を女に投げ付けた。女が驚いて手の力が緩んだ隙に、腕を振りほどいて逃げた。

「この辺では、ちょっとでも油断してると、誘拐されそうになるで」、富士子にとって初めての恐ろしい体験だった。

秋祭りであろう、彌榮神社に宮入りをする、鶴橋若中会による地車曳行が催された。

お稚児さんの衣装に着飾った富士子は、地車の前で、千重に記念撮影をしてもらった。慣れない冠を被されて、落とさないかと神妙な顔をして写真に納まっている。祭りの屋台でアイスクリームを買って、縄跳びを教えてもらった大西さんと、家の前で食べている写真もある。

祭りの終盤では、地車庫前で龍踊りの奉納が行われ、大屋根からのお宝撒きがあった。この辺りでは、主な町内会が地車を持ち、夏と秋の祭りの際に各神社へ曳航する伝統がある。賑やかなお稚児さん行列がそれに伴う。

「小学校に上ったばかりの子供がおるに、成長する記念写真も撮ってやれんのは可哀想やもんで」こう言って、勝山通に面した仏壇店の隣にあったカメラ店で、千重が新しく買ったカメラでこれらの写真を撮影したのだという。

千重は、パート労働に忙しい毎日で、一人娘の富士子に十分構ってやれない事を常に気に掛けていた。この引け目を感じる背景には、小俣の母親の元に残している二人の娘、幸子と幸恵を不憫に思う気持ちもあった。

自分のパートの仕事の休みの日には、毎週の様に富士子をお出掛けに連れてやった。祭りでも何でも、子供が喜びそうなイベントがあるのを聞くと、必ず富士子を参加させて楽しませてやろうと努めていた。

富士子が七歳になるので、千重は七五三参りの事を考えた。晴れ着も着せてやりたいと思って、小俣の実家へ行くついでの用事にした。

実家へ行った際に、幸子と幸恵の二人の晴れ着のお古を出して、富士子に着せてやった。

この頃、幸子と幸恵の二人は中学生になって、思春期でもあり反抗期でもあった。相手の気持ちに配慮せず、物事を深く考えない千重は、自分の思い通りにならない二人の態度に癇癪を起して、

「あんたら双子は要らん子やった。私の失敗作や。だから富士子を産んだんや」と言っってしまったそうだ。この言葉は、二人にとって、自殺しようと真剣に考えたほどの強い大きなショックになったことは言うまでもない。

この年の年末も、やはり千重は、富士子の冬休みが始まるとすぐに実家へ連れて行った。

クリスマスも大晦日もお正月も、実家に泊まっていれば、富士子は祖母と幸子と幸恵の三人と一緒に賑やかに楽しく過ごせるだろうと単純に考えていた。

実家に残した二人が、常日頃どんな母親に対して気持ちでいるかさえ想像もできないので、富士子に温かい態度で接してくれると疑わなかった。

この頃正直は、まだ四十歳代前半だった。度々の高熱や制癌剤や丸山ワクチン等の副作用のせいもあろうか、頭は中央がきれいに禿げ上がっていた。残った両側髪もすっかり白くなり、既に外見は七十歳の老人にさえ見えた。

東桃谷小の父親参観の日、正直は初めて富士子の小学校へ出掛けた。

「ふじちゃんとこのお爺さんが来てるよ!」と友達から言われた。夕食の時に、富士子がその事を話題にすると

「そうか~お爺さんが来たと言われたのでは、富士子も恥ずかしいやろう?」そう言って、以後正直は学校へ行かなくなった。

この頃には、正直の体調もかなり良くなって、あちこち出掛ける様になった。

安楽島に居た頃は、十一の事業会社を経営していた正直は、その経験を活かしたコンサルタント業ができたので、多少のお金を得られるのであった。また、正直は弁護士資格こそ持たなかったが、法律の知識と実学に基づいた非弁活動で、いくばくかの御礼をもらう事もあった。

青天の霹靂では済まない話であるが、正直の楽天的過ぎる迂闊さで、束の間の安定した生活が元の木阿弥になってしまった。

結果的には、この立派な住居は、あくまでも、社長の「好意」に甘えて、住ませていただいていただけだった。正直は、家賃を払わず、「賃貸借契約」も交わしていなかった。弁護士に伍する能力を持ち、非弁活動を業とする正直に有るまじき失態である。

この春から暫くは、天満の社長が経営する会社に事務机を置いてもらって、社長の要請に応じて「顧問」のような形で「出勤」することもあった。ところが運の悪い事に、一年も経たずに思いがけず、その天満の社長が亡くなってしまったのだ。おまけに社長の逝去と共に、その会社も畳まれてしまった。

会社とも正直とも全く何の関係も無かった後継ぎの息子は、相続に伴う財産分与のため、屋敷を処分する意向を告げて来た。

実際、この屋敷は、その後間も無く売却され取り壊されて、便利な立地だったので、跡地には建売分譲住宅が何軒も建てられることになった。

せめて年越しまでの一刻の猶予も与えられず、大晦日にも関わらず情け容赦なく、正直の一家は屋敷から退去せねばならない破目になった。千重の仕事や富士子の学校の都合も、一切考慮してもらえなかった。世話になった近所の人達に挨拶をする暇もなく、立つ鳥跡を濁さずの礼儀も欠いた。

「やっぱり!またか~」富士子は、ただ虚しくて、もはや涙も出なかった。

歳も暮れようという折しも、漸く得られた安堵も住む家も失って、家族三人また路頭に迷う事になった。



「桃山荘」


正直たち3人は、桃谷商店街に向かって、「空室あり」の貼り紙をきょろきょろ探して歩いた。そもそも、「空室あり」のアパートがあっても、その家主や所有者がそこには住んでいない場合が多かったので、貸してほしいという交渉をする相手がなかなかつかまらなかった。

「家族三人で入居させてもらえる部屋ありませんか?」数軒のアパートで尋ねて見た。

「子供は声が甲高いから煩い、言うて、他の人が皆嫌がりはるから。」

「子供を何処かへ預けて来はるんやったら貸しまっせ?」富士子を目の前にして、子供の居る世帯の入居を忌避するように断わられた。

がっかりしてとぼとぼ歩いていると、後ろから追い掛けて来る人がいた。先刻断られたアパートの向かいに住むおばさんだった。

「おとなしそうな女の子一人やし、もういっぺん家主さんに電話して尋ねて見てんけど、住込みの管理人をするいう条件でやったら、子供連れでも入居してええ、言うてはりましたで。」

そのアパートに戻って詳しい話を聞いて、今日から入れてもらう事に決めた。

桃谷商店街や御幸森商店街にも近い桃山荘という二階建ての古いアパートだった。この辺りは、旧住所表記では東桃谷町で、遠く昔は一面の桃畑だったので桃山と呼ばれたそうである。

間口三間ほどで奥行の深い同じ様な古いアパートが、三棟並んで建っていた。家主は夫々別で、近くの戸建に住んでいた。

このアパートの管理人として住みながら、三棟合わせて約六十戸の家賃回収と掃除や修繕等の業務を行うのが条件であった。ここまで何軒も当たって交渉して、子供連れ家族の入居が非常に困難である現実を思い知らされて、もはや正直に選択の余地は無かった。

勝山北の家からそう遠くはなかったので、一旦戻って、後片付けと掃除を済ませた。

テーブルや机などの嵩張る物は、既に粗大ごみに出して整理していたので、台車に載せて押して歩く簡単な引越であった。台車は、お隣さんが親切に貸してくれた。荷物が少なかったので、富士子も台車に載せてもらって、正直の好物のラッキョウの瓶が、落ちて割れない様に抱えていた

空いていた部屋は、桃山荘の一階の十二号室で、三つ並んだ共同便所の隣だった。

木製の戸を開けると、沓脱場と炊事場を兼ねる半畳の土間があり、押入付の四畳半一間が、半間の框で仕切られていた。

この四畳半一間に、折り畳み式のデコラの座卓を置いて食事をし、富士子の宿題もこの座卓で済ませた。夜になるとこれを片付けて、布団を二組敷いて寝るのだ。

前に住んでいた人が置いて出た大き目のテレビがあり、ちゃんと映ったので、このアパートに居た間はそれを使っていた。

正直家族の入った部屋の外に、一階には九部屋あり、二階には十部屋あった。

家賃は、七千円~で、窓が二カ所あって比較的明るい角の部屋は、一万二千円だった。

家賃は、三つ折りの紙を持って一軒一軒徴収に回り、毎月領収のハンコを捺した。領収書の必要があれば、手書きで済ませた。

今回は、何とも慌ただしいことに、引っ越した翌日が新年正月元旦であった。

世間ではめでたい新年を迎え、のんびりとした正月を楽しんでいるという時、正直の家族は「新居」での生活を始めるために、多くも無い所帯道具を片付けていた。富士子の学校の冬休み中だったことが不幸中の幸いであった。

アパートの住所では、小学校の校区は鶴橋小学校になったが、学年の中途から転校して、虐められるのを心配した千重が、三学期もそれまで通り東桃谷小学校へ越境通学させた。鶴橋小学校と東桃谷小学校と御幸森小学校は、いずれも徒歩十分圏内だった。

駅も商店街も郵便局も近くて、生活するのに不自由は無く便利な場所だった。

正直の所帯で日々の暮らしを支える「唯一の働き手」である千重は、今日からの生活費を得る為に、ここでも新年早々パートの仕事先を探して歩き回った。

アパートの近所に、学校給食にも卸しているキムラヤパンの工場があり、常時パートの求人をしていた。千重はこれに応募した。採用担当者と面接して話を聞いて見ると、やはり常に求人があるのは、高温になるパン焼き釜の傍での最も過酷な職種であった。千重は、早速その日の午後から汗だくになって働いた。

この工場の前に高級和菓子店があり、いつも美味しそうな和菓子が並んでいた。富士子は、千重が工場の仕事が終わって帰る時間に迎えに寄って、甘えて買ってもらった。その値段と千重の時給四百円を比べると、今となっては、申し訳なかったなと思う。

勝山北の一戸建ての家には風呂もあったので、暫く銭湯の事は忘れていた。ここでは、また銭湯の世話にならねばならなかった。銭湯は「三ツ輪湯」「あけぼの温泉」「日の出湯」など、歩いて行ける範囲に複数あった。

この頃はまだ、正直と行くか、千重と行くかで、富士子は男湯と女湯どちらでも良かった。

「富士子!石鹸忘れたから、持って来てくれるか」正直が、浴場の仕切りの壁越しに、大きな声で呼び掛ける。番台の前のカーテンを潜って、女湯から男湯へ、富士子が父親に石鹸を渡しに行く事もあった。

西成の銭湯で初めて見付けた時は、家にお金の無いのが分かっていたので、富士子は「飲みたい」と言えなかった。それ以来、何時か飲むのだと思っていた1本四十円の「いたくらのメロンソーダ」が楽しみになった。「りんごジュース」も好きだった。偶には、友達と一緒に行く日もあった。

一番近い三ツ輪湯の前の細い路地奥の家で、生活に行き詰まって、プロパンガスで一家心中した家があった。その日たまたま、富士子が千重と三ツ輪湯から出て来た時、タイミング悪く心中の現場から遺体が担架で運び出されるのに出くわしてしまった。担架に横たわった遺体の青ざめた顔を富士子がちらっと見てしまってから、怖くて気味悪くて暫く三ツ輪湯は避けていた。

この頃は、まだ万代百貨店と呼んでいた。一条通りにあった万代も、今の様なセルフのスーパー形式ではなく、一軒毎に、店員が客に威勢良く呼び掛ける対面販売で、賑やかな市場の様だった。

この万代の近くに住むアル中の男が、よく包丁を振り回して暴れて、近隣の人や買い物客に恐れられていた。ある日、灯りに使っていた蝋燭が倒れて、火事になって焼死したそうだ。

正直の隣のアパートでも、寝煙草が原因のボヤがあり、前の道路に何台もの消防車が集まった事がある。

この辺では、麻薬中毒による変死も珍しくなかった。正直のアパートでも、二階の奥に住んで居た老婆が麻薬の密売人だった事が判って、警察に連れて行かれた。

桃山荘は、奥行きの長い構造なので、入り口から遠くなるほど薄暗かった。土足で出入りして、そのまま裏口へ通り抜けられた。裏口には空き地があり洗濯物干し場になっていた。そこで麻薬を打つ侵入者が居るのか、注射器が落ちている事があった。物騒だったので、共同便所も悪用されていないか、ちょくちょく見回らねばならなかった。アパート裏の広いモータープールにも、使い捨てられた注射器が多数落ちていて、子供の危険なおもちゃになっていた。

アパートの裏の洗濯物干し場は、三棟とも行き来できる様に繋がっていた。

ある日、富士子が盥に水を入れて行水をしていると、見知らぬ背広姿の男が現れて、

「お嬢ちゃん、歳は幾つや?」と尋ねた。

「二年」富士子は、面倒臭そうに答えた。

「二年生の女の子は、どんな体格してるのか、おっちゃんに見せてくれる?」怪しいと感じて、

「お母さん!ちょっと」と叫んだ。

「どうしたん?」と千重が顔を覗かせたので、その男は慌てて逃げ出して事無きを得た。

洗濯物もここに干していたが、上等な衣服に限らず、下着なども盗まれる事が多くて、空いている部屋に干す様になった。

春の彼岸に、千重は実家へ墓参りに行った。千重が実家を訪れる際に、しばしば母親の目を盗んで、米をもらって帰る事があった。この日も、こっそり米櫃から五合の米を持ち帰ろうとして、母親に気付かれてしまった。

千代は、千重が大阪に引っ越してから、一度も大阪に出て来た事が無く、千重の大阪での生活の実情を見た事も無かった。

「千重よ、お前は食べる米も無いくらい不自由しとんのか?!」と哀しんで、年金暮らしの母親は、千重に三万円の小遣いを持たせてくれた。

これ以後、千重が富士子を連れて実家に帰る時にも、必ず小遣いを持たせる様になった。

また、千重の妹の厚代の娘で、富士子の従弟に当たる富美が、初めてアパートに遊びに来た夏休みの時の事である。富士子の暮らしぶりを初めて見て驚いた富美は、

「ふじちゃんは、物置に住んどる」と母親に話した。姉が現在いったいどんな生活をしているのかを心配した厚代は、三重県から大阪まで車を飛ばして、アパートの様子を見に来た。

富士子は、幼少の頃から、小俣の祖母が大好きだった。千重が小俣の実家を訪れる際は、必ず富士子も連れて行ってもらった。夏休みや冬休みには一週間近く泊まる事もあった。

祖母の家の周囲はまだ田舎で田んぼが多かった。富士子の一番の楽しみは、オタマジャクシを採る事だった。田植えの時季などは、バケツに一杯採って袋に入れて大阪まで持ち帰った事もあった。

祖母は、裏庭でとうもろこしを栽培していたが、土が合ったのか良く生った。収穫の時季には、蒸したり焼いたり、富士子に沢山食べさせて、土産にも持ち帰らせた。

生野区も地域によっては、プライバシーに関わられ難く正体を隠し易いのか、素性の定かでない国籍も様々な人々が住んでいた。生活のために仕事を求める人の出入りも多く、住民の入れ替わりも早かった。

「空室あります」正直が広告の紙の裏に達筆で書いて、表に貼り紙をしていたが、ちょくちょくそれを見て尋ねて来る人がいた。中には、過激派のアジトにする目的で、爆弾を作る場所を探している場合もあった。一度は正直が

「何となく胡散臭い感じがしたので、部屋を貸すのを断った。」人の顔が

「指紋押捺を拒否した外国人」として、テレビのニュースに出ていた事もあった。

アパートの一階の角の一号室は、向かいのガラス店が倉庫として使うのに借りていた。

ある時、ビー玉の中に入っている模様を取り出そうと、富士子がビー玉を地面に投げ付けて割ろうとした。ビー玉は割れずに跳ねて、向かいのガラス店の玄関引き戸に当たって、ガラスに穴が開いた。ガラス店なのに、その後長らく穴が開いたままで、ガラスは入替えられなかった。

二号室の独り者の男は、いつも景気が良さそうに、小ざっぱりした身形をしていた。管理人の正直にも、きちんと挨拶をするので、全く気付かなかった。実は、この男はひったくりや空き巣狙いの常習犯だった。

田舎育ちで人を疑わない正直は、戸締りと言う観念が無く、玄関戸も普段は開けっ放しだった。出掛ける時だけ、簡単な南京錠を掛ける程度で、実に不用心だった。それどころか、管理人が不在では何かあった時に住人が困るだろうと気を遣った。

「何月何日の何時~何時まで留守にします」、戸に張り紙までして出掛けた。

案の定、留守中を狙って、二号室の男が盗みに入った。正直が集めて保管していた家賃十万円余と、結婚記念のダイヤと真珠の指輪が無くなった。これらの指輪は、千重がいよいよ窮した際に質屋に入れる最後の頼みに大切にしていたものだ。

警察に被害届を出すと、調べに来た警察官に、家族三人の指紋を採取された。

富士子は、白色の粉末をパタパタとつけて指紋を採取するシーンは、テレビや映画でしか見た事がなかった。この時初めて、自分の指にパタパタされて、指紋を取られるのを見て、犯人でもないのにドキドキした。

アパート内の遺留指紋の捜査結果から、常習犯のその男が容疑者に上がって、間も無く逮捕された。警察に連れて行かれたその男は、それきり戻らなかった。盗まれた金品も戻らなかった。

空き巣男が捕まって居なくなり、二号室は空室になった。金回りの良い男の部屋は、玄関戸も豪華なドアに交換されて、内装をきれいに改装してあった。富士子の友達を呼んで誕生日会をするのに、その部屋を使った事もあった。

正直の隣の十一号室には、当初、無口で陰気な若い男が入っていた。その青年は、夜中に便所で奇声を発して、物凄い音を立てて壁を叩いて、手や顔を血だらけにして暴れた。家族に連絡をすると、心配して息子を連れて帰り、精神病院に強制入院させた。

誰かに殴られたのか、片方の目が潰れた様になった叔母さんが、二階の奥の部屋に住んでいた。淋しいのを紛らせるために、九官鳥を飼い始め、「キューちゃん」と名付けて、色々な言葉を熱心に教えて可愛がっていた。その叔母さんも、原因は分からないが、急におかしくなって、九官鳥を閉め殺した。

大阪外大に通う女学生が、二階に住んでいた。ある日、一階二号室の男だったと思われるが、空き巣に入られた。現金ばかりでなく、ラジカセなど家電まで盗まれて、その時のショックで精神を病んで退去した。

このアパートに居た優秀な京大生が、突然アパートから失踪した。「腎臓を患っている弟に移植するため、片方の腎臓を提供してやれ」と親に言われたのを苦にしたのだった。

隣の梅山荘には、百歳になる老婆が居て、その老婆を隣室に住む赤の他人の九十八歳の老婆が世話していた。この九十八歳の老婆は、健康でまだ頭もしっかりしていて、二軒分の家賃を一緒に届けに来た。その際、富士子に「お小遣い上げよ」と、毎度五百円玉をくれた。

梅山荘に居た福留というおばさんと、富士子はよく話していたが、「母の日」に湯呑をプレゼントした事があった。このおばさんが転んで額に怪我をした時、親しくしていた男が、

「誰に殴られたんや?」と誤解して、包丁を持って暴れた事がある。

三棟のアパートには、約六十の世帯が住んでいて、中には子供好きな人も居た。富士子は、アパートで唯一の子供だった。

「富士子ちゃん!こんなん上げよ」入れ替わり立ち代わりに、ケーキや菓子を買って持って来てくれる住人がいた。

クリスマスや誕生日の時は、ちょっとしたデコレーションケーキが五つも六つも届いた。ドアが一つしか無い小さい冷蔵庫には入りきらず、気温の低い戸外に置いて保存したほどだった。

アパートの住人は、電話機も持っていなかった。正直の部屋にある電話は、正直個人の電話であると同時に、アパート三棟全戸の連絡用電話も兼ねていた。

三棟のアパートの六十戸ほどの住人が、自分達の連絡先として、正直の部屋の電話番号を教えていた。方々から様々な用件で、アパートの住人にかかって来る電話を一々取り次がねばならなかった。日に数件は掛かった。

電話を受ける度に、その相手の部屋まで呼びに行った。留守の場合は、用件をメモしなければならず、大変な煩雑さであった。

電話料金も都度請求せねばならないので、電話機はピンクの公衆電話を使っていた。しかも、ピンクの電話機は、正直の部屋の上がり框に置いていて、電話コードは短かった。

正直達が食事をしている最中でも、その直ぐ横で、会話が続けられる事になった。揉め事や別れ話などで、長々と話し込む場合も多くて、プライバシーもへったくれも無かった。

あまりに煩わしかったので、アパートの表に、電話局に頼んで赤い公衆電話を設置してもらう事にした。初めて赤電話を設置した日、富士子は、何度も心配して表の電話機を見に行っていた。

「誰か使ってくれはるかな?」

「どれくらいお金が入っているかな?」と、日が暮れてから富士子がわくわくしているので、正直が料金箱を開けて見た。

その日は雨がどしゃ降りで、何の予告も無くアパートの表に赤電話を設置したので、気付いて使う人は居ない可能性もあった。

「やった!二十円も入ってる!二人も使ってくれたんやわ♪」富士子は手を叩いた。

赤電話を表に出していたのでは、夜中に電話機ごと盗まれるので、毎晩、重い電話機を屋内に持って入らねばならなかった。

桃山荘の玄関前で、前歯が所々抜けた富士子が、無邪気に大笑いしながら、白髪頭の正直と並んで撮っている写真がある。その背後には、公衆電話設置場所を示す「受話器マーク」のピンクの看板が写っている。

当時は、朝夕の新聞配達をするという条件で、無償支給される「奨学金制度」を利用している「新聞学生」という苦学生が居た。

このアパートには、北野君、林君、呉君という三人の阪大や京大の学生が居た。親元を離れて、勉学に勤しむ苦学生だったので、正直を自分の親の様に慕って、しょっちゅう正直の部屋に顔を出した。

この三人の学生達は、一階の正直の部屋の並びに入っていた。三人とも若くて元気で体格も良かったので、彼らが出入りしてくれる事は、アパートの用心にもなっていた。

特に、空手の道場に通っていた硬派の北野君は、正直のお気に入りだった。狭い四畳半一間に、デコラのテーブルを挟んで、胡坐をかいて差し向かいで、熱っぽく話す姿がよく見られた。正直は、この北野君に、かつて自分の腹心として信頼していた男「立花」の面影を重ねていた。「できれば、娘の許婚に」というくらいの思いもあった様だ。

夜店の金魚掬いに行きたがる富士子に、北野君が付き添う事もあった。一匹も掬えなくてがっかりする富士子を慰めようと、北野君は、自分の財布で金魚を三匹買って、その袋を富士子に持たせた。

北野君は、正直の家族三人と一緒に、日帰りの観光に行く事もあった。東大寺へ大仏を見に行った時は、初めて沢山の鹿を間近に見て、動物が好きな富士子は大喜びした。恐々ながらも嬉しそうに鹿煎餅を与える様子が写真に残っている。富士子は、鹿の笛を土産に買ってもらった。四人で信貴山寺へ参った事もあり、北野君が記念写真を撮ってくれた。

「親の意見と茄子の花は、千に一つも無駄はなし」正直が半紙に書いてやった書が、三人の部屋には、大切に貼られてあった。

呉君には、一時、富士子の家庭教師を頼んだが、富士子は、神経質そうな呉君とは相性が悪く、長続きしなかった。

彼らが大学を卒業して退去してからは、三つ空き部屋になったので、富士子の友達が来た時などに使う事もあった。


正直の家族が、この様な生活を続けていた頃、鳥羽に居た正直の父親正太郎や兄達は、どうしていたのであろうか。

正直の大人しい母親ろくは、正太郎に扱き使われ邪険にされて、心身の苦労が祟って早くに亡くなっていた。若い頃から放蕩三昧の正太郎は、「憎まれ者世に憚る」の例え通り、相変わらず贅沢三昧な生活を続けて未だ健在であった。

順調な消息を聞いている息子達については問題無いであろう。が、正直に関しては、重病になって屋敷も失って、大阪に逃げ出したという噂を聞いていたはずである。その後どんな暮らしをしているのか、全く気に掛けず心配もしない薄情な親であった。

「父親に心配を掛けない様に」と、反対に正直の方から義理固く消息の連絡をしていた。正太郎は厚かましくも、自分の方の生活の「窮状」を「涙ながら」に訴えて来て、正直に逆に仕送りを要求して来る始末であった。

正直は、親兄弟に「落ちぶれた」と思われたくないええ格好しいだった。しかも、人を疑うことを知らないので、肝心な点に不審を抱いて確かめる事をせず、間の抜けた所のあるお人好しだった。

自分の妻子の困窮をよそに、十万円前後の現金を用立てて、正太郎に仕送りをしていた。後日、正直が送金した郵便為替の控えが沢山見付かって、その事実が発覚したが「後の祭り」であった。

この当時、正直にはこれと言った収入はなく、正直が郵便為替で仕送りしていたこれらの資金は、アパートの家賃を徴収して家主に届けるまで一時的に預かった中から正直が勝手に流用していたのだ。そのままにすれば当然「横領」になってしまうので、毎度、千重がこつこつ働いて得るわずかなパート収入を貯めて返済せねばならなかった。

どうも腑に落ちないと思った千重が、小俣の実家へ帰るついでの折に、実情を確認するために、鳥羽安楽島の正太郎の自宅に立ち寄った。

表から呼んでも応えないので、千重は開けっ放しの玄関から入ってふと座敷を見た。何とまだ午前中というのに、独り身のはずの正太郎の食膳には、大きな鯛の活け造りや、何人前かの刺身の出前が並べられていた。正太郎の手紙にあった「窮状」とは程遠い、常識的には考えられない程、贅沢な食生活をしているのが実情であった。

千重は、近くに住む、正直の兄の一人を訪ねて、事情を話して見た。やはり、息子世帯で連絡の付く先には、同じ様な嘘の理由で金を無心して、度々仕送りや援助をさせているのであった。未だに妾を囲って、妾の家にまで寿司や豪華な刺身などの出前をさせていた。

正太郎の家は、かつての正直の屋敷からそう遠くはなかったので、歩いてでも行けた。千重は、せっかくここまで来たついでに、久しぶりに屋敷の様子を見てみたいと思った。

飛び出してから数年ぶりであったが、追い出された正直の屋敷には誰かが住んでいるようで、庭もよく手入れされ、かつての威容をそのまま維持していた。

それを目の当たりにして、富士子は、怒りと悔しさがふつふつとこみ上げて来て、

「いつか自分が必ずこの屋敷を取り返して、ここに武田の表札を挙げて、父親とこの屋敷を見捨てて逃げ出した者たちを見返して思い知らせてやる」と心に誓うのだった。

この時千重と一緒に出掛けた富士子が正太郎と並んで撮っている珍しい写真が残っている。正太郎は、この翌年に八十歳で亡くなっているので、奇しくも、これが最初で最後の孫と並んだ記念写真になった訳だ。

「夏休み明けになってから、私は海水浴に行った、ぼくは田舎に帰ったと、楽しそうな家族旅行の話を友達から聞いて、富士子が僻んではいかん」と富士子が夏休みになると、子煩悩な千重は心配した。

アパートには扇風機しか無く、真夏はただでさえ汗だくになって、千重も夏バテ気味だった。ましてやパン工場の釜の傍は更に暑かったので、毎日のパート労働は、四十三歳になる千重にも相当きつくなっていた。それでも千重は弱音を吐かず、毎週の様に、富士子を連れて「レジャー」に出掛けた。

上六百貨店で「将棋祭り」が開催されているのを知った。正直に手習いを受けた富士子は、将棋はかなり得意だった。将棋祭りの帰りに、百貨店の屋上遊園に寄った。色々な有料の乗物や遊具があったが、そろそろ九歳の富士子には、既に幼稚なのか興味を示さなかった。

「ナンバって言う所に、大きなカニが動いてる店があるって友達が言うてた。一度見たいな♪」と富士子が言うので、千重は道頓堀に連れてやった。富士子は、蟹道楽の看板を見て

「へぇこれかぁ!」と驚き、食い倒れの前では大笑いして喜んだ。ミツヤでチョコレートパフェを食べて帰った。

新聞屋から無料の招待券をもらったので、真夏の炎天下にもかかわらず、あやめ池遊園地にも連れてやった。富士子は、千重に連れてもらう時は、乗物に独りで乗らなければならないので、お気に入りのチェーンタワーという¥150の乗り物一つだけに決めていた。

円形大劇場でOSK日本歌劇団の歌劇を見るのも恒例だった。富士子は「ひとみ ちか」の大ファンで、ブロマイドを部屋の壁に貼っていた。

縁日が出ていたので、大好きな金魚掬いの方に執心して興じていた。眉間に皺を寄せて半時間以上粘って、富士子が器を金魚で一杯にするまで、千重は座る場所もなく、立ったまま見守っていた。


この辺は、身寄りが無く話し相手もいなくて、心寂しい人が多いのも事実であった。

或る日、富士子が近所の爺さんと道ですれ違った時に、笑顔で挨拶をした。ただそれだけの事がその爺さんには余程嬉しかったのであろう。後日、わざわざお礼を言うために、銀装の高級カステラの桐箱を持って、アパートまでやって来た事があった。

アパートの二階に住むアル中の男もそうだった。その男は、富士子の友達が遊びに来て騒いだりすると、二階の部屋から「煩い!」としょっちゅう怒鳴って来た。

ある時、富士子が自分で作った「うさぎのういちゃん」という絵本をその男に見せた。

「これほんまにお前が描いたんか?上手過ぎる」と大袈裟なくらい感動した。

それ以後時々、その初老の男は、手土産にお菓子を持って、正直の部屋にやって来る習慣になった。その男は亀山と言う名だった。

「あのおっちゃんは、きっと独りで部屋に居るのが淋しいから、うちへ来るんやろう」と気を利かして、富士子は、お菓子を亀山と一緒に食べてやった。

「おっちゃん、家へ来るのはええけど、いつも酒臭いから嫌や」と富士子が言うと、それを機に好きな酒をぱったりと止めた。

隣のアパートの住人で、本名は「松本」だったが、皆から「シンジョウ」と呼ばれている、体格の良い刺青だらけの男が居た。

「おっちゃんの背中に絵を描いた人は、絵が上手やな!」と言って、富士子は、とてもなついてよく遊んでもらっていた。

シンジョウは、いつも派手な格好をしていたが、的屋稼業で景気が良かった。富士子の誕生日に、豪華なフランス人形をプレゼントしてくれたり、クリスマスケーキも買ってくれた。正月には、

「お年玉や」と気前よく一万円もくれた。ピカピカの十円玉などをケースに入れてくれる事もあった。

「おっちゃん、これ偽もんちゃうやろな?」

「何言うてんねん?ほんまもんやがな、ちゃんと使える十円玉やで」

シンジョウは、富士子をエキスポランドにも連れて行ってくれた。シンジョウと遊園地の乗物の列に並んでいると、他に並んでいる家族連れが、後ずさりして順を譲ってくれた。「どうぞ、どうぞ」と列の前に進んで行くので、富士子達はいつも乗物に早く乗れた。

ある時、ちんぴら風情の二人組が、富士子の部屋の戸を蹴って、怒鳴り込んで来た。

「こら!シンジョウっちゅう男が、此処に住んどるやろ?どの部屋や?」

「ここで口を割っては、おっちゃんが捕まって、酷い目に遇う」と富士子は機転を利かして、

「シンジョウおばちゃん?そんなん知らんで」と答えた。

「こいつ、おばちゃん言うとるぞ、知れへんねわ」と諦めて、ちんぴらは帰って行った。後でその事をシンジョウに伝えると、

「商店街で、ムカつくチンピラが居ったから、そいつらの顔を下駄で蹴ったった。仕返しに来よったんやな。」と笑っていた。

この時、チンピラに蹴飛ばされて以来、富士子の部屋の玄関戸には穴が開いて、そこにガムテープが貼ってあった。

桃谷商店街の蛇の目ミシンの店の前で、晩七時にミシンの実演販売をする事があった。富士子は、他の友達と、見物に集まる常連だった。

「このミシン、どんな刺繍でもできるなんて、すごいな!」などと言って盛り上げるので、

「お嬢ちゃんらが集まってくれると、さくら効果抜群でミシン販売が繁盛するわ」と、顔馴染みになった店主に喜ばれていた。

JR環状線の鶴橋駅と桃谷駅の間には、「御幸通り」という商店街と御幸森神社がある。

「御幸通りの名称は、五世紀頃、この辺に百済から渡来した人々が暮らしており、当時の仁徳天皇がその様子を視察に訪れた際、休まれた場所に御幸森神社が建立された事」が由来であると伝えられている。

この御幸森神社の前に、一個五十円のフライ饅頭の出店があった。このフライ饅頭は、この店のオリジナル商品だった。その後も三十年以上販売され、店も饅頭も有名になって行列ができるくらいに繁盛していたそうだ。

富士子や大概の子供は、饅頭を一個ずつ買ったが、金持ちだった蘭子は、家族が多くて十ケ単位の「大人買い」をするのだった。

 夜店の立つ日には、このフライ饅頭の出店の隣に「ペットクジ」という屋台が出た。

当たりが出ると、女の子には小鳥の十姉妹、男の子には生きたカブトムシがもらえた。一回二百円というのは、子供には高かったが、賞品が魅力で子供達にとても人気があった。

千重や新聞学生の北野君と一緒に夜店に来て、このペットクジで一等が当たり、富士子は、十姉妹を一羽もらった事があった。

「番いにせんと、可哀想やがね」と千重が言って、桃谷商店街のペット店で、もう一羽の十姉妹と鳥籠を買ってくれたのでペアになった。鳥籠は、アパートの部屋の窓に吊っていた。

ある日、外から戻って来た富士子が、窓のカーテンを開けると、腕にヌルッと冷たい物が触れた。

驚いて見ると、何と鳥籠の周りに蛇が蜷局を巻いて、籠を潰そうとしていた。アパートには、ネズミが沢山居たので、それを餌に狙う蛇も棲んでいた。夜中に、天井裏を蛇が這うらしき「ざぁ~ざぁ~」という音が聞こえる事もあった。

驚いた蛇は、素早く冷蔵庫の裏へ逃げ込んだ。そのままでは、怖くて部屋に居られないと、富士子は、パーマ店「我楽多」の隣にあった交番に駆け付けた。交番からお巡りさんが一人来たが、懐中電灯で冷蔵庫の裏を照らしながら

「本官も蛇は苦手で」と言って本署に連絡した。間も無くパトカーで、二人の警官が応援に来て、アパートの前は

「何事や!出入りか?」と、人だかりで大騒ぎになった。

結局、蛇は、冷蔵庫の裏から這い出して、すばしこく溝を滑って、排管の奥へ逃げて行方を眩ました。富士子は、二度と蛇が出て来れない様に、その排管に石で蓋をした。

安楽島の屋敷での偏った贅沢な生活習慣と過保護のせいで、富士子は、食欲についても我が儘で好き嫌いも激しかった。

おかずの材料を選ぶのに困り果てた千重が、ある日、一個三千五百円もする「生鮑」を試しに三個買って、バター焼きにして食卓に出して見た。

「これ何?貝?美味しい♪」と富士子が喜んだので、

「三個とも食べてええで」と言って千重は、娘に全部食べさせた。

娘を溺愛する千重は、家計の苦しさを忘れて、毎晩の様に生鮑を買い、バター焼きにして、娘に好きなだけ食べさせた。おかげで、千重の時給が四百円の時に、その月だけ、一ヶ月の食費三十万円という、計算に合わない異常な状況になった。

この頃、富士子の将来を考えて、教育環境について心配し始めていた千重は、天王寺区の五条小学校への転校を希望していた。その校区の住居の家賃が、平均で二十万円近くて、とても無理だと諦めていたと言う。

「今思えば、食費を節約してそれを家賃に回したら転校できたのに」と贅沢な富士子が言うのは、「親の心、子知らず」である。

 千重が四天王寺にあった五条小学校に通わせたかったのには、他にも理由があった。

千重は、とにかく「四天王寺参り」が好きだった。お彼岸などに拘らず、頻繁に富士子を連れて出掛けた写真が沢山残っている。富士子も鳩と戯れるのを楽しみにしていた。

桃谷から四天王寺に電車を使って行くには、国鉄だけでも往復の電車賃が二人分で千重の時給を上回ってしまうので、三度に一度は往復とも歩いた。上本町も千重の好んで行きたがる地であったが、近鉄電車は更に運賃が高いので、やはりこれも二人でてくてく歩いて行った。

小俣の墓参りにも、千重はマメに出掛けたので、先祖供養に熱心だったのかも知れない。四天王寺の境内や住友別邸で、家族三人そろって撮っている写真がある。正直は、改まった背広上下で、千重も富士子もよそ行きの服装で、並んで澄まして写っている。

 沢山残っている写真を見て気付くのだが、富士子は、毎週末の様に母親と出掛けていた。千重は、平日は毎日パートに出ていたので、富士子を連れて出掛けるのは週末になった。

世間一般のサラリーマン家庭に比べて、正直の仕事の仕方は特殊だったので、千重は、「家族レジャー」という面で、常に引け目を感じていたのかも知れない。自分が毎日忙しく働いて、あまり娘を構ってやれない事を気に病んでいたのであろう。

行き先も、小俣の実家や四天王寺参りばかりでなく、大阪城公園や阿倍野近鉄百貨店など、実にまめに出掛けている。従弟の富美と一緒に、千重が中部台公園のプールに連れてやった際に撮ったと思われる記念写真もある。華奢で小柄な富士子の横に立つ富美は、年下にも関わらず、相撲取りの様にがっしりした対照的な体格だ。

千重は、比較的健康に恵まれ、丈夫で体力があったからこそできた子煩悩であろうが、なかなか真似のできる事ではない。

とにかく、富士子は変わった子供だった。小学四年の図工の時間に、先生から

「奈良へ遠足に行った時の絵を描きましょう」と言われた。

他の生徒達は、遠足らしいありふれた楽しそうな絵を描いていた。富士子の絵だけが、子供達が座って弁当を食べている芝生に、おどろおどろしい紫色を塗ってあった。しかも十頭以上も描かれている鹿は、どれも首を回して振り返って、一斉に同じ方向を向いている、何とも不気味な不思議な構図だった。

「武田さんが見た鹿は、こっちの方に、みんなには見えない何かを見付けて、一斉に振返って、それを睨んでいたのでしょうね?」と先生は、空想を巡らせて解説された。

この時の児島先生は、富士子の絵の才能を評価してくれていた。女性であったが、

「殴られたら、殴り返さない者が悪い」という考え方で、必ず仕返しをしろと教えた。

富士子は、とにかく絵を描くのが好きで、キティ―ちゃんなどの絵を結構上手に可愛く描いた。富士子が描いた絵を気に入って欲しがる友達がいたので、一枚五十円で売って見ると良く売れた。意外に簡単に小遣い稼ぎができる事に気付いた富士子は、家に有った不用品を売る事を思い付いた。

包装紙で手造りした袋に入れて「お楽しみ袋」にすると、皆が喜んで一つ五十円で買ってくれた。真似をする同級生が現れたので、

「その間、先生が気付くだろう。先生に注意されたら大変だ」と考えて、富士子は早目に足を洗った。


正直は、それまでの体験から、常に病気に対する漠然とした不安を感じていたので、漢方薬を煎じて飲む習慣があった。

ある日、千重が、煎じた漢方薬を湯呑に入れて、横着をして、熱いのにお盆にも載せずに正直の所に運んだ。デコラの座卓の前であぐらをかいて座っていた正直が、千重が湯呑を持つ手の間を持とうとして湯呑に触れた途端、予想以上に熱かったのにはっとして湯呑を落としてしまった。湯呑は胡坐の上に落ちて、熱湯が片足にかかってしまった。

正直は慌てて、履いていた靴下を脱ごうとしたが、ナイロンの靴下は皮膚に付着してしまって脱げなかった。大火傷なので、無理に靴下を剥がしてはいけない状態だったが、知識の無い千重が慌てて靴下を脱がせたために、火傷の跡が酷いケロイドになってしまった。

この大火傷の時も、保険証が無かったので、医者に診てもらう事もできず、素人の不十分な応急処置だけで放置した。

この事故以来、片方の足は皮膚が突っ張って曲げ伸ばしが不自由になり、正直は、外出時は常に杖を突いて歩く習慣になった。

底に「千栄寿司」と銘が入ったその湯のみは、千重がかつて「千栄寿司」で客用に使っていたもので、良くも悪くも「想い出の品」であり、いまだに食器棚に保管されている。

正直は、まだ五十歳にもならなかった。度々の高熱や制癌剤や丸山ワクチン等の副作用もあり、頭の中央が禿げ上がり、残った両側もほとんど白髪になっていた。既に見た感じは老人であったが、おまけに、杖を突いて歩く様になって、愈々七十歳の老人にしか見えない姿になった。

正直は、自分の外見を「白髪の仙人」の様に見えるメリットだとして、自分に「箔」を付けるのに利用した。

五十代になってからの事、正直が杖を突いて歩いていた時、向かいから歩いて来た背の高い若い男が、ひったくりをしようとした。身体の不自由な老人だと、高を括っていた。正直は、反対にその男を合気道の技で投げ飛ばして、簡単に撃退して難を免れた。

正直の武道の心得に対する自信も相当のものだった。桃山荘の近所で、やくざ風の男が、老人に暴力を振るっているのを見つけた時も、迷わず仲裁に入って老人を救った。

「自分の知識や能力は、弁護士と何ら変わらない」と正直は過信していたので、税務も専門家に任せる事を嫌った。

安楽島で景気の良かった頃は、国税局の査察に三度も入られて、その度に相当の修正申告と追徴税を請求された。その当時から税務署には目を付けられていた。

十一の事業を連鎖倒産させたとは言え、正直は、自己破産の申し立てをした訳ではなかった。担保として差し押さえられた不動産その他で、六十億円の債務のほとんどは相殺されていた。後に残っていた二億ほどは、まとまったお金ができる都度少しずつ返済していた。

それでも国税局の査察官は、すっかり落ちぶれてからの桃山荘にまで二度も税務調査に来た。

二度目に来た査察官の中に、かつて安楽島の屋敷に踏み込んだ一人がいた。その査察官は、安楽島での正直の栄華の記憶から、いくら何でもまだ隠し財産がどこかに残っているのであろうと、

「此処に無いと言うなら、本宅に連れて行け」と言って、いつまでもしつこく疑っていた。

ところが、目の前の正直は、すっかりみすぼらしくやつれた姿で、桃山荘の共同便所を掃除しながら、

「こんな風になって色んなことをやらねばならなくなって、初めて見えるようになったこともあります。」正直は、アパートの汚い共同便所の掃除をしながらも、むしろ生き生きとしていた。

「本宅も何も、ここが今の私たち家族三人の唯一の住居ですよ。」と淡々と語るのであった。

それで漸く、その査察官は、この古いアパート桃山荘の住込管理人でしかないというのが、現在の正直の偽らざる姿であると納得した。ここまでの経緯を思ってしみじみ

「大変なんですね」と涙さえ浮かべて帰って行ったという。


富士子は、小学校二年生から五年生まで、近所の「秀峰」という先生に書道を習っていた。

秀峰先生は、天皇陛下・皇太子殿下の浩宮様と、同じ師に付いて書道を習った事を自慢にして、師と並んで写った記念写真を書道塾に飾っていた。

また、秀峰先生は、非常に奉仕精神に満ちた人で、社会活動にも熱心な慈善家で、コリアン人権団体の代表をされているようだ。

当時、母親と二人暮らしだったが、後に結婚された相手の奥さんも気の好い人だった。富士子が修学旅行の土産に買った「星の砂」を奥さんにプレゼントした時には涙ぐんで喜ばれ、縮緬の巾着をお返しにくださった。

富士子の喘息の状態が悪くて、暫く書道を休んだ時があった。秀峰先生は、非常に高価な漢方薬を「喘息に良く効くそうですよ」と言って、アパートまで届けてくれた。

秀峰先生は、富士子の書道の才能に、一目置いて下さり、安い月謝ではとても割に合わないほどお世話になった。

富士子は、久しぶりに挨拶をしたいと何度も思ったが、先生に見せられるだけの「書」が、今では書けないのを残念に思っている。

秀峰先生の妹正峰先生には、漢方薬店の蘭子と一緒にピアノを習っていた。

喘息持ちだった富士子は、幼少の頃から「身体が弱い」「病弱だ」と言われて育った。小学校に上がっても体育の授業を休む事が多かった。身体も小さく痩せていた。

運動会というイベントも、運動が苦手な富士子には苦痛でしかなく、せっかく見に来てくれる母親に申し訳ない思いで辛かった。親を思いやる気持ちの強い富士子は、忙しい中せっせと見に来てくれる母親を喜ばせてやりたいと思った。

自分の弱点を何とか努力で克服する方法は無いかと考えた。難しい種目は急には無理でも、単純に走るだけなら、練習すれば速く成れるんではと考えた。根が頑張り屋だったので、毎晩ひたすら近所を走り回って練習した。

三年生の運動会では競争はびりだった。四年生では六人で走って四位になった。

そして、努力の甲斐あって、五年生になると、友達から「走るのが速い」と評価されるまでになった。五年生の運動会では、学級対抗リレーの選手に選ばれる様になっていた。

体操服を着て親友の平野さんと並んで、千重に撮ってもらった写真を見れば、富士子の笑顔が運動というものへの自信を物語っていた。

小学校生活最後の六年生の運動会が、富士子の想い出に残るドラマチックなイベントになった。五十メートルを七秒台で走れる様になっていた富士子は、クラスの女子で最も速かったので学級対抗リレーの選手に選ばれていた。

残念な事に、練習の時、並走する子と絡んで大転倒をして、膝に二カ所も怪我をした。包帯を巻いた痛々しい姿が写真にも残っている。

富士子のクラスは、リレーの選手が一人足りないので、一番足の速い選手が二回走らねばならなかった。富士子は期待されていた。

「ここ一番の大舞台、ここで活躍して目立てば、私に対する評価が更にアップする」

富士子は、持ち前の根性で、怪我にもめげず、包帯を巻いた足でリレーの本番に臨んだ。

先ず一番手で走った富士子は、一位でバトンを渡した。その後の選手が次々抜かれ、再びアンカーでバトンを受けた富士子は五位で走り出した。スタートからダッシュして、一気に四人を牛蒡抜き一位でゴールを切った。

運動場で応援する父兄席から、拍手喝采を浴びた。千重も涙を流して感動していた。

その晩、「運動会での大活躍」が食卓の話題になった。正直は

「富士子の韋駄天は、どこから遺伝したんかなぁ?」と嬉しそうに目を細めた。

「お父さんは、見ての通り、走るのは大の苦手で、小学校ではノッシノッシ、とにかくのろまで牛みたいに言われておった。」

「お父さんのまご婆さんは、村長に向かって『こら!盛蔵!』と呼び捨てにして叱りつける気の強い人で、活発に走り回る人やったらしい。」

「富士子は、まご婆さんに似たのかな?」


 このアパートの家主は、犬や猫などのペットを飼う事は禁じていた。一方正直は、幼少の頃から犬が大好きだった。

この辺では、時々野良犬が迷い込んで来る事があった。飼犬が逃げ出すなどして、そのまま迷い犬になる様だった。正直も二匹の野良犬を三年ほどの間、アパートで飼っていた。

夏場、クーラーも無い部屋は暑いので、正直は、表の戸を開けっ放しにしていた。

ある日、入り口の土間に、一匹の大型犬が迷い込んで来た。シェパードの雑種の様な焦げ茶色のがっしりした、凛々しい感じのする犬で、首輪はしていなかった。

元は飼犬で、多少は躾もされていたのか、大人しくお座りをした。いつまでも出て行こうとせず、そのまま居ついてしまった。

正直は、翌日早速、商店街で首輪を買って来て、富士子が「コロ」という名を付けた。コロはオスだった。賢い大人しい犬だったので、鎖に繋がず放し飼いにした。

階段下の洗濯機置き場は、一畳ほどのスペースしか無かったが、洗濯機が二台置いてあるだけで余裕があった。洗濯機の横に古い毛布を敷いて、飼う事になった。

アパートの住人が洗濯に出入りする場所だったので、「大きい犬ですけど、賢くて大人しいから大丈夫ですよ」と一人一人に説明した。犬を嫌う住人が居なかったのも幸いして、結構大きい犬が横たわっている上を跨ぐ様な格好で洗濯をする事にも苦情は出なかった。

物騒なアパートでもあったので、コロは「番犬」として直ぐに認められた。コロは、偶に怪しい男が自転車で通り掛かったりすると激しく吠えるので、実際にアパートの「番犬」の役にも立った。

コロが長い時間戻って来ない日があった。夕方になってコロは、白い紀州犬の雑種を連れて戻って来た。その犬はメスだった。

「コロ!お前、お嫁さんを連れて来たんか?」と、正直は笑って、「新参」の頭を撫でてやると、大人しくお座りして直ぐになついた。

やはり首輪をしていなかったので、富士子が「チロ」と名付けて可愛がった。

正直は喘息持ちなので、コロやチロに蚤取粉を振ってブラッシングしながらよく咳き込んでいた。

夫婦になった二匹は、アパートの居心地が良かったのか、仲睦まじく暮らした。チロは、基礎の隙間からアパートの床下に潜り込んで、三度も出産した。体格の大きい犬だったので、多い時は八匹も子犬を産んだ。

コロは血統の良い犬だった様で、生まれて来る子犬は、どれも見た目に可愛いかった。

富士子は、友達の平野さんや安藤さんにも声を掛けた。

「チロに子犬が産まれたんやんか!誰かもらってくれる人探さなあかんねん」

皆で一匹ずつ抱き抱えて、近所の斑鳩公園に連れて行った。

「可愛い子犬、貰ってくれませんか?」道行く人に呼び掛けた。

独り住まいで淋しいお年寄りも多かったので、番犬にもなると、喜んでもらってくれた。

若いホステスの女性と、その「ひも」の男性が、隣のアパートに同棲していた。そのカップルにも一匹引き取ってもらった。

チロの三度の出産で、合計二十匹近い子犬は、みな貰い手が見付かって、幸せに暮らしたであろう。この周辺には、コロとチロの子孫が今でも沢山繁栄しているはずである。

チロは、富士子が中学生になって、フィラリアで死ぬまで、正直のアパートに居た。

コロは、富士子が六年生のある日、アパートに戻って来なくなった。

富士子が中学生になってから、桃谷商店街を歩いていた時、コロにそっくりな犬を鎖に繋いで、向こうから歩いて来る初老の小柄な男が居た。その犬は、富士子の顔を見て気付いた様で、その場にお座りして、富士子を見ながらしっぽを振っていた。富士子はコロだと判った

コロは可愛がられている様子で、毛並みも良く、元気そうだった。コロの力なら、いつでも引き倒せそうな小柄な男の傍に居ても大人しく、飼主を信頼している様子だった。

「コロは、元の飼主と再会して、飼われているんだ」と安心して、そのまま見送った。

子犬の貰い手を探しに、連れて行った斑鳩公園は、昔、いかるが牛乳の牧場があったのでそう呼ぶのだそうだ。この公園は、今は「桃谷公園」に名前が変わっている。大正時代まで、この公園の前には、「猫間(ねこま)川」という川が流れていたそうだ。夜店の立つ場所として、富士子達も「猫間」という地名だけは知っていた。

ある日、斑鳩公園の中の木で、首吊り自殺があり、好奇心の強い子供が目撃した。

「人が首吊ったら、口から舌を出して死ぬんやな」と怖ろしい事を平気な顔で話していた。

この頃になると、富士子には、学校や近所に友達が沢山できて、遊びに出掛ける行動範囲も、かなり広くなった。富士子は、釣り堀屋の前に出る、金魚掬いをするために、鶴橋商店街まで行った。手芸用品の店で「ぬいぐるみキット」を買うのに寺田町辺りまで、出掛ける時もあった。

小学六年のある日、富士子が夕方遅くなってもアパートに帰らないので、千重が心配して近辺を探して歩き回った。

「母さん、ごめんな。阿倍野まで一人で歩いて行って来てん」と、母親を見付けて活き活き目を輝かせた富士子が歩いて来た。阿倍野まで、子供の足で歩けば半時間はかかっただろう。

「母さんと見たあのお皿が忘れられなくて、どうしてももう一度見たくて、食器売り場でずっと見惚れててん」

富士子は、前に一度、母親に阿倍野近鉄百貨店に連れてもらった時、食器売場で偶々見掛けた洋食器をたいそう気に入っていた。

それは「ロイヤル・アルバート」の洋食器セットだった。富士子は、そのデザインや形、薔薇の絵柄にすっかり魅了されて、最もお気に入りの食器だと言う。

富士子は、自転車が苦手だったが、友達が皆乗るので、粗大ごみから錆びた自転車を拾って来て空気を入れて乗っていた。

気象台公園の外周に、自転車で走れる遊歩道があって、そこで自転車の競争をしたり、自転車をぶつけ合って遊んだ。富士子も、ずいぶん活発な子供になっていた。

今の御勝山南公園には、昭和四十三年まで、大阪管区気象台があったので、富士子達は気象台公園と呼んでいた。

インベーダーゲーム等の中古のゲーム機を幾つか並べた店が、近所に新しくできた。両替などをする子供がいたので、お婆さんが一人で、退屈そうに店番をしていた。

「二・四・六・八・十・三十」の六つの中から、次に出る数字を予想して当てると、数字に応じてコインが二~三十枚出るゲーム機があった。一回十円で、当たればコインは最低二枚、一番出る確率の低い三十で当てると、コインは三十枚も出た。コイン一枚でゲーム一回できるので、コイン一枚は十円に相当した。単純に射幸心を煽るので、子供達に人気があった

富士子は、集中力があり、観察力が鋭く、変に頭の働く子供だった。

この機械が、電源コンセントを抜いて入れ直すと、機械がリセットされて、最初は必ず二が出る事を発見した。更に、その後に出る数字のパターンを研究して、リセットした後は、ほぼ同じ数字の出方をする事に気付いた。

この「法則」を発見するまで、富士子はメモを持って、他の子供達が次々ゲームに挑戦する様子を店先でじっと観察していたのだ。

「自分、ずっと見てばっかりやけど、せぇへんのんか?」

「私今日はお金持ってないから、見てるだけでおもしろいし」

偶に不審に思われて尋ねられても、うまく誤魔化した。それどころか、

「可哀想やから一枚やるわ」とコインを恵んでもらう事もあった。

富士子は、この法則を秘密にして誰にも教えなかった。お婆さんの目を盗んでは、コンセントを抜き差しして、番号を的中させた。それで獲得したコインを貯めて

「三枚で十円でええよ」と友達に売ったりしていた。


富士子の描いた絵本を見て以来、時々手土産を持って、正直の部屋に訪れる習慣になっていた亀山は、肝臓癌が悪化して入院した。入院中は富士子も何度か見舞いに行き、その治療費も正直が負担してやっていたが、その亀山がとうとう死んだ。

連絡する身寄りも無く、葬式を上げる身内も居ないというので、正直が、行掛り上止む無く、全ての費用を負担して代行した。

葬儀屋に頼んで、亀山の遺体を病院からアパートの部屋に移し、正直と富士子で簡易なお通夜も行い、火葬まで済ませた。暫く正直は、お骨もアパートの部屋に預かっていた。

ほとぼりの冷めた頃を見計らって、近所に住んで居た女が「実は身内の者だ」と言って来た。その女は、身内と言いながら、亀山のお骨の引き取りや永代供養の話をすると断るのだった。そして、正直が保管していた亀山の遺品とポケットの小銭だけ持ち去った。

いつまでも、他人のお骨を持っている訳にもゆかず、供養も処分もできず困っていた。

どこからか嗅ぎ付けて、「男の息子」と名乗る若い男が韓国からやって来た。

正直は、その韓国人の若い男に、骨の供養の件を伝えたかったが、日本語がほとんど通じなかった。

富士子の友達に、韓国語の通訳ができる子が居るというので、頼んで来てもらった。その友達と言うのが、漢方薬店の蘭子で、朝鮮学校に通う小学六年生だった。朝鮮学校の生徒は優秀で、韓国語以外に日本語と英語の会話で通訳ができた。

その韓国人の若い男は、多少なりとも「遺産」にでもありつければという期待で、片道切符の手ぶらでやって来ていた。帰りの飛行機代も持たなかったので、止むを得ず、正直が「泥棒に追い銭」で、帰りの旅費を出して帰らせた。

通訳をしてくれた蘭子には、桃谷商店街で、ハンバーグランチをご馳走して、ブティックでポシェットを買ってやった。

正直の家庭は、ほとほと「保険証」に縁の無い運命かの様に、安楽島に居た頃から、保険証という物を持たずに生活して来た。

小学校も最終学年、六年生の修学旅行の予定が近付いていた。富士子は、

「保険証を提出しなければ、旅行に連れて行けません」と先生に言われて帰って来た。

それで、千重が慌てて市役所へ国民健康保険の申請に出向いた。これまでの保険料で、未納になっている期間分をまとめて払い込む様に告げられた。

市民税の非課税世帯だったので、情状酌量を願って救済してもらい、富士子にとって初めての保険証を手に入れた。

 修学旅行に出発する当日の朝、アパートの前で友達の安藤さんと並んで、母親に写真を撮ってもらった。

行き先は、月並みな「お伊勢参り」だった。鳥羽で生まれ、伊勢に田舎もあって、ちょくちょく母親と訪れる富士子にとっては、珍しくもない目的地だった。

今さらの伊勢や鳥羽の観光はともかく、学校の友達と一緒に行く、初めての泊まり掛けの旅行だったので、富士子も楽しみにはしていた。

当時の修学旅行の典型的なコースであるが、伊勢の外宮から内宮を回って、五十鈴川の御手洗場で錦鯉を見た。富士子は安楽島の屋敷の池で飼っていた錦鯉を思い出した。

二見ケ浦に移動して夫婦岩を見学し、記念の集合写真を撮って、お土産店に寄ってから戸田家で宿泊した。二日目は、鳥羽で真珠館やブラジル丸などを見て帰路に着いた。

この頃の富士子の友達の中には、自分の友達に、「この子、日本人のふじちゃん」と言って、紹介する事もあったそうだ。

富士子の小学校時代の親友に、平野さんという女の子が居た。彼女については、富士子が六年生の卒業文集にも書いている。

彼女は、不幸な環境にも関わらず、とても心優しい思いやりのある子だった。肝臓の病気なのか肌の血色が悪く、口の悪い同級生達は彼女を「ぶつぶつ」と呼んでいた。

富士子が気象台公園の鉄棒から落下して足を挫いた時、桃山荘まで一キロメートル以上の長い道のりを負ぶって歩いて送り届けてくれた。思いやりのある優しい子であると同時に、相当芯の強い女の子だったのであろう。

彼女の母親は、制癌剤の副作用で髪の毛が薄く、彼女が小四の時に癌で亡くなった。父親は線路工夫だった時に、片足を失っていた。彼女の父親が、駅前のデサントの店で、野球のグラブを縫う姿を富士子も見た事があった。その父親も、彼女が中二の時に亡くなった。

「何故、そんな次から次に平野さんを不幸ばかりが襲うんやろ?」と富士子は哀しかった。

気の毒な彼女のその後の消息は、手紙や電話のやりとりで聞いていた。

彼女は、中卒で美容師になって働いた。同じ店に居た美青年に一目惚れしてしまって、口の上手い嘘つきなその男の愛人にされた。その後、三歳上の姉が早くに結婚した。相手の男性も親切だったので、妹を独りで放っておくのを心配して、新婚当時から東成区のマンションに同居させていた。

やはり居辛いので、彼女も三十歳の時、相撲取り崩れの若者と結婚して、その後「ちゃんこ店」を営業しているそうだ。彼女とは、今も年賀状のやり取りをしている。

正直が西成の将棋クラブで知り合った湯村雅佳は、この年の元旦に初めて、奥さんと二人で正直の自宅を「年賀の挨拶」に訪れた。奥さんは、大学教授の娘で裕福な家に育ったそうだが、同じく左翼思想を持っていた。

新年早々、湯村は、正直と差し向かいで将棋を指しながら正直の話に耳を傾けるのだった。

小六のお正月に、富士子は、平野さんと一緒に近所を歩いている時、知らないお婆さん達に呼び掛けられた。

「ちょっとあんたら、善哉を食べさせて上げるから、上がっておいで」

「猪飼野保存会老人憩の家」の二階に上がって、焼いた餅も入った、大きなお椀に満杯の美味しい善哉をご馳走になった。

「また帰りにも寄りや!」と送り出されたが、お腹一杯になっておかわりは遠慮した。

富士子の十三歳の誕生日、シンジョウを始め、三棟のアパートに住む数人の人達がバースデイケーキを持って来てくれた。

「学校の友達が駅前のマクドでお誕生日会をしてくれるねんて♪」と言って、富士子は午前中に出掛けた。六年生にもなると段取りが良く、パーティーコーナーを予約していた。

「十二人も来てくれて嬉しかった!」椅子が足りなくて座り切れないくらい盛り上がった様で、夕方になって大喜びで帰って来た。

 三十代の夫婦が小学一年生の女の子を連れて、「アパートの管理人」を訪ねて来た。

「空室ありを見て来たんですけど、この辺はどこのアパートも子供連れは断られるんですね?」女の子の母親らしき女の人が、困り果てたという表情で訴えてきた。

正直は、自分達の時の事を思い出して、気の毒に思って笑顔で答えた。

「家主からは、子供連れは断る様に言われてますけど、大人しそうな女のお子さん一人ですし、私の方で何とかしますから、入ってもらって宜しいですよ」

実際、その女の子は、居るのか居ないのか分からないくらいとても大人しい子だった。

夫婦も礼儀正しい感じの良い人だったので、正直は、「住んでもらって良かった」と、恩返しができた様で気分が良かった。

正直は、どこまでも「武士は食わねど高楊枝」の「亭主関白」で、相変わらず、家計の大変さも女房の苦労も見て見ぬふりで全く理解しようともしなかった。

管理人の業務と言っても、大の男が終日をそれに費やすべきほどの量など無く、共同便所や土足で歩く廊下の掃除などしれていた。電気のメーター検針などは、富士子が代わりに見て回って、電気代の請求書も富士子が手書きしたメモを家賃の請求にはさんでいた。

そもそも「住込みの管理人」というのは、子供連れを理由に他に貸してもらえる部屋の無い正直家族の足元を見て、桃山荘の家主が提示した条件で、家賃が免除されるだけで収入にはならない。

にもかかわらず正直は、外へ稼ぎに出るでもなく、部屋で時間を持て余していた。それどころか、時給わずか四百円で朝から晩までこまねずみの様に働いて、千重がようやく手にしたパート代から、無断で贅沢品を買い物する無神経さであった。

父親の正太郎は、執拗に正直に電話をかけてきて、嘘をついてまで無心して、度々数万円以上の単位で送金させていた。一方で中部新聞に勤めていた長男は、正直の屋敷を散々接待に利用したおかげで順調に出世して、名古屋市千種区の高級住宅街に住んで余裕のある暮らしをしていた。

この厚かましい長兄は、自分の息子の結婚式をわざわざ正直に連絡して来た。案の定、義理堅い正直は、

「一度久しぶりに、兄者の顔を見たい」と言って、千重のパート収入から十万円の祝いを持って、桃谷の惨めなアパートから名古屋の長兄の自宅まで千重と富士子の三人でのこのこ届けに行った。

三人は、駅で降りて高級住宅街の中の道を探しながら歩いて、漸く長兄の家らしき豪邸に辿り着いた。正直が庭に居た長兄に気付いて、庭の中を覗き込んだ時、長兄はちらっと見て、正直の変わり果てた容貌に驚いたのか、踵を返し背中を見せて屋内へ入ってしまった。表札を確かめて呼び鈴を鳴らして、

「御免下さい、正直です」と名乗った。出て来た長兄は、ふてぶてしくも

「何か怪しい年寄りが、わしの庭を覗いてると思ったが、まさか正直とは気が付かんかった」

時間的にも経済的にも実に間抜けなことだが、正直は繰り返しても懲りなかった。

桃山荘の近くの賃貸住宅に住んでいた野田さんという気の良い韓国人の夫婦がいた。

子供好きなこの夫婦にはなかなか子供ができなかったので、富士子を大変可愛がってくれた。

是非一度家に遊びに来てくれと言うので、富士子は何度かお邪魔した。夫婦は色々な手料理を食べさせて大歓迎してくれた。ここで生まれて初めて「お好み焼き」を食べさせてもらった。富士子は、家で作るお好み焼きという料理の美味しさに感動した。

正直の自己中心的な呑気さに憤って、毎日パン焼き窯の傍で汗だくになって働く千重の労働の過酷さを熱心に説いてくれた人がいた。それが野田さんの主人であった。

千重がパートの仕事に出ている平日に、特に用事もなく手持無沙汰な正直は、ぶらぶらしている姿を見かけた人に訝しがられることさえあった。アパートの前で木刀を振っている姿を富士子の同級生が見かけて、

「お前の父さんは極道か?」と尋ねて来たこともあった。一時は、湯村の奥さんが

「肩が凝るので揉んでもらいに」一人でアパートに通っていたことがあった。これにはさすがに野田さんも堪忍袋の緒が切れて、正直に怒って殴り掛からんばかりに抗議してくれた。

「武田さん!あんたは難しい知識もようさん知ってはって、口では色々立派なことを言うてはるけど、あんたのしてることは極道と一緒や!奥さんに毎日朝から晩まで働かせて、自分は昼間っから若い女の人を家に入れて、それは極道やひものすることや!」

野田さんは、千重がわずかなパート時給のために、毎日六十度にもなるパン焼き窯の傍で汗だくになって働いている時に、元気そうな正直がたとえ一円でも稼ごうとしないことを責めていたのだ。しかもそれどころか、正直は、クーラーの点いた涼しい部屋に居て、昼間っから人目に付く若い女性を部屋に入れていることに呆れていたのだ。しかしこれに対して正直は、

「私は人から白い目で見られるようなやましいことは何一つしてません。肩が凝って困っていると言うから、親切心で揉んであげているだけで不倫などと言われる事実はないです。」と平然と答えた。

野田さん夫婦には、それから暫くして待ちに待った子供が産まれた。正直が命名を頼まれて「京子」という名になった。

法律の知識で頭でっかちになって経済観念は無く、現実の生活力もとてもあるとは言えない正直であったが、

「物事は、必ずその上澄みと底の泥の両面を見なければならん。富士子よ、御前はラッキーなんやぞ。ここに来てこういう生活を体験して、初めて学ぶことのできた面があるはずや。安楽島で蝶よ花よの贅沢な暮らししか知らんかったら、それはかなわんかったやろう」

このような現状に在って、なお正直は「帝王学」を語り、いまだ「天下を取る」気でいた。不屈の精神とも言えたが、ある意味「誇大妄想」とも心配される一面であった。

正直の口癖でもあったが「天下人になるには、長い闘病生活、長い放浪生活、長い刑務所暮らしのいずれかが必要や」とも言った。


 千重の母親千代は、かねがね「長らく実家に帰っていないので、久しぶりに田舎へ帰りたい」と言っていた。母親千代の実家は舞鶴にあった。

法事の連絡が来ているついでもあったので、千重は、この機会に母親と富士子と妹の百代夫妻と息子の六人で舞鶴へ旅行をした。富士子は、大好きな祖母に寄り添うように電車の座席に座って、長い時間ゆっくり話が出来て、この旅行はとても楽しかった。

舞鶴の祖母の実家と言うのは、お寺か旅館の様な大きな構えの旧家であった。再従兄弟だと思われる女の子が二人いた。

せっかく遠い日本海側まで来たので、ついでに「股のぞきと飛龍観」で有名な天橋立にも寄った。「日本三景の一つ」だと聞いたが、皆そろって初めて訪れる観光地だった。並んで記念写真を撮ってお土産も買って、文珠の旅館で一泊した。

この頃は祖母もまだ達者で、元気に話して笑ってしっかり歩いていた。最後の法事に故郷を訪ねてほっとしたのか、それから二年後に亡くなった。

正直は、単なる観光やレジャーなど、自分自身や妻子を楽しませるだけが目的の「物見遊山はしない」主義だった。

無理に家族と行楽などに出掛けると、受験勉強中に遊びに誘い出された受験生みたいに極めて不機嫌で、一緒に居る方が不愉快になった。仕事が大好きで仕事がしたくて堪らない正直は、仕事の事が気になって楽しめなかったと言えば聞こえは良いが、要するに正直は自分勝手、自己中心なのだ。

従って、他人を喜ばすための接待レジャーであれば、それは仕事なので物見遊山には当たらないという正直なりの理屈だった。

例えば、正直の趣味で参加していた「俳句会」の日帰り観光などには、必ず家族三人で参加した。大阪府警の巡査部長夫妻との「懇親会」として、奈良の室生寺や柳生の里へ家族と共に行った事もある。

外見は老いさらばえても、正直は、いつまでも青年実業家の心を失う事がなかった。外出時は常に、オーダーメイドのスーツや背広上下をぱりっと着こなし、だらしない姿を見られる事を恥じた。正直は、武士として恥ずかしくない死に方をするために、肩肘張って生きねばという心構えであった。気軽に家族と出掛ける事もできず、外出も結構肩の凝る行事だったのだろう。

富士子が高学年になってからは、正峯先生にピアノを習っていたので、ピアノの発表会へ行った時に撮った写真等もある。白いドレスでお洒落して、一緒に習っていた蘭子と並んでいる。

中学への進学を考える時期が来た。

現在住んで居るアパートの校区になる、近くの公立中学校の評判を聞いて、一応他の中学校の受験も検討する事になった。

アパートから通える範囲で、適当と思われる中学校は、国公立と私立合わせて数校あった。一つ一つ比較すると、偏差値と合格の難易度や正直の好みもあって、最終的に国公立と私立各一校ずつに絞られた。   

富士子の小学校での学業成績は良かったが、国公立の敷居はあまりに高過ぎた。その様な有名中学を受験する生徒は、小学校の低学年から、受験を目標にした進学塾へ通っていた。中学に入ってから学習する範囲まで、塾で既に修業を終えて、模擬試験を受けたりして、受験に備えていた。

しかも、入学してからも、授業の進度に付いて行くには、補習塾に通う必要があると聞いた。それも大変なので、合格できなかった事も悔いにはならなかった。

私立の方で希望した中学には合格した。両親のいずれかが、同行する事になっていた親子面接の日は、

「質疑応答の場に出るのが大好きな」正直が付き添った。

「先生の前で、一つ演説ができる」と、正直は、張り切って臨んだ。

「お父さんは、何を喋り出すか分からない」心配した富士子の饒舌な独り舞台になった。正直は、全く出る幕が無く、

「ほっほっほ」と笑っただけで、がっかりして帰った。

昭和五十九年三月、正直が自民党青年局の先輩として注目していた竹下登の父親が死去した。正直が尊敬していた田中角栄は、

「飛行機をチャーターして、田中派の国会議員総勢六十九人と共に、人口四千人の村に葬儀に訪れた。」

「お世話になった方の冠婚葬祭、特に不幸事には、必ず『礼』を尽さなければならん。」と正直は富士子に諭した。

小学校生活も残り少なくなり、卒業する日が迫って来た。大阪に移って来てからの六年間を思って、富士子は感無量であった。

卒業式、儀式に臨む富士子の姿は、正直から「武士道」を叩き込まれているだけあって、背筋を伸ばし凛とした真剣な眼差しであった。

小学校の卒業式も、中学校の入学式も、千重が同行した。正直は、仕事の予定と重なったので、仕事を優先して出席しなかった。

富士子も無邪気な頃は、いつも目を輝かせて屈託の無い笑顔で写真に納まっていた。思春期になったのか、親に撮ってもらう写真に写る目付きが、蔑む様に冷たく冷めて死んでいる。

中学校は、阿倍野区にあったので、富士子は、初めて電車通学をする事になった。小学校の5年生頃から、電車に乗る事自体は、独りで平気だった。ただ、近鉄南大阪線の朝夕のラッシュは相当に酷かった。富士子はまだ身長が低かったので、ラッシュの混雑は苦痛だった。

私立の学校になったので、通学してくる範囲も広く、富士子の自宅はまだ一番近い方で、友達は方々から色々な交通手段で通っていた。

ある日、中学校になってから友達になった女の子をアパートに招いた事があった。

富士子は、大阪での生活が長くなって、実際の状況に遭遇するまで全く気付かなかった。

富士子のアパートでの生活を初めて目の当たりにした友達は、「・・・」一言も口に出す事もできないほどに、何もかも驚いていた。かつて、初めて西成に来た時の富士子と同様に、正にカルチャーショックを受けていた。

富士子は、それまで全くそういう配慮をした事が無かった。

「母か父が気付いて、注意してくれれば良かったのに」と後悔した。二度と友達をアパートには呼ぶまいと思った。

後になって、今度は富士子がその友達の家に呼ばれて行った。その子の家は前栽に池まであり、特に立派な邸宅住まいだった。富士子は、改めて、アパートに呼んだ事を失敗だったと痛感した。

その友達は、泉佐野市に住んでいて、母親も育ちの良さそうな親切な人だった。

富士子は、学校へ弁当を持参していなかった。友達がその事を母親に伝えた翌日、その子は、大きなパックにサンドイッチを沢山詰めて持って来た。

「お母さんが、富士子ちゃんと一緒に食べなさいって」と、富士子の前に拡げて見せてくれた。

せっかくの温かい思いやりであったが、その時の富士子は、素直に喜ぶ事ができなかった。

「私が弁当を持って来ないのは、夏場は傷み易いからなだけやのに、余計な事せんといて」

そのサンドイッチに、富士子は全く手も付けなかった。友達は泣いていた。

この友達をアパートに招待するより以前に、学校の担任の先生の家庭訪問を受けていた。

女性の担任の先生は、通勤にも愛用しているホンダのラッタッタを天王寺から快適に走らせて、アパートの部屋に来られた。

さすがに教師の立場上、本音の反応は示せなかっただけで、実はこの先生もカルチャーショックを受けていたのであろう。

それ以後、その先生は富士子を「桃谷の武田さん」と呼ぶ様になった。



「第三の人生」


正直は、昭和九年生まれである。昭和六十年八月十二日、この日が、正直の命日になっていてもおかしくはなかった。

正直が大阪に出て来てから九年目、富士子が中学二年生のこの日、もう、忘れた人も多いかも知れないが、日本航空一二三便が「御巣鷹の尾根」に墜落するという航空事故があった。

この事故から九年後の平成六年二月十二日、還暦を迎えた翌月に鬼籍に入るまで、正直は第三の人生を生きる幸運に恵まれたのである。あえて「第三の人生」と書いた。

丁度、この事故の九年前、昭和五十一年九月二十四日、正直は、一家心中をする覚悟を決めて、生まれ育った郷里を飛び出して来た。死に場所を求めての出奔であった。

郷里を捨てる事態になるまでは、順風満帆とは言えないまでも、猪突猛進、破竹の勢いでひたすら前のめりに生きて来た。これが第一の人生だと思っている。

しかし、何の罪も無い妻子まで道づれにする事はできず、生きながらえてしまった。結果的には、所帯を持ち妻子を養う責任から、九年間の第二の人生を生きる事になった。

死に切れずに成り行きで生き長らえた九年間の第二の人生から、思いがけず命拾いした事を感謝して、もう一度心を新たにして生き直す人生へ。この九年間が第三の人生という訳だ。


昭和六十年八月十二日、この日、所用があって正直は、日帰りで東京に出張していた。

一日で用事を片付けて、夕方には帰る予定だった。東京から帰るのに丁度良い時間だったので、十八:五十六東京発大阪行の航空券を予約していた。

いつも点けっ放しのテレビから流れるニュースを千重と富士子は、何となく聞いていた。

「何や?日航の一二三便て、東京発大阪行きや言うてるけど、お父さんが乗る言うてた飛行機と違うん?」と気付いた。

それから二人は、テレビにくぎ付けになった。正直の安否が気遣われ、連絡を取ろうにも、当時は携帯電話など無く、どうして良いか分からず、右往左往していた。

折しも、正直は、今日ご馳走をしてくれると言う人が経営するレストランから、予定が変わった事を家に連絡しようと電話をかけた。娘が出たので、

「ああ富士子か?お父さんやけど」、富士子は、信じられなかった。

「お父さん!どうしたん?乗る言うてた飛行機が消息を絶ってる言うて、えらい騒ぎになってるで?今何処に居るん?」

ニュースを知らない正直は、富士子の心配そうな声の理由が分からなかった。

「先方の社長が、せっかく遠い所来てもらったのに、急いで帰ってもらうのは気の毒や言うて、ご馳走してくれる事になった。それで、帰りは明日に延ばすから、飛行機はキャンセルしたで。」と事務的に伝えた。

富士子が状況を説明すると、意外にも正直は冷静で、

「ジャンボ機やから、大勢の人が乗ってたはずで、気の毒な事やな」と言った。

幸いにも正直は、先方の社長の「ご馳走しましょう」という心遣いで、急に予定が変わってその便には乗らなかった。当初の予定通り帰れば事故に遭っていたので、正に九死に一生で命拾いをしたのだった。

 正直は、自分が乗る予定だった飛行機で、しかも、大阪行きだったので、

「誰か知っている人が居ては」と、新聞の「犠牲者名簿」を熱心に一覧していた。

「うん?この名前は?」と、アパートに暫く住んでいた、若い美容師の男性の名前を見付けて驚いたのだ。

その青年の両親が、入居に際してアパートを訪れて、正直に丁寧に挨拶をされ懇意に話した覚えがある。その青年は、美容師の仕事をこつこつ真面目に勤めている様子だった。

趣味で大型バイクに乗っていたが、明るい性格で正直にもよく気軽に話し掛けた。

「管理人さん!見て下さい!今度ナナハンを買ったんですよ」アパートの前で、大型のバイクを見せてくれたのが印象に残っている。

富士子が小学校の修学旅行に出掛ける朝、アパートの前で友達と並んで撮った記念写真の背後に、その大型オートバイが写っていた。

正直は、事実を確かめて、一言お見舞いを言いたいと思って、残っていたその青年の連絡先に電話を掛けて見た。

「――いきなりこんな事を申し上げて失礼なんですが、今朝、新聞で日航機事故の被害者名を見てまして、ちょっと気になりましたもので。もし間違いなら良いんですが、一度お伺いしたいとお電話させていただきました。」

果して、正直の心配した通りで、その名前は青年に間違いなかった。

「沢山の方が亡くなられた中から家の息子の名前に気付いていただき、またご親切にお見舞いの電話までいただきまして」

両親もすっかり気を落としていたので、正直の電話をたいそう有り難がられた。やるせない思いに沈んだ気持ちで、問わず語りに青年の身の上話をされた。

電話に出られた母親の話では、その後青年は美容師として成功し、講演を依頼されるまでになったそうだ。

事故の日は、東京へ講演に招かれて、その帰路に日航機一二三便に乗り合わせた。

彼には、以前から付き合っている婚約者がいて、結婚の予定も決まっていた。その直前だったので、婚約者の女性は悲嘆にくれた。こちらとしても相手の女性に申し訳ない事をしたという気持と、息子を失った哀しみとで途方に暮れているとのことだった。

正直は、常日頃から富士子に言っていた。

「私は畳の上で死ぬ事はない。毎朝、家を出る時は何時何処で死んでも恥ずかしくない格好をして、これが死装束になるという覚悟で出掛ける様にしている。」

奇しくも、同じこの年の二月二十七日には、正直が師と仰ぐ田中角栄が、脳梗塞で倒れて入院した。退院後も言語障害や行動障害が残り、以降政治活動は不可能になった。

正直は、「諸行無常」を思わずにはいられなかった。事故を振返る度、身震いする思いで姿勢を正すのだった。

一度は「一家心中」を覚悟しながら、死に切れないでずるずる惰性で暮らして来た。この日を境に、人生をリセットする気持で、今一度真剣に前向きに生きたいと思って、覚悟を新たにしたのだった。


千重の母親は、元来が心臓の持病を持っており、年齢を考えても、小俣の実家に残して、いつまでも娘の幸恵一人に母親を任せ切りにしている事が、千重は一層気がかりになっていた。

自分の元に母親を引き取って同居できれば、幸恵に負担を掛けずに、少しは安心できると思った。そのためには、先ず、現状のアパート暮らしから、もう少し余裕のある住居に移らねばならないと考えていた。

千重は、この機会を逃すと、母親に大阪に来てもらうチャンスは二度と無いと、新居を見付けて転居する計画を急いだ。

転居先の候補としては、大阪市内の中学校へ通う様になった、富士子の通学の便も考えて、近鉄南大阪線沿線が良さそうだと考えた。

 この頃、正直も、長野県の鷹本社長の紹介で、近鉄南大阪線「磐木駅」から歩く、中古物件を検討していた。それはかなり大きな和風の邸宅で、築年数は経過していたが、宮大工が建てたと思われる、正直の好きな金閣寺にも似た、本格的日本建築の建物だった。

不動産バブルが始まる頃で、その当時の正直にとっては、到底手の出ない売値ではあったが、安楽島に自分が建てた屋敷に似ていたのも、強く惹かれた所以だろうと思う。

正直の兄が大成建設に勤めて、当時はパルコンと言うシリーズを手掛けていたのもあり、住宅展示場に足を運んだ事も何度かあった。

偶々、富士子の中学校に、羽曳野市から通っている仲の良い友人が二人居たので、不動産屋の新築建売分譲広告を見て、最寄駅が羽曳野市内になる物件を探した。適当な物件が何軒か載っていたので、早速電話して見ると、現地見学に連れて行くと言われた。

富士子は天王寺まで通学定期を持っていたので、正直と千重は、富士子を連れて電車で天王寺に出た。近鉄阿部野橋から南大阪線で藤井寺まで行き、駅前まで迎えに来た不動産屋の営業車で現地に向かった。

道中の車内で、凡その説明を聞きながら、一軒目の物件に案内された。その外観や屋内をざっと見て、正直は

「これで良いです」とあっさり決めようとした。

正直は、つまるところ、千重の母親を住まわせる余裕の一部屋が、一階にあれば良いのだろうくらいに考えていたので、それ以外の希望も無く迷いは無かった。逆に営業担当者の方が慌てて、

「本当に此処で宜しいんでしょうか?高額な買い物ですから、十分よく検討してください」と、後で不満や苦情の出ない様に、敢えてマイナスになりそうなポイントの説明を加えた。

「もう一軒ご希望に合いそうな物件が近くにある」と言うので、ついでなのでそこへも連れてもらった。

先の物件に比べて、前の道路も隣の家も広くて圧迫感が無く、周辺の環境も明るい感じがしたので、正直と千重はそれに決めた。

正直は、マイホームと言う高額な買い物であるにも関わらず、何の資金の根拠も無く、無責任に購入の返事をしていたが、まとまった貯金があるはずもなかった。当然、購入の資金は、ほぼ全額を住専のローンをあてにして契約した。果たしてローンの審査が通るのか不安であった。

桃谷から住居を移すという事になれば、大阪に来てからだけでも、既に三度目の転居になったが、正直は、また次の転居があるかも知れないという気がしていた。

それで、桃山荘を出るに際しても、あまり大袈裟に転居の話題は出さない様にした。個々に挨拶をした住民の人からは、

「長年お世話になったのに」と名残を惜しまれた。

税務調査対策として、桃谷のアパートは、そのまま暫く借り続ける予定にしていた。

引越してからの道具は、新たに揃えるつもりで、アパートの荷物はほとんどそのままにした。必要があれば、いつでも取りに来れるという気楽さがあった。


富士子が中学三年になる春休みに、桃谷のアパートから羽曳野へ引越した。羽曳野へ移動した日の荷物は、三人それぞれ鞄や袋に入れて手で下げて出た。富士子は、アパートの自分用の部屋に新たに買ってもらった小さなテレビを風呂敷に包んだ。

そういう訳で、羽曳野の新居には、当日持参した物以外は、本当に何も無かった。着いた途端、三人とも空腹を感じたが、米も炊飯器も無いので、食べ物を買いに出た。

不動産屋の車で案内されて、家を見ただけだったので、買物をするにも、店がどこにあるのかも分からなかった。とりあえず、自宅の周りを歩き回って見た。

角を曲がって五十メートルほどの所に、ヤマザキパンとよろず屋的な店があった。調理器具も無かったので、初日は、ジュースや牛乳を飲んでパンだけを食べた。

その日の午後に、駅前の商店街に行って、家具店で整理タンスなどを買った。その道中で、八百屋や鮮魚店や豆腐店などを見付けた。スーパーも大小二軒はあった。

 羽曳野に住み始めてからも、週末には、富士子がちょくちょく桃谷のアパートに寄った。富士子が通う私立の学校は、登下校時の寄り道を厳禁していたので、下校時に寄る事はできなかった。

中学二年になってから親しくなった「大東」という女生徒は、阿倍野区松虫に住んでいた。富士子は、桃谷に来たついでに、阿倍野で大東に会えるのも楽しみになった。

家から歩道の無い道を徒歩二十分以上かかる高鷲駅が最寄駅になった。近鉄南大阪線で阿部野橋まで一本で行けるので、通学には便利になったが、朝のラッシュは身動き一つできない想像以上の猛烈さで、女子学生には特に苦痛であった。通学路が同じになったので、河内天美に住んでいる伊藤という女子と親しくなった。

富士子の中学校での成績は、比較的良い方だったが、中高一貫で持ち上がりになる高校への進学をせず、公立の天王寺高校への進学を決意して、進学塾へ通い始めた。

ところが、体力の乏しさと、無理の利かない病弱さは、やはりまだそのままで、夏休み早々に酷い偏頭痛で倒れてしまった。

掛かり付けの石田診療所では、原因がよく分からなかったので、光明池の病院に紹介されてMRI検査を受けたが、原因は特定できなかった。この原因不明の劇症偏頭痛は、これ以後、富士子の持病の様になった。

結局、体力面で断念させられた格好で、第五学区の首位校だった府立天王寺高校に、高校から進路を変えるのを諦めて、そのまま元の私立の高等部に進学する事になった。

富士子が通う学校の食堂にあるジュースの自販機が「誤作動」する事に気付いた。

誤作動というのは、百円玉を入れて、入れ間違えたと思って返却レバーを回すと、百円玉が落下して返却されるのは正常だった。しかし、コインを返却した後も、ジュースの選択ボタンが点灯していた。その状態で選択ボタンを押すと、ジュースが出るのだった。

仲の良い大東が食堂で話し掛けて来る事もあった。

「たけぴー!何してんの?」「ううん、ちょっと私お金入れ間違えて」

富士子は、この「秘密」も決して誰にも話さなかった。他の生徒達の目を盗んでは、毎日の様に無料のジュースを飲んでいた。



「山より大きな猪は出ん」


幸子と幸恵は、穏和でおっとりした性格の祖母と、三人だけの暮らしであったが、大過なく成長して中学を卒業すると高校には進学せず、二人そろって三交百貨店の食堂で働いた。

幸子も幸恵も、やはり千重の娘なので、性格的にも千重と似ている所があるのか、根っから客商売が好きで向いていた様だ。

普段は、特に社交的と言うタイプでなく、むしろ無愛想と言っても良いくらいだったが、その接客態度については、ほとんどのお客から「感じが良い」と評判も良かった。

幸子と幸恵が二十歳になるという時期、千重は、恥ずかしくない晴れ着で二人を成人式に出席させてやろうと思った。

パート労働でこつこつ貯めたなけなしの貯金で、成人を記念して二人に振袖を新調してやった。しかし、これまでの様々な不信感の積み重ねで、母親に強い疎外感を持って素直になれない二人は、この思いを受け容れなかった。

「柄が気に入らない、素材が悪い、仕立てが悪い、折上げが不細工」特に幸恵は、母親のすること全てが気に入らないので、散々ケチを付けるばかりだった。

せっかくの振袖を着せてもらいながら、二人とも実に不愉快な顔つきで記念写真に納まって、千重をがっかりさせた。その時に、白いドレスを着て小俣の神社で一緒に記念写真を撮ってもらった富士子は、まだ幸子と幸恵の気持ちを十分理解できなかったので、ただ母親を可哀想に思った。

後々、その時の二人の振袖は、御下がりを幸子の娘が仕立て直して成人式に着て大切にした。

幸子は、後に「ダンケ」という珈琲店で働く様になり、そこで知り合った名張に住む岡田裕之と二十一歳の時に結婚した。中学を出てから地道に働いて貯金した資金で、伊勢の福祉会館で地味な神前結婚式を挙げ、新婚旅行には沖縄に行った。

祖母の千代は、孫の幸子の結婚式にも出席して、ほどなく曾孫の顔も見る事ができた。

新婚の住居について、祖母の家から離れるのを幸子が寂しがったので、優しい夫裕之は、千代の住む小俣町の直ぐ近くに、借家を見付けてそこに幸子と住む事にした。この辺りの借家で空家になっていたのは町営住宅しかなく、二Kくらいの非常に手狭な間取だったが、当面二人で住むには十分と考えた。

裕之は、幸子と交際を始めた当初から、実に気軽に頻繁に幸子の実家に出入りして、祖母の千代とも身内の様に親しくした。千代も

「幸子の裕之さんは、外見だけはどうにも救い様が無いが、ほんに心根の優しい人やな」と安心して気を許していた。

また、裕之は、幸子が喜ぶだろうと、義妹の富士子や従弟の富美まで一緒に、方々へ車に乗せてレジャーに連れて行くのだった。

一方の幸恵は、元来が男っぽい性格の面倒臭がりだったので、働きに出る以外はほとんど外出もせず、浮いた話も無く、二十八歳になるまで結婚に全く関心を持たなかった。

幸恵は、幸子が居なくなって祖母と二人になっても、それまでと何の変りも無く、年頃の女性とは思えない地味な日々を過ごした。

幸子が結婚して祖母の家を出たので、母親が幸恵と二人にだけなって淋しがってるのでは、と心配した千重が、富士子と珍しく正直も一緒に、小俣の実家に遊びに来た事があった。

この時、正直の喘息の発作が出て、直ぐには帰れそうにない状態になったので、学校のある富士子を連れて千重が先に帰った。正直は、それから体調が良くなるまで一ヶ月間ほど、千代の家に泊まる事になった。

この時に、幸恵が正直の看病をし色々世話を焼いたので、正直は、幸恵の事を一層見直して評価する様になった。

千代は、若い頃から、心臓が丈夫でないという意識があり、年齢と共に血圧も心配だったので、医者には定期的に通っていた。富士子が小学六年の夏休みのある日、千代は、医者に

「心臓が腫れていますね」と言われた。血液検査をして診てもらった結果、

「血圧も高いですし、糖尿病が進んでいますので、暫く病院に入院して、食事療法をする必要があります」という診断であった。

五十鈴川駅から徒歩十分で、バスもあって便利だったので、千代は、伊勢総合病院に入院する事になった。

入院の日は、幸子が、裕之の運転する車で千代と幸恵を迎えに来てくれた。千代は、個室に入ったので、付き添った幸恵が、

「お婆ちゃんが心配やから、付きっ切りで看病しようと思っていたけど、ここやったら広いし、私も一緒に居れるスペースがあって良かったわ」と喜んでいた。

千代の家で、独り留守番をするのは、淋しくて耐えられないと思った幸恵は、翌日から早速、折り畳みのボンボンベッドを持ち込んで、千代の個室の隅で寝泊まりする様になった。

わざわざ食事に出掛ける性格ではなかったので、病院の売店で買った菓子パンや牛乳を食事にしたり、千代が病院食を食べ残したのを片付けたりしていた様だ。

千代は、思いの外、入院後の経過が良く、一ヶ月ほどで自宅療養の許可が出た。

退院の日も、幸子と裕之が車で迎えに来てくれたので、幸恵は、ベッドなどの荷物と一緒に、千代の小俣の家まで送ってもらった。

自宅に戻った千代は、幸恵と二人で食事療法をしながら、当分は様子を見る事になった。

それからの約2年間は、面倒な糖尿病の食事療法を幸恵一人で几帳面に管理していた。

幸恵は、女性として華やかなるべき二十歳代の時期を祖母の看病に捧げて、恋愛などのときめく様な想い出は何一つ無かった。

幸恵自身は、この当時の暮らしについて、特に後悔する気持ちも無く、むしろ、大好きな祖母と二人で心穏やかに過ごせて、それなりに幸福だったと思っているそうだ。

ただ、思い込むと一途な所のある厚代が、母親を見舞って実家を訪ねた時、それまでの事情を十分理解もせずに、心を込めて看病している幸恵に、一言の労いもしなかった事が残念であった。

それどころか、厚代は、糖尿病食のカロリー管理の仕方について、幸恵に難癖をつけて、これ以上幸恵一人で千代を看病し続けるのは無理だと、愚痴だけ言って帰った。

幸恵に感謝をしないのは、めったに実家を覗きもしない百代も同じだった。

厚代や百代に何と言われ様と、幸恵は、祖母が自分と二人一緒に居て、安心して喜んでくれている顔を見ているだけで十分だった。

そして、仏壇の前に千代と仲良く並んで座って、又蔵の想い出話を聞きながら、しんみりとした平穏な時間を過ごすのだった。

二年が経ったある日、千代の言葉遣いが少しいつもと違う感じがして、やや呂律が回らない様にも見えたので、幸恵は驚いて掛かり付けの先生に電話をした。

先生からの指示で、千代は、幸恵に付き添われて伊勢総合病院に行き、脳梗塞の疑いでそのまま緊急入院する事になった。この時も、千代が病院で落ち着くまで、幸恵は、ほとんど付ききりで看病した。

千代が、入退院を繰り返す様な状況になってから、千重は、毎週の様に伊勢の実家に行き、母親の様子を見舞う様になった。

正直も、千重から実家の様子を耳にする機会が増えて、相変わらず一生懸命千代を看病している幸恵を心配するのだった。

富士子も何度か、千重と一緒に伊勢総合病院まで、祖母を見舞いに行った。

救急で入院した伊勢総合病院での千代の病状がやや安定して、もう一度再び、自宅での療養が可能になり、間も無く病院を退院できると言う知らせがあった。但し、担当医からは、

「糖尿病は安定していますが、脳梗塞の再発の怖れもありますので、退院後は、自力でできる事が少なくなって、介護の必要が生じる恐れがあります」という注意があったので、いよいよ幸恵一人に任せては、看きれないという事になった。

早速千重は、新居を決めて契約も交わした事を母親に知らせた。自分の命の先行きを案じた千代は、

「大阪へ移ってから、もしもの事があって、千重に責任を感じさせては可哀想だ」と考えた。

「今さら住み慣れた場所から、見知らぬ地へ移るのは気が進まない。大阪で気楽な暮らしをしているとは思えない娘に、病身の自分が更なる負担を掛けるのも気が引ける」とこの提案を辞退した。

同時に、千代は、まだこれから結婚も控えた幸恵に世話になって、責任を負わせるのも可哀想だと、その将来を心配して

「私は多気の厚代の所に戻る」と言った。

千代が、再び伊勢総合病院を退院して、多気の厚代の家に引き取られてしまって、幸恵は小俣町の実家に一人残された。それでも、何時祖母が戻って来れるか分からないので、働きにも出ず外出さえめったにせず、忠犬の様に根気良く、千代の家でじっと待っていた。

「今度こそ自分が、千代を引き取って看護できる」事に張り切って、母親思いの一本気な厚代は、手ぐすね引いて待っていた。列島改造の公共事業の追い風が去って、厚代の家業も一時の景気は今は昔で、厚代は千代の年金を当てにしていたのかも知れないが。

退院して来た千代を家で静養させるだけでは飽き足りず、気候の良い時季でもあり、体調の良さそうな時は、自分が運転する車で日帰りの行楽にも連れて行った。しかし千代は、せっかく気遣いしてもらっても、それを楽しむだけの元気も無かった。 

三ヶ月が過ぎて、この年の師走のある日、籐の椅子に腰掛けて庭を見ていた千代は、厚代が話し掛けても返事をしなくなった。厚代が、居眠っているのかと、近付いて項垂れた千代の顔を覗き込むと、既に千代は、息をしていない人の様に蒼白く見えた。

厚代は、慌てて救急車を呼んで、松阪の済生会病院に搬送してもらった。

連絡を受けた千重は、富士子が学校から帰るのを待つ余裕も無く、置手紙に

「富士子も後から特急で松阪の済生会病院まで来なさい」と書き残して、アパートを飛び出した。

下校してメモを見た富士子も、直ぐに後を追って近鉄線で松阪まで行き、駅から病院に電話をかけると、幸子が夫の裕之の車に同乗して迎えに来てくれた。

思いやりのある裕之は、車で送迎している間に、千代にもしもの事があっては、幸子も富士子もきっと哀しむだろうと、二人の気持ちを察して、途中の見通しの良い交差点の赤信号を2ケ所も無視して、車のスピードを上げて病院に駆け付けてくれた。

この日、裕之は、大湊の百代夫妻が松阪駅まで来た時にも、気分良く送迎してくれた。

病院では、厚代夫婦と娘の富美の他、千重と幸恵と富士子、幸子夫婦、百代夫婦、の面々が、沈痛な面持ちでICUに集まっていた。

「皆さんお揃いですか」と見回してから、担当医は厳かに、千代の臨終を告げた。

病院で千代が息を引き取ってから、遺体を小俣の実家に移して、千代の布団に横たえて、枕飾に一膳飯を備えて、西光寺から坊さんを呼んで枕経を上げてもらった。

通夜

葬儀、棺掛けには、千代が若い頃、又蔵に買ってもらって着て、大事に箪笥にしまっていた晴れ着を入れてやった。

通夜から四十九日の忌中の供養の間は、この地方の習慣で、毎晩七時頃になると、近所の人二十~三十人が千代の家に集まって来て、二時間ほどの間、金剛鈴を叩きながら、西国三十三ヵ所の御詠歌をあげて弔ってくれた。

「色々あるかも知れんが、山より大きな猪は出んから」が千代の口癖であった。千代の信念は

「この世で起きた事は、この世で治まる」という考えだった。

生まれつき、おっとりして穏やかで、浮世離れした千代との暮らしについて、幸恵は

「ふじちゃんの安楽島での暮らしに比べれば、精神的に遥かに余裕があって良かった」と、少しも悔やんではいないそうだ。

千代は、八十万円もする「幸せの壺」を月賦で買わされて、

「これを毎日磨いているだけで、毎日幸せでおれるんやから有難いやろ」と、人を疑う事を知らぬが仏で、その壺を大事にして毎日嬉しそうに磨いていた。

霊感商法には度々騙されて、高額な詐欺商品を月賦で買わされていた。本人は全く売り付けた相手を疑わず、最期まで功徳を信じて、幸福を実感していたのだから、詐欺とは言え、それはそれで良しとせねばなるまい。

その「幸せの壺」は、実家(千重の店舗付住宅、元の千栄寿司)を解体する時まで、奥の座敷に置いてあった。他にも、千代が月賦で買わされた四十万円の「磁石の入ったマットレス」も残っていたが、それは今もまだ千重が愛用している。

 毎日、千代が又蔵の事を想い出しながら、仏壇の前に長い時間座って祈っている間は、いつも幸恵もその隣に座っていた。

千代が亡くなって、千代自身もその仏壇に入る事になって、今は、実家に淋しく残された幸恵が、その仏壇の前に一人で座っていた。

幸恵は、仏壇の前に座ってさえいれば、隣に千代が居てくれる様な気がした。

祖母が居なくなって、気合が抜けた様に元気を失った幸恵は、つい塞ぎがちになる気分を晴らすため、小俣にあったケンタッキーフライドチキンの賑やかな店で働く事にした。

幸恵は、バイクの免許を持っていなかったので、店まで毎日自転車で往復したが、それだけでも随分と気分爽快になった。

ひと月ほど経った頃、その店で、KFC本部による、抜き打ちの接客態度調査があった。

幸恵は、「模範的な感じの良い接客」として表彰され、「接客優秀バッジ」をもらった。

 このケンタッキーの店では、クリスマスまでの期間、一パック千円のスモークチキンのセットを店員一人五セットずつのノルマを課して、販売促進するキャンペーンを実施した。

独身の幸恵は、それだけの数を買ってもらえる当ても無かったので、自分のノルマ五セットを買い取って、

「ふじちゃんは、確かチキンが好物やった」と思い出して、富士子に宅急便で五セットそのまま送ってくれた。その一つを食べた正直は、

「これ美味しいな!一ついくらするんかな?幸恵ちゃんに今度尋ねて見て」と言った。正直は、

「たぶん、幸恵ちゃんには、これだけ売らんとあかんノルマがあるんやろ」と推察して、

「このチキンは美味しいから、今年のお父さんのお歳暮は、全部これを送る事にする」と言って、仕事の関係先二十軒に五セットずつ計百セットの注文を幸恵に頼んだ。先の接客表彰と、このキャンペーン売上一位の成績で、

「この店での居心地がとても良かった」と、幸恵はいつまでも感謝していた。


千代の一周忌の法事が近付いて、思いやりに欠ける厚代が、

「独り者の幸恵に、法事を務めさせるのは無理やで、山本の家を継いでいる私の方で、母親の仏壇を引き取って、法事を務めるのが筋や」と言って、仏壇を持ち帰ろうとした。

これには、さすがに千重も黙って我慢する事はできず、

「それなら、仏壇は『性抜き』して、そのまま置いといてもらうで。厚代の所で、新しい仏壇を置いて、そこへ『性』を入れてもらったらええがな」と抵抗した。

千代が大事に拝んだ仏壇は、「性抜き」だけされて、そのまま実家に残った。

幸恵は、そんな「しょうがどうの」という迷信は、どうでも良かったので、それまで通り、千代と一緒に並んで座っている様な気持ちで、仏壇の前で静かに心を癒すのだった。

千代が亡くなって早くも二年の歳月が流れ、このまま一人でこの家に住んでいると、この辺の自治会役員の順番が回って来ると知って、そういう付き合いは鬱陶しいと感じる幸恵は、この家から出たくなった。

「世間的に不自然でない形で家を出る」手段として、幸恵は、

「お見合いでもして結婚するしか無いかな」と、半分「やけくそ」気分になっていた時、幸子の知り合いの男性を紹介された。無口だが真面目そうな好青年だったので、幸恵は、

「この際、誰でも」という気持ちで、二十八歳の時に結婚した。面倒臭がりの幸恵は、

「私の結婚式なんか、恥ずかしいし、必要無いで」と言ったが、正直は、

「結婚式は、女性にとって、一生に一度の華やかな行事やから、そんな事を言わずに、資金は私が出してやるから、恥ずかしくない式を挙げなさい」と説得した。

幸子の裕之が、フレックスグループのスーパーで店長をしていた関係で、正直は、裕之が紹介してくれたフレックスホテルで、幸恵に豪華なウェディングドレスを着させて、立派な結婚式を挙げてやった。

この結婚式に出席した百代の夫が、厚代が連れて来た娘の富美の晴れ着の目を疑うばかりの豪華さを見て、

「確かに如何にも高級な晴れ着なんは分かるが、あれは、はっきり言うて『衣装負け』や、『馬子にも衣装』と言うが、晴れ着がもったいない。同じ様に晴れ着を着てたふじちゃんと比べたら、遥かに見劣りしたな」と嘲笑した。

幸恵は、新婚で伊勢市上町の小さな戸建に住んで、ペットが好きだったので、犬を二匹と猫を一匹飼った。いずれも野良犬やのら猫だった。翌年、娘の綾乃が生まれた。

 一方の幸子の方は、結婚が早かったので、この頃には既に長女と長男に恵まれていた。

夫の裕之は、幸子を思う気持ちで、幸子の親戚付き合いにも、実にまめに気持ち良く動き回って、職場でも近所でも評判が良かった。

ところが、三十代半ばに差し掛かる頃から、あまりに「良く出来た人」でいる事に疲れたかの様に、裕之の様子に変化が見られた。

その頃、幸子は、三人目の子を妊娠したが、その胎児が「双子」である事が判って、裕之は、

「ちょっと四人は、養ってゆくのが大変やから、できれば産んで欲しくはないな」と躊躇する態度を見せた。

幸子は、自分自身が「双子」という事が原因で、母親の離婚に繋がった因縁もあり、

「双子は、やっぱりダメなんや~」と絶望的なショックを受けて、人工妊娠中絶する決心をした。

既に二十二週の後期に入っていたので、胎児は「遺体」として火葬になり、その遺骨はお墓に埋葬した。幸子は、新婚の幸恵に相談するのも憚られて、母親の千重や叔母の厚代に、電話を掛けて相談した。

これが契機になって、夫婦の間は、急激に冷めて、それまで順調に回っていた日常が、何かにつけぎくしゃくすれ違う様になった。

祖母と暮らしていた時は、祖母の事が全てだった幸恵は、自分の娘が生まれると、今度は「母性」に目覚めて綾乃を一途に溺愛し、夫には冷淡に全く無関心になってしまった。

夫は、妻の幸恵が娘の綾乃を溺愛するために、自分が蔑ろにされる事を恨んで綾乃に冷たく接した。夫婦で口論になった時、興奮した夫が飲んでいたジュースの瓶を投げつけた。それが綾乃の布団近くに当たって、幸恵は、このままでは綾乃にまで暴力を振るわれるのではないかと怖れた。

お互いに気持ちが理解できず、すれ違う様になって、幸恵は三十一歳で離婚した。

正直は、幸恵の事を自分の実の娘の様に思う気持ちがあったので、夫の暴力の一件を聞いて、千重は反対したが、幸恵に声を掛けて、綾乃を連れて自分の家に来る様に勧めた。

このような経緯で、幸恵は、二歳になる綾乃と飼犬を二匹連れて、伊勢の新婚の住いを出て、大阪羽曳野の正直の元へ移って来た。



「熾(おき)」


羽曳野に引越してからは比較的体調も良かった正直は、訴訟関係の仕事やコンサルタント業や演説の草稿依頼など、ますます意欲的に取り組む様になっていた。

この頃、正直の収入は一般世帯平均に比べても相当多く、家族三人の生活を支えるには十分過ぎる金額になることも多かった。しかし、自分の稼ぎは全て、自分が次に企てる「事業」の資金のために投資する、というのが正直の頑固な信念であった。収入の大半は、事業遂行の経費として消えてしまい、生活費に充てる前にほとんどは通過してしまった。

住宅ローンの返済を始め、食費、電気水道光熱費、その他を含めた一切の生活費は、千重が「絵に画いた餅」で何とか遣り繰りするであろうと考えているのであった。

正直の場合、サラリーマンの様に定額の安定した収入が期待できる訳ではなく、一時的に数年間十分に食べて行けるほど多額のお金が入っても、常に先のことは全く予測もつかず、翌年は0になる可能性もあった。それにも関わらず、常に次の「事業を興す」ことしか頭に無い正直は、将来の不安に備えるという考えを持たなかった。実に不安定で家族にとっては極めて心細かった。

この羽曳野の自宅を購入する際にローンを組むにも、ローン審査のために同じ資金を何度も出し入れして通帳内容を偽装して、何とか必要な額を融資してもらうことができた。

正直は、テレビで好きな相撲を見て、贔屓の千代の富士が勝って、手を叩いて喜んでいる最中でも、頭の中では訴訟の事を考えて、陳述書の構想を練っている様な人間だった。突然、広告の裏に走り書きを始めたと見れば、書き上げたのは二万字ほどの陳述書の原稿であった。娘の目から見ても、父親の脳の構造はいったいどうなっているのだろう?と不思議に思った。

何か閃いて新しい考えが浮かんだり、構想がある程度まとまると、突然立上って、その辺にあるマジックなどを持って、傍の壁にいきなり何かを書き始める事があった。その走り書きは、単に、誰かの電話番号の時もあったが、正直以外には、意味不明の内容である場合が多かった。

正直は、壁でも新聞でも広告でも、その時に手近にある物にメモ書きをするが、書く事で暗記してしまうのか、後でそのメモをもう一度見る事は無かった。千重が気付いて驚いて

「そこは壁やから、書いてはいかんに」と消して、それ以後、壁に模造紙を貼り付けてあったりした。

富士子が高校生になってからも、正直との会話は、「裁判の経過」「政界の話題」などが主であった。偶には冗談を言い合うなど、世間一般の「親子の会話」というものは少なかった。

明日は日曜と言う日に学校の友達に誘われた時も、富士子の返答は

「控訴審が終わるまで、私と一緒に出掛けたり並んで歩かん方がええと思うねん」と断わるので

「あんたいったい何もんやのん?」と気味悪がられた事もあった。

「世の中に生きとし生ける人達は、何と平和で平穏な暮らしをしているんだろう」と、友人達の会話を聞いていて、富士子はいつも羨ましく思うのだった。

偶には正直と富士子の二人で外出した帰りに食事をする事もあった。一度は新大阪グリルで、

「お父さんも今日は富士子と同じ物を食べる」と言って、慣れないドリアを不思議そうに食べていた事もあった。

「富士子はデザートは何を食べるんや?」と聞くので「パフェ」を二つ注文した。

背広を着てきちんとネクタイを締めた白髪の正直が、娘と向かい合ってパフェを厳めしい顔で食べている図は微笑ましいものであった。

昭和六十三年富士子が高校二年の時、竹下登が内閣総理大臣になって竹下内閣を組閣した。

いつかは政治家になる事を夢見て、正直は、若い頃に「自民党青年局」に所属していたが、竹下はその時の先輩でもあった。

富士子は、このニュースを聞いた正直が、座敷で男泣きに泣いているのを目にした。

 富士子高校二年十七歳の時、京都の東映太秦映画村で、勝新太郎主演の時代劇のエキストラのアルバイトに応募した。町娘の役で、富士子は最年少であった。

東映俳優養成所の俳優志願生と共に泊まり込みのバイトで、正直が出張中でなければ参加はあり得なかった。

湯村雅佳は、度々の引っ越しにも関わらず、執拗に正直を追いかけて訪ねて来た。

元々あまり育ちは良くなかったのか、常識や遠慮というものが全く無く、いつも夫婦顔をそろえて子供まで皆連れて来るので、千重や富士子には実に迷惑この上無かった。

しかも、自分の実家でもないのに、毎年必ず元旦に、家族四人総出で挨拶に来て、散々お節を食い荒らしたうえに、子供二人に高額の年玉まで持って帰る厚かましさには、千重も富士子も心底うんざりしていた。

ある時は、躾を十分されていないやんちゃな子供達が、富士子のピアノをおもちゃにして、鍵盤の蓋を壊した。富士子が祖母に買ってもらった、想い出の「形見」の様に大切なピアノだったので、正直に

「必ず元通りに戻してもらって欲しい」と言ったが、正直は、

「ケチな事を言うんでない」と連絡もしなかった。

この押し込み強盗の様な吝嗇家族は、ただでさえ賤しくて煩い子供が三人に増えても、十年以上の間、毎年必ず元旦の午前中に訪問して、千重と富士子に迷惑を掛け通した。

「実家でもないのに、何であの人は元旦の午前中から、家族そろって訪問して来るんやろ?」と千重や富士子が正直に苦情を言っても、

「一年の計は元旦にあり、というその最も大切な日に、自分にとって最も大切と思う人のところに挨拶に行くのは当たり前。私の家が彼にとって最も大切なところというのは喜ぶべき事や。」全く蛙の面に小便である。

やはり、正直は、自分の後継ぎとなる息子が欲しかった。千重との間に産まれながら、早産で亡くした長男の事が忘れられなかった。

正直は、彼を自分の息子の様に可愛く思っていたので、息子所帯なら、正月元旦に家族そろって実家に挨拶に来るのは「親として嬉しい事」だと考えていた様だ。

元々、頭が切れて要領が良く、人を利用するのが上手い相当のやり手だったこの男は、バブル期に自ら起業して随分稼いだそうだ。

「君子豹変」で、世話になった正直の元へ、成功してからは一度のお礼の挨拶も無かった。

正直は、とにかく社交が豊富だったので、俗に「事件屋」と呼ばれる稼業の知己も居た。

表の社会というものがあるならば、必ず裏の社会というものもある。ニーズがあるから存在する「裏の仕事」は、ある意味で、必要悪とも言えるのだろう。糞虫とかフンコロガシと呼ばれる昆虫や、禿鷹などの死肉を貪る動物も、生態系においては、大きな役割を担っている様なものか。

朝鮮国籍を剥奪されて、中国籍を申請したがこれも拒否された、油谷と言う、正直より一回り年配の男が居た。

満寿興産という会社を経営していて、強引に意地を通すためには、ゴシップ記事の号外を撒いたり、バキュームカーを逆噴射させて嫌がらせをする事もあったという。危ない橋を敢えて渡る稼業なので、

「殺されかけた事も、何度でもある」という体験の持ち主であった。

「両足の膝から下を缶の中に入れて、そこへ生コンを流し込まれて、固まったら海へ沈められるという時に、男が電話を掛けている隙を見て、両足をコンクリートから抜き出して、道路に跡形が残って追って来られない様に靴も靴下も脱いで、裸足で逃げ出して助かった」事もあったそうだ。

正直の事務所に、その男が挨拶に訪れた時、手土産にアイスクリームを買ったつもりで、持参したのは冷えたピーナッツバターであった。それをあくまでも

「美味しいアイスクリームだ」と言い張って、その男は一カップ全部食べ切るほどの意地っ張りだった。

女房も韓国人で、亭主の稼業を「子供の教育に悪い」と言って別居していた厳しい人だった。

一番可愛がっていた末の男の子を殺されて、犯人も捕まらず迷宮入りになって、晩年は気の毒だったそうである。

裕仁天皇陛下が昭和六十四年一月七日に崩御されたので、平成元年二月二十四日は、昭和天皇陛下の大喪の礼が、内閣の主催(大喪の礼委員会委員長・竹下登内閣総理大臣)により、新宿御苑において厳粛に行われ、この日は「国民の休日」になった。

富士子は、私立の中高一貫校にいたので、高校の過程を卒業後は、そのまま推薦で系列の大学に進学するのでなければ、別の進路を考えねばならなかった。

正直の元で育った富士子は、これまで「法律」関係以外の仕事をしている人を見た経験が無かった。

父親の希望に沿った進路としては、将来性のある大学の法学部を選ぶのが、順当な方向だと何となく思っていた。

正直は、やはり未だに、早産で死んだ自分の「長男」の事が惜しくて忘れられない様で、

「もし生きていれば、自分の思いを継がせて」と、その将来を夢見る事がある様だった。

志望の大学を選択するに当たって、正直が気に入っていた大阪市立大学は、今さら見学に行く必要も無かったので、富士子は、関学の見学に正直を伴って出掛けた。

ところが、垢抜けてスマートな関学の雰囲気は、学生の気質からキャンパスに至るまで、全てが正直の望まぬものであった様だ。正直は強く拒否した。

「関学だけは、絶対に行ってはならん。受験する事もならん。願書も出す必要は無い。」

この一件があってから、富士子に反抗心が芽生えた。

「父親は、やはり息子が欲しかったんやわ。息子に自分の夢を継がせたかった。私は、しょせん娘でしかない。父親の夢を叶える事はできない。それにしては父親の希望する進路しか選べないなんて」

富士子は、生まれてこの方「反抗期」というものを経験した事が無かったが、後から考えると、この人生の重大な節目に「反抗期」を迎えてしまった訳で、実に残念な事である。

「コシノジュンコのファッションショーを見に行こう」とそんな時に友人に誘われた。

これが富士子の将来を決定する出来事になるとは、その時にはもちろん想像もしなかった。

富士子は、宝塚歌劇などは見た事があったが、ファッションショーというものを見るのは初めてだった。ステージに飛び散る火花の様な迫力に、「下剋上」の世界を感じて、ぞくぞくする様な興奮を覚えた。


正直が仕事関係の用事で出掛ける出張先は、東京や信州、九州方面が多かったが、ええ格好しいで体面を気にするので、好んで宿泊するのは日観連の高級旅館が多かった。

出張から帰った正直のポケットや鞄から出て来るマッチやメモには、鹿児島や熊本の有名ホテルの名前を目にする事が多かった。そんな中で、正直が特に好んで頻繁に利用していた「城山観光ホテル」は、千重が

「どんな旅館か、いっぺん富士子と一緒に行って見たいんやけど」と、何度か話題にしていた。

担当した訴訟に関係する用事や、親しくなったかつての顧客の誘いに応じて、正直は、

「おいはかごいまんこっなら、てげしっちょっど」などと冗談を言って、毎週の様に九州へ出掛けた時期があった。ある時などは、

「家の庭の無花果の実が、もうすぐ熟すから、先生の仕事のついでがあれば、食べに来て下さい」と、気の良い老夫婦から連絡をもらって、嬉しく思った正直は、ついでも無いのにわざわざ出掛けて行った。

「また、殿の元へ行って来る」と言って、正直が熊本へ出掛ける事もよくあった。その訪問先の主人は、

「私は細川藩の末裔です」と言っていたそうで、その人の名刺にも「細川藩」という記載があり、使用人も主人の事を「殿、殿下」と呼ぶのだそうだ。

「細川邸」は、立派な屋敷で、正直は、家紋の入った加勢以多(かせいた)という和菓子を茶菓子に出してもらうそうだ。加勢以多は、細川藩政時代から熊本に伝えられてきた銘菓で、幕府への献上品でもあった。

「このままでは、暴力団の抗争に巻き込まれそうなので、先生に来ていただいて、若い者を説得して静止して欲しい」ある時は、九州の知己から連絡があり、頼りにされると弱い正直は、のこのこ出掛けて行った。

「無事に丸く治まった」と、笑顔で帰宅した正直は、土産に大きな蟹を下げていた。


幸恵は、千重の前の夫との間に生まれた双子の娘であった。正直は、そういう意識を一度も持った事は無く、富士子と変わりなく接していたので、伊勢から移って来た頃の憔悴し切った様子にはとても心配していた。

富士子も、幸恵の事を気に掛けて、自分の化粧品を一緒に使わせたり、できるだけ気分転換になる様に話し掛けていた。

幸恵は、伊勢の田舎で生まれ育ったので、人の多い大阪の街中に馴染めず、外出を嫌って飼犬の散歩以外は引き籠っていた。

ある日、富士子は、河内羽曳野の駅前にある、お好み焼き店「とおりゃんせ」に「粉もん」好きな幸恵を誘って連れてやった。幸恵は、

「美味しい!嬉しいわぁ!」と喜んで、その店にも好感を持った様だった。

暫くして、偶々その「とおりゃんせ」羽曳野店の求人広告が出ていたので、幸恵は、思い切って応募して採用になった。店の近所に、綾乃を預かってもらえる保育園も見付かり、明るい展望が開けた様に思えて、元気を取り戻した幸恵は早速働き始めた。

綾乃三歳の時の事、風邪をこじらせて高熱を出しひきつけを起こしたので、初めて見る娘の様子に幸恵はショックを受けた。綾乃は、まだ抵抗力の弱い年齢で、結局そのまま肺炎になってしまった。

幸恵が綾乃を連れて、近所の堀先生に受診すると、堀先生はレントゲンも撮らず、綾乃を触診しただけで「肺炎ですね」と診断された。

前日が試験前で徹夜だった富士子は、体力が持ちそうになかったので、正直が代わりに、幸恵と綾乃をタクシーで羽曳野市民病院の夜間救急に連れて行った。救急の外来に居た先生は、綾乃の状態を診て、

「堀先生は、レントゲンも無しに、触診だけでこの子を肺炎と診断されたのは、よほど経験を積んでいらっしゃる、素晴らしい先生ですね」と感心して褒めていた。

正直は、幸恵と綾乃を病院に残して、一旦帰宅した。綾乃は、初めての入院でもあり、幸恵の姿が少しでも見えないと怖がるので、幸恵は片時も目を離せず、ほとんど一晩中トイレにも行けずに看病した。

綾乃には病院食が出るが、付添いの分まで食事は出ない事を富士子から聞いた正直は、千重に

「幸恵ちゃんに弁当を作ってやってくれ、私が持って行くから」と言った。

千重は、おかずらしい物が何も無かったので白飯だけ詰めて、真ん中に梅干しを入れた、粗末な弁当を作って持たせた。弁当の蓋を開けて見た幸恵は、

「お母さんは、ふじちゃんになら、絶対にこんな弁当を持たせんやろう」と哀しんで、その時のショックを忘れられないと言う。

翌日から、富士子が、専門学校の帰りに近鉄百貨店に寄って、惣菜やホカ弁を買って、毎日病院に届ける様になった。

富士子は、幸恵が連日付きっ切りで疲れているだろうと、看病を交替してやり、気分転換に散歩を勧め屋外で休憩させた。この時の富士子の心遣いが、身に沁みて嬉しかったと、幸恵はいつまでも感謝していた。

幸恵は、千重の思いやりの無い自分勝手な事情で、小俣の祖母の実家に、幸子と二人残されて以来、千重を冷たい薄情な親だと信頼しなくなって心が通じなかった。

幸恵は、お好み焼き店に働きに出ていたが、綾乃の病気や保育所の行事などで度々休むので、パート代はいくらも無かった。しかも、幸恵は、千重といがみ合って、食費も別会計にしていたので、正直は、幸恵と綾乃の食生活の事を心配していた。

ある日、正直は、高鷲の駅で、幸恵が綾乃を連れて帰るのを待っていた。改札を出て来た幸恵に、偶然を装って、

「幸恵ちゃん、今帰りか?私も用事があって」と連れ立って歩き、綾乃を負ぶって荷物も持って一緒に帰路についた。

「ちょっと買いたい物があるから」と言って、正直は、途中のスーパーに三人で寄って、肉や惣菜、お菓子、ジュース、次々多量にカゴに入れて、レジに並んで勘定を済ませた。スーパーの買物袋を二つも下げて帰宅してから、

「私は、この甘納豆が食べたかったんや」と言って、正直は、甘納豆の袋一つだけを取り出して、残りのスーパーの袋ごと

「買物に付き合わせたお礼や」と笑って、幸恵に渡して、部屋に持って上がらせた。

綾乃は、正直の事を「爺ちゃん~」と呼んでなついたので、

「トラのパンツは良いパンツ~しなやか~♪」などと歌う綾乃が初孫の様に思えて、正直はとても可愛がった。幸恵も、正直を

「実の父の様な気がして、頼もしくて嬉しかった」と言っていた。

千重の先の夫の娘達への正直の気遣いは、一番上の典子姉を伴って四人で四天王寺参りをした際も見られた。典子は、その日朝から胃が痛くて体調が良くなかった。典子のそんな異常を察知した正直は、途中に見付けた薬局に入って「胃薬」を買って来た。それを休憩に入った喫茶店で典子に飲ませ暫く休ませたおかげで典子の体調が回復した。その時の配慮に感謝して、典子はいつまでも覚えていた。

正直の妻子以外の人への気遣いや配慮の例としては、こんな話もあった。

新大阪駅のコンコースの食堂で、隣のテーブルの老夫婦の食券を店員が切り取ったまま、その店員は長らく立ち話をして、オーダーを通さなかった。客の老夫妻は、腕時計をちらちら見てやきもきしていた。

正直がそれに気付いて気の毒に思い、正義感から大音声で叱った。

「ここで食事をしている客は、みな新幹線の時間で急ぐんや。さっさと注文を通してやらんか!」正直の声は非常によく通るので、周囲の客がみな驚いて振り返った。

天王寺ステーションビルの食堂では、正直の横を通った女店員がコップの水を零した。それが正直の高級オーダー仕立ての背広の肩から背にかかって濡れてしまった。

真冬の事でもあり冷たいのに、「大丈夫ですよ」と微笑んでクリーニング代も要求しなかった。店長が謝りに来て、人数分のデザートをサービスに持って来た事もあった。

正直は準備書面をタイプライターで打ってもらうのを好んだので、準備書面に関しては、特殊な印字も可能な「すみれタイプ」に依頼していた。

正直の家にはコピー機など無かったので、裁判関係のコピーしたい書類があると、近所のコピー機を置いている文房具店で一枚十円でコピーしてもらうのであった。その店のお婆さんが、手作業で几帳面にコピーしてくれるのだ。正直は、そのお婆さんにも

「朝晩冷えますけど、お身体の調子はどうですか?」といつも気遣って親切に声をかけていた。


正直は、何人かの若い弁護士と共に、訴訟関係の仕事をする為に、堺筋本町にあったビルの一室を借りて法律事務所を開いた。正直は、週二・三回しか出勤しなかった。

諸々の煩雑な事情が絡んで、一般の弁護士が扱いたがらない難しい裁判を主に扱うのだ。

弁護士の資格を持たない正直が考える内容で、民事訴訟で提出が必要になる準備書面を作成する事について、最初は「素人の分際で」と鼻であしらう弁護士も多かった。

「そうおっしゃるのなら、この訴訟について、貴方が作る準備書面と、私のそれを比較して、どちらが適当か検討して下さい」と正直が提案した。

ところが、その弁護士は、正直の書いたものと同程度の書面を書く事ができず、

「分かりました貴方の能力を認めます」と詫びて、以後一切クレームをつけなくなった。

裁判に関する正直の考え方は、他の弁護士から

「なるほど、そういう切り口から解釈する事もできるんですね!」などと高い評価を得ていたので、準備書面の構想についても、参考意見を求められる場合が多かった。

 正直にとって、生涯唯一無二とも言える親友で、高等裁判所の裁判長を十年近く勤めて、勇退後は大阪狭山市に住んで、悠々自適に弁護士活動をされていた人が居た。

勲三等を受賞するほどの方で、年齢も二回りほど上だったので、親友などと呼ぶのは失礼で、師匠とでも呼ぶべきだった。

この人も、弁護士として、正直の訴訟に関する考え方を大変評価してくれ、正直の考えた準備書面の構想も絶賛してくれていた。

その人は、裁判官と言う職業柄、常に守秘義務を意識せねばならず、めったな事で本音など言えなかった。そういう意味でも、退官してからのことだが、正直は、その人が腹を割って話せる唯一の相手であった。

正直より五年早く、この世を去られた。

正直が法律事務所を開設した、貸ビルのオーナーはインド人だった。ある日、そのオーナーが事務所にやって来て、

「私には読めないのだが、これを読んで説明して欲しい」と、ドイツ語で書かれた文書を持参した。

正直は、ドイツ語も理解できたので、それを読んで解釈してやっていたという話を聞いて富士子は感心した。

この事務所には、若い証券マンが一人出入りしていた。

「先生のお話を聞くとやる気が出るので、是非時々お話を聞かせて頂きたい」と

その証券マンが正直に宛てて書いた拙い字の手紙も残っていた。

この頃、九州で起きた事件だが、被害者が弁護士に依頼したものの、いつまで経っても解決の方向に向かわず、困り果てているものがあった。正直を知っている人から教えられて、

「何とか助けていただけませんか」と正直の事務所に連絡して来たので、正直が関わる事になった。

「身寄りの無い原告男性は、莫大な遺産を相続していた。この遺産に目を付けた、被告の女性が原告男性に言い寄って近付き、身の回りの世話を焼いて、押し掛け女房の形で婚姻を結んだ。

結婚後、この被告女性は、元から愛人関係にあった精神科医と共謀して、原告男性から財産の権限を奪うために、原告男性を「禁治産者」にして、その法定代理人として、自分に有利な財産の処分をする計画を立てた。

被告女性に依頼された精神科医が、この原告男性を診察したという虚偽の事実をでっち上げて、原告男性のカルテを作成し、精神分裂病の診断を付けた。

被告精神科医は、原告男性を無理矢理、自分が経営する精神病院に入院させた。精神病院は、二重に施錠された牢獄の様な施設で、窓にも鉄格子が入って、自衛用の棒やロープを持った看護士が、看守の様に監視していた。

精神病院の病棟に閉じ込められた原告男性は、完全に自由を奪われ、次第に精神に異常を来す様になり、人格を損なう方向へ誘導された。

被告女性と精神科医は、原告男性の財産の権限を奪うという、本来の目的を達して、それを資金に精神科医が経営していた病院を新たに建て直した。

原告男性は、財産を自分に取り戻す事は諦めるが、せめて被告女性と精神科医の手から剥奪できれば十分と、この訴えを起こした。」

正直は、原告男性と何度か面会していたが、原告男性の様子は、牢獄より酷いとも言える精神病院の閉鎖された環境で、投与された薬剤の副作用も考えられるが、会う度に外見的にも著しく悪化して行った。

最後に面会した時には、痩せこけて歯も抜けて、ほとんど廃人ともいうべき状態に人為的に誘導されていた。被告の精神科医は、

「被害妄想の症状もあるので、意味不明な事を話す」と逃げていた。

この裁判に関しては、当初担当した弁護士が次々に自殺や事故等、原因が不審な変死を遂げ、まるで「八墓村」の様相になった。

「身の危険を冒してまで、いつまでも関わり続けるメリットも義理も無い」と、富士子に説得されて、正直は危うい所で手を引いた。

この事件の時にも、正直から事情を聞いて知った油谷は、持ち前の正義感から、得意のゴシップ記事を記載したビラを号外として九州の現地周辺で何百枚も撒いた。


正直は、度々の高熱や抗癌剤の副作用で、視力の低下が著しかったが、晩年には片目は失明状態になっていた。

長い文章を筆記することも困難になったので、原稿を書く必要のある時は、声に出して話すのを富士子が聞き取って代筆する様になった。

正直は、所謂ゴーストライターとして、人の演説などの原稿を書く仕事も多かった。

市議会議員選挙に立候補する若い候補者から、立ち合い演説の原稿を依頼された事がある。謝礼~~万円とは別に、原稿を書くためにホテルのスウィートルームを用意するという様な話があった。

正直は、原稿の期限が近付くまで、特別に机の前に座る事もなく、いつもの通り平然としていた。

「原稿の事を忘れているのでは」と心配して富士子が声を掛けたが、正直は、頭の中で構想を練っているのだった。

凡その構想がまとまった時点で、富士子に紙とペンを持って来させて、正直は、大きな声で口述を始めた。富士子が、それを聞きながら、一字一句漏らさぬ様に筆記した。

「それで一万字くらいになったんではないか?」と、正直が言うので、富士子が手元を見ると、必要なだけの原稿が埋まっていた。

こういう依頼がコンスタントにあれば、正直が「御礼」として受け取る収入も少しは安定して、千重と富士子の生活も安定して安心できたであろう。実際には、この手の依頼はスポットの仕事で、全く予想も期待もできなかった。

長野県で、青果市場やレストランチェーンを経営している人で、正直の事を大変評価して信頼してくれている社長が居た。

その社長は、正直を自分の会社に招いて、社員の前で講演をしてもらうと、毎度若い社員が大層喜ぶのだと言った。

「白髪の仙人の話を聞くと、大いに鼓舞されて士気が上がる」

「是非、当社に週二・三回出社して、社員に講話を聞かせてやって欲しい。」

「この件を承諾して頂けるなら、当社の相談役として、月給~~万円とご家族の住居も用意します。」と、正直に良い話を持って来てくれた。

「千載一遇のチャンスやない!」と千重も富士子も大喜びで、正直に承諾する様に勧めた。

「組織に所属するのは嫌いです。いつか政界で活躍するのが夢ですので、人に遣われるのはお断りします。」と、頑固な正直は返事した。

実に惜しいこの手の話が、正直のこれまでの人生にいくつもあった。それらを一つ一つ請けて、地道に勤めてさえいれば、安楽島の屋敷の様な御殿を再建する事も、全く夢ではなかったのだが。

夢よもう一度などと考えないまでも、所帯を持ついじょう、せめて妻子が安心して生活できる程度の収入くらいは、責任を持って確保するべきだった。

この社長は、十年近くの間、毎年秋の松茸の時季になると、大きな段ボール箱に一杯の松茸を宅急便で送って来てくれた。

当時、国産の松茸の値打ちをよく知らなかった富士子は、

「とても香りが良くて、非常に美味しい茸だ」くらいに思って、有難味も分からずぱくぱく無造作に食べていた。

「二度と食べられない上等の松茸だったのに、もっと味わえば良かった」と、今となっては実に惜しいと残念に思っている。

正直には、金儲けの手段はいくらでもあり、できる事は色々実行もしていた。しかし、とにかく深謀遠慮に欠け、間が抜けているのかと思えるほど、肝心な所で楽天的過ぎた。

しかも、最大の弱点が情に脆いという点で、毅然として事務的に代価を回収する事が苦手だった。骨折り損の只働きで、慈善事業に終わってしまうケースがほとんどだった。

また、正直は、とにかくプライドが高過ぎる「ええ格好しい」だった。自分が、人に頭を下げたり、泣きを入れる事を最低の恥ずべき事と信じているので、他人も同じに違いないと考える傾向があった。

目の前で、泣いて頭を下げて謝られると、傍から見れば、実に白々しい演技に過ぎない様な場合でも、正直はあっさり許してしまう、非常に甘過ぎる所があった。

安楽島の屋敷で、正直のお抱え運転手をしていた男が、盗み聞きして得た企業秘密をライバル企業に売ったので、それが原因で事業に大きな痛手を被った事件があった。この時も、その男が泣いて謝ったからと、正直は簡単に許してそのまま雇い続けた。その様な性根の腐った男は、また同じ裏切りを繰り返した事は言うまでもない。

いわゆる「バブル景気」というのは、政府見解では、「昭和六十三年頃から、日経平均株価が史上最高値を記録した平成元年十二月二十九日をはさんで、平成三年二月までこの好景気の雰囲気は維持されていた」と考えられている。

一般に世間の景気の良い時は、医療機関が閑になると言われるのと同様、やはりもめごとも少ない様で、裁判に関わる正直の場合、バブル景気など全く無縁であった。

富士子がバブルを肌に感じたのは、高校三年の体育の時間、他の同級生たちが貴重品袋に入れた品々が、どれもこれもコメ兵が見たら目を輝かせそうな高級ブランド時計ばかりだったこと。阿倍野にオープンしたベルタという商業施設に新規分譲されたマンションが、どれも億ションだったことくらいである。

この当時、富士子が愛用していた腕時計は、鶴橋商店街の弓倉時計店で、私立中学校の入学祝いに千重がパート収入で買ってくれた八千円の「ハローキティのデジタル時計」だった。

これに続くバブル崩壊の期間(平成不況)は、平成三年三月から平成五年十月までの景気後退期を指し、この後「失われた二十年」と呼ばれる低成長期に突入した。

富士子進学した四年制の専門学校の授業料は、年間百万円にも上ったので、企業奨学金という制度を当てにしていた。ところが、バブル崩壊に伴う不況で、この制度も廃止され、授業料は全額自己負担しなければならなかった。

この頃の千重は、電車を使って大阪市内まで仕事を求めて通っていた。一時は、高島屋の社員食堂と難波の近鉄経営の食堂を掛け持ちしていたこともあった。

それでも年間百万円の授業料は、正直の家計には重過ぎる負担であった。そこで、何でも「話せば解る」主義で交渉する習慣の正直は、富士子には内緒で、学校に出向いて学費の免除を申し立てた。しかし、当然ながら学校側の返答は

「お嬢さんは、成績も優秀で皆勤で、当校としましては、辞めていただきたくない生徒さんです。ですが、授業料を払っていただけないということでしたら、誠に残念ですが、退学いただくしかありません。」

これを知った富士子は、そんないい加減な親の勝手で今さら辞めさせられてはたまらないと、自分の力で稼いででも何とか学校を卒業してやると意地になって、それから猛然とアルバイトを始めた。バイトの種類を選んでいる余裕は無かったので、お金になると思えば何でも強欲にやってみた。他の学生の宿題や課題を引き受けて、徹夜をすることも珍しくなかった。最後の手段と割り切って、やはり最も高収入が期待できるので、新地での水商売も経験した。

当時の富士子は、学校に通い続けるために必死で、一円の金を出すのも渋って、何とかして金を手に入れることに執着し、怖いばかりにガツガツしていた。

世間一般の学生からは想像もできないような並はずれた苦労の末、富士子は無事来春卒業という年末を迎えることができた。同時に、人生の大きな節目でもある「就職」を考える時期が来た。

富士子の三年先輩に当たる卒業生などの話では、新卒で入社した大手のアパレルメーカーで、初めての賞与に三桁の支給で驚いたという。大手商社に高卒で就職した友人の話でも、この頃の賞与はやはり三桁であったという。

しかしバブル崩壊から五年目、時は正に平成不況の真っただ中で、新卒が希望するエリートコースはどこも難関であった。

「クリスチャン・オジュールの肩のラインは直線なのに、ランチェッティの肩のラインは微妙なカーブがとってあり、この繊細さがあの美しいフォームを生むんだ」と感動して、コシノジュンコも所属していた縁もあって、就職先を一社に絞って、担当の先生に希望を出した。


富士子は、一年ほど前、駅へ向かう道の途中にあるスーパーの前に、小さ目の段ボール箱が置かれてあるのを見付けた。

「可愛い子猫、飼ってやって下さい」と書いた紙が貼り付けてあった。箱の中で生後一ヶ月と経たない真っ黒い子猫がミャーミャー鳴いていたので、思わず富士子は連れ帰った。

富士子は、その黒い子猫に「ソロモン」と名付けて可愛がった。

「喘息があるので、猫はちょっとなぁ」と言いながら、やはり正直は動物は好きで、近寄って来れば無下にはようしなかった。

猫も直ぐに正直になついて、正直が胡坐をかいていると、その足の真ん中に丸くなって、安心して眠る様になってしまった。

 正直の家の二階に間借りをしていた幸恵は、愛情を何かに注いでいないと生きていられない性格だった。野良犬や迷い猫を見つけると保護して、ペットを飼っていない時が無い人だった。

この頃は、伊勢から羽曳野に引越して来る時に連れて来た「ポンちゃん、ノンちゃん」という二匹の犬を可愛がっていた。

ある日、ポンちゃんの方の首輪が抜けたのか、朝出勤した幸恵の臭いを追い掛けて、国道まで走って来たのであろう。

ポンちゃんは、そこで車に轢かれて、内臓が露出する瀕死の状態で横たわっていた。

偶々、通り掛かった高級車に乗っていた若者が、「可哀想に」と血だらけになったポンチャンを助けようとした。服や車が汚れるのも厭わず、抱き抱えて自分の車に乗せて、動物病院を探して連れてやってくれた。

手術の甲斐も無くポンちゃんは死んでしまったが、その手術中も、若者は「頑張れ!助かったら飼ってやるから」と横で励ましていたという。

若者は、高額の医療費も埋葬費用まで全て支払って帰ったそうだ。

幸恵は、可愛がっていたポンちゃんが居なくなったので、保険所などあちこち当たってみた。その獣医院に辿り着いて、その診察申し込み書から若者の名前と連絡先を知って、早速お礼を言いに訪問した。

幸恵には、医療費全額をお返しするだけの貯金が無かったので、「後日少しずつお返しします」と言ったがその若者は遠慮した。

 自分の生まれてからの境遇から、幸恵は、犬でも猫でも、捨てられた哀れな生き物を見て放置できなかった。

ノンちゃんの散歩の途中で、幸恵が三つ池の傍に捨てられて弱っている鶏を見付けた。

「人間なら子供でも腹が空けば自分で食べ物を見付けて食べるが、動物は、人間が餌をやらんと餓えて死んでしまう可哀想なものだ」そう考える正直は、幸恵からその話を聞くと、居ても立ってもいられなかった。

直ぐに一人で三つ池まで歩いて行って、「可哀想に」とその鶏を拾って戻り保護した。

段ボール箱に入れて、水や潰した飯を与えた。

「富士子!名前をつけてやれ」と言うので、富士子は「コッコ」と名付けた。

立派な鶏冠もある結構な大きさに成長した雄鶏だった。飼っていた人が大きくなり過ぎて困って捨てたのであろう。二・三日すると元気になって

「コッコ!お前は雄鶏やろ?大きな声で鳴いてみ」と言って励ました。翌朝からけたたましく鳴く様になった。

正直がコッコの傍にカレンダーを吊って、鳴いた回数を書き込む様になった。コッコは、それを励みに近所迷惑なくらいいよいよ盛んに鳴いた。

「毎朝早うから大きな声で鳴いてやかましいに、こんなカレンダーに書いて何になるん?」と言いながら、ある日千重がカレンダーを破って丸めて捨てた。

コッコはその翌日からピタッと鳴かなくなり、それから一月もしない間に死んでしまった。

「人間なら目の前でそんな事をされたらショックを受ける。生き物は皆同じや。コッコはがっかりして死んでしまったんや」と正直は呟いた。


正直は、バブルの好景気も崩壊もほとんど縁が無かったが、どんどん事業の手を広げ豪勢に活躍していた頃の感覚や習慣が、いつまでも忘れられないようだった。

安楽島に居た頃は、テーラーオカヤマという専門の仕立屋が、屋敷に出入りしていて、正直の背広やコートなどは全てオーダーメイドだった。スーツでもコートでも、一着作れば数十万円が当たり前であった。

大阪に来てからも、近鉄百貨店の仕立屋タカノに、オーダーメイドで服を作らせていた。毎度二百万円相当の現金で支払いをするので、その実績で百貨店の外商部を利用できた。衣服に対しては、落ちぶれても変わらないこの感覚で、少し懐に余裕があると、知らぬ間に、スーツやコートを桁違いの値段で新調するので、千重も富士子も度々驚かされた。

正直は、若い頃から、独学で様々な知識を深め研鑚するのに古本を活用していた。

古書店へは頻繁に訪れたが、偶に、自分の研究に直接関係の薄い「古典」の様な書物を買う事もあった。その手の書物は、価値観の違う目で見れば、理解できない高額な値が付いていたので、正直が買って帰ると、千重も富士子も顔色を変える事もあった。

またある時、正直は、ゴーストライターの仕事で、まとまったお礼を手に入れたので、千重に一言も相談せずに、~百万円もする十八金のローレックスの腕時計を買って、嬉しがって身に付けていた事があった。次の確実な収入の当ても無い不安な身の上でありながら、せっかくのこの「一攫千金」の大切なお金を貯金しようという考えが全く無かった。

ある日、正直は、仕事で外出していた時に、財布を忘れた事に気付き、当座の用立てに質屋に寄って、そのローレックスを担保に僅か十万円の現金に替えてしまった。しかも、その程度の金額なら、後日、都合を付けて返済して、質草の時計を取り戻せば良かったが、何とも横着で返済の期限を意識していないので、そのまま質流れになってしまった。

後に「住専問題」として、世間を騒がす事になったが、正直は、この問題の本質にも早くから関心を持っていた。そして、奇しくも、正直が亡くなった翌年の平成七年に、「利権の温床『住専』が破綻、遂に飛ぶ」事態になった。

現住居を購入するに際して利用した住金からのローンは、正直がその返済に全く関心を持たなかったので、既に二年分以上の返済が滞っていた。ローン返済についても、自分が支払わなくても、千重が「絵に描いた餅」から支払うから心配する必要はないとうっちゃっていた。

いかに高い能力を持っていても、それを活かして家族の生活を安定させる責任感に欠けていたのでは、妻子にとっては何の有難みも無かった。自らの能力で得た収入とは言っても、それが妻子を守るための大切な資金であるという責任観が無いので、一時の思いで無駄遣いしたり、安易に他人を助けるために失ってしまうのだった。人目や世間体ばかり気にして、ええ格好をするのに百万円単位の浪費をするくらいなら、自分の家族の生活を安定して維持する程度の責任感を持つべきであった。

この頃の正直は、まさに「灯滅せんとして、光を増す」とでも言うべき日々であった。

正直は、相変わらず声も大きく、常にテンションが高く、訴訟関係の書類にも意欲的に取り組んで、傍から見た目には、むしろ健康で元気そうに活き活きしていた。

これは、裏返せば、自分の体内で深く静かに蝕んで行く何かを感じた正直が、自分に残された時間、余命というものを意識し始めていたからではないかと思う。

正直は、自分の根本的な病は、癌の転移によるものであると自覚していた。養生して騙し騙し延命したところで、健康な身体に戻る事は期待できないと覚悟していた。

見た目には元気そうでも、癌はじわじわと確実に、正直の体内を侵しつつあった。

正直は、平成五年の春頃から持病の喘息による咳が再発して、例に無く咳が酷くしつこいので、

「これはどうもおかしい、これまでとは違うな」という感じを持った。

夏バテには早いのに、体重も減り始めていた。

それでという訳ではないが、正直は、これまで全く関心を持たなかった「生命保険」のパンフレットを手に入れた。適当と思われる契約書にサインをして、

「印鑑を捺して申し込む様に」と言って千重に渡した。

しかし、このガン保険は、せっかく期せずして告知義務以前の申し込みであったのに、うっかり者の千重が、そのまますっかり忘れて申し込まれていなかった。

癌による死亡保険金五千万円は、あれば随分助かったはずが、蜃気楼の様に消えた。

その年の夏、正直は、背中から腰にかけて、軽い痛みを感じる様になった。痛みは、日増しに酷くなる兆候があった。

「一度医者に行って診てもらわないと、原因が分からないのは不安やから」と千重や富士子が懇願したが、正直は、頑として応じずやせ我慢を続けていた。

秋が深まるにつれ、背中や腰の痛みは更に強くなり、喘息の症状も酷くなっていった。

折から菊の季節で、菊の花が好きだった千重が、国華園が配るカレンダーを見て言った。

「今丁度、菊花展が開催されとるわ、できたら一ぺん行って見たいに」という話をした。

「それなら、季節も良いし、開催期間中に三人で行こう」と、事も有ろうに、正直は、河内長野の国華園まで菊花展を見に出掛けることにした。

十月下旬の事だった。近鉄南大阪線藤井寺駅乗換で河内長野駅まで行って、そこから更にバスに乗って一時間以上かけて行った。

菊花展は千重も感動してとても喜んでいたので、これが最後のチャンスだったという意味では、思い切って行った事自体は良い想い出になった。

しかし、後で考えると、この時既に、正直の脊椎の痛みは相当の激烈さであった。

朝に家を出てから、一日中歩き回って疲れてふらふらの身体で、ようやくの事でバス停に辿り着いた。ところが、帰りのバスは本数が少なくて、座る場所も無いバス停で、半時間近く待つ事になったので、さすがの正直もやせ我慢の限界だった。

 それから間も無く、あまりの激痛に耐えられなくなった正直は、

「とりあえず喘息の薬をもらうついでに」医者に行く決心をした。

羽曳野に引越してからは、最も近い医院は堀医院という町医者だった。そこは、年寄りの先生が奥さんと二人でこじんまり診療されている医院であったが、レントゲンの機械も置いていない上に、整形外科を名乗っていなかった。

それで、幸恵が綾乃の風邪の時に通って、整形外科の患者も多く診ている事を聞いて知っていた、少し離れた石田診療所に行く事にした。石田診療所は、中央環状線の別所交差点にあるので、家からはタクシーを呼んだ。

羽曳野に移ってから七年にもなるのに、頑固者の正直が石田先生に診ていただいたのは、十一月末になって渋々訪れたこの時が初めてであった。

石田診療所の院長は、元々は救急病院に居て呼吸器が専門だった。正直の症状を聞いただけで直ぐに、

「通院で治療できる状況では無い」と判断されたが、それを口には出さず、

「喀痰は検査に出しますけど、喘息の症状もかなり酷い様ですので、呼吸器の専門病院に紹介状を書きます。ちょっと交通の便の悪い所ですけど、一度よく診てもらって来て下さい」と言って、羽曳野病院への紹介状を書いて渡された。

正直はドイツ語も理解できたので、院長がカルテに記入された病名やその他の内容も、覗き込んで読んでほとんど理解していた。

後日、石田診療所の院長のお話では、喀痰の検査を請け負った機関から、その日の間に、

「先生の所で診るには、症状の進行し過ぎている検体です。喀痰の全てが癌細胞と言えるほどの末期状態です。」と連絡があったそうだ。

十二月一日、この日は、富士子が勤める会社の社長の訓示がある日で、新入社員は、余程の事情が無い限り休み難い日であった。

敢えて年休を申請した富士子が紹介状を持って、正直が病院へ行くのに付き添った。

激痛に耐えながらの正直は、それでもまだ自分の足で歩いて、近鉄電車で古市まで行き、駅前からタクシーで羽曳野病院を訪れた。呼吸器外来の診察室に入るなり、正直は、

「先生、患者を全て素人と見なして誤魔化してはいけません。私はドイツ語が読めますので、胸部X線写真で境界不鮮明な陰影がみられ肺浸潤が疑われる、と書いてありますが、このレントゲン像を見れば、この白く映っている部分は、他の部位からの癌の転移で、自分がもう助からない事くらいは、私も承知してます」と担当医に向かって一気に話した。

「そこまで解ってはるなら、はっきり宣告します。余命三日、明日亡くなっても不思議は無い状態です。本日、ご家族の方にはお引き取りいただいて、直ちに入院いただきます。」と、担当医は正直にはっきり言われた。

「私は、今大事な仕事を抱えています。裁判の行方に影響する様な言動は、避けねばなりません。そういう事情ですので、入院はできません。」と正直は入院を断った。

正直は今も一つの難しい裁判に関わっている最中で、そのキーマンである正直の身に、少しでも不安のある事実が知られるのは重大問題であった。

このような事態にも関わらず、正直の元へ毎日電話の鳴り止むこともなかった。千重や富士子にも怪しい内容の電話があり、二人とも常に誘拐や暗殺の危険を感じていた。

肺に膿が溜まって、肺活量も落ち、呼吸が困難になり、正直は緩慢にしか身体を動かす事ができず、非常に苦しく難儀そうに見えた。その日の夕方、千重と富士子に抱き抱えられる様にして、ようやくの事でタクシーに乗り込んで、石田診療所の夕診に訪れた。

「先生、今日は、死亡診断書を書いていただくお願いをしに来ました」と正直は、診察室に入るなり力強い声で言った。

「せめて、もう少し早く診させていただく事ができていれば」と院長は、正直の両膝の上に両手を付いて涙を浮かべられた。暫くして、正直が石田先生と診察室で談笑する声が、待合室の千重と富士子に聞こえていた。

平成五年十二月十六日、正直が尊敬していた田中角栄が、慶應義塾大学病院にて死去した。享年七十五歳であった。

田中角栄が、脳梗塞で倒れて以来、政界の表舞台にあまり姿を見せなくなってからも、正直は、その行状には関心を持ち続けていた。

「いよいよ、本当の意味で『昭和』が終わるのかも知れん」、自分の状況と重ね合わせて、そう言っていた矢先の事だった。

「政治家を志す人間は、人を愛さなきゃダメだ。人をそのままで愛さなきゃならない。そこにしか政治はないんだ。政治の原点はそこにあるんだ。」という、田中角栄の言葉を改めて思い返して、正直は胸が一杯になった。

正直にとって最期になる可能性が高かったこの年末は、テレビの音が耳に障る様になってきた正直に配慮して、年末らしい番組もなるべく見ない様にひっそり過ごした。

年始は、幸恵や綾乃も一緒に過ごせる様におせちは大目に支度して、毎年元旦に必ず襲来する湯村雅佳家族に「来年の年始の挨拶訪問」を断るという連絡をした。

日毎に悪化して行く様に見える正直の容体を憂えて、歳を越せるのかと皆心配したが、何とか新年を迎える事はできた。


 会社の年末年始休暇が明けて、富士子は、自分の勤務中に正直が亡くなってしまう事態があっては残念だと考えた。

勤めていた会社の事業部長は、専門学校時代にアルバイトに来ていた頃からお世話になって、気心も知れていたので、退職について相談した。

「その気持ちも解らんではないが、君のお父さんは、話を聞いている限り、いずれ近い間に亡くなられるやろう。若い君にはまだこれから先の将来もあるのに、今それだけを理由に退職するのは、お父さんが知ったら喜ばれるやろうか。とにかく年休のある限り年休を取れ、それで足りないなら欠勤してもかまわんから辞めるな。」と事業部長は考え直す事を促された。

結局、富士子は、正直の病状が「いよいよ危ない」と思われるまで休まなかった。

正直の生命力は逞しく、二月に入ってからの最後の十日間は、毎日うなぎ丼を食べるほどだった。それでも体重は、元気な頃七十五キログラムあったのが五十キログラムまで激減していた。

正直の要望で、病気の事は近所の人にも気付かれない様に気を付けていた。正直が亡くなるその日まで、近所の人は正直が病気である事さえ全く知らなかった。

「御嬢さんは気丈なので、はっきり言いますが、癌の末期症状の患者さんが高熱を出されると、もうそうは長くないと思って下さい。癌末期のパターンなんです。一週間くらいと覚悟して下さい。お父さんの今の状態で、次に発作が起きれば、バケツ一杯位の吐血があると覚悟して下さい。」と、石田診療所の院長先生は、看病する富士子に告げられた。

それ以後、石田先生は、毎日の様に往診をして下さり、最後の三日間は鎮痛のために、モルヒネ注射の措置もして下さった。

正直が「今日明日にも」という危篤状態を迎えて、富士子は、二月十日の木曜日一日だけ年休を申請して、二月十一日の建国記念日から週末まで、正直の傍を離れず四日間つきっきりで看病した。

ええ格好しいの正直は、身だしなみを非常に気にする「やつし」でもあった。手鏡で自分の顔を見て、

「歯が汚れているが、さすがに歯磨きはできんな」と残念そうにした。

この日、富士子は、正直に最後の入浴をさせてあげられて良かったと思った。

人は「今際の際」に、色々な思い出がフラッシュバックで走馬灯のように蘇り、おかしな言動をすることがあるという。

石田診療所の先生が、酸素不足による呼吸困難を心配して、在宅酸素吸入の手配をしてくださった。酸素機器の業者が、大きなスーツケースの様なものを部屋に運び込んだ時、病床からそれを見た正直は、かっと目を見開いて、大きな声ではっきりと

「小さい子供もいるのやから、せめてもう三日だけ待ってくれ」と叫んだ。

たぶん、安楽島の屋敷に裁判所の執行官が土足で乗り込んで来た時の記憶でも蘇ったのであろう。

気張って耐えていた正直も、最後の四日間は起き上がっていられない状態だった。

横になると肺が圧迫されて息が苦しいので、富士子が正直の背後に座って、四日間斜めに抱き抱えて支えたので、富士子は、その間トイレも日に一度しか行けなかった。

それでも正直は、頭はまだはっきりしていて、苦しみながらも

「来てもらってる皆にちゃんと食事してもらってや」と気遣いさえしていた。

「父さん、昔の懐かしい写真でも見る?」富士子が問いかけるとうなづくので、安楽島の屋敷の写真を見せてやった。正直は、その写真を手に取って見て、そこに写っているのが何であるか認識した途端、目を見開いて暫く凝視していたが、すぐに写真を持つ手がぶるぶる震え出して、そのまま意識を失ってしまった。

富士子が驚いて千重に伝えて石田先生に連絡してもらった。間もなく石田先生が来てくださり、脈拍・心拍数・呼吸・血圧・体温などを測定されて、

「いったい何がありましたか?バイタルがずいぶん上がっていますが?」

富士子が屋敷の写真を見せたことを説明すると

「なるほど!正直さんは興奮状態ですが、今猛烈に走ってはります、たぶんそのお屋敷に向かって走ってはるんでしょう」

正直がこの世で最後に目にしたのは、その白黒の屋敷の写真になった。正直は自分が建てた屋敷のことをずっと思い続けていたのだと富士子は改めて知った。

楽天的な千重は、過去に三度も心肺停止を告げられてから蘇生した正直が、そう簡単に死ぬとは思えなかった。それで正直の発作が少し治まると、ホッとしてイズミヤへ買物に出掛けた。

その間に、正直はまた発作を起こし、自力での呼吸が困難になった。救急救命士の資格も持っていた富士子は、自分が酸素マスクを吸いながら、四十分間必死で正直に人工呼吸を施した。

正直の胸からは、「ごぼごぼ」水が逆流する様な音が聞こえていたが、正直の心臓は丈夫で逞しくその間もまだ動いていた。

通夜・葬式の日取りまで考えて、富士子の休日を配慮したかの様に、看護三日目の土曜日に、正直はついに息を引き取った。富士子は、これまでの父親を振返って

「お父さんを畳の上で看取れるとは思わんかった」ので、それだけでも感無量だった。


二月九日に千重は、多気に住む妹の厚代に、正直が危篤状態になったという報せの電話をした。若い頃は、結構気ままな所もあった厚代だが、歳を取ってからは

「姉さんに色々苦労を掛けた」と感謝していた。

厚代は、千重からの電話を切ってから、居ても立っても居られず直ぐ家を出て、羽曳野まで車を飛ばして、その日の夜の間に駆け付けてくれた。

その晩から四日間、正直が息を引き取るまで、厚代は富士子が付きっ切りで看病する様子を間近に見ていた。

厚代は、もはや助からないと分かっているにも関わらず、富士子が自らの命も賭ける意気込みで、父親に四十分間も必死の人工呼吸をしている様子をじっと見ていた。

よほど感動したのであろう、それ以後、その様子を回想して、何度も電話で繰り返し富士子を褒めた。

「うちの富美は、私の死に際に、ふじちゃんと同じ様にしてくれるやろか」と心配していた。

可哀想なくらい一途な性格だった。

厚代が駆け付けた翌日、千重の連絡を聞いて、正直の息のある間にと、幸子夫妻や典子も三々五々伊勢から駆け付けてくれた。

二月十一日は大雪で、電車を始め交通が各地で麻痺して、喪服を取りに一旦自宅に帰った典子や幸子は、戻って来れなくなった。

「ご主人は、どうしたのかなぁ?元気が無いのが気になるなぁ」とでも言いたげに、正直にもすっかりなついていた猫のソロモンは、正直の寝床の周囲から離れなかった。


正直が息を引き取ってから、仰向けに寝かせて立ち上がろうとした富士子は、よろけて幸恵に支えられた。身体を斜めにして座っていたせいか、左右の臀部の大きさが異常に違ってしまい、体重は七キログラムも痩せていた。

最後まで正直が気にしていた歯は、息を引き取ってから、富士子がガーゼで拭いた。連絡を聞いて駆けつけて下さった石田先生は

「間に合わんかったか~」と嘆かれた。

院長が帰られる時に、富士子は、取り乱す事も無く落ち着いて、

「院長先生、長らくお世話になりまして、本当に有難うございました。」ときちんとお礼の挨拶をした。その様子を見ていた幸恵は、感動して

「ふじちゃんはやっぱり偉いわ」と労ってくれた。


正直が、遠からぬ命を案じて、生前に詠んだ、辞世の一句である、

「人の世は 夢幻の 如きなり 白雲の行く 果てを見つめて」

これに、娘の富士子が返した句である、

「山際に 消ゆる命の 愛しきに 身をば砕きて 分け与えたし」



  「諸行無常」


気が動転してしまってただおろおろするばかりの千重に代わって、富士子が葬儀屋に連絡した。

枕経の手配や枕飾一式など、通夜から葬儀の準備については、プロの葬儀屋が全て段取り良く勧めた。葬儀については、間口の狭い住宅で行うので、あまり大仰しくはしたくない旨だけを伝えて、他は葬儀屋に任せた。

正直は、十人兄弟で、まだそのほとんどが存命で健在だったはずだが、さすが正太郎の子孫は皆薄情なもので、通夜と葬式に来たのは、三男と弟妹の三人だけだった。

正直の屋敷を実家の様に気軽に出入りしていた妹の俊子は、その後「駆け落ちした」という男と二人で通夜に訪れた。その男はアル中なのか、来た時から酒臭くて、読経の間もずっと俊子と向かい合って、炊事場で持参した酒を呑んでいた。

弟の正治は、千重から直接連絡を受けた訳ではなかった。正直の兄か俊子から間接的に報せを聞いて駆け付けてくれたので、通夜には間に合わなかった。

正治は、正直の自宅に来てから、富士子が葬儀屋相手にテキパキと受け答えする様子や、参列してくれた親戚縁者や近所の人達に挨拶する言動の一部始終を見ていた。

「いやぁ~長い事、ふじちゃんに会わん間に、随分成長して変わってしもうたなぁ!あの潔さ往生際の良さ度胸の良さは、極道の女房にしても良いくらいやなぁ!千重さん、極道者に目を付けられん様に気を付けんと、もう、そういう男が居るんとちゃうか?心配やで」

「いやぁ、どうも居るみたいやで」と千重は淋しそうに答えていた。

三人の兄妹は、そろって火葬場までは同行したが、弟の正治を除いて、骨上げにも立ち会わず、我先にと逃げる様に帰って行った。

千重から正直が危篤という連絡を聞いて、真っ先に駆け付けてくれたのは妹の厚代であった。

厚代は、気人情の解る親分肌で、建築業「山本鉄筋」を営む夫を盛り立てて、職人を上手に働かせて家業を大きく育てた。子供好きで面倒見も良いので、千重が小俣の実家を出てから、幸子と幸恵の二人の世話を頼む事も多かった。

ただ、厚代は気分屋で、機嫌の良い時とそうでない時の言動の差が激しく、頼みたいことがあって連絡した千重は、冷酷なまでに薄情な応えに度々当惑させられた苦い記憶がある。

また厚代は、一人娘の富美を溺愛して我がまま放題に育て過ぎて失敗した。富美は、貪欲な性格で体格も良く色の浅黒い男の様な風貌で、着る物も持ち物もブランド好きで、贅沢な暮らしに慣れ切っていた。厚代は、この一人娘に、裕福な農家の長男を婿養子として迎えてやった。

「富美がお見舞いに買って来てくれた服だ」と、厚代が卵巣癌で入院していた時、涙ぐんで喜んで自慢していた。

富士子が一目見れば、どれもこれも、母親が死んだ後に自分が着れる様に、富美が自分の好みのブランド品を買っていただけで、そうとも気付かず素直に喜んでいる厚代が哀れであった。

正直の葬式に参列してくれた厚代であったが、同じ年の十二月に五十一歳で亡くなった。卵巣癌だった。

厚代の葬式の出棺の際も、ケチで薄情な富美は、棺の上に掛ける晴れ着を自分が後で着たいからと惜しんで出そうとしなかった。千重は、自分の振袖を見た厚代が、それを欲しがっていた事を思い出して、幸子の夫裕之に車で送ってもらって小俣の実家まで取りに行って、それを厚代の棺に掛けてやった。

 自分の兄妹の薄情な冷淡さに比べれば、全くの他人でありながら、正直に世話になったと義理堅く、遠方にも関わらずわざわざ通夜や葬式に駆け付けてくれた知人も多かった。

葬式の日、自宅の前の道に、物々しい黒塗りのロールスロイスが一台停まった。

助手席の重厚なドアが開いて、風呂敷包を下げて降りて来たのは、いつも正直に松茸を送ってくれた、あの長野県の社長であった。

正直より一回りは年長だったが、報せを聞いて、遠く長野県からわざわざ脚を運んでくれたのだ。その風呂敷包には、過分な香典が包まれていた。

葬儀が終わり、棺を祭壇から降ろして、正直が愛用した鼈甲縁の眼鏡や将棋の駒など正直に縁のある品々を棺の中に入れた。正直の周りを飾る様に、供花を棺の中に入れて、故人との別れの納棺の儀式を行った。

最後に、親族全員で棺に蓋をして、小石で釘打ちをした。釘を打つ渇いた音が富士子の心に響いて、深く貫通するように耐え難い痛さだった。

喪主の千重達が出棺のため家の表に出ると、隣り近所の住人だけでなく、かなり遠方から参列してくれた人も居た様で、焼香の列が驚く程の長さになっていた。

結局のところ、正直は、外面の良い妻子以外にとっての「善人」であったことは、葬式に集まってくれた参列者が、千重たちには予想のつかなかったほどの多さであったことでも解る。

棺を皆で担いで霊柩車に乗せた後、横一列に並んで会葬の方々に挨拶をした。

千重や富士子達遺族は、遺影を持ってマイクロバスに乗って火葬場に向かった。バスは三台も用意したのに、行きたいと言ってくれる人が多くてぎっしり一杯になった。

方々から届いた樒の数が多過ぎて、自宅の前だけでは置き切れなかったので、隣の家の軒先にまで並べる事になった。参列者の受付や香典の世話も、近所の人が進んで勤めてくれた。

事件屋の油谷は、周囲を憚らずに持ち前の大きな声で遠慮の無い会話をするので、親戚縁者の印象を心配して、通夜と葬式の当日は避けて後日来てもらう様に伝えた。

義理堅い人なので、後日きちんと挨拶に訪れたが、よほど夫婦仲が悪いのか、夫婦別々に違う日に来てくれた。


 葬儀が済んで暫くしてから、富士子は、正直が堺筋本町のビルに借りていた法律事務所の片付けをしに行った。

並はずれて几帳面だった正直の事務デスクの上には、必要最小限の事務用品が、デスク端に平行に整然と並べられていた。正直は、楽天的でうっかりしていることが多かったが、革靴の汚れやスーツに付いた埃を異常にまで気にする神経質な面もあった。外出時に千重がフラノのコートに糸くずが付いたまま着ていようものなら「この世の終わり」という嫌な顔で怒るのだった。

デスク上にあった父親が愛用していた文箱を何気なく片付けようとして、その底に折った紙切れがあるのを見付けた。広げて見ると、それは、富士子が小学校二年生の終わり頃、近所の人にもらった可愛い絵の描かれたレターセットに、父親宛の手紙を書いて渡したものだった。

「お父さん、喘息が酷い様ですが、そろそろお父さんの出番がやって来ると思いますので、頑張って下さい。」それを受け取った時、正直は

「ほほう!こんな物が書ける様になったのか!」と微笑んだ。

世間一般の父親の様に、そういう子供の気持ちを喜ぶタイプとは思っていなかったので、それから十数年も、大事に保管していてくれた事は意外で驚きだった。

しかも、自分が毎日使うデスクの上に置いた文箱に忍ばせて、時々は手紙を広げて、改めて見てくれていたのかと思うと、富士子は感動して胸が熱くなった。

 正直が亡くなってから、何となく元気が無くしんみりしていた猫のソロモンは、その日、寝ている富士子の布団の上に上がって来て、いつになく淋しそうに鳴いた。

出勤時間を気にしながら、疲れがすっきりしない富士子は、ソロモンの頭を撫でながら暫く布団を被ってぐずぐずしていた。

ソロモンは、そのままいつも通り朝の散歩に出て行ったのか、富士子が起床した時に姿は見えなかった。

玄関の引き戸を開けて茶碗を叩くと、その音を聞きつけてどこからともなく「朝食」に戻って来るはずのソロモンは、その朝は、呼び掛けてもなかなか戻らなかった。

ノンちゃんを連れて毎朝の散歩に出ていた幸恵が、大慌てで戻って来て、泣きそうな声で

「ふじちゃん!ソロモンは家に居る?私、ノンちゃん連れてたし、恐くて傍まで近付いてよう確かめんかったけど、道路の真ん中で何か黒い猫みたいなのが倒れてるんやわ。この辺で黒い猫なんて、ソロモンくらいしかおれへんし」と言った。

富士子は、心臓が止まりそうになった。慌てて飛び出して、幸恵に連れられてその場所まで走った。道路に横たわる黒い物体は、果してソロモンであった。車に轢かれて即死だった。

父親が亡くなって二ヶ月しか経たない出来事で、富士子にはショックが大き過ぎた。

その日は、とても出勤できる気力も無く、会社に電話を入れた。

「今日は、風邪をひいたのか、体調が良くないので休ませていただきます」その翌日も、まだ出勤できなかった。


正直が亡くなって暫くして、三軒のサラ金から合計百五十万円の請求書が郵送されて来た。手持ちの金が足りなくて、当座の間に合わせに借りたものに違いないが、大雑把な正直はすっかり忘れていたのであろう。それにしても何とも横着で、金額も多過ぎるので使途が怪しまれた。

武富士の様な大手は「死亡補償金」という仕組みで相殺してくれたが、中小のサラ金にはそういう補償が無かったので、富士子が自分の給料から全て返済した。

正直の病状が悪化して、在宅で看病の必要が出てからは、主な収入源は富士子のサラリーだけになっていたので、水道光熱費を始め生活費は主に富士子が賄っていた。

そればかりか、正直が引き受けた裁判に「弁護士」を立てるための高額の着手金も、正直が堺筋本町のビルに借りていた法律事務所の滞納家賃や片付処分の費用も、全て富士子が払う他なかった。逝去から数か月まさに火の車であった。

正直が亡くなってから正直によって残された債務が次々に炙り出されてきた。これを予想していた叔父の正治は、葬式の後も四十九日の間、毎週末勤務の無い日に、気を落としている富士子たちを心配して

「何か困ったことは出て来てないか?」と見舞いを兼ねてのぞきに来てくれていた。

終の棲家となった現住居に関しても、住金の住宅ローン残高はもとより、毎月の返済が既に二年分以上滞っていたので、合計千数百万円の支払い義務が明らかになった。

ただこれに関しては、正直が生前から「住専問題」を追究しており、住金からは度々催告状が内容証明の書留郵便で届いていたが、

「お宅は色々問題を抱えていずれ潰れるんでしょう?そんなところに返済する義務はありません」と突き返していたので、富士子が滞納分の一部を返済して、残額は団体信用保証生命保険で相殺して、何とか切り抜ける事ができた。

以前にも、正直は、千重に断りも無く、事業資金を工面するために、千重が所有する住宅を担保に融資を受け、抵当権を設定するという悪しき前科があった。

亡くなって半年程経ってから、正直が裏書した額面六百万円の手形が、暴力団の手に渡っているという内容の連絡が来た。その手形は、倒産しそうになった会社を助ける為に、正直が裏書したものだった。正直は、こういう無謀な「援助」を「投資」と、自分なりの理屈をつけて肯定していた。

「お宅が裏書譲渡した手形が、暴力団の手に渡っているらしいので取り返して下さい」資金繰りがつかず結局は倒産することを予想しながら、お人好しな正直に甘えた社長からの無責任な連絡だった。

しかも、千重と富士子にとって全くの寝耳に水の事実であったが、何と羽曳野の自宅には根抵当権が設定されていたのだ。手形を入手した暴力団は、六百万円の債権が回収できなければ、当然、根抵当権を行使するはずであり、自宅を追い出されたくなければ、六百万円を返済せざるを得ないのだ。

六百万円などというお金の当てがあるはずもなく、どうして良いか分からず困り果てていた時、

「正直兄の事やから、いつか必ず、何かそういう問題が出て来るんやないかと、心配して電話を掛けたんやけど、やっぱり出て来たか」と、親身になって相談に乗ってくれたのは叔父の正治であった。

正治は、大阪市内の運送会社に住込みで勤務して、トラックの運転手や事務所の番をしながら真面目に働いていた。正治には、頼りにする家族も身寄りも無く、万一の不安に備えてこつこつ貯めてきた少しばかりの貯金があった。正治は、自分の老後に備えるべき、その大切な貯金から、

「命の恩人とも言えるほど、世話になった兄へのせめてもの恩返し。わしはこの年まで、正直兄に借りを返せん事を重い負担に感じて生きて来た。これで漸く、その借りを返せただけやから、ふじちゃん達は、何もわしに借りたなんて思わんでええ、わしが借りを返しただけで、これで済やから」と、気持ち良く六百万円を用立ててくれたのだ。

「今度は一体何の用事や?そんなこと若い女性のあんた一人で大丈夫かいな?こういう時にテレビドラマやったら、頼りになる上司が俺がついて行ってやるって言うんやろうけど、俺はヘタレやからよう行かんわ、すまんな」

富士子は、事業部長にと心配されながら、会社の半休を取って、正治が用意してくれた六百万円の現金を持って、独りでタクシーに乗って、連絡をしてきた暴力団事務所へ向かった。

ドアに鉄板を貼った組事務所に通されて、差し出された手形を見れば、裏に見覚えのある正直自筆の署名と印があり、事実に間違いは無かった。

事務所に居た組の年配の男は、生前に何らかの縁で正直のことを聞き知っていたようで、正直が亡くなった事をその時に初めて聞いて、

「そうか?亡くなったんか、ええ人やったのになぁ」と、意外にも涙を流した。

「情なんか掛けとらんと、さっさと金を回収せんかい」と、その様子を見た他の組員から怒鳴られていたという。

それで無事決済は完了して、帰りは暴力団の高級車のリアシートに座って、自宅まで送ってもらうことになった。助手席にはさっき怒鳴った組員が足を組んでダッシュボードに載せていた。

一難去ったとほっとした気持ちもあったが、富士子は、本当に自宅へ送り届けてもらえるのだろうか?と不安になった。黙っていては何処へ連れて行かれるか知れないと、まるでタクシー客のように、リアシートから通り過ぎる街並みを見ながら思いつく限り饒舌に語り掛けた。

「姉ちゃん別嬪やから、また金に困ったらええとこ紹介するから、いつでも来てや」と車から降りる時に助手席の男から冗談を言われた。

「風俗の風呂に沈められる」難波金融伝で銀ちゃんのよく言うせりふだと、背筋がゾッとしたという。

 後日、富士子が相続の処理も含めた登記を司法書士に依頼して、出来上がった登記簿謄本を見せられて初めて分かったことであるが、富士子の自宅不動産には、正吉の死後の日付で、根抵当権を始め複数の抵当権が設定されていた。

その手形は、神竜興産が割り引いたことになっていたので、手形の件を連絡して来た振出人の会社社長は、東京の会社にも関わらず、わざわざ大阪の神竜興産にその手形を持ち込んでいる時点で、初めからお人好しな正吉を嵌めるつもりだったのではとも考えられた。

あるいは、頭を下げられるとすぐいい気になってええ格好をしたがる正直は、騙されて利用される場合も多いので、その社長から資金の工面を頼まれて、自分が裏書するという条件で神竜興産に割り引いてもらうことを指示したのかも知れない。

それにしても、正直という人は、頭を下げられたからと、赤の他人を助けて自分が良い顔をしたいがために、その様な危険な相手に借りを作って、自分にもしもの事があった時に、自分の妻子の身にどの様な危険が及ぶかを考えもしないのであろうか?

富士子は胸が一杯になって、正治叔父にお礼の言い様も無かったので、せめてこの時の「恩」だけでも何とかお返しをしたいと今もずっと思っている。

「もう本人も死んだんやから、黙ってれば誰も知らん事やのに、わざわざ火中の栗を拾いに来るなんて、叔父ちゃんは、損な性分やな。」

現に正治は、正直が亡くなった事も葬式の事も、千重から直接連絡を聞いた訳でなく、千重が長兄に連絡をして、そこから伝え聞いた俊子を通じた又聞きで知ったのだ。知らん顔をしておけば、それで一円の損もせずに済んだ立場だった。

この妹の俊子にしても、まともに働きに出る事が無く生活力は皆無で、無謀な駆け落ちをしたりで、正治に甘えて経済的な援助を受けていた様だ。

 正治叔父は、一周忌の法事までの間、沢山のケーキなどを土産に、ちょくちょく富士子たちの家に見舞いに訪れた。他に身寄りもない寂しい暮らしなので、遠方からわざわざやって来るにも関わらず、訪れた時はいつもとても楽しそうな様子だった。

そんな正治叔父に、富士子は、間もなく予定している自分の結婚式に出席してもらうことを考えた。それも、教会式の結婚式で、亡くなった父親の代わりに花嫁である自分の手を引いて、一緒にバージンロードを歩いてもらおうと考えた。

「それはいかん、ワシはそんな身分ではない」と正治は一蹴した。

「わしは、身寄りの無い今の境遇を受け入れて、これから先も、誰の世話にもならんつもりで、こうしてこつこつ働いて生きて来た。今さら、ふじちゃんに情を掛けてもらうと、どうしてもそれに甘えたい気持ちが起きて、迷惑を掛ける事になっては申し訳ない。これきりで姿は見せんから。」と言って、その言葉通りそれきり正治は音信不通になってしまった。


富士子は、小学生の頃、千重につれられて数年ぶりで正直の建てた安楽島の屋敷を見て以来、自分達が追い出された屋敷を買い取った者が居て、平然と住んで今も栄華を誇っているなら、いつか自分が屋敷を買い戻して、往年の姿に戻してやろうと願っていた。

この思いは、今際の際に屋敷の白黒写真を見た時の正直の反応でいっそう強くなった。自分が代わりに屋敷の現状を見に行って、誰がどんな風に暮らしているのか確かめてやろうと思った。

それで正直が死んでから、富士子は独りで鳥羽に行った。千重に連れられて行った時の記憶を頼りにバスに乗って、屋敷のあった辺りまで行って見た。

二十年近くの歳月が経った今も、富士子が屋敷の事を想い出す時、瞼に浮かぶのは、あの当時のままの堂々たる佇まいであった。

しかし、たどり着いた富士子の目の前に広がっていたのは、そこにかつて人が住んでいた事も偲ばれないほどの殺風景であった。門扉から遠い奥の方までは、ほとんど見えないくらいに雑草が茫々と茂っていた。

富士子がそこに見たのは、正直が築いた立派な屋敷ではなく、全く見る影も無く変わり果てた幽霊屋敷のようなものであった。

あまりのショックに、富士子は頭がくらくらして、道路にしゃがんで何度も嘔吐した。易者が「ここは神の宿る場所」と言ったと聞いてから、長い間それに拘って思い続けてきた時間は、いったい何だったのかと、その呪縛から解き放たれたように感じた。虚脱感であった。

「此処はもう終わったんやわ、みんな済んだ、忘れなければ」

富士子は自分に言い聞かせる様に何度も繰り返した。

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画餅 空 凡夫 @blueTAKA

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