第一章(7)
九月に入った。始業式の日、彼らが登校する前から、栄太と優が付き合っているという噂は流れだしていた。隠し立てする必要もない、と、堂々と手をつないで校内を歩いてやったりした。
教室に入ると、彼女の周りには、あの停学処分食らった石井と遊んでいた、そんな噂が蔓延した。彼女はある種、優等生で、真面目で優しい子だと、面を立てる人に囲われていた。そうした取り巻きは今回の事件を受けてかは分からないが、数が減っていた。始業式の終わり、優の周りに、柄の悪そうな男子生徒が集まっていた。
「栄太、男の子って怖いね」
優は夏休みの勉強中、時折そう漏らしていたのだった。授業中、放課後になるまでなら、そばに栄太がいるだけでよいだろう。実際栄太はこの日、彼女に近づくことでその男子生徒たちを追い払った。
しかし、栄太にはまだ部活がある。中学校の陸上、長距離の部は十月の県駅伝を控えて練習に精を出していた。石井との出来事が脳裏をよぎるのは違いない。それに耐えながら過ごすのは、さぞつらいことだろう。そしてそれを気にしながらの練習というのはそわそわと落ち着かない。肺が空気をいっぱいに取り込むことができないような感覚になり、調子が悪かった。
その部活動を乗り切り、荷物を教室に取りに来ると、優はそこでひとり待っていてくれた。
「学校終わったら、すぐバスで帰っていいから。練習終わるまで待たなくていいから」
栄太はもちろん、つらい練習が終わったのちに優に微笑みかけられる、そうした理想的な下校を、毎日繰り返す想像をしなかったわけではなかった。それは自己本位な傲慢な考え方だと分かっていた。
「ありがとう――何から何まで、ありがとうね」
笑ってくれた。それで、解決するはずだった。
結局優は九月に学校を二回休んだ。優はそれまで中学校を一度も休んだことがなかった。一時間の授業が終わるたびごとにトイレに行き、いつも誰か女子生徒と二人以上で行動していた。警戒心が目に見えるようだったし、優の脳裏に恐ろしい想像があることが栄太には気がかりだった。
「受験勉強も、そろそろ本気でやらないとねー」
「全力を出さなくても、余裕で受かるだろ……」
「全力を出さなくてもいいところで、全力を出すことが大事なんじゃない」
休日の優の家で、ふと彼女の集中が途切れることがあった。以前なら、宙をさまよった視線が、再びテキストに落ちるまでにそう時間を要しなかった。彼女はいま、あの映像を思い浮かべているのだろうか。胃がキリキリする思いだったが、直接問いただすほど栄太も不躾ではなかった。
気がまぎれることはなく、自分の勉強をおざなりにするわけにも、志望校からして当然いかず、迷った。
「優は勉強して、何になりたいんだ」
優の母が作ったおやつ代わりの握り飯が、勉強休止の合図だった。彼女が部屋に入ってくるとき、入念なノックがあった。恋愛関係に気づいている風だった。集中して勉強を頑張ってえらい、いちゃいちゃしていないでえらい、と言ったので、栄太は紅顔して苦笑いだった。をしながらふと思いついてたずねた。栄太の思っていたより、彼女は深刻な表情をしなかった。あまり考えたこともなかったのかもしれない。中学生の性意識として、当然のように悩むはずだ、そういう確信が栄太にはあったので、驚いた。
「私ってなんで勉強してるんだろう?」
優は母親のほうを向く。
「そんなの知らないけど、やっとけばいいものなんじゃない?」
母親はあっけらかんとしていた。娘の心配をするわけでもなく、そう言ってのけるのだ。おにぎりを置いて退出する。それを見計らって、
「そういえば目的、できたんだった」
しばらくおにぎりをほおばっていた優だが、ふと瞳を潤ませて栄太を見た。
「二人で、ここから逃げるためだよ」
栄太はとってつけたようなその答えに引っかかった。
「今思いついただろそれ」
「栄太が喜ぶと思って」
にやりと白い歯を見せる唇が薄く、綺麗な形で、目を奪われる。頬が緩むのが止められない。
「栄太は何かするときに、理由がいる? あまり難しく考えなくていいんじゃない? 二人で逃げる、じゃないけどさ」
逃げる。逃げるという言葉の響きがなんだか、優に似つかわしくないような気がした。彼女はいつも、出来事それぞれに向き合って、だからこそ、仲間ができる。過去の反省もしっかりでき、先へと繋げていける。
けれどその、原動力が見通せない。じれったさが、栄太の肌を包み鳥肌を立たせた。
「僕は現実から逃げるように、毎日走ってるよ」
「そうじゃないよ、栄太は走るとき、何も考えてないんだよ」
それが大事なんだよ、としみじみうなずく優からは、大人っぽさ、というより、親戚のおばさんのようなお節介さがにじんでいて、栄太は何だか笑ってしまった。
「なんにも考えていないときにやってることが一番、その人らしいことだと思わない?」
そう言われれば、そうなのだが。
「じゃあ勉強してる優が一番優らしいってこと?」
「どういう風に見えてるのさ。私、そんなんじゃないよ。ちょうど何かしてるとさ、色々忘れられるっていうか?」
しばらく、沈黙していた。
「あの日のこと、まだ気にしてるんだろ。つらいなら、いつでも相談に乗るから」
「ありがとう、でも、私はちゃんと私で居続けられるよ。栄太が」
栄太がいなくても、そう言うつもりだったのだろうが、思い直したようで、
「栄太がいてくれたら、もっと本当の私になれるけどね」
庭から虫の鳴き声だけが聞こえる。優はうわー、と馬鹿のような声をあげながらショートカットの髪を掻きむしり、勉強を放り投げて駆けだしていった。冷凍庫でもあさるのだろう。心が温められ、優のことをもっと好きになった。
僕は何のために勉強するのだろう。
その問いに対する答えは、優と同じ高校に行くため。そう、今はそれだけだとしても、いいような気がした。自分が何を考えていても、結果として周りに影響を与えることが、できるならそれでいいのだと思った。
「優、支えてくれてありがとう」
キョトンとして、えー支えてくれてるの、私のほうだよ、と言った優がいじらしくて、彼女の頭をなでた。
「僕は優だけをどこまでも連れていく、馬になりたいな」
「ねえ、それってプロポーズなの?」
冗談めかして言うが、目は羞恥と緊張をたたえて潤んでいた。
「今はそう、受け取ってほしい。いや、実感がわかないかもしれないけど」
「なにそれ」
優は口元だけで笑って、
「本気にしちゃうからね。それだったら、私耐えられるから」
やはり我慢していたのだ。なぜなら、優は今泣いている。栄太の胸の中で、しゃくりあげながら、優は思うままに泣いた。もしかしたら、産まれて以来こんなに泣いたことはないかもしれない、というほど激しく泣いた。何事か起こしたな、と言わんばかりにずんずん足音を立てて、ノックをせずに優の母親が部屋に入って来たころにはもう、優は半分眠っており、栄太の膝の上に頭を乗せていた。気まずかったので母親に、実のない弁解をした。ほとんど聞いていないように、母親から、
「寝かしつけてくれてありがとう。最近眠れてないみたいだったから」
そう感謝された。疲れてもいただろう。眠れない夜を何度も過ごしただろう。栄太は優の心の深奥へまたひとつ近づいた気がした。
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