第3章

第5話 約束

 そうしてまた、家庭教師で東間家を訪れる日がやって来た。その日までのうちに、“もう来ないでくれ”と彼女の両親から連絡が来るかと思ったが、そんなものは一切来なかった。


 東間凪子と顔を合わせていいのだろうかと、悩んでいたのは私だけだったらしい。

 相変わらず彼女は無口なままで、わからないところだけを質問し、私は私でそれに答えた。普段と変わらない、静かな勉強の時間。彼女は正解したからといって大喜びしない代わりに、間違ったからといって大袈裟に落ち込むこともなかった。



 何事もなかったかのように思える、時間の終わり。

 ふと、彼女の薄い唇が言った。


「センセイ、もしかして、悪かったなって思ってますか?」

「え?」

「私の配信見たこと」


 また、うまく質問に答えられなかった。勉強のことなら説明してあげられるのに。どうして教科書の外の話になると、彼女は急に難しいことを聞いてくるんだろう。


「センセイのことだから、罪悪感の塊になってるかと思ったんですけど、違いますか?」

「あー……。うん。悪かったなあって思ってるよ。ごめんね」

「違いますよ、そういう話じゃなくって」


 会話の手綱を握っているくせに、目の前の東間凪子は行く先を迷っているようだ。黒い瞳がちらちらと揺れて、結局目線を逸らしたまま、彼女は言った。


「センセイの罪悪感に、付け込もうかと思って」

「え?」

「買い物に付き合ってください。そしたら、その罪悪感もチャラになるでしょう?」

「それは別にいいけどー……」


 私が答えに困っていると、彼女は眉をひそめた。


「高校生と買い物に行くのが、そんなに嫌ですか?」

「ううん、そうじゃなくて、凪子ちゃんがそんな風に誘ってくれるなんて、意外で」

「はあ?!」 


 東間凪子は大きく口を開けたまま、綺麗な顔を左右非対称に歪めてこちらを見ている。

 だって、私たちは今まで、この家の外で会ったことがない。もしかしたら、彼女の部屋でしか顔を合わせたことがないのかもしれない。私は彼女の連絡先を知らないし、時間外で連絡しようと思ったこともない。そういう距離感だった。

 そんなことを思いながら眺めているうちに、彼女の顔はどんどん赤くなっていく。

 何が起きたのかわからなかった。

 ただ、流れ星が爆発したみたいに、彼女は声を上げた。


「別に! センセイと出かけたかったわけじゃないですけど?! 一人暮らししてる知り合いがほかにいないから、都合がよかっただけですからね? だから別に」

「あ、一人暮らしに用があるの?」

「そうですよ!」

「なんで?」


 一度大声を上げたおかげか、彼女は落ち着いたらしい。やけに演技じみたため息の後で、ぶつぶつと説明する。


「同じ事務所のVtuber仲間が、最近一人暮らしはじめたから、今度何人かで集まってお祝い配信するんです。その日持って行くプレゼントを、探したいだけです。わたし、一人暮らしとかしたことないんで、何が必要かわからないから」


 確かに、それであれば私が適任だろう。

 断る理由もないので、私は彼女からの誘いに乗った。半ば、彼女の気づかいのようなところもあるし、無下には出来ない。


 そうして私たちは連絡先を交換し、次の土曜日に会う約束をした。

 家庭教師として知り合って、約一年が過ぎていた。


「なんか、凪子ちゃんと友達みたいなことするの、初めてだね」

「別に、友達だとは思ってませんよ、センセイ」

「うん。わかってる」


 東間凪子はむすっと口をとがらせた後で、ほんのわずかに目じりを下げた。

 その顔は、いつも以上に可愛らしく見えた。


 ……

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