死刑以上 ~死刑のなくなった世界~

芝浜 酔月

死刑以上 ~死刑のなくなった世界~

 いったい、いつから降り続いているのだろう。

 果てるともない冷たい雨に、身体が濡れそぼっていた。

 どうして、なぜこんなことになってしまったのか。

 俺は、あらん限りの声で、もう一度問いかけた。 

 その問いに答えるかのように、女がスローモーションで口を開いた。

――アイシテイル。

 形のいい唇が、信じられない言葉を紡ぎだす。

 そんな馬鹿な話はない。本当にそうだったら、こんなことにはならなかったはずだ。こんなにひどいことになったのは、全部お前のせいだ。悪いのは俺ではない。お前は、俺を愛してなんかない。俺が憎い。頼むからそう言ってくれ。

 お前はウソをついている。

 その言葉に、女が涙を流した。止めどなくこぼれ落ちる涙の粒。

 なぜ泣く?

 彼女は、必死に唇を震わせて、質問に答えようとしたが、ついにその努力が実を結ぶことはなかった。

 降り続く雨。そして、したたり落ちる血。

 血と雨が混ざりあい、足もとに紅の流れをつくる。

 両の掌が、真っ赤に染まっていた。

 俺は、持っていた包丁を投げ捨て、なぜこんなことになってしまったのか、再び大きな声で問いかける。

 女の肩をつかみ、問いかける。必死に問いかける。

 だがもう、答えは返ってこない。


 蠅が飛び続けているような雑音が、どこからか聞こえている。

 私は頭を振った。

 今のはなんだ。幻だったのか。

 突然の白昼夢に、私は一瞬、自分がなにをしているのか、わからなくなった。

「沙耶をどこに隠した」

 いきなり、襟首をねじりあげられる。

 鬼がとり憑いている。

 額の血管を怒張させた男の顔を間近に見て、私は最初にそう思った。耳障りな低い機械音が、まだ聞こえ続けている。

 玄関先。金髪男の真っ赤な目。

「なんとか言えよ、ジジイ」

 齢五〇を超えているから、二〇歳そこそこのこの男にジジイと呼ばれるのは仕方ない。だが、これが、愛する女の父親に対する態度か。私は憤りを覚えた。

 こいつの名は、小野寺紘志。かつて、娘と同棲していた男だ。

「娘は、ここにはいない」

 私は、腹に力を入れていった。

 娘は、一年間の同棲の末、この男の暴力にたえかねて、実家に逃げ帰ってきた。しかし、その後も小野寺は、娘につきまとい、ついにこうやって押しかけてきたのだ。

 警察にも相談していたが、ものの役には立たなかった。

 昨日、小野寺が自宅の近くをうろついていたらしく、危険を感じた娘がどうしてもと言うので、こうして休暇をとったことが、不幸中の幸いだった。

 目の覚めるような金髪と、刺繍の入ったスカジャン。いつもは眉を描いているらしく、顔には眉がない。どう好意的に見ても真面目な社会人には見えなかった。実際、仕事をせず、酒とパチスロがなにより好きな放蕩者だと聞いていた。

 よりによって、こんな男を選んでしまった娘の不明を恥じるばかりだ。

「殺すぞ」

 足が震える。

 私は昔、いじめらっ子だった。毎日、同級生から暴力を受け、金をゆすれられ、よく兎小屋に閉じこめられ糞尿にまみれていた。人間以下の扱いを受けた。そのときのトラウマが、じわりと心にのしかかってきた。

 心の傷に直接触られ、心がザワついている。

 低く重い雑音。頭に鈍痛が走り、耳鳴りが聞こえてきた。

 暴力でものごとを解決するのが苦手の、ただ真面目なだけの公務員。そんな私が、こんな暴力の臭いのプンプンする男に対するのは荷が勝ちすぎる。

「む、娘にあわせるわけにはいかない」

 一人娘を守らなくては、ただそれだけを思い声を張りあげた。

 小野寺の赤ら顔が怒りに歪む。

「俺はよ、沙耶と会って、ただ話したいだけだ。それだけなんだよ!」

 大きな声。なおも襟首を引っ張りあげられ、ポロシャツのボタンが弾け飛んだ。首とシャツが擦れて、首に激痛が走る。

「だがね、君は娘に暴力をふるっていたそうじゃない……」

 いきなりだった。腹に衝撃を受けたと思ったときには、息が詰まっている。鳩尾を殴られたのだ。いじめの記憶がフラッシュバックする。

「俺はこの家をずっと見張ってた。今日、沙耶がいんのはわかってんだよ」

 私は、身体をくの字に折って、男の足もとに膝をついた。

 息を吸っては吐き、なんとか呼吸を整えようともがく。

 会って話したいが聞いて呆れた。

 このまま娘に会わせれば、当然のように暴力をふるうだろう。それだけは、なんとしても阻止しなければならない。冷静に判断しなければ、ただそれだけを思った。

「母さん……警察に電話だ」

 考えた末に発したこの一言が、かえって彼を逆上させた。

 小野寺は、濁った目で私を睨みつけると、腰に手を伸ばす。

「警察の厄介になりたくなかったら……」

 その直後、私の目前に、刃渡り三〇センチはあろうかという大きなナタが現れた。狂気を目に宿したまま、小野寺は、ナタを抜きざまに振り下ろしてきた。錆び一つない、ギラギラ輝く狂気の刃が、私の体に振りおろされる。

 妻の悲鳴。

 どうしてこんなことになったのか。私は、肩にめりこんだ銀色の物体をながめながらぼんやりと考えた。あまりのことに、現状をうまく認識できない。

「死ね、チクショウ」

 熱い。たまらなく熱い。とにかくそう感じた。

 真っ赤な鮮血が、スプレーのように壁に散る。誰の血だろう……そうだ自分の血。不思議に痛みはなかった。

 目の前にデジタルノイズがはしり、視界がおかしくなる。例の耳鳴り。

「……やめたまえ……小野寺君」

 ここまでされて、紳士的な言葉を発する自分が滑稽に思えた。自分の台詞が、まるで人が言ったみたいに棒読みで奇妙だった。映画の一場面を見ているような。なんとも言えない離人感が、私を包んでいる。

「邪魔なんだよ、テメエは」

 この世が、いじめる人間といじめられる人間の大きく二つに分けられるなら、私は最後まで虐げられる人間のまま、死んでしまうのか。侮辱され、搾取され、傷つけられて、最期を迎えなければならないのか。

 耳元で、羽音のような雑音がいっそう激しくなった。

 腹の底から、絶望と怒りがないまぜになって、湧きあがってくる。

 随分遅れて、猛烈な痛みが襲ってきた。直後に側頭部を斬りつけられる。傷の痛みより、鉄の刃物で頭を殴打された衝撃のほうが大きかった。気が遠くなる。

 間違いない。この男は私を殺す気だ。

 ここで、私が死んでしまったらどうなるのか。

 妻も殺され、娘も連れて行かれてしまうだろう。これまで二〇年もかかってつくりあげてきた幸せが、消し飛んでしまう。絶望で目の前が真っ暗になってしまいそうだ。なんとかしなければ、自分はどうなってもいい、妻と娘だけは守らなくては。

 意を決し、立ちあがった。

 薄れそうな意識をなんとか保ち、最後の力を振り絞って小野寺につかみかかった。不条理に対する怒りが噴きあがる。もしこの世に神がいるのなら、このような不公平は放置するべきではない。私は、命に代えても家族を守る。

 命がけの気力で起こした行動だったが、決意もむなしく、立ちあがりざま腹を蹴られて廊下に倒される。どんなに気炎を吐いても、やはり、暴力の経験値が違う。

 私がかなう相手ではない。

 もう一度立ちあがろうともがいたが、仁王像に踏まれる天の邪鬼のように、背中を踏みつけられた。

 廊下の奥で、妻が蒼白な顔で直立している。

 小野寺は、土足のまま家にあがり、妻の方に向かって歩を進めていく。

 このままでは―――

「待て、待つんだ」

 最後の力を振り絞り、両手で足にしがみつく。死んでも放さないと決心した。

「和恵、逃げなさい!」

「どきな、ジジイ」

 憑かれたような小野寺の目が、薄闇のなかで爛と光る。

 しっかりと足を握った手に、ナタを叩きつけられた。強烈な痛みが全身を貫く。

 見ると、せっかくつかんだ足を、片方の手が離してしまっていた。いやちがう。よく見ると、掌が、手首にかろうじてぶら下がっているだけになってしまっていた。左手首をナタで切断されたのだ。

 私はもがきながら、吹きでる血液で廊下に呪詛に満ちた文字を描いた。

 妻が、声にならない悲鳴をあげる。

 だが、もう一方の手は離さない。死んでも離さない。祈るように念じる。

 半秒後、今度は脳天に重いナタが突き刺さってきた。

 その衝撃は、私の最後の意志を刈り取るに十分なものだった。痛みはない。ただ、たまらなく寒かった。身体から血液と一緒に、体温が奪われていくのがわかった。

 薄れゆく意識のなか、恐怖に顔をひきつらせたまま、ナタで斬りつけられる妻の姿が見えた。なんとかしたかったが、もう指先をピクリと動かす力すら、残っていない。

 妻の悲鳴。

 血しぶきが降ってきた。

 この世の不公平さがたまらなく悲しかった。涙を流していることに気づく。

 そのうちに、意識が朦朧としてきた。

 私は、なぜ泣いているのだろう。降ってくるのは、誰の血だろう。なぜ人の足にしがみついているのだろう。なにもわからなくなった。

 ただ、悲しかった。

 私は、最後の瞬間も家族を守らなくてはと考えつづけていた。


――アイシテイル。

 闇のなかで、誰かの声が聞こえた。

 くだらない。このような状況下で、誰が誰を、どう愛しているというのか。

 体に電気を流されたようなショックを受け、私は意識を取りもどした。

 蠅が飛び続けているような、耳障りな雑音。

 腕に、針を刺される痛みが走る。

 エアコンの風をうけているのか、薄暗い電灯が天井でかすかに揺れ続けている。六面を灰色のコンクリートに覆われた無表情な部屋。

 とにかく気分が悪かった。頭蓋骨を取り去られ、脳みそを直接歯ブラシで擦られるようなおぞましい感覚。二日酔いのまま酒を飲んだかのように内臓が重かった。

 体じゅうが、粘つく汗に覆われている。

「大丈夫かい」

 私は、歯医者の診察椅子のようなものに寝かされ、首と腰、手足の各所を金属のベルトでしっかり固定されていた。おまけに、革製の猿ぐつわを噛まされている。これでは、みじろき一つすることができない。

 股間がなま温かかった。どうやら失禁しているようだ。

 荒い呼吸。息を吐く。息を吸う。それでも、なんとか生きている。

「……か……和恵、和恵は、妻はどうなった? 娘は無事なのか?」

 答は返ってこない。

 さるぐつわで、ひどくしゃべり辛かった。

「どうやら、記憶が混乱しているようですねえ」

 おどけたような声。

 記憶など混乱していない。すべてをはっきりと覚えている。冷静に思い返してみる。あの状況で、私が生きているということは、妻も無事ということか、それとも、今のは限りなくリアルな夢だったとでも言うのか。

 いや、あれが夢であるわけがない。

 思い出しただけで、あまりに鮮烈な記憶に押しつぶされ、鼻と口から嘔吐した。

「小野寺は……私はなぜここに……」

 言葉とともに激しく咳きこんだ。吐瀉物が猿ぐつわで逆流し、呼吸が満足にできない。

 目の前には二人の男が立っていた。

 一人は白衣の医師、一人は銀縁眼鏡の背広の男。

「仕方ない、じゃあ質問に答えますかね。今城和恵さんは、亡くなりましたよ。小野寺に殺されたんです。ナタで何度も何度も斬られましてねえ」

 やはり妻は、あのまま殺されたのか。

「残酷なもんですよ」

 やけに顔の白い、唇の薄い医師が、まだ黄色い液の残った注射器を私の腕から抜いて、さも嬉しそうに言った。

 でっぷりと太ったこの男は、どことなくカエルに似ている。

「じゃあ、娘は? 娘の沙耶は?」

「娘さん……今城沙耶さんも、残念ながら殺されました。包丁による刺殺ですねえ」

「小野寺にか?」

 カエル医師が言葉なくうなずく。

 腹の底から、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。

「なぜだ! じゃあなぜ私は生きている!」

 あまりのショックに、私は、ひときわ大きな声をだした。

 起きあがろうとするが、銀色の椅子にがんじがらめに縛り付けられた身体は、まったく動かすことができない。

「これを外したまえ。どうして私を縛るんだ!」

 もしかすると、命をとりとめた私は、家族を失ったショックで、錯乱したのか。だからこうやって拘束されているのか。

 だとしたら、こうしている場合ではない、犯人の小野寺はどうなったのだ。もしのうのうと今も生きているとしたら、私はけっしてヤツを許さない。

「私はもう大丈夫だ。これをほどいてくれ」

「まあまあ、落ち着いてくださいよお」

 カエル医師は私をなだめるように手で制した。

「犯人はいったいどうなったんだ!」

「憑依刑執行に関する特別措置法第五条の二の規定に基づく刑罰、四の一の執行の終了を確認しました。続いて、四の二の処置に移ることを許可をいたします」

 やけに顔の細長い背広の男が、ロボットのように感情のない声でいった。

「刑罰? 憑依刑って……」

「今日僕はね、娘の誕生日で、残業するわけにはいかないんだよねえ」

 カエル医師が私の主張を無視し、さも嬉しそうにいう。残業とはどういうことだ。なにがどうなっているのか。すべてがおかしい。理解できない。

「さあさ、さっさと次に移ろう」

「次ってなんだ、執行ってどういうことだ。俺はそんなの……」

 なにかおかしい。

「俺はいったい」

 心の奥底に違和感があった。致命傷に近い傷を受け、さしたる後遺症もなく、なぜ俺は生きているのだろう。第一、被害者の俺がこんな椅子に縛り付けられるのは不条理すぎる。もう少しいたわりがあってもおかしくないはずだ。

「俺は……」

 カエル医師が、息がかかるほど顔を近づけて、俺の顔をのぞきこむ。 

「思いだしたかねえ」

 息は、なぜだか生臭い魚のにおいがした。

 血まみれの死体が、次々に脳裏に閃く。父親の死体、母親の死体、沙耶の死体。

 降り続く雨。そして涙。

――アイシテイル。

 女の声。

「まさか……そんな……」

「いや、そうだよ。そのとおりだよねえ」

 そうだ。俺は……公務員でもないし、結婚もしていない。喧嘩も苦手ではない。

 俺は、小野寺……。

 ゆっくりカメラの焦点が合うかのように、記憶がもどってきた。

 そう、俺の名前は、小野寺紘志だ。

 沙耶のオヤジとオフクロと、恋人である沙耶本人を殺害した殺人犯。

 そして、さっきまで見ていたのは、いや、見せられていたのは、死んだ沙耶のオヤジの記憶だったのだ。俺は、沙耶のオヤジの記憶を追体験させられていたのだ。

 俺は、あの後すぐに逮捕され、裁判の末、刑罰を受けることになった。今は、刑執行の真っ最中なのだ。

 認識すると同時に、俺はもう一度胃の中のものを洗いざらいぶちまけた。

 また、激しく咳こんで、呼吸ができない。

 記憶を取りもどしてなお、俺は混乱していた。

「なに動揺してんのさ。さっさとすませようよ、小野寺くん」

 この刑罰を、甘く見ていた。とんでもない刑だ。

 こんな刑を受け続けたら、死なないまでもおかしくなってしまうだろう。

「たのむ。お願いだ。素直に殺してくれ、こんなのはいやだ。死刑にしてくれ」

 俺は、声を引き絞って懇願した。

 カエル医師は、隣で鋼のように直立している執行官となにやら小声で言葉をかわし、もう一度気味の悪い笑みを浮かべて、僕の顔をのぞきこんできた。

「野蛮なことを言うもんじゃない。もう何年も前に死刑制度はこの地球上から姿を消したよ。人類は、死刑制度とは永久に決別したんだ。君はこの刑を受け終われば、晴れて自由の身だ。さあ、次も頑張ろう」

 カエル医師の色白の笑顔は、どこまでも不気味だった。

 すべてを思いだした。これは刑罰なのだ。

 俺が今座っている意識転送機は、過去の特定人物に憑依することができる。本来は歴史の謎を解き明かすために開発されたものだったが、憑依には対象者のDNAが必要であり、また憑依して見聞きした事実を、転送処理を受けた本人しか知りえないことから、歴史の証明などには使えず、学術的にはまったく価値がないと判断された。

 だが、捨てる神あれば、拾う神ありという。

 同時期、司法の世界では、裁判員制度が導入され、死刑制度の廃止について国民的な議論がおきはじめていた。また国際的にも、死刑を廃止する国が増加の一途をたどり、外圧を受けていた政府が、この装置を刑罰に使うことを決定した。

 すなわち、自分が殺した人物に憑依させ、人の痛みをわからせ、反省させる刑、憑依刑を最高刑とすることで、死刑制度を廃止としたのだ。

 憑依刑は、あくまで殺人などの重大犯罪を犯した者に、人の痛みをわからせるための刑罰であり、けっして死刑のように一方的な人権を無視したものではない。それが法務省の言い分だった。

 国民もそれを納得した。基本的には、目には目を、歯には歯を、古代のハムラビ法典でうたわれるままの刑罰であり、感情的にも納得し易かったのだ。

 犯罪者が人に与えた苦しみを、そのまま体験するというのは、新時代の新しい刑罰だと、評価も高かった。

 そして、殺人を犯した俺は、憑依刑の判決を受けた。

 何人も殺した者は、自分が殺した人間すべてに憑依し、何度も死ななければならない。

 俺はさっき、沙耶のオヤジに憑依して、自分に殺される体験をしたのだ。

 耳障りな低い音が、俺が座った椅子――意識転送装置から聞こえてくる。

 酷い体験だった。

 肉体的な痛みだけでない。心の苦しみ、悲しみ、憎悪、そして絶望。そうした雑多なすべての感情が、俺の精神に流れこみ、一気に外に出て行った。身体が肉体的にも精神的にも、穴だらけにされたような感覚が残っている。

「教えてくれ!」

 心臓は信じられないような早さで鼓動を繰り返しているし、脳が腫れあがったようにズキズキ痛い。呼吸も荒く、息苦しさはまったくおさまる気配がなかった。

「なんだと言うんだね、もう時間がないんだよ。ホントに」

 当然といえばそれまでだが、カエル医師には俺を気づかう気持ちなんて、これっぽっちもないようだ。

「こんな刑を受けて、何度も死を体験して、マトモで帰れたヤツなんているのか?」

 刑を受け終わると無罪放免。それがこの刑のうたい文句だった。

 だが、実際に釈放された人のニュースなんて見たことがない。人権保護のためだと思っていたが、一度刑を受けてみて、ここから帰れる人間などいないと言われても、不思議ははないと感じている。

 カエル医師は、不似合いなシニカルな笑いを浮かべると、隣にいるロボット執行官と、もう一度何事かしゃべった。

「特別に教えていいって。人にとって死ってのは一回きりなんだ。何度も死を体験して、マトモでいられるわけがないじゃないか。手を見てごらんよ」

 俺は、椅子に固定されて動かない自分の手を見て、わが目を疑った。

 左手の掌が、紫色に変色し、感覚がなくなっている。これは、沙耶のオヤジが死ぬ前に、俺が叩き斬った部分だ。

 あの時の痛みが、フラッシュバックして、俺は呻いた。

「多分その様子じゃ、壊死しちゃってるよね、切断は免れない。精神ってのはさ、たやすく肉体に影響を及ぼすんだ。それも死の記憶だ。なにが起こっても、不思議はないよねえ。でも腕一本ですんだんだから感謝しなきゃ」

 これで感謝ということは、もっとひどいことになる受刑者もいるということか。

「これを見てごらんよ」

 カエル医師が向けてきた手鏡をのぞきこんで、俺はギョッとなった。

 鏡の中には、目の落ちくぼんだ白髪の男がいた。

 逮捕されてから髪は染めていないから、金髪ではないにしても、髪は黒かったはずだ。ということは、一回の刑の執行で、真っ白になったということなのか。

 俺は、あまりの恐ろしさに息を漏らした。とんでもない刑罰だ。

 いや、俺の刑はまだ終わってない。

 さっき執行官は、四の一と言ったではないか。

「まってくれ、たのむ」

「君が殺害した人たちも、待って欲しかっただろうね。だが、殺された」

「だから! ひと思いに殺してくれって言ってんだろうがよ!」

 俺は、椅子から逃れようと必死にもがいた。しかし、無情にも固定具は小揺るぎもしない。

「なあに、あとたったの三回だ。娘をかばうために二八カ所斬られ、出血多量でじわじわ死んでいった母親と、連れ回された挙げ句、包丁でメッタ刺しにされて死んだ君の彼女……」

 言いながら、血のように赤い液体の入った、新しい注射器を刺そうとする。

「まってくれ、じゃあ、二回だ。あと二回だろう?」

 猿ぐつわが邪魔で、うまく喋ることができないが必死だった。あんなのを何度も体験したら、どうなってしまうか、想像もつかない。それに、沙耶のオフクロや沙耶を、俺はもっともっと残酷に殺した。

 憑依したら、ひどいことになるに決まっている。

 カエル医師が、困ったような顔をする。

「君、ちゃんと裁判受けたよね。忘れたのかい。君が殺したのは四人だよ。父親、母親、娘、そしてお腹にいた、君の子供」

 子供……そうだ。沙耶にはガキがいた。

 俺の暴力で一度流産しかかって、家に避難していたのだと、死ぬ前に沙耶が言っていた。別れたいと思っているのではない。俺と子供と、幸せに暮らせる明日を夢見ているのだと。俺を愛していたのだと、何度も包丁で突いた俺に、そんな言葉を残して死んでいった。

――アイシテイル。

 裁判では言わなかったが、最期に彼女は確かにそう言った。

 なぜ、暴力をふるった俺に、父や母を殺した俺に、自分を殺そうとしている俺に、そんなことを言ったのか。けっしてその言葉は、その場逃れのためではなかった。

 きっと、あの言葉の意味を、理解してはならないのだ。好きだと言ったくせに、心変わりして俺から逃げた女とその両親に、俺は罰を与えただけだ。俺の行いは、少なくとも、俺のなかでは正当なのだ。

 そうでなければ、あまりに救いがないではないか。

 沙耶の涙を思いだす。止めどなく流れる涙。

 あの時の沙耶に、俺は同化させられるというのか。そして、俺のことを愛していると言った気持ちを理解させられるのか。

 そして、お腹の赤ん坊の気持ちにもなれというのか。

「沙耶がきちんと話をしてくれたなら、俺はあんなことをしなかった」

 俺は、涙を流した。この涙は、なんの涙なのか。

「きちんと話をねえ……犯行の前になると、君は沙耶さんの話に聞く耳を持たなかったと、沙耶さんの友人が証言していたようだけどねえ」

 どうして、こんなことになってしまったのか。

「裁判記録では、沙耶さんは子供を産んだあと、君とよりを戻そうと思っていたらしいね。信じられないよ。暴力をふるう夫のもとに戻ろうとするなんて。ビョーキだよ。共依存の状態にあったと言えるねえ」

「違う、沙耶は病気じゃない」

「病気さ」

 カエル医師が、なおいっそう微笑んだ。

「だって、結果的に自分を殺す相手に近づこうってんだから」

 言い返したかった。だが、沙耶を殺した俺には、返す言葉が見つからない。

「じゃあ、二回目をやろうよ」

「まってくれ、たのむ、他の刑ならなんでも受ける。まってくれ」

「確かに怖がる気持ちはわかるよ。特に赤ん坊は君の血をわけている。血縁者に憑依するとシンクロ率が高いからねえ、どうなるか僕にもわからない。この前なんて……」

 饒舌さをとがめるように、執行官がカエル医師の肩を叩いた。

 カエル医師は、咳払いをすると、注射器を構えなおす。

「どうなったんだ。この前なんて、どうなったんだ。教えてくれ」

「お静かに願います。これは厳正な刑の執行です。どのような状況になっても、粛々と執行させていただきます」

 子供っぽい笑いを浮かべたカエル医師が、執行官の後ろで、俺に見えるように掌を上に向け、握ったり開いたりするジェスチャーを繰りかえす。どういうことだ。爆発でもしたというのか。

 ありえないとは言い切れない。この刑では、どんなことも起こりそうな気がした。

「ともかく、産まれる前の赤ん坊に憑依するのは、初めての試みですので、子供に憑依する刑は四の四、最後に執行いたします」

 最後に、俺の子供に憑依して、自分に殺される。

 そんな刑罰があっていいのか。

 なにが人権擁護だ。なにが残酷な刑罰の廃止だ。

 これでは、死刑の方が数百倍マシではないか。

「待ってくれ、後生だ、殺してくれ」

 俺の叫びを無視するように、青白い顔の執行官がゆっくりとうなずく。

「四の二を執行してください」

 冷たい声。

「なんで、こんなことになっちまったんだ!」

 その問いに、誰も答えようとはしない。

「それじゃ、次はお母さんのぶんだ」

「やめてくれ!」 

「さっきも言ったが……今日は娘の誕生日で、残業するわけにはいかないんだよ」

 カエル医師は、呆れたような顔で、身動きできない俺の腕に注射器を刺した。血のようにどろどろしたなま暖かい液体が、血管に流れこんでくる。

 漆黒の闇が、身体に入ってくる感触。

 気が遠くなる。

 低い機械音が、絶え間なく聞こえ続ける。

 どこかに向かって吸いこまれていく。

 急速に力が失われ、心が引き抜かれていくのを感じている。


 いったい、いつから降り続いているのだろう。

 果てるともない冷たい雨に、身体が濡れそぼっていた。

どうして、なぜこんなことになってしまったのか。

 俺は、あらん限りの声で、もう一度問いかけた。

 その問いに答えるかのように、女がスローモーションで口を開いた。

――アイシテイル。

 形のいい唇が、信じられない言葉を紡ぎだす。


 鼻水とよだれをたれ流しながら、やがて俺は意識を失った。

 もう一度死ぬために。

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