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 学生たちがバーベキューに興じた地点から二十分ほど西へ歩くと、思い出したように砂浜が途切れた。そこから先は土地が少し隆起して雑木林になっている。

 松の木が目立つところを見ると、人工的につくられた防砂林だろうか。目的地はその林を抜けた先にあるようで、幹事の太洋たいようが先頭となって続く仲間を導いた。

 聞けば彼の隣を歩くひよりすら、これからなにを見せられるのかまったく知らないという。もう少しだからと笑って促す太洋の背に学生たちの野次が飛ぶ。

「道に迷ったんじゃないか」とか「つまらないものだったら罰ゲームだぞ」とか。

 無知という名の幸福に浸る彼らの談笑を聞きながら、僕は再び懐中時計を取り出した。ロンドン時代からの愛用品を星明かりにかざしてみる。


「二十時二十九分」


 僕の右肩に乗ったチャールズが、二本の針の啓示を読み解いた。

 残すところ三十一分。僕の心音が秒針の音色と重なっていく。


「着いたぞ」


 やがて林を抜けた頃、海鳴りが僕らの耳朶を打った。

 同時にわっと歓声が上がる。林の先は砂浜ではなく岩礁がんしょうになっていた。

 闇の中に黒々と浮かぶ巨大な岩に波がぶつかっては砕けていく。けれど注視すべきは、ともすれば僕らを呑み込まんとする波の咆吼ではなかった。太洋が言っていたとはおそらくその手前、浅瀬を舞う無数の──地上の星だ。


「すごい、これって……もしかして、蛍……!?」


 明滅しながら飛び回る光の群。それはまさしく蛍だった。

 潮騒の輪舞曲ロンドで舞い踊るように、かなりの数の蛍が夜の闇を彩っている。

 海蛍や夜光虫の類ではなく、黄色く瞬くヘイケボタルだ。

 時期的にゲンジボタルということはないだろうから僕はそう推測した。

 彼らは大小の岩の狭間から伸びる灌木かんぼくにとまったり、飛び回って仲間とたわむれたりしながら幻想的な風景を織り成している。一週間程度の儚いいのちを燃やして、限られた時間を、生を、懸命に謳歌している。


「……おどろいたな。まさかこんな海辺に蛍が棲息せいそくしているなんて」

「でしょ? ここ、バイト先の先輩が教えてくれたんスけど。実はあの辺、浅瀬じゃなくて近くの川から来てる小川の河口なんスよ。だから蛍が集まるらしくて。びっくりですよねー」


 言われてみれば、下が海水ならあんな風に草木が茂ったりはしない。

 波音の狭間に聞こえる微かな水音は潮騒しおさいではなく小川のせせらぎということか。僕は眼前に広がる景色を素直に美しいと思った。

 見上げればそこには星雲をまとい、宇宙を目指す巨大な龍が泳いでいる。その龍とともに天を彩る蛍たち。これほど美しい光景を見たのはいつぶりだろうか。

 僕は今、目の前に広がるすべてを網膜に焼きつけた。細波が生み出す泡の音色や、髪の一本一本を揺らす潮風のにおいさえ忘れたくない。

 ひと晩眠れば泡沫うたかたのように溶けて消えてしまう感情だと分かっているからこそ。


「やば~い! ねえ、写メ撮ろう写メ! インスタに上げたらバズるかも!」

「バズるかなあ。言ってもただの蛍だよ?」


 なんて言いながら学生たちが傍ではしゃいでいる。彼らは岸から写真を撮ったり蛍の群に飛び込んだりと大騒ぎだった。僕はそれを岸辺に腰かけて眺める。一緒に写真に写ろうとせがまれたりもした。けれどそんな賑やかさの中、ふと視線を走らせて──みなから少し離れた岩の上に並んで座る、太洋とひよりの姿を認める。


「ほんと綺麗だね、蛍。私、蛍なんて見たの子どもの頃以来だよ」

「俺も昔じいちゃんちで見て以来かな。じいちゃんが死んでからは、全然田舎に行かなくなっちゃったから」

「蛍を見られる場所自体、かなり減ってるって言うしね。ここ、来る前に下見とかしたの?」

「あー、うん……まあ一応。先輩もしばらく見に行ってないって言ってたからさ」

「そっか。わざわざ下調べしてくれてたんだ。──ありがと、連れてきてくれて」


 きっと一生の思い出になる。

 そう言って微笑むひよりを見て、太洋が頭を掻くのが見えた。僕はそこでふたりから視線をはずす。代わりに開いたままの懐中時計へ目を落とした。


 二十時四十二分。


「あ……あのさ、ひより」


 そのとき僕の耳に、なにかを決意したような、そして少し怯えているような彼の声が届いた。


「いや、なんか……なんでいきなり? って思われるかもしんないんだけどさ。別に酔った勢いとかじゃなくて……」

「うん」

「ずっと……言いたかったことがあって。急にこんなこと言うと、困らせるかもだけど……」

「うん」

「俺……俺さ。前から、ひよりのことが──」


 直後、僕の聴覚が拾ったのは太洋の声ではなく、それを掻き消す盛大な水音だった。出鼻をくじかれた太洋がぎょっとしたように音の原因を振り返る。

 彼の視線の先で白く弾ける水飛沫みずしぶきが上がっていた。

 近くの大岩に登った男子学生たちが海への飛び込みを始めたのだ。ほどなく最初に飛び込んだ青年が浮上してきて、大きく息を吸うと同時に笑い出した。


「やべえ、マジ最高! 太洋、おまえもこっちきて飛べよ!」


 旅行の楽しさを酒精が手伝って、一種の興奮状態に陥っているのだろう。

 男子学生たちは危険も顧みず、次々と海へ飛び込み出した。危ないよ、と警告する女子学生たちも本気で心配しているわけではないらしく、笑いながら写真を撮ったりはやてたりしている。僕には彼らを止めることもできた。でも。


「太洋、やめた方がいいよ」


 引き止めるひよりの声を振り切って、大丈夫、と笑った太洋が駆け出した。

 石の上を跳ぶように渡り、友人たちに続いて大岩をよじ登っていく。


「あそこから飛べたら彼女に愛を告げるつもりかな?」


 笑うような含みを持たせてチャールズが言った。


「……これを頼むよ」


 僕は答えともつかない答えを返し、彼の首に懐中時計の鎖をかける。


「いってらっしゃい」


 チャールズの蒼い瞳が閃いた、ような気がした。

 同時に太洋が岩肌を蹴り、足から海へ飛び込んでいく。

 けれど跳躍の瞬間わずかに滑ったのだろうか。

 彼の体は空中で不安定に傾き、そして──背中から海へ叩きつけられた。

 学生たちの笑い声が弾ける。

 きっと飛び込みに失敗した太洋の姿が滑稽に見えたのだろう。

 チャールズの首にかかった時計の針が時を刻む。太洋は浮かんでこない。

 いち早く異変に気づいたひよりが腰を浮かせた。学生たちは太洋がふざけていると思っているのか、水面を叩いて茶化したり笑い合ったりしている。


「ねえ、太洋は……!?」


 波打ち際まで走り寄ったひよりが悲鳴じみた声色で叫んだ。

 他の学生たちのきょとんとした顔が黒い波間に浮いている。

 そんな彼らの隣を擦り抜けて、僕は冥府への階段をくだるみたいに海へ入った。

 誰かの呼び止める声が聞こえた頃には僕もまた、液状化した闇の中。


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