いつか逃避行

海洋ヒツジ

いつか逃避行

 カチャリ、子供だましのような鉄の音が軽く鳴る。

 玄関先で手錠をはめられた藤森は困惑気味に、何かの冗談かと笑いかけながら目の前の彼を見返していた。

 木田はまったくもって彼女の笑いかけに応じることなく、彼女の手首と繋いだ自分の手を引いて、強引に藤森を外に引っ張っていった。

 中学二年生男女の、それは誘拐の一幕だった。



 うだるような熱気が降りそそぐ夏の日のこと。

 ひとまずこの暑さを何とかしようと言って、木田は冷房の効いたコンビニへと逃げ込み、アイスキャンディーを買って飲食コーナーへ向かった。

 そうして木田はパイナップル味のアイスを頬張っている。その隣に誘拐されたばかりの藤森が座らされて、同じようにアイスを頬張る。手錠も繋がったまま。相手の動作の度に自分の手が引っ張られるのが不便だ。

「お、これウマい」

 彼は爽やかな黄金色のアイスをせっかちに噛み砕いて、ウマい、ウマい、と一人で呟く。

 藤森はそんな木田を横目で見やりつつ、黙々と桃味のアイスを舌で舐め溶かしている。木田に合わせてだらりと垂れさげられた右手には、妙な緊張感があった。

 やがて最後の一欠けらを飲み下した木田に、藤森が問いかける。

「ねえ。これ、どういうわけ?」

 そう言ってこれ見よがしに手首を振る。チャラリ、安そうな鉄の音。

「どういうわけって、さっき言ったろ」

「うん言われた。家のドア開けたら突然。でもごめん、全然理解できてない。もっかい説明して?」

 暇を持て余して木の棒を噛んでいた木田が答える。

「誘拐だよ、ユーカイ。お前を人質にして、おれは逃げる」

「なに言ってんの」

 子供じゃないんだから。呆れながら甘い氷を舐める。

 今日の分の夏休みの宿題がまだ終わっていないというのに。

「冗談じゃないぜ」

「だとしたらすごい困るんだけど。いきなりどういうつもりなの?」

「気にするな」

「気にするなって、現在進行形で巻き込まれてるのはわたしなんですけど。ちょっと迷惑こうむってるのはわたしなんですけど!」

 声を荒げると、さすがに木田もたじろいだ。

「……また喧嘩でもしたの?」

 藤森の言葉に、木田の眉間にしわが寄る。

「そんなんじゃねえ。あー……久々にさ、藤森と遊びたくなったんだよ」

 木田はそんな見え透いた嘘をつく。

 大体、そんなことを言っておいて、藤森は木田とまともに遊んだことなど一度もない。友達でも、ましてや恋人でもないのだから。

 小学四年生の頃から続いている、いわゆる腐れ縁、というのが妥当なところ。クラスがいつも同じで、席替えのたびに隣り合わせることが多くて、互いに異性の中では話しやすいかな、という程度の。

「何して遊ぶ? 今ならどこでも連れて行ってやるぜ」

 そんな背伸びしたことを言う、生意気な中学生男子。

「じゃ、ディズニーランド連れてって」

「そりゃ無理だ。もうちょい近場で頼む」

「どこでもって言った」

「市内ならどこでも連れて行ってやる」

「えらく規模がちっちゃくなったなぁ。まあそんなことだろうと思ったけど」

 せめて県内と言ってほしかったな。夢の国までは、中学生の財力では届かないということか。

 徐々に溶け始めたアイスに歯を立てながら、右手を鎖ごと持ち上げる。

「てか、そろそろ外してよ。もう十分驚いたから」

 利き手が右なのに、繋げられているせいでとても不便。

 木田との距離が近すぎるのも心臓に悪い。

「駄目だ」

 しかし木田は首を横に振った。

「これは証だ。藤森がおれの人質だっていうことの」

 木田がどうして手錠にこだわっているのかは分からない。けれど特に意味はないのだろう。木田は頭が良くないから。

「お前を連れて、おれは逃げるぞ」

 木田は木の棒を口から離し、まるで逃亡犯のように宣言した。

 藤森は冷たい一欠けらを噛みきれず、口の中で持て余しながら木田を見ていた。



 どこでも。ただし市内。

 遠くへ行くには中学生の身分では頼りなく、夢を見るにも金がいる。

 別に木田と行きたい場所なんてどこにもないし、どこでもいいのだけど。

「また外れたー!」

 ということで、ボウリング。

 放った球はすぐさまガーターに乗り、一つもピンを倒すことなくレーンが一新される。これで六巡目。

 女の子が悔しがる残念なアニメーションの後に、幾度目かのゼロがスコアボードに表示される。

「藤森、ボウリング初めてか?」

「うっさい。利き手が使えないんだから仕方ないじゃん。これさえなければ余裕で勝ってるし」

 右手を挙げると、やはり右隣にいる木田の手も重くもちあがる。こんな手錠で繋がれた状態ではまともにボウリングもできない。

 まず受付の時点で店員が目を丸くしたのは言うまでもない。別のレーンの客も、何事かと覗き込んでくる。手錠を付けた男女二人は、世にも珍しいだろう。

 そして投げる段になると、利き手でない左手を使わざるを得ず、投げるたびに漏れなく木田が付いて来る。藤森も木田が投げるたびに付いて行く。せーので並んで走って、同じ足どりで帰って来ては、また位置につく。

「はあ、二倍疲れる。そんなに動き回るスポーツじゃないのにさ」

「そうなのか」

「当たり前」

 そういう木田の点数はそこそこ。初めこそは振るわなかったものの、途中から調子を上げて、ストライクも出している。

「おれ、初めてなんだよ。ボウリングやったの」

 初めて。木田の方は利き手を使えるにしても、初体験だというなら、木田の点数はかなり良い部類かもしれない。

 運動神経だけはいいのだ。馬鹿だけど。

 藤森は家族とよくボウリング場に訪れていた。父、母、妹の四人で。

 木田には、そういう機会はなかっただろう。

「これじゃ勝負になんない」

 背負いたくもないハンデに、負けるのが分かっている勝負内容。

 不満に口をとがらせる藤森に、木田がボウリング球を差し出す。

「じゃあこれ、一緒に投げてみようぜ。藤森は右手で支えててくれ」

「……わたしの知ってるボウリングじゃない」

「まあまあ」

 藤森は右手で、木田は左手でボウリング球を挟みこむようにして持つ。いかんせん球は重く、押して押し返されての微妙なバランスを保つ両手は情けなく震えてしまっている。

「いいか? せーので投げるぞ」

「う、うん」

 せえの。

 どことなく抜けた掛け声と共に放られたボールは、ゆっくりごろごろとレーンを舐め、やがて中央先頭のピンに触れたが、四つのピンだけを倒して闇に消えた。勢い不足だ。

 二人は顔を見合わせ、互いに肩をすくめた。

 噛み合わない投球をゲームが終わるまで続けたが、二人の息が合うことはなかった。



 そういえばスマホを家に忘れていた。

 そんなことに藤森が気づいたのは、夕食のためにボウリング場の近くのファミレスに立ち寄った時のこと。

 玄関で木田を迎えた時には自分の部屋に置いたままだった。それから取りに戻る間もなく連れ去られたのだ。

 料理を待つ間いつものパズルゲームができないじゃないかと、木田を睨みつける。それに友達から連絡が来ているかもしれないのに。

 木田はといえば、片手に持ったメニューをぼうっと眺めている。親からスマホを与えられていない彼は、藤森の不満など知る由もないだろう。

「腹減ったー。パフェも食いたいな」

 ほら。心の中で勝ち誇った顔。

「ていうか、木田。財布のお金、どうしたのよ」

「ん、ちゃんとあるけど?」

「それは知ってるっての」

 コンビニでもボウリング場でも、支払いの時は木田が全部財布から出していた。藤森には財布の準備もなかったのだから当然。

「そうじゃなくて、なんでそんなにお金持ってんの?」

「お年玉。今日のためにとっといた」

 お年玉いくら貰った、と木田は季節はずれな問いかけをする。一万円だけ持たしてくれた、と藤森が答える。俺も、と木田。

「いらないって言ったんだけど、そしたら母ちゃんが……」

 木田は黙って、その後を続けなかった。

 小学生の頃、何かの授業で将来の夢を発表しなければならない時があったことを思い出す。無邪気な子供だった木田が、隣の席で「おれは大金持ちになりたいです」と言い放ったこと。

 そんな木田がお年玉を、いらない、と。

 木田の家庭について、一度だけ本人に聞いたことがあった。すると彼の家には父親がおらず、母親と二人きりの生活だったそうだ。事情は、知らない。

 当時は不思議だな、くらいにしか思わなかったことが、年月を経ていくらか知識を増やした今、そのアンバランスな家庭について余計な想像をしてしまう。

 木田の家は普通と違う。多分、裕福でもない。

 木田は、どこか不十分な家庭環境のもとで育ったのかもしれない、と。

「お待たせしましたー」

 いつの間にかうつむいていた頭の上から、弾むような声が降ってくる。

 女の店員がにこやかな笑顔で、木田の前にはハンバーグとライス、藤森の前にはボンゴレスパゲティを置いた。

「やった。すげーうまそう」

 ジュウジュウと弾ける肉汁を前にして、珍しく嬉しそうな顔で手をこすり合わせる木田。藤森の右手がその動作に付き合わされた。

 いい加減な想像で勝手にいたたまれなくなってどうする。自分が感傷的になるのもおかしいし、それこそ木田を馬鹿にし過ぎている。

「やめてよ。恥ずかしい」

 藤森が奪われた右手をぐいと引き戻す。

 いつものようにしていよう。前までと同じ、何も気遣わず。

「ごゆっくりー」

 弾んだ声の店員が伝票を残して立ち去る時、こちらににやりとした顔を向けた。愉しむような笑みだ。

 何だろう。変な感じ。

 若干の落ち着かなさを覚えながらも、藤森は右手に銀のフォークを取ってパスタを巻き取る。

「木田は左手動かさないでよ」

「はいはい。どーぞ」

 木田はぶっきらぼうに左手をスパゲティの皿に寄せ、自分はフォークだけを使ってハンバーグを切り取って食べている。

 何も考えてなさそうだなぁ、なんて横目で見つつ、藤森はフォークをくるくる。

 くるくる、くるくる、くるくる。

 ところで手錠で繋がれてしまっている二人は、ボックス席にも関わらず隣り合って席を取っている。

 傍から見た人が、その関係を安易に察するだろうことは、想像に容易い。

 カップルと思われてるんだろうな、きっと。

 さっきの女店員。あの人もそんな想像をして笑っていたに違いない。全然、そんなことはないのに。

 木田は友達でも、恋人でも……。

「ん、何だ藤森」

 不意に視線がぶつかった。

 無意識のうちに藤森は隣の木田のことを見つめていた。

「いやっ、なんでもないけど」

「冷めないうちに食ったほうがウマいぞ」

「うん」


 もしかすると、何でもない関係と思っているのは、藤森だけなのかもしれない。


 不意の思いつきが厄介な羽虫のように、胸の隙間へと入り込んで、内側から存在を主張する。焦りのような感情が藤森の手を汗ばませる。

 木田の方は満更でもなくこの状況を演出しているのだとすれば。

 逃げるだの人質だのが、藤森と二人きりになるための口実なのだとすれば。おもちゃの手錠も。お年玉をとっておいたのもそのためだったり。

 デート。デートなのか。デート……。

 木田と、デート?

 銀のフォークが豪華すぎるパスタのドレスを着て、くるくると皿の上で踊り狂う。

「マシュマロマンみてーだな」

「そうだね……」

 木田の軽口に、らしくもない返しをしてしまう。磯の香漂うスパゲティを、藤森はまだ一口も食べていない。

 意識なんてしたこともなかった。木田のことをそういう風に見ることはなかったし、誰かに向ける恋愛感情だってまだ先のことと決めつけていて。

 のぼせ上がった恋心。まだまだ早いと子供心。

 未熟な心は、前にも後ろにも進むことを渋って、不安定な宙づりのまま。

 変えたいのか、変えたくないのか。

 否応なく、変わってしまうものなのか。

「藤森、食欲ないのか? 無理して食わなくてもいいぞ。おれが食ってやるから」

「いや、食べる。木田は……パフェでも頼めば」

「お、じゃあ食っちゃおうかなー。抹茶のやつあるかな」

 木田の鉄板からハンバーグは消えている。ライスの皿も米粒一つ残さず。

 さすがに食べないと。ため息をついた藤森は、フォークに絡まったパスタをほどいて、細い一口を運ぶ。

 口をつける、その時だった。

「ああそうだ。食い終わったらホテル行くぞ、ホテル」

 何気なく放たれた言葉。藤森は耳を疑った。

 もうスパゲティを食べるどころではないかもしれない。



 薄く湯気が張られた、簡素な浴場。

 湯船から上がったばかりの色づいた体を、ぬるめに設定されたシャワーの湯に当てる。

 その浴場には藤森のほかにも客がいた。多くが遠くからやってきた観光客だろう。ブロンドの白人女性もいる。

 何もなさそうな街の近くに立つ山が、案外名の知れたものだと知ったのは、中学生になってからのことだ。それを目当てに訪れる人も多いらしい。

 心地の良い温度に包まれながら、藤森はゆっくりと思い出していた。

 木田と話をするとき感じた、後ろに手を引かれるような感覚。いつの間にか木田との距離を測りながら付き合うようになっていた。それも藤森が中学生になってからのことだった。

 何故かそれまで通りに踏みこむのを躊躇ってしまう自分がいた。それは多分、木田の家のことを考えてしまったから。

 きっと見つけすぎたのだ。余計なことばかりを。そして戸惑ってしまったのだ。改めて見た彼の顔が、昔から見ていた彼の顔とは少しだけ違っていた気がして。

 ちょっとだけ分からなくなってしまった。

 そんなことで簡単に誰かを遠ざけてしまう自分は、やっぱり薄情者なのかもしれない。

 熱い体が少しずつ常温に戻ってゆく。一日のうちにすっかりのぼせ上がってしまった思考も、手錠を外された自由のもと、冷静になる。

 さすがに風呂やトイレの時まで手錠を強要はしない木田なのだった。もし強要されていれば、ぶん殴った後に帰っているだろうが。

 本当は分かってる。木田がデートなんかのためにわたしを無理やり連れだすやつじゃないってこと。

 木田は馬鹿だ。でも、人の思いを手錠なんかで拘束するようなことはしない。

 それだけは、培ってきた彼との腐れ縁が、証明してくれる。

 けれど、するとどうだろう。

 年を経るごとに薄まる彼との関係は、やはり風化していくものでしかないのだろうか。



 藤森の家の近所にある小市民的な安ホテルに連れて行かれ、そこで一晩を明かすと言われた時は、さすがに動揺した。ボウリングや食事を共にするならまだ許容範囲。けれど寝泊まりとなると、二人の間に存在する一線に近づきすぎるような気がしたのだ。

「マジの誘拐じゃん……」

 そう言いつつも、騒ぎを嫌って大げさな抵抗はしない藤森なのだった。

 見慣れた、けれど世話になることはないはずだったであろうホテル。

 そもそも中学生だけで泊まれるとは知らなかったし、中に大浴場が設置されていることも知らなかった。

 風呂から上がった藤森はエレベーターに乗って五階にある自室へと向かう。同じタイミングで風呂へと向かった木田も、もう戻って来ていることだろう。

 半開きになっていた部屋の扉へと入り、きちんと扉を閉め直す。

 木田はベッドの一つに肘をついて寝転がり、備え付けのテレビでバラエティ番組を見ていた。

「あ、おい藤森。今ちょうどイッテQ始まったぜ」

「わたし最近は一軒家派……」

 そういえば週明けにする話の話題は、決まって日曜のバラエティのことだった。小学生の頃は。

「なんだ。そっか」

 呟く木田をよそに、藤森は自分のベッドへ腰掛けた。

 一つの部屋にベッドが二つ。天下の一万円札(その多くは既に使ってしまったが)をもってしても二つの部屋を取ることはできず、二人用の部屋を取るのが精一杯だった。

 藤森も女、そして木田は男だ。間違いなど起こるような間柄でもないが、しかし健全とは言い難い。

 初めは躊躇した藤森がこの状況を受け容れたのは、ほとんど諦めからだった。

 せめて今も二人が着ている備え付けのパジャマが防御力の高いものでよかった。

「ああそうだ、手錠」

 木田は片方だけ穴の埋まらない手錠をつき上げた左手にぶら下げている。

 もはや形だけの束縛。今さらこんな手錠で何を繋ぎ止めようというのか。

「この状況を父さんと母さんが知ったら、なんて言うだろうね」

「藤森の母ちゃんは厳しいか?」

「んー、まあ厳しいかな。何も言わずに一日外泊するなんて……帰ったら怒られちゃうよ。木田のせいで」

 スマホも財布も手元にないので、連絡はできていない。

「それは悪かったな」

「ホント。というか、急にいなくなったから探してるかも」

「だよな。警察とか呼ばれたら大変だ」

「木田のところも」

「……おれの母ちゃんは、探さないよ」

 木田はテレビを見つめたまま。けれど一瞬だけ薄められた目が、重々しい黒ばかりを強調した。

「おれの母ちゃんは何もしない。だからこそ、お前をさらったんだ」

 テレビから流れる笑い声を寂しそうな笑顔で聞いている。騒がしい音が、あまりにも虚ろな暇つぶしでしかない。

 藤森はテーブルに置いてあるリモコンを取って、電源を消した。

「急に消すなよ」

 不満げな顔を向けてくる木田。

 構わず藤森は、ベッドに放り出された木田の左手の手錠を掴む。そして自身の右手をそこへ通し、繋いだ。

「そろそろちゃんと話してくれるのかな。どうしてわたしを連れてこんなところにまで来たのかってこと」

 藤森が木田の傍らに腰を下ろす。すると木田は起き上がり、背を見せるようにして座り込む。適切な距離をとるように。

 もう一度、木田の奥底に問いかける。

「木田は、何をしたかったのかな」

「……おれがおれであるための、ささやかな抵抗だよ。でも結局、こんなのは全部無駄なんだろうけどな」

 そう言う木田の背中は昔より大きく、しかし昔より弱々しく見えた。



 木田は物心ついたころから既に母親一人の手によって育てられた。父親は存在しないことになっている。

 母親は関係を持った男と結婚をしないまま、けれど子を為した。二人の間にどれほどの熱量の愛情があったのかは分からない。だが子供を生む段になって、男が姿をくらました時の、母親の絶望は深いものだっただろう。

 残ったのは母親と、望まれず生まれた子供。

 狭いアパートの一室。一人の時間を限界まで削って働いて、やっと貧乏な暮らしを続けられる。

 しかし家庭に愛情が芽生える余裕はなく、狭い一室には自分で産んだ子は自分で育てなければという義務と責任ばかりが充満している。

 少なくとも木田は、やつれた母親の顔を見るたび、自分は厄介者であると自覚させられる。その自覚は、中学生に上がると同時に、急激に膨張していった。

 日々の生活には息苦しさしかない。



「今さらになって気づいたことなんだけどな。どうもおれの家は、他のやつの家とは違うみたいだ」

 木田は背を向けたままで、藤森に自身の家庭について話した。

「そんで母ちゃんも不器用な人でさぁ。他の普通の家と同じようにしなきゃって、変な義務感持っちまってる。おれを普通に学校に行かせて、おれが腹を空かせないよう普通に食わせて、普通に欲しいものを与えて、なるべく不十分を感じさせないようにってな」

 元が特殊な家庭環境だからだろうか。その反動が、木田の母親を臆病にしているように聞こえる。普通であることへの執着心を生んでいる。

「で、こっちが普通と違うようなことをすると、急に感情が不安定になっちまう。知ってるか? おれがお年玉を拒否ったとき、どうなったか」

 そんなの知るわけがない。藤森はふるふると首を横に振った。

 背を向けた木田は、藤森の反応を見ずに続ける。

「泣いたんだ、あの人。想像できるか? 大のおとなが大声あげて……すごかったぜ。ドラマかっての……」

 小学生の頃の木田がよく母親と喧嘩していたことを、藤森は知っている。木田自身が話していたことだ。その喧嘩は、母親の情緒不安定が原因の一端を担っているのかもしれない。

「木田は、お母さんのことが嫌いなの?」

「別に。嫌いじゃないぜ。ただ一緒にいて疲れるってだけだ」

「疲れたから……逃げるの?」

「……おれの生活の中心はどうしたってあの家だ。学校もない夏休みなんかは特に。家ではあの人になるべく負担をかけないよう、大人しくしてなくちゃいけない。おれはそんな生活に、諦めがついた」

 想像もできない。一般に裕福と呼ばれる家庭で生まれ育った藤森では。

 母とはよく話をするし、気を遣ったことはない。父とも、妹とも、一緒にボウリングだって行く仲だ。

「けどさ、思ったんだよ。そんなおれでも、たくさんの金があれば、日々の生活と全く関係のない場所に逃げられるんじゃないかって」

 諦めからの、それは憧憬。あるいは夢。

 でも、それならどうして。

「どうして、わたしを一緒に連れて行ったの?」

 これが逃避行だと言うのならば、二人より一人の方がずっと逃げやすい。それなのに、手錠の先に藤森を繋いで。まるで枷のように。

「だってさ、おれの母ちゃんはおれのことが嫌いだから、おれを探さないだろうけど、藤森の母ちゃんは藤森を探すだろ。逃げるんだから、追われなきゃいけない。終わらなきゃいけない」

 それは違うと、言うことはできなかった。木田の母親は、本当に木田を探さないのかもしれない。

 追われ、終わる。逃避行の逃避行たるゆえん。

 きっとそうやって制限をつけていないと、木田はいつまでも逃げ続けてしまうのだろう。

 藤森を連れて行ったのはそのためだけ。

「……でも、楽しかったよね」

 藤森の声が、開かれた窓の夜闇へと吸い込まれる。

 忘れ去られたかのような路地の一部屋。届いてくるのは、二人を無視して行き交う車の微かな音ばかり。

 何台も、何台も、通り過ぎて。

「――ああ、楽しかったな」

 木田が振り返り、言った。

 多くの車に紛れてパトカーのサイレンが遠くに聞こえる。大げさすぎるその音は、自分たちを探しているものではない。

 けれど木田は窓に目を向けると、観念するように笑った。



 実を言うと、嬉しかったのだ。

 家の玄関に現れた木田が自分の手首に手錠をつけて連れ去る時、何が起こるのかと期待していた。小学校に置き去りにしてしまったものが、ふと手の中に戻ってきたようで。

 この繋がりを、まだ残して置きたいと思うからこそ。

 別れ際、同じ場所で藤森は言った。

「またいつか、逃げたくなったときには、迎えに来てもいいよ」

 木田の返事は「おう」とだけ。呆気なく背を向けて歩いていくものだから、藤森もパタリとドアを閉め、自分の部屋に向かった。宿題はまだ残っている。

 変わるものと変わらないものがある。時の流れにさらされる自分たちは、結局のところ戸惑いながら生きていくしかないのだろうけれど。

 遠い未来。

 いつか逃げ出したこの日が、彼にとって必死な瞬間であるとともに、自分にとってもかけがえのないひと時であるように。

 記憶が残り、光ったならば、また会おう。

 今度は夢の国にだって行けるはずだ。

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いつか逃避行 海洋ヒツジ @mitsu_hachi

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