第56話 生活

 掃除は上から下へというのが原則らしい。

 小熊は脚立の上に立ち、杉板張りの天井を丁寧に清掃した。

 山梨の集合住宅に住んでいた時は、ここまで掃除に手間をかける事も無かった気がする。そう思いながら天井照明を磨き上げる。

 これからあちこちに手を入れる積もりのセルフリノベーション作業のため、わざわざ中古で買った脚立を片付けた後、塗り替えてまだ間もないからか、ほとんど汚れていない珪藻土の壁を拭き、床に箒をかける。


 ほぼ正方形に近いダイニングスペースは、掃除機を使ったほうが効率は良かったが、掃除をしつつ気難しいアンティーク・フローリングの異変をチェックするには、同じく古臭い箒のほうがいい。

 六畳の寝室と四畳半のバイクグッズ専用部屋、浴室やトイレも先ほど掃除を済ませた。外回りとコンテナは、昨日リサイクルショップで投げ売られていた高圧洗車機で洗浄したが、ダイニングとバーカウンターは特に丁寧に磨き上げた。

 この家の中で最も金がかかっているという理由もあったが、それだけではない。


 カウンターでグラスを磨いていた小熊は、廉価な公営住宅として作られた木造平屋に若干不相応な、分厚い樫材のドアが叩かれる音を聞き、カウンターの外に回った。

 この豪奢なドアを、つい昨日ある旧い日本家屋の取り壊し現場から貰ってきてくれた女は、玄関脇のインターホンなど無視して自分の流儀を貫くらしい。小熊は鍵を開錠しドアを開ける。

「やぁ。少し早すぎたかな」

 玄関前には小熊が大学で係わることとなった節約研究会なるサークル。通称セッケンの部長、竹千代が立っていた。


 小熊は外に出て開けたドアを押さえる。そのまま黙って頷き入室の許可と形だけの歓迎を伝えると、竹千代に続いて二人の女子が部屋に入ってくる。

 ペイジと春目。現在二人だけのセッケン部員。

 急病で倒れた小熊を救出するという、慌ただしい初訪問を除けば、この三人を自分の部屋に客として招いたのは初めてだった。 

 同性でも異性でも、仲良くなっていく過程で相手を自分の部屋に入れるいうのは一つの関門で区切りだと聞いたが、小熊は仲を深めたいなどとはこれっぽっちも思わない怪しいサークルの三人組を、この家に招く事になるとは思わなかった。


 先日の急性イレウスで、小熊の命を救ったのは紛れもなくこの三人。そこで小熊は、厄介な相手への借り入れを早々に清算すべく、竹千代に何か礼になるものは無いかと提案したが、竹千代はさほど考える事なく言った。

「そろそろ君の家に我々を招待してくれないか?」

 プライベートスペースへの浸食は、しばしば金銭の損失より大きな損害となる。小熊としては正直断りたかったところだが、もっと面倒な提案、たとえばセッケンへの入部などを求められても困るので、しぶしぶながら了解した。


 上着や帽子を脱がせて壁に掛けてあげるほどのサービスをする気は無いので、それはセルフでやってもらい、カウンターの前に並ぶ三つのスツールを勧める。

 この家をセルフリノベーションするに当たって、最も手間をかけた分厚い檜材のバーカウンターを作り上げた時、一人暮らしの身で幾つも椅子を並べても邪魔になるだけだと思ったが、セッケンが占拠している大学敷地内のプレハブ部室に、開店して一か月で倒産したバーから引き取ってきたという、赤い革張りの極上品が置いてあったのを見た小熊は、スツール一つだけが置かれたバーより見栄えが良くなるだろうと思い、ついセッケンの協力者として、この倉庫にある物を何でも持って帰っていいというセッケン部長公認の権利を駆使してしまった。


 人間は暇になると色々な物を溜め込みがちになる。それは家具やコレクショングッズだけでなく人間関係も同じかもしれない。小熊はそう思いながらスツールに座る三人を見渡した。

 当たり前のようにバーの最奥にある上座に腰を落ち着けた竹千代は、片肘をカウンターにつき、もう何年も通った店であるかのような落ち着いた仕草で小熊に言う。

「まずは冷たい吟醸酒をくれないか」

 バーカウンターのキッチン側に回り「うちは酒を出してない」とだけ言った小熊は、とりあえずこの三人を客として扱う体裁を整えるための食事を用意しながら、目の前の座る相手を見た。


 竹千代の隣に座るのはペイジ。小熊と同じ一年生で、東京西部の山岳地帯をジムニーで走り回る事に、自らの生命を費やしている赤毛の少女。

 ペイジはいつもと変わらない。あの騒々しい旧型ジムニーに乗っている時のみ饒舌になるペイジは、ジムニーに乗っていない自分を死体か人形と変わりないと思っているのか、まっすぐ座り、まっすぐ前方を見ている。この揺るぎない純粋な姿に憧れたからこそ、小熊はセッケンと係わったのかもしれない。

 いつもただ自分の動くべき時を静かに待っているペイジにとって、さしあたって今夜の行動予定はここでの食事のようなので、小熊は長く奥行きも広いバーカウンターに、自分なりのもてなしとなる料理を並べた。


 小熊が用意したのはクレープ。何枚も焼いたクレープを円柱のように積み上げた大皿を置く。この部屋に来てからずっと遠慮がちで、今もバーの端で身を縮めている褐色の髪の少女が目を輝かせた。

 続いてクレープに包みこむ具を置く。ハム、ベーコン、ローストビーフ、トマト、タマネギ、レタス、数種のチーズ、蒸したチキン、油と香草で焼いたイサキとスズキ、バター炒めのしめじ、茹でた小海老、サーモン、カジキ、カツオの燻製。

 デザート系の具も幾つか用意した。缶詰の桃とミカンとサクランボ、生クリーム。


 具材についてはそれほど準備に時間はかからなかったが、クレープそのものを焼くのは面倒だった。小麦粉と卵と牛乳、溶かしバターを混ぜたタネを、フライパンよりも平坦なクレープが焼けるアルミ無水鍋の蓋で焼く。一回ごとに油を塗り直し、もう一度焼き、単調な作業をひたすら繰り返す。

 ヘラで広げた薄いクレープはすぐに焼けるので、並行して他の作業を進める事も出来ない。午後の時間を丸々費やして自分を含め四人が食べるに充分なクレープを焼き上げた時は、もう二度とクレープなんて焼くかと思った。

 皿とグラスを並べ終わった小熊が、セッケンの三人にクレープを勧めたところ、いただきますの言葉と共に思い思いの具を包んで食べ始めた。

 

 小熊の手間に見合った成果はあったらしく、クレープはなかなか好評な様子。竹千代は「シャブリかトーケイの白ワインが似合いそうだ。次のクレープパーティーの時に持ってくる」と言うので、小熊は火傷した指を見せ「もうクレープは焼かない」と返した。 

 ペイジは分厚い肉を包んだクレープを強い歯と顎で噛みしめ、小熊を見て頷く。どうやら優秀な機械と同列の、良質な食べ物として認めてくれた様子。自分にとって必要な事しかしないペイジは、またクレープを焼いたらうちに来てくれるのかな?と小熊はちょっと思った。

 春目は、街角の店や販売車で、彼女の食費数日分の値をつけて売られているクレープを自分が食べていいものなのか困惑し、クレープに野菜ばかり乗せている。カウンターのキッチン側に立った小熊は自分の分を包んで食べ始めながら、春目のクレープに魚や海老を乗せる。

 

 主に竹千代の主導で会話の弾んだクレープパーティーが佳境にさしかかった頃、小熊は春目に言った。

「渡すものがある」

 今後数日の飢えに耐えるためか、腹に入る限りのクレープを詰め込もうとしていた春目が、急に声をかけられて目を白黒させた。

 クレープに包むのも面倒くさくなったのか、茹でた海老にチリソースを付けて摘まんでいた竹千代が、軽く眉を上げる。ペイジはジムニーを整備、操縦する時のように完璧な手の動きで、肉をクレープに包み込む作業に集中している。


 小熊が差し出したのは、一冊の紙綴じだった。文具卸店で不動産等の重要書類を挟むファイルとして売られている、革装のファイル。

 麻のワンピースで手を拭い、ファイルを受け取った春目が、開いて中に挟まれている物を確かめている間に、小熊はカウンターを回ってダイニングスペースの壁際まで歩く。そこには何か大きな物が布を被せられ置かれていた。

 小熊が布を引っ張ると、その下から出てきたのは、たった今工場から出てきたようなスーパーカブ50。小熊が高校の二年間乗っていて、先日の事故で廃車にしたが、事故前より高い精度でプレス修復した車体を始め、あらゆる消耗部品が交換された緑色のカブ。


 春目はファイルの中に入っていた、自分の名前が記載されたカブの登録書類と、表紙裏の名刺入れポケットに入れられたメイン、予備の二本あるキーに指を触れる。

 春目名義での登録については、彼女の印鑑を預かっている竹千代が手配してくれた。

 小熊は春目の瞳に渦巻いた様々な感情にちょっと魅せられそうになったが、とりあえず言うべき事は言う。

「乗ってほしい。このカブに」

 春目は困窮の中で過ごした十代の頃、仕事でカブに乗っていた。人は使い捨てる事が前提の職場で消耗を重ねた苦行の日々は春目の心に消えない傷を刻み、彼女は刻苦の象徴となったカブにはもう二度と乗らないと決めていたが、先日、急病となった小熊を、かつて毎日の配達仕事で培ったカブに乗る技術を以て助けた。

 

 春目の呼吸が荒くなる。キーを握った手で胸を押さえる。絞り出すような声で「私は、もう、カブには」と言いながら立ち上がった春目は、ダイニングの隅にあるカブへと歩み寄った。

 カブに触れ、メーターパネルに反射する何かをを見つめていた春目の瞳から涙が零れる。

 春目は最低の労働環境から、彼女の拾い物に関する嗅覚という能力を認めた竹千代に救い出された。しかし、そうならなかった子も居る、両親を震災で突然失った春目と似通った境遇の彼女は、苦労を共有する大切な親友だった。そして春目は、彼女を助けてあげられなかった。


 春目は顔を上げ、小熊を見て言った。

「わたしはカブには乗りません。わたしをいじめたカブ、わたしの友達を死なせたカブにはもう二度と触れません」

 言葉に反し、春目はカブの車体を撫でている。

「でも、小熊さんがくれるというなら、この子はわたしの家に置いておきます」

 世の中には癒えない傷もある。心に残った痛みは消えない。しかし痛みを自分の一部にすることはできる。

 人の心などわからぬ小熊は、過去にカブで骨折した時、完治後も雨の日には痛む左足に教えて貰った。

 曲りなりにも人文学を専攻する小熊が、唯一知っている人間心理の必然があるとすれば、心の傷に最も良く効く薬は、何か高価なものを目の前にちらつかせる事。 


 小熊がこの三人を家に呼んだ最大の目的にして最も難しい事だと思っていた、スーパーカブの春目への贈呈と納車が無事に終わり、ようやく落ち着いた小熊は、クレープを腹一杯食べ、冷たい炭酸水を飲んだ。

 すでにクレープは大半がなくなり、背後のガスコンロではもうすぐ食後のコーヒーが湧く。小熊は自分のものとなったダイニングをもう一度見回した。

 必要な物が何でもあって、カブも二台ある部屋に暮らしていた時の自分は、ただ生きているだけだった。人が暮らしを営む、生活と呼べる物には足りない。

 小熊の目の前には、一人の時には広すぎて椅子も邪魔だったカウンターに、セッケンの三人が並んでいる。


 竹千代は小熊が紅茶やコーヒーに入れるため買っていたジェイムスソンのアイルランド産ウイスキーを見つけ出し、ロックにして飲んでいる。ペイジは小熊がコーヒーを挽く時に使った手回しのミルを勝手に分解している。春目は先ほど乗らないと言ったカブを何度も振り返っては眺め、席を立って触りに行っては戻るといったせわしない動きを繰り返している。

 人の住居に不可欠とも言える来客がこの三人というのは、小熊としてはまことに不満だが、一つだけわかったことがある。

 東京で大学生として生きていくと決めた小熊の生活は、今やっと完成した。


(終)

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スーパーカブ7 トネ コーケン @akaza

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