第一章(6)

 次の日の部活動終わりから、優の家に集合して勉強会をした。えてして勉強会は部屋の誘惑物に目を奪われたり、談笑に花が咲いたりしてはかどらないものだ。しかし、二人はもはや、おしゃべりを通じてしか確かめられないような仲ではなかった。あまつさえ、お互い無言でいることに、心地よさを覚えることができた。それがあるからこそ、息抜きの時間にする雑談に栄太は望外の楽しさを見つけた。こんなに楽しそうに笑う優を、見たことがなかったから。

 そしてその、細める目をふと丸く開いたとき、栄太への視線に熱がこもっているのに気づかないほど、栄太も愚鈍ではなかった。栄太は男としての、自分が彼女を引っ張ってやらなければならないという思いに煩悶した。それで勉強に手が付かなくなるようではいけないと、必死に問題にかじりついた。

 そうして日が暮れるまで、栄太はずっと優の家に缶詰めだった。

 塾に通うことをやめるのも、いわば栄太が中学生活で下した大きな決断の一つだったろう。両親は石井たちがまだ通っているかどうか確かめようがなかった。

 ある日栄太が自転車をあげたあの女の子が、自転車をもって礼を言いに来た。もう渡してしまうつもりで諦めていたが、そう言えば、自転車に貼った通学許可のステッカーを学校で照らし合わせれば、持ち主は分かる。彼女の知り合いに石井と同じ中学の人がいて、その人によれば、夏休みが明けてから自宅謹慎の処分が出たらしい。処分の程度はどうでもいいが、彼らが悪いことをしたのだという証明を得られて栄太はほっとした。

 その日も扇風機が、からからと壊れそうな音を立てながら回っていた。

「暑すぎ! 今日は集中できないわー」

 勉強中はつけないテレビがつけられていて、ニュース番組では連日の猛暑日についての特集が組まれていた。

 中学生の彼女の部屋にテレビが置かれていてもおかしくないくらい、優の家は裕福だった。畳の部屋の開け放った障子の向こうに縁側があり、ちょっとした庭も造られている。

 ガタのきている扇風機が生ぬるい風を切って、風を起こしている。

「この扇風機だけは思い出の品だから、捨てられないよねー」

 同感だった。小さな頃二人して、扇風機に向けて声を発してははしゃいでいたことを思い出した。もはや昔ではない。キャミソールが風にあおられ、彼女の下着が見え隠れしている――。そう言ったあたりを、彼女を背負ったときの肌の感触などを考えながら見てしまう栄太は、罪悪感にさいなまれる朴訥な人間だった。

「ね、信じられないんだけど」

「え?」

「好きだよ」

 優がやはり、栄太を導くような口調で、恋の告白の言葉を紡いだ。それに従って栄太はうなずいた。血液が心臓から這い上がってくるのがわかる。赤面を予期して栄太は顔をそむけるけれど、全てを包み込むほど爽やかな気持ちが、柑橘の芳香のような調子で胸に拡がっていく。

「こっち向いて」

 何気なしに優は言った。栄太は明らかな照れをもはや隠そうとしない優がすがすがしいと思った。

「僕も好きだよ」

 空間に栄太の低い声が響いたのち、沈黙した。恥ずかしくはあったが気まずくはなかった。どちらともなく密着し、互いの背中に腕を回した。優の髪が含んでいた汗が、栄太の顔にひとしずく落ちた。

「あったかいね」




 県大会で結果を残した片田は、短距離の部のなかで一人だけ、練習に参加していた。これは元からだが、彼はどちらかというと長距離の部員たちと気が合った。今勝てなくても――最後に勝てばいい。彼に取って悔しいことがある度、そう呟いていたのが気に入った。栄太に取って彼の考え方は、少し大人びすぎていてしっくりこなかった。

「短距離のやつらには、散々憎まれてきたよ。競技終わり、俺だけタオル渡されなかったりな」

「俺が出してやっただろ」

 それでもなんだか、とにかく大人っぽさに憧れる気持ちが強かった。大人とは自分には分からないことを考える人――そんな、単一的な尺度を、栄太は大真面目に扱っていた。

「嬉しかったよ――そう言えば、A高を受けるんだって?」

「何で知ってるんだ」

「優から聞いたよ。俺も第一志望、あそこだから。高校いっても二人で頑張ろうな」

「俺のタイムで、片田と並べるかどうか……分からないけどな」

「そう、自信なさそうにするなよ。俺は栄太の走りが好きだぞ? 早いか遅いかは別として、なんというか超然としてるんだよな。いや、してた、だな」

 片田が言いなおす。

「一年のころの栄太は、本当にすごかったよ。今のほうがタイムは上だろうが、あの頃の走りほど、美しくないよな」

 その口ぶりは、片田自身も言葉選びに納得していない様子だった。なんとなく言わんとしていることが分かる。栄太はうなずいた。

「今は色々考えてしまうよ……進路のこととか、もっと先の将来のこととか」

 そうだよなあ、と片田は笑った。もうその考えを、通り抜けてきたかのように。

「周りの顔色とか、責任とか、そういうの考えるようになるんだよな。今は迷ったりだろうが、そういう気持ちが薄れたとき、ふっと楽に走れるものだぞ。俺なんて、短距離だからってのもあるけど、何も考えずに走ってるからな。とらえ方次第、自分の立っているところが地球の中心だ。ま、種目は違うからあまり参考にならないだろうけどな、さて練習だ」

 茶化して話を終わらせた片田だが、彼の言葉は栄太には突き刺さったのだった。

 競技の日、早起きして試合を見に行った。彼はブロック大会をさわやかに走り抜いた。あと一着の差で全国大会出場を逃したが、夏の暑さで流れ落ちる汗が眩しくて、栄太の胸にはこんこんと湧いてくるものがあった。

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