第19戦 101号室へ

 私とプラウダはアレクサンドルの後をついて行く形で部屋の外に出た。

 私の不吉な予感はたいてい全てが杞憂に終わっていたのだが、今私が抱いてる不吉な予感がなぜか当たりそうな気がする。困った時のレーニン頼みという造語を最近作ったが、同志レーニンもこちらの世界へやってきてくれないだろうか。……まぁいい、プラウダがいる。ちなみに、私の良い予感も当たった事は無い。

 私達は紺色のカーペットが敷かれた廊下を歩いている。これが断頭台への道のりに思えるのは私だけだろうか。

 時折、このレッドパージの職員とすれ違うが、彼ら彼女らは総じて驚いた様子でそそくさと通り過ぎていった。

「なんだか、感じ悪いですね」

 プラウダは私に耳打ちした。

「大した問題ではないだろう」

 私は言った。

 アレクサンドルは段々と歩調を速くしていった。十字路を曲がるときのカーブなど、少しでも時間をかけないために壁に張り付いていた。それは何かから逃げているように私には思えた。

 アレクサンドルの歩調は時間の経過に比例して速くなっていったので、私の疲れ切った老体には少し無理があり、声をかけることにした。

「すまないが、アレクサンドル、少し歩調を落としてくれないだろうか」

「あっ、悪い悪い。あの馬鹿が帰ってくる前に行きたくてな」

 私にはアレクサンドルの言葉の意味が分からなかったが、とりあえず歩く速さを落としてくれた。

「あの馬鹿……というのは一体誰なんだ?」

 アレクサンドルの言葉の背後が気になった私は聞いた。

「うーん、これは内緒だぞ。俺の上司かつレッドパージ実戦部隊隊長イヴァン・スヴォーロフさ」

 アレクサンドルは言った。それと共に、私達は多くの職員達が往来しているセンターホールらしき所に着いた。そこは、私の価値観から言えばとても未来的な場所であり、スターリン様式(ソ連の建築方式の一つ)を排除した資本主義的な空間だった。Oh, the humanity!

「しっかし、イヴァン隊長は本当に馬鹿なんだぜ。いや、馬鹿というよりも愚かかな。なんだって、あんなに偏屈なんだか……」

 アレクサンドルは頭をかきながらそう言った。すると、私達の背後から「ギルティ、ギルティ」と心臓に突き刺さる声が聞こえてきた。私は辺りの空気が一変したことを感じ取り、舌をかんだ。

 アレクサンドルは「あっ、やば」と言った。

「アレクサンドル、面白いことを言っているじゃないか……が、どうだっていい」

 私とプラウダは嫌々後ろに振り向いた。すると、その男―いや、例のイヴァンだろう―は私達の方向に鬼気迫ってくる。

「こんなところにコミュニスト(共産主義者)が一人、二人。さらに、片方は、全ての元凶の一人。こんな獲物を目の前にして矛を収めるのが我らレッドパージか? 否、貴様らは死ななければならない。共産主義は存在してはならない!」

 イヴァンはそう言うと、両手に拳銃を持ち、その巨人のような体躯で私達にとびかかってきた。瞬間、何が起きたか私には分からなかった。しかし、数秒後に何が起きたかは理解した。イヴァンは私の口内に拳銃の銃身をめり込ませ、足で私の胴体を押し倒した、プラウダはイヴァンに襟首をつかまれ、そのまま地面にたたきつけられ、後頭部に拳銃を突き付けられた。そう、は理解できたのだ。

 「あっ、が、が、が」

 口内を拳銃で塞がれた私は声にならない声を上げた。プラウダは地面とキスしており、何も喋れなそうだ。

 私達の横でアレクサンドルが腰の拳銃に手をかけたのが見えた。

「俺を撃てるのか、アレクサンドル?」

 イヴァンはぎろっとアレクサンドルを見て言った。すると、アレクサンドルは歯ぎしりしながら手を腰からそっと下ろした。

 いつ殺人が起こってもおかしくないこの状況に場内は騒然とし、ここから逃げ出す職員さえいる。

「俺の手でお前を今際の際へ追いやれるとは……いや、これは歴史の必然だ。お前の死に様はこれこそが相応しい」

 そうか、結局そうか。まぁいい、好きにすればいい。私は貴様を恐れない、貴様から逃げない。私は大人しく目を閉じ、現世と私の間に壁を作った。

 しかし、それは壊され、私は現実に引き戻される。

「やめないか、イヴァン」

 この老人の声によってだ。

「局長!」

 アレクサンドルが言った。心なしか辺りの雰囲気がほぐれたように感じる。

 局長……レッドパージの最高責任者だろうか。ふむ、イヴァンという荒くれものよりは比較的良識が整っているように見えるが、果たして。

 「イヴァン、まだだ。まだ殺してはいかん。スターリンとその男は目下に迫っている危機を取り除くキーパーソンだ」

 その、顔に長い白髭をたくわえている局長はイヴァンに強く言った。

「……そうでしたなぁ、局長。まだ、時期尚早でした。こいつが大粛清でやったような尋問をそっくりそのまま返さねば」

 イヴァンに顔に掘りの深いしわを作りながら言った。そして、私とプラウダを鎖から解き放った。イヴァンはそのまま立ち上がり「ギルティ、ギルティ」と呟きながらどこかへ消えていった。

 最後に「……嵐のような人でしたね」というプラウダの言葉だけがそこに残った。


 私達はこの建物の地下へ降りていった。

「なっ、馬鹿だろ。考え方が一直線すぎるんだよなあいつは」

 アレクサンドルは仰々しく手を振りながら言った。

「馬鹿っていうか……あれですね、ちょっとやばい人ですね」

 プラウダが言った。その傍ら、私は舌の上に残る鉄の味を転がしており、あまり口を開きたくなかった。

「かなり共産主義を憎んでるみたいですけど、何かあったんですか?」

「さぁな、親が秘密警察に殺されたとかじゃないのか」

 そうだとしたら、なぜその時にイヴァンも殺さなかったのか! その秘密警察の担当者は粛清に値する!

「仮にそうだとしたら、スヴォーロフさんの気持ちもわかりますけどね」

 プラウダは苦笑いしながら言った。

 それに対して私は「なっ!」といったが、カツン、カツン、と響く階段を下りる音がそれをかき消した。プラウダ、君の最大の長所は他人への優しさだがそれは短所にもなるぞ。

 階段を降り切ると、そこはセンターホールとは違って、私にも見たことがる景色と雰囲気は似ていた。

 床から天井まで全てがコンクリートでできており、灯りが少ないため薄暗い。一本の通路だけがずっと続いており、壁には等間隔で鉄のドアが貼られている。つまるところ、ラーゲリ(強制収容所)のような空気感がここでは溢れている。

 醜悪な臭いが流れてくるうえ時おり断末魔にも似た叫び声が聞こえてくるので私は顔を歪ませた。視覚情報、聴覚情報、嗅覚情報のどれをとっても最悪の場所だった。

 さらにはどこかの部屋からこんな会話も聞こえてくる。


 おい、今から一発芸をやるから見てろよ。

 OK、でもなにを?

 命乞いをするコミュニストの真似だ。

 おぉう、いいじゃねえか。やれやれっ。

 いくぞ。『あぁっ、僕はただの一般共産趣味者です。だからこんなことやめてください、お願いします! え、そんな、そんなものを使われたら。ああああああ!』ってな具合だ。

 あっはははははははは、お、お前面白いな。天才かよ。


 全くもって最悪である。こんな会話を聞いてしまった以上はこの階段を駆け上がりたいものだが、覆面を被ったいかにも暴力的な二人組が前から近づいてくるうえ、気付けばアレクサンドルが私達の背後に回っていた。

 「はいはい、連れてきましたよ」

 アレクサンドルは声を低くして言った。

「予定より遅れたな、何があった?」

 二人組の片方の肥えた男は言った。

「とんだじゃじゃ馬が入ってきただけさ。まぁいい、俺の任務はこれで終わりだ。それじゃあな」

 アレクサンドルはそう言うと、私とプラウダの肩に手を置き「……すまないな」と言うと、階段を登って行った。

「よしっ、じゃあ俺たちも向かおうか」

 肥えた男がそう言うと、もう片方の男が私達の背後に回った。そして、肥えた男が先導して通路を進んでいった。

 断頭台へ歩く死刑囚みたいだ。私が進めるこの一歩一歩が、首を切り落とすまでのカウントダウンに思えてならない。どうにかこの状況を打破できないだろうか。

 私はそう思いながらも、プラウダの顔を覗き込んだ。プラウダは必死に恐怖を押さえつけているようだが、まるで隠せていなかった。額から溢れ出る汗が何よりもの証明だ。

 しばらく歩くと肥えた男はいきなり止まった。

「スターリン、お前はこの部屋だ」

「なっ!」

 肥えた男は勢いよくドアを開き、「スターリンさんっ!」と言うプラウダを殴ると、私を蹴って中へ押し込んだ。私は部屋の中に倒れ込んだ。その後を追う形で肥えた男も部屋に入ってきた。

「さぁ、ソ連人待望のショーを始めよう」


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