微笑みを数える日 ~一人のバカが死ぬだけの話~

PURIN

new moon

 沙夜乃さやのは微笑んだ。


 カナリア色のベビーカーの中、きゃっきゃとはしゃいで紅葉のような両手のひらを、自身に伸ばしてくる赤子。

「可愛いですね」

 行きずりの見知らぬ幼子と、そのベビーカーを押す両親らしき男女にそう声をかけずにはいられなかった。

「ありがとうございます」

 照れたように笑う男女に、沙夜乃は顔に広がる笑みをさらに大きくする。

 と。


「サヤ」

 

 背後から声をかけられ、一瞬飛び上がるほど驚いた沙夜乃。が、即座に声の主が誰かに思い当たる。

 笑顔を苦笑に変えて振り向いた先には、予想通り、恋人であるひかるの穏やかな笑顔があった。

「バイト終わったの? お疲れ様」

 光を見上げ、その腕を取る沙夜乃。

「うん。一緒に帰ろうか」

 愛おしそうに、そっと沙夜乃の頬を撫でる光。

「うん」

 沙夜乃は親子に会釈し、光もそれにならう。二人は腕を絡ませ合いながら、その場を去った。


「今日どうだったの?」

「いつも通りだよ。何事もなく平和に終わった。サヤは?」

「こっちもそんな感じ」

「そっか。それが一番だよね」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。


 

 二人と同じ大学に通う後輩達が、そんな様を目にし、口々に囁きあう。

「見て! 沙夜乃さんと光さん!」

「美男美女カップルだよねー。本当、雲の上の存在だわ」

「あーあ、光さんみたいな人どっかにいないのかなーマジで。いてもあたしじゃ無理だろうけど……」

 二人は、誰もが憧れるカップルだった。




 数分歩き、同棲しているアパートに到着した。沙夜乃がバッグから取り出した鍵を鍵穴に差し込む。


 かちゃり


 小さな音とともに鍵が回される。玄関扉が開かれる。沙夜乃が先に、光が後に続いて中に入る。光がドアを後ろ手に閉める。靴を脱ごうとする沙夜乃の後ろ姿を見つめながら、やはり後ろ手に玄関の鍵を閉めた。


 かちゃり


 小さな音が消えたと同時、光は鍵を閉めたのと別の手で、沙夜乃のポニーテールを頭皮から引き剥がさんばかりの勢いで引っ張った。


「てめえ、何度言ったら分かんだ。脳がザルでできてんじゃねえのか」

 決して大学やアルバイト先では出すことのない、小さいけれど思わず身をすくませそうになる凄みのある低い声と、氷のような無表情。ガラス玉のような両の目。

「死ぬほど言ったよな? こっちはいつも大学とバイトで疲れて帰ってきてんだって。

なのになんでてめえはヘラヘラ笑ってやがんだ? 何てめえだけ楽しそうにしてやがんだ? ああ!?」

 まるで、世界中で疲れているのは自分だけなんだと、世界中で可哀想なのは自分だけなんだと言わんばかりの主張。沙夜乃が自分よりも少しでも幸せそうにすることは大罪なのだと言わんばかりの表情。


「……」

 振り返りもせず、無視を決め込む沙夜乃。

「てめえ、オツムも耳も死んでんのか!」


 光は靴を履いたままの右足で、サッカーボールか何かのように沙夜乃の背中を勢いよく蹴りつけた。サッカーボールをよりもずっと硬く、重い音とともに、沙夜乃は床に倒れ伏した。




 最初のうちはそんなことはなかったと思う。いや、もしかしたら恋人ができたことに浮かれていて気付かなかっただけで、当初からおかしかったのだろうか。

 とにかく、沙夜乃は自分が光にされている行為は紛れもない悪なのだと自覚できるまでに、少し時間を要した。


 たとえば、沙夜乃の意見を抜きに沙夜乃のことを決めたがった。「女がスポーツなどはしたない」と所属していたスポーツのサークルを辞めさせたり、「女なんだからきれいにしとけ」と沙夜乃のズボンやスニーカーなどを勝手に捨て、自分好みのワンピースやハイヒールを買ってきたり。「女子力を上げろ」と疲れて帰ってきた沙夜乃に家事をすべて押し付けたり。「彼女なんだから、いつされても文句を言う権利はない」と、気分が乗らない、生理中などという沙夜乃の都合を無視して行為に及んだり。

 とにかく、二言目には「お前は女なんだから」「僕は男なんだから」だった。


 沙夜乃が少しでも思い通りにならないかったり、意見したりすると、「僕はこんなに頑張っているのに、お前はどうして言うことを聞くこともできないんだ」と怒鳴り、つねり、殴り、蹴り、噛んだ。それもご丁寧に、顔などの目立つ部分には決して痣や傷が残らないように、胴体・肩から肘・足の付根から膝のみを攻撃対象として。

 毎日筋トレをしている細マッチョ体型で身長179cmの光と、しばらくスポーツから遠ざかっている158cmの沙夜乃とでは、力の差は歴然だった。


 そんな光だったが、一歩外に出ると途端に人間に擬態した。

 いつも明るい笑顔で、誰にでも分け隔てなく優しかった。見た目も性格も成績も、全てが完璧。誰からも愛され、信頼される。そんな人の恋人になれたあなたが本当に羨ましい。さぞ幸せだろうね。

 そんな風に言われることが日常茶飯事だった。


 だから、自分は幸せなのだと思っていた。

 光ほど容姿も頭も良くないし、人に優しくもできない。こんな自分と付き合ってくれるなんて本当にありがたいことだ。暴言や暴力や束縛も、私のためを思ってしてくれてることなんだ。いつも疲れているのに、こんなにも気にかけてくれてるなんて最高の彼氏だ。

 感謝しなきゃ感謝しなきゃ感謝しなきゃ……

 幸せなのだと思いこもうとしていた。

 

 けれどある日、大学の所属学部で必修の講義を受講した際に、ドメスティック・バイオレンス――DVについて学んだ。

 DVという言葉自体は聞いたことがあったが、これまで特に深い関心を持ったことはなかった。どこか自分の知らないところで、配偶者や恋人から暴力を受けている可哀想な人の話だと…… そう思っていた。


 が、学べば学ぶほど「あれ?」と思った。ありとあらゆる点で、光と自分の関係性に似ていた。自由を奪うことも、暴力を振るうことも、人格を否定する発言をされることも、性行為を強要されることも。被害者に否があると誤解させることも。


 私がされているのはDVなのか。ショックを受けた一方、すとんと腑に落ちた。代わりに…… 自分でも驚愕するほどの怒りが、マグマのように噴出した。


 私だって、本当はサークルを続けていたかったし、お気に入りの私物を捨てられたくはなかったし、家事を一緒にやってほしかったし、セックスしたくない時はしないでほしかった。

 光と幸せに過ごしたかった。

 けれど、そんな当たり前の願いすら…… 踏みにじられたんだ。


 支配欲をどんどんエスカレートさせ、ついには沙夜乃が微笑むことすら許さず、一日に沙夜乃が微笑んだ回数を数え、その数だけ蹴りつけるというルールを作り出した敵に、沙夜乃が物騒な感情を抱くのは当然の帰結だった。




 このところ、沙夜乃は様子がおかしい。光は気付き始めていた。

 これまではちょっと言葉や態度で脅したり、殴ったりするだけでびくっとし、怯えたような表情になって何でも言うことを聞いていたのに、いつの頃からか少しずつ変わり始めた。

 がなっても暴力を振るっても、ただ無言でじっと睨んでくるようになった。

 その度により強い言葉や力で従わせようとしてきた。が、以前のようにうまくはいかなくなってきた。今だって新しいルールに則って背中を思いっきり蹴りつけたが、無言のまま立ち上がり、じっとこちらを睨めつけている。

 チクショウ。女なんかに負けるわけにはいかないのに。常に優位性を示しておかなければならないのに。こいつ、いつからこんなに生意気になったんだ。


 そういえば、ここ一週間ほど体調が優れない。常に全身が重く、気怠く。下腹部には時折鈍い痛みが走る。けれどそれを訴えることは、自身が体調管理もできない愚かな人間だと曝け出すのと同義なので、人前ではひた隠しにしている。

 なんとなく、この体調も沙夜乃のせいな気がしていた。根拠など微塵もないのに、悪いことはみんな沙夜乃から来るような気がしていた。


「ふざけんなよ、てめえ…… 僕が彼氏でいてやってるのに!」

 足を振り上げ、沙夜乃の腹めがけて力いっぱい振り下ろそうとした。




 ぐらり


 大きく視界が歪んだ。

 ――何だ、立ちくらみ――?


 そう思う間にも、ピントのずれた視野は元に戻らず、ハンモックに乗っているかのように、ゆうらり、ゆうらり。擬態語が聞こえそうなほど揺らいで、定まらず。

 沙夜乃の、壁の、靴の、天井の、床の、周辺の色が、とろぉりと溶けて、引き伸ばされて、多種の絵の具を無秩序にまぜこぜにしたように、ぐちゃぐちゃになる。


 これはいよいよ深刻な病気かもしれない。駄目だ。こんなところで倒れたりしては。女の前で弱いところを見せるなんて男じゃない……


 揺れる思考の中、膝をつかないよう、全身の力を振り絞り、立ち続けていようとした。

 が、そんな努力も虚しく、意地を張れば張るほど足先から力が抜けていく。やっとこさ壁へと伸ばした手も、やがては指先で壁に触れることすら辛くなり、重力の赴くままにだらりと下ろしてしまった。それとほぼ同時に、全身が何かに強く叩きつけられる感覚がした。


 しまった。倒れた。起き上がらなければ。今すぐに。僕は病気なんかじゃない。僕は弱くなんてない。サヤに弱みなんて見せない。僕は、男なんだから……


 けれどどんなに自身を鼓舞しても、もう指一本動かすことは叶わなかった。まるで、誰か別人の体になってしまったかのように。


 嘘だろ。おい。ふざけるな。動け。頼む、動いてくれ……


 往生際悪く念じ続ける光に、次の変化が訪れた。


 脳天と足の裏に目に見えない手のひらを当てられ、凄まじい力で押し縮められるような感覚。

 いたる所の筋肉が、徐々にほぐされるように柔らかくなっていく感覚。

 身につけている衣服が、だぶついてくる感覚。

 うなじに無数の、細く、細やかなさらさらとした物体が伸びてくる感覚。

 両胸を掴まれ、僅かに引き伸ばされる感覚。

 足と足の間にあったものが、体内へと引きずり込まれていく感覚。


 いずれも、これまでの人生で味わったことのない、想像したことすらない感覚。


 何だ。何。なんで。どうして。


 一斉に訪れ、一切遠慮することなく自身を蹂躙していく何か達。痛みであれば「痛み」と認識し、相応しい感想を持つこともできたであろうが、あまりに意味不明な感覚ゆえに何と思えばいいのかさえ見当がつかず、ただただ困惑することしかできない。


 やめろ。ふざけるな。今すぐに。なんで、こんな、こんな…… 嫌だ。


「サヤ、お前、何、しやがった……」

 そう言おうとしたが、開くことすらできない口内でふにゃふにゃとした吐息になっただけだった。


 ……チクショウ。

 光の意識は、そこで途切れた。




「良ければ、そいつを殺す方法教えるよ」

 二週間前の夕方のことだった。

 ぽん、と いう小気味の良い着信音と共に画面に現れた文面に、沙夜乃はひやりとした。

 

 光は毎晩、沙夜乃のスマートフォンをチェックするのが日課だ。自身の女が低俗なアプリを入れていないか、くだらない人間とくだらない会話に興じず、電話やメールは必要最低限のものに留めているか、意味のない画像が保存されていないか、などを確認し、沙夜乃を「管理」してやるためだという。


 ハナから沙夜乃を、というよりも「女」という存在そのものを下に見ている光は、沙夜乃が自分に隠れて密かにとあるSNSに夢中になっていることを知らなかった。

 友人の勧めでそのSNSを知った沙夜乃は、こっそりとアプリをダウンロードし、アカウントを開設してみて、見事にハマった。

 有名人のみならず、様々な立場の人達の日常の何気ない一コマや、最新のニュース、自分では絶対に思いつかないようなアイデアなどを気軽に見ることができる。いっぺんに世界が広がった気がした。けれど、こんなことが光に知れたらきっと理不尽に怒られる。

 そこで沙夜乃は、毎日光のチェック前にアプリを削除し、チェック後にアプリを再インストールするようにしている。毎回ログインし直さなければならないのが手間だが、仕方がなかった。


 そんな中、どんなきっかけだったのか忘れたが、とあるアカウントの持ち主ととても親しくなった。そのSNSの「ダイレクトメール」という他の人物に見られずにメッセージのやり取りができる機能を使い、様々な話をした。何故か身近な人たちには話せない光の心身への暴力のことも、その人物になら相談することができた。

 それに対してその日送られてきた返信が、「殺す方法を教える」というものだったのだ。

 そんなこと…… と思ったのは、ほんの一瞬だけだった。


 殺す。殺す? そうか! そんなことができるのか! どうして今まで気づかなかったんだろう。一番効果的かつ手っ取り早いやり方じゃないか、殺すって! 殺す、殺す。ああ、いい響きだ! 殺す、そう殺すんだよ、光を! あのバカを! 殺す! あいつはいなくなる! もう殴られない、自由だ! 殺す!殺す! 殺す!


 ひどく魅力的な提案に心を踊らせていると、再びぽん、と軽快な音がした。

「『殺す方法』って書いちゃったけど、世間一般で言う『殺す』っていうのとはちょっと意味合いが違うんだよね。

 でもこの方法を使えば、そいつは二度とあなたの心身を今のように傷つけることはできなくなる。それに、あなたがやったとは絶対に誰にもばれない。罪に問われることも、決してない」

 沙夜乃は小首を傾げた。どういう意味だろう。殺すわけではないのか? それに露見することがないと断言できるとは。相当特殊な殺し方なのだろうか? 私にできるかな……


 ぽん、


「心配しなくていいよ。きっとあなたにならできる方法だから。

 でもね、この方法を選んだら、あなたはそいつに殺すよりも酷いことをすることになる。

 そいつから逃げる方法や、法的手段をとる方法もあるし、良ければそれを教える。

 けれどもしも、あなたがそれらではなく、『殺す』という選択肢を取るのだとしたら、それなりの代償を払わなければならない。その覚悟なく実行することがあってはならないよ。

 今この瞬間に決めないで。じっくり考えてね」


 殺すよりも酷いこと…… そんなこと、そうそうあるだろうか。それに、そうだ。あえて殺さなくても、光に制裁を加える方法や、光から逃れる道というのも存在するのだろう。

 興奮状態にあった頭が、徐々に冷えていくのを感じた。


 ……少し、考えさせてもらおう。

 その日は、そこでアプリを削除した。

 

 言われた通り、一週間じっくりと考えた。自分にとって最善なのは何なのかを。

 そうして辿り着いた結論を、あの人物にダイレクトメッセージで伝えた。


「私なりに考えました。そして決めました。

 教えてください。光を殺せる方法を」


 やはり、耐えられなかったから。

 

 自分の送信した文章が表示された画面をじっと見つめること数分。返事が来た。


 ぽん、


「本当にいいんだね? 後悔しないね」

 念を押された。唇を強く噛み締め、返信する。

「後悔しません。お願いします」


 ぽん、


 次にその音がするまでに、随分間があったように感じた。


 送られてきた、光を「殺す」方法が詳細に記されたメッセージ。それはあまりにも現実味がなく、到底自分自身に実行できるとは思えないものだった。

 けれど繰り返し読み続け、それの意味するところを理解していくうちに納得感が湧いてきた。

 なるほど。これならば確かに「今の」光を消すことができる。それに、確かに誰にも咎められることはない……


 大好きなTV番組が始まるのを今か今かと待っている時のような気分。沙夜乃は子どもの頃のそんな感情を想起しながら、少し震える手でメッセージを打った。

「ありがとうございます。これで辛い日々から解放されます。早速明日から行います。本当にありがとうございます」

 返事は、来なかった。


 


 目を固く閉じて床に伏す光を沙夜乃は呆然と、けれどどこか冷めた気分で眺めた。


 ――「これ」が、光 ?

 

 本当に、しかもここまで変わってしまうとは…… この一週間、教えられた通りの方法を、光が寝静まった後でこっそりと実行していた。

 普通に考えたら人間一人を抹殺できるとは到底思えない、子どもだましのオカルトじみたあの儀式。徐々にターゲットの体調を崩していき、およそ七日後にその身に大きな変化を起こすという、あの儀式。

 無我夢中で行っていたつもりだったが、今心の底から沸き上がってくる驚きに、当の自分が半信半疑であったことに気付かされ、軽く苦笑が漏れた。


 しかし、これで終わりではない。むしろここからが本番だ。この後のことがうまくいくかどうかに、全てはかかっている。

 

 ……本当にやれるのだろうか、私に。

 けれど、もうここまでしてしまったのだ。後には引けない。さあ、準備を始めなければ……


 軽く深呼吸をし、一度ゆっくりと目を閉じて自身を落ち着かせる。早鐘のように鳴っていた心臓が少し落ち着いたのを確認してから、沙夜乃は「光」の体にそっと手をかけた。


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