half moon

 怠い。

 目が覚めてから怠さに気付いたというよりも、怠くて目が覚めた。


 薄っすらと目を開けてみる。自分の住むアパートの部屋なのは確かだと思うが、薄暗いのと視界がぼやけているのとではっきりしない。

 視覚情報以外の部分から状況を把握しようとしてみる。室内はほんのりと暖房が効いているようだが、薄ら寒い。

 背から太ももにかけて、柔らかな布らしきものに接触している感覚。これは、そうだ。家のソファーに座っているんだ。やっぱりここは家なんだ……


 ふと頬にかゆみを感じ、掻こうといつの間にか背中側に回されていた手を顔に持っていこうとした。

「?」

 持っていけなかった。両手とも指や手首は動くが、腰のあたりで固定されているかのようにそれ以上動かすことができない。顔を後ろに向けてみる。の両手が、手首のあたりを重ね合わせるようにして、ビニール紐らしきものでぐるぐる巻に縛られている。

 白魚に似た、細く、手のひらの割合に対して長いけれど、小さな十指。

 見覚えのない、の両手。


 どうしてこんなところに、知らない人の手があるんだろう。

 そういえば、この知らない手が接触している腰や背中も、見覚えがない。ふっくらと丸みを帯びていつつも、華奢でもあるボディライン。

 顔を正位置に戻し、自分の腹部に視線を下ろしてみた。鍛え上げた自分の腹部が見えるはずだった。

 代わりにそこにあったのは、薄っすらとあばら骨が透けて見えるほどの細身と、胸部にある、掌に収まりきるほどの小さな二つの膨らみ……




「やっと起きた?」

 頭上から、聞き慣れすぎた声。

 瞬間湯沸かし器のように、唐突に意識にかかっていた靄が霧散した。


「サヤ! てめ……」

 意識を手放す寸前に発しようとしたのと同じセリフを発しようとして、しかしひかるは口をつぐんだ。


 ……今のは、?


「びっくりした?」

 ソファーに座らされた光を無表情に見下ろしながら、問いかける沙夜乃さやの

「ふざけ……」

 怒鳴ろうとして、けれどやはり続かない。

 声がおかしい。妙に高くてキンキンする。


「声、違和感あるの? でもそれ、正真正銘あんたの声だよ」

「黙れっ!」

 「あんた」呼ばわりされたことに腹が立ち、思わず発声したのに、やはり声は戻らなかった。喋っているのは自分のはずなのに、そうではないような不気味な感覚。

 一体どうしたんだ。風邪でもこんな風にはならないはずだ。こんな声、まるで子どもか、そうでなけりゃ、女の……

 ……女、だと?


「そんな光君にサプライズがありまーす」

 沙夜乃は表情一つ変えず、棒読みのような口調で、自身の背後から姿見を取り出した。

「これが今の光君でーす」という言葉とともに。

 言われるがまま、思わず鏡を見やった。




 一人の、全裸の人物が映し出されている。

 骨に僅かな肉と皮膚とを載せただけのような、かなりの痩せ型。小さくとも、確かに盛り上がり、ピンク色の先端を主張している胸。

 床に投げ出された両脚もまた、少し力をかけたら折れてしまいそうな細さ。

 驚きに大きく見開かれた、くりっとした大きな瞳。ぽっかりと間抜けに開かれた、紅色がかった唇。ほんのりと桃色に染まった頬。思わず触ってみたくなる、背中の中ほどまで届くさらさらとした髪。

 もう一度視線を下方に下ろしてみる。行儀悪く開かれた足と足の間にあるあれは、自分には決してあるはずのない、溝のようなあの……




「……何の真似だ」

 「これは夢だ」必死に自分にそう言い聞かせつつ、平静を装って極力低くしたつもりの声はひどく震えていて。別の意味で自分の声ではないみたいだった。

「言っとくけど、夢じゃないよ」

 まるで自分の内心を見透かしたような冷たい言い方に、どきりとした。

「現実だよ。これが。光君。――いや。光

 

 ほぼ反射的に沙夜乃目掛けて右足を蹴り上げた。力が入らず、狙いが大きく逸れた。

 無様に床に落ちた足にちらりと目をやり、沙夜乃はずいと光に近寄った。

「ダメだよ、光ちゃん。君はもう女の子なんだ。男の頃と同じようにはいかないよ。……おっぱいちっちゃいね。かわいい」

 先日爪を切ったばかりの手が、光の胸元へと伸びる。


「ぎっ!?」

 反射的に体が飛び上がるほどの刺激。自分にあるはずのない、何か柔らかいものを鷲掴みされ、揉まれる感覚。沙夜乃の掌に、自分にあるはずのない、胸の先端の突起が当たる感覚……

 今更ながら、自分が一糸まとわぬ状態なこと、自分の体が変わったことを自覚した。




「ざっけん…… てめえ、マジ何しやがったんだよ!」

 一通り揉みしだいて満足したのか、やがて手を離した沙夜乃に、息を整えてから怒鳴った。

 沙夜乃はその時だけ、ふっと鼻で笑った。

「呪いなんだって」

「あ?」

「嫌いな奴を誰にもバレずに『殺せる』……呪いなんだってさ」

 「殺せる」。その言葉に、出そうとした声が喉の中途で停止した。

 殺す? こいつ、殺す気なのか、この僕を? 女の分際で。それも非現実的な方法で。呪いなど、あるはずがない。そんなものは愚人共の娯楽の中にしか存在しない。

 けれど今現在の自分の状況、それに…… 怒りとは異なるなにかの感情が、腹の底から湧いてくる。

 それが何なのかを理解する前に、光の思考は強制的に中断された。


 沙夜乃が、服を脱ぎだしたのだ。

 まるで周りに誰もいないかのように、大雑把に、ぽんぽんと衣類を脱ぎ捨てていく。

「おい、ちょっと……」

 光の制止が耳に入らない様子で、とうとう全裸になった。豊満な体型。つやつやとした肌はしかし、胴体・肩から肘・足の付根から膝が多数のアザや噛み跡で覆われていた。

 脱いだ物をたたみもせず、無表情無言のまま、光にずい、と接近し、ソファに座る光を仰向けにした。そして、ためらいもなく覆い被さる。

「重っ……⁉︎」

 軽々と抱き上げ、投げ落とせるほどだったはずの沙夜乃が、重い。それに、なんだか大きい。

 手を後ろ手に回されているからだけではない。足にも体幹にも、思うように力が入らない。そうか、こいつがデカくなってるんじゃない、僕が縮んでるん……


「!?」

 またも遮られる思考。知らない感覚。

 男の象徴がなくなって、代わりにいつの間にかできていた「あれ」が、温かい何かに強引に擦り付けられている。初めのうちは、様子を伺うように。けれど…… 徐々に、徐々に、乱暴に、力任せに。


 沙夜乃が、自身の「あれ」を、今できたばかりの自分自身の「あれ」に擦りつけている。気付いたと同時、尿とはまた異なるねっとりとした液体が自身と沙夜乃を濡らしていくのを感知した。

 あの変な声でいいから、やめろ、と叫びたかった。けれどあっ、ううっ、というような消えかけの情けない声以外、何もこの世に生み出すことはできなかった。

 

 性行為の際に幾度となく経験した、沙夜乃の胸が自分の胸板に当たる感覚ですら、今は異質に感じる。沙夜乃の巨乳の5分の1程度のサイズしかない小さな膨らみが、他でもない自分の胸にあるそれが、沙夜乃の双丘の弾力を健気に押し返しているからだという結論に、思考がうまく働かない頭で考えてやっとのことで至った瞬間は、もう悔しくて……

 下半身を支点に、自分の外も中も全てが沙夜乃と一緒に溶け合って、もう何もかも訳が分からなくなりそうだった。

 



 どれくらい時間が経った頃だろうか。

 夢うつつから我に返った時、腹の上に覆い被さっていた恋人はいなくなっていた。いつの間にかソファから下り、横たわるこちらの顔をじっ、と音がしそうなほどの目力で覗き込んでいた。

「……う…… て、てめえっ、レズだったのかよ! そんな趣味だったのかよ!」

 何かがへばりついているような喉を酷使し、やはり到底自分のものとは思えない甲高い声を張り上げる。

「……あんたのそういうところ、ほんっと嫌い」

 それに対して返ってきたのは、かつて光に怯えていたのと同一人物とは考えられないほど強く、堂々たる否定の言葉だった。


「僕っ、だってな、そんな、てめえみたいな精神異常者はゴメンだよ!」

 聞き慣れない声は、けれどようやっと自分の嫌悪を表現してくれた。

「キメエ、キメエんだよ! 子供産めもしねえのに女同士でグチャグチャしやがって! なんで生きてんだテメエら! 社会のゴミが! 消えろ、死ねよ!」

「へえ、じゃあ自分が女の子なの認めるんだね」

「僕は男だ!」

 先程よりかは思い通りになった足を、面前の性的倒錯者目掛けて蹴り上げた。素早く避けられたために狙いは外れたが、顎を掠めることはできた。


 眉をわずかに歪め、顎を両手で抑えてうずくまった相手に少し溜飲を下げつつ、血走った目で見下ろし、できる限り高圧的な口調で命令した。

「何したって無駄なんだよ。ほら、早く僕を元に戻せ。さっさとしないともっと酷いことになるぞ」

「………………」

「おい」

「………………」

「おい!」

「知らないよ」

「は?」

「元に戻す方法なんて知らない」

 沙夜乃はやっと顔を上げた。顎には僅かに赤みが出ており、けれど痛みは引いたらしい、凛とした面構え。


「……てめえ……」

「そもそも、あんたにはさっきので『死んでもらう』予定だったんだけどね。まさかまだ自我があるとは。神経図太いもんね、あんた」

「『あんた』っていうのやめろ! いや、違う……」

 首をぶんぶん振り、今、それと先程自分がした聞き間違い――そう、聞き間違いに違いないことを確認するために問い質す。


「お前、『殺す』って言ったか……?」

「ああ、言ったね」

 あっさりと認めた。聞き間違いではなかった。

 まるで「太陽は東から昇る」と言うかのように、この世の摂理であるかのように。

 普段の自分なら怒りを爆発させるでは済まず、むしろ沙夜乃を半殺しくらいにはするだろう。けれど、そのあまりにも昂然とした態度に物怖じし……


「あのね、さっき呪いって言ったけど、ただ単にあんたの体を女の子に変えるためだけのものじゃないんだよ。

 体を触ったり、性行為に及ぶことで『自分はもう男じゃない、女の子なんだ』って強く自覚させる。そうするとね、『男』としてのあんたの人格は崩壊し、消えてなくなる。その代わりに、『女』としての人格があんたの中に生まれるんだって。

 つまり、あんたを『殺して』、新しくあんたじゃないあんたを生み出すために必要なことをしているんだよ、今」


 ――この女は、何を言っているんだ。


「『光』って名前の女の人も結構いるんだし、大丈夫だろうなって。まあそのへんはうまいこと自動的に現実改変してくれるらしいから心配はいらないし。

 そんなわけで、やってみたんだけどねー、貝合わせ。だいぶ効いてたみたいだし、これで『死ぬ』かなーと思ったんだけど、ダメだったねー」


 ――頭がおかしいんだ。違いない。じゃなきゃこんな支離滅裂なことを表情一つ変えず淡々と話すはずがない。


「ま、いいや。こんなこともあろうかと…… じゃーん」

 傍らにあった自らのバッグをごそごそと漁り、沙夜乃が取り出したのは、ベージュ色の、棒状の何か。それと、掌に収まるくらいの、薄い板状の何か。

「これ、何だと思う?」

 ずいと突き出されたベージュ色の物をまじまじと見つめてみた。

 先端の尖った部分だけが濃い桃色がかっている。肉厚で、表面に走るシワや血管のようなものまでが施されたそれは、つい先程まで自分の下半身にあったものにそっくりで……


「これね、大学の研究室にこっそり隠しておいて、休み時間なんかにトイレで使ってたの」

 棒状の物が何であるか、また自分がこれから何をされるかを悟り、目を見開いたのに気付いたらしく、沙夜乃が不要な説明をしてくる。

「お前っ、大学を何するところだと思ってんだよ!」

 変なモン見せやがって、目が汚れた…… そう続けようとしたが。


「しょうがないでしょ、あんたが気持ち良くさせてくれなかったんだから。一度も」

「えっ…………」


 ――気持ち良くなかった、だと?


「⁉︎ いっ、⁉︎ あっ、あ、ああっ⁉︎」

 驚く暇もほぼ与えられず、次の驚きが襲いかかってきた。

 まだぬらぬらと湿っている下半身の「あれ」に、温度のない棒が強引に押し当てられる。閉じた「あれ」を、無理矢理に開かされそうになる。


 ダメだ。それはダメだ。具体的な理由は言えない。けれどそれだけはダメだ、本当に……

 暴れたい。叫びたい。とにかく抵抗したい。

 けれどどうしたんだろう。少しは思い通りに動くようになっていた体が、身じろぎ一つできない。

 このままではダメなのは分かっているのに。嫌ならば拒絶すればいいだけの話なのに。迫ってくる棒に、沙夜乃の冷たい表情に、反抗することができない。


 性暴力の被害を受けたという者の話を、いつも鼻で笑って聞いていた。そんなに嫌なら抵抗すれば良かっただろうに。何もしなかったってことは同意してたんだろ。何を今更騒いでんだ。と。


 自分は同意なんかしていない。するはずがない。どうして、どうして……


「ぐっ……!?」

 永遠にも近い時間がかかった気がしたけれど、もしかしたら数秒もなかったのかもしれない。ともかく、「入られた」。男なのだから、入れるはずのない場所。なのに、「入られた」。開いたと思ったら、するり、と。遅れてやってくる、裂けるような激痛、重み、圧迫感。屈辱。


 それだけでは終わらなかった。

 下腹部に侵入してきた棒が、ブルンッと一つ大きく揺れた。一回で終わらず、そのまま振動を続けた。

 光の体を労る意思など微塵も見せず、リモコンで操作されるままに、まるで光を内部から破壊しようとするかのように。


「!? ~~~………………!!!!!」

 自分自身の喉から吐き出される声は、最早何を叫んでいるのか分からなかった。

 入ってはいけない場所に入ってはいけないものが入り、大切な領域を撹乱していく。

 不快どころでも痛みどころでもない。沙夜乃にのしかかられた時からずっと心の奥底にある感情――恐怖が、今頃になってやっと形を持って現れた。


 ――怖い、だと? 僕が? 女ごときを怖がってる?

 そんなはずはない。僕は男なんだ。女よりも強いんだ。どうしてこんなことを怖がる必要がある……


 ぼやけていく視界で、やっと見上げた先には、相変わらず表情のない、傷と痣だらけの沙夜乃がリモコンだけを片手に全裸で棒立ちし、こちらを見下ろしている。

 左胸の乳輪を囲むように、二週間ほど前に光に噛まれた歯型が丸く残っているのが妙に印象に残った。


 ――怖くなんかない、怖くなんかない、怖くなんかない。

 そもそも、どうして僕がこんな目に合わなきゃいけない。僕はちゃんとこいつの面倒を見てやったじゃないか。

 セックスだってしてやったじゃないか。気持ちよかっただろう? 僕は全然気持ちよくなかったのに。


 ……え?




 その時初めて自覚したのだが、光は沙夜乃との性行為中に快楽を感じたことがなかった。

 光にとっては、ただ沙夜乃を屈服させるためだけの行為であって、優越感以外の喜びなどは求めていなかった。愛情を介在させる必要もなかった。けれどそれにしても、そういえば沙夜乃としている時に性的な感情になったことはなかった。

 そもそも、沙夜乃と付き合おうと思ったのも見た目が良くて、連れていて恥ずかしくなく、押さえつけても抵抗してこなさそうな女として都合が良かったからだった。そこからして、愛情は存在していなかった。


 それに問題があるとは思わなかった。女は男よりもバカだから、支配してもらうことが幸せなんだ。女は男よりも弱いから、男に付き従ってるのが幸せなんだ。「女性の社会進出」? 子供を生んだり生理があったり、そもそも男に劣る女には無理に決まっている。だから、守ってあげるんだ。

 性的な快楽だって、女の方が強いんだろ? こっちは気持ち良くないけど、そっちは気持ちいいんだろ? なら感謝しろ。


 そう思っていたのに、気持ち良くなかった、だと……?




「ひ、ひっ!」

 棒が、更に奥の方に押し込まれ、絞り出すような声が出た。これ以上奥はないと思っていたのに、がくがく揺れながら、更に奥の方へと、押し入られる。

 動けない、怖い、嫌だ、助けて。

 いつの間にか、沙夜乃がリモコンを片手にしたまま、もう一方の手で棒を光の中に押し込んでいた。


「あのね」

 性器を擦り合わせたときのように、覆い被さってくる沙夜乃。

「あんた、知らなかったみたいだけどね」

 左胸の噛み傷が大きく視界に入ったと思ったら、続いて沙夜乃の顔が視界いっぱいに映った。

「私だって…… 私だって人間なんだよっ!」

 見たこともない憤怒の表情とともに、最奥を突かれた。

 ぶちん、というような音と同時に、真っ暗になった。



 

 絶対に親になってはならなかったのに、なってしまった存在というのは確かにいる。克明かつあきは正にそれだった。

 一体何時代で頭が止まっていたのか知らないが、「男尊女卑」を擬人化させたような人物だった。

 家の外ではニコニコとした明るい人物だったが、家では常に妻を支配したがり、少しでも妻に自分より優れた部分があると判断すると怒り狂い、殴る蹴る、暴言を吐くなどした。

 いや、妻が自分の命令通りに動いている場合でも、自分自身の機嫌が悪ければ、非人道的な扱いをした。「パパは働いて疲れて帰ってきてんだよ! 」が口癖だった。

 自分に問題があるのだと誤解させられた妻はどんどん落ち込み、表情もなくなっていった。


 そんな女性と、男の子だという理由で子供の頃から自分を猫っ可愛がりしてくれた克明との間に育てられた光は、克明の方に尊敬の念を抱いた。そして、何かといえばすぐに克明に「注意」を受けるのに全く自身の欠点を直すことができず、それでも見捨てずに家に置いてもらっているのに笑顔の一つも見せられない女性を克明と一緒になって軽蔑した。無理もないことだった。


 高校一年生の時に、克明のいない時に不意にその女に話しかけられたことがあった。ボロボロのそいつは光の両肩に手を置き、真剣に、目を見て、切羽詰まったように。

「ねえ、もう逃げよう。逃げようよ、パパから。お願い、一緒に…… このままじゃ……」

 光はあっさりと両肩の手を振り払った。

「お前さ、苦労して稼いでくれてる父さんに感謝の一言もないと思ったらそれ? 父さんのおかげでご飯が食べられるのにそれ? 恩を仇で返すんだ」

 もう顔も見たくなくて、踵を返した。

「あーあー、父さんもどうしてこんなゴミ女選んじゃったかなー」

 聞こえよがしに言ってやった。相手がどんな顔をしているかは、見えなかった。


 その日以来、女は家事もせずに布団にこもることが多くなった。それでも克明と光とで無理矢理に叩き起こして家事だけは強引にやらせた。失敗をすることが増えたため、その分の罰を与えることも忘れなかった。女は何をするときも、終始紙のような真っ白な顔色、能面のような表情になった。それまでもどこか人らしい温かみを感じにくい女だったが、何かが切れたように、まるですべての生気を失ったようになった。

 克明が女に「しつけ」をする回数は格段に増えた。それが当然の行いだと、光も思った。光が進学のために家を出た後も、そんな状況が続いているようだった。




 真っ暗だ。

 何も見えないし何も聞こえない。肌も何にも触れないし、そもそも体を動かせているかどうかも分からない。地面に寝かされているのか、はたまた無重力のように空中に浮いているのか。それすら見当がつかない。匂いもない。ただひたすらの、闇。

 自宅ではないし、沙夜乃もいない。先程までの喧騒が嘘のようだった。

 

 光はぼんやりと考える。


 サヤを支配してやるのが、自分とサヤにとっての幸せだと信じて疑わなかった。サヤを自分と対等に扱うべきではないと。

 けれど、サヤは幸せではなかったらしい。

 間違っていたんだ。


 ――間違っていた?

 嘘だろう、これだけやってあげてきたのに、正しくなかったなんて嘘だろう?

 じゃあ、僕の二十数年間は何だったんだよ。僕のこれまでは一体何だったんだよ。

 僕が尊敬してやまなかった父さんは…… 一体、何だったんだ。


 思考がまとまらない。自分の全てを、身体も信条も否定された。間違っていたと。


 ――ならどうすれば良かった? どうすれば、正しく幸せになれた? どうすれ


 具体的な形を持てぬまま、思考は突如として途切れた。

 それが、「光」の最期だった。




 沙夜乃は戸惑った。

 力任せに押し込んだ途端一際大きな悲鳴を上げたと思ったら、それきり光が動かなくなった。

 ほんの数時間前までは自分よりも大きな異性だった、けれど今は自分よりも小さな同性になった光。


 自分の下敷きになっている、小さく膨らんだ胸に手を当ててみる。心臓は動いている。

 顔の前に手をかざしてみる。弱々しいが風を感じる。呼吸もしている。

 けれど、目を固く閉じたまま微動だにしない。


 急に不安になった。

「……光?」

 名前を呼ぶも、返事はない。


 「殺す」って、まさか、本当に……

「光」

 もう少し大きな声で呼んでみた。




 ……すると。

「んー?」

 岩のように思えた瞼が、ゆっくりと開かれていく。

 とろりと眠そうに蕩けた瞳。寝起きのためか少し潤んだそれらが、少し眩しそうに沙夜乃を見上げる。その様子に、カーテンの隙間から日光が部屋に差し込んでいることに初めて気が付いた。


「どうしたのーサヤ?」

 微笑みの形をした可憐な唇から、間延びした穏やかな口調で、そう尋ねてくる…… 光。

 その様子に、全てが「終わった」のだと確信した。


「うん…… どうしたんだろうね」

 沙夜乃は微笑んで、光を抱きしめた。


 これでいい。

 「光」は、死んだ。

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