***


 この季節は日が長いとは言え、十九時を回るとさすがに空のまぶたが降りてくる。あんなに盛況だった海水浴場も十七時を過ぎたあたりから少しずつ客足が遠のき始め、すっかり物寂しくなった。海の家は十八時をもって閉店。

 浜辺にはもうほとんど人影はない。しかし十和田とわだ太洋たいようを含む九人の学生グループは、未だ海岸にたむろしていた。まばらに組まれた円陣の真ん中からは、炭火にかけられた食材が奏でるアンサンブルが聞こえてくる。


「お肉焼けたよー。食べたいひと、取ってって!」

「ホタテまだ? そろそろいいんじゃね?」

「ねー、もう焼き鳥も焼いていい? 結構本数あるし」

「お茶ってもうないんだっけ。水でもいいんだけど」

「誰かそこにあるタレ取って、タレ!」


 バーベキューコンロの中で揺れる赤い光が、はしゃぐ若者たちをぼんやりと照らしていた。賑々にぎにぎしいやりとりが絶えず目の前を飛び交い、僕はもうずいぶん長いあいだ静けさとは無縁の時間を過ごしている。彼らはとある大学のサークル仲間。夏休みの思い出づくりにと、みなで二泊三日の小旅行へやってきたらしかった。


「しかしなかなか死なないね、彼。予定時刻は十六時から二十一時の間と言ってたっけ?」

「そうだね。もうすぐ二十時を回るから……死ぬとしたらそろそろじゃないかな」

「まったくこっちはさっさと帰って休みたいっていうのに。学生は気楽でいいね」

「彼にとっては最後の晩餐だ。静かに見守ってあげようじゃないか」


 彼らが貸し与えてくれたアウトドアチェアに腰かけながら、僕は膝の上のチャールズをたしなめる。彼は先ほどから文句ばかり並べるけれど、しきりに口の周りを舐めているあたり、実はまんざらでもなさそうだ。

 僕らは海岸での邂逅かいこうのあと、最初に話しかけてきたふたりの女性──ひよりとアキに誘われて夕食に加えてもらうことになった。

 はじめはさすがに遠慮したものの、十和田太洋の死を看取らなければならない手前、彼らと行動をともにできるのは都合がいい。だから最終的には彼らの誘いを受け入れて、こうして食事を馳走になっていた。学生たちにちやほやされるのをいやがっていたチャールズも、刺身を与えられてからというものおとなしい。

 それまでは撫でられたり抱き上げられたりするたびに不機嫌な顔をしていたのに、食卓に刺身が出てくるや途端に借りてきた猫になった。


「……ここからは天の川がよく見えるね」


 学生たちの会話を流しっぱなしのラジオのように聞きながら、僕はひとり空を仰ぐ。僕らの頭上を漂う漆黒の世界には満天とは言いがたいものの、少なくない数の星が瞬いていた。

 同じ空のはずなのに、街中にあるセーフハウスから見上げるのとは違う空。

 特に海から立ち上るように輝く天の川は筆舌に尽くしがたい美しさだった。

 こうして見ると、まるで宇宙を目指して泳ぐ東洋の龍のよう。

 沖へと漕ぎ出し、あれのたもとに辿たどけたなら、一緒に天へ昇れるんじゃないかなんて思わず夢想したくなる。

 星の川に浮かんだ船は僕を織姫と彦星に会わせてくれるだろうか。

 星雲を挟んで輝くベガとアルタイル。ふたつの恒星をじっと見上げて、僕は昼間に描き上げた贋物にせものの天の川に思いをせた──やはりチャールズの言うとおり、僕の作品は本物に遠く及ばない。小さなカンバスの中には果てのない夜空の広大さも、波の音色も、肌を撫ぜる夏の夜風も存在しないから。

 だけどもしチャールズの言っていた〝足りないもの〟を描き足すことができたなら……そのときは僕の贋作がんさくも少しはきらめきを放つだろうか? そうしたらまた、あの桜の絵を描き上げたときの気持ちを思い出すことができるだろうか?


「あのー、良かったらビール、もう一本飲みます?」


 ぼんやり思索にふけっていたら、唐突に声をかけられた。高くもなければ低くもない男の声に視線を下ろせば、赤い水着の青年が僕を覗き込んでいる。


「……十和田太洋君、だったね」

「あっ、はい。な、名前、覚えててくれたんスか。なんかスンマセン、うちの女どもが無理言って引っ張ってきちゃって……」

「いや、構わないよ。おかげで僕も有意義な時間を過ごせているからね」

「そ、そうスか? なら良かった」


 僕がひとり、学生たちの輪から離れていることを気にしたのだろうか。

 太洋はほっとしたような、はにかんだような顔でへへっと笑った。

 喋り方は砕けているけれど、彼が本質的に真面目で気遣いのできる人間であることは見ていれば分かる。彼は彼の友人たちのように髪を染めてはいないし、ネックレスやピアスといった装飾品の類も身に着けていない。

 不仲というわけではないものの、どの友人のことも一歩引いたところで俯瞰的ふかんてきに眺めている。そんな言動をする青年だ。頭に手をやるのは困ったときや照れたときのくせのようで、今も僕の目の前でうしあたまを掻いていた。


「えっと、隣、座ってもいいスか?」

「どうぞ」

「んじゃ失礼します。あ、そうだ、ビール持ってきたんスけど……」

「じゃあいただこうかな。申し訳ないね、一から十までご馳走になってしまって」

「いやいや、俺らが招待したんでこれくらいは。逆にこんな安酒しかなくてスンマセン。ほんとはワインとかあればよかったですよね」

「僕はアルコールの種類にはこだわらないたちだから問題ないよ。それよりもせっかくの夏の思い出のお邪魔になっていなければいいけれど」

「あー、そこは大丈夫ッス! むしろ外国人のイケメンがきてくれたって、あいつらひそかに盛り上がってますから」

「そうなのかい?」

「はい。あんまり騒ぐと引かれるんじゃないかって猫かぶってるんスよ。アキなんてわりとガチで狙ってるんじゃないかな。連絡先とかかれたら、気をつけてくださいね」


 半分は冗談で、半分は本気。そう理解できる口調と顔つきで太洋は言った。

 時間も時間だし、彼らが準備してきた食材はもう半分以上消費されているように見える。ということはこの宴も間もなくお開き。

 ならばその前にと気をきかせて忠告にきてくれたのだろう。


「ありがとう。君の好意は記憶に留めておくよ」

「いや、好意っていうか……結構難しい日本語知ってますよね。こっちにきて長いんスか?」

「うん。それにもともと日本には興味があってね。いつかきてみたいと思っていたんだ」


 息を吐くように当たり障りのない答えを吐けば、膝の上のチャールズがくしゃみに似た素振りをした。実際、太洋にはただのくしゃみに見えたことだろう。だけど本当は違う。今のは鼻で笑ったのだ。死神は目覚めたときからあらゆる言語を話せるよういるし、僕が日本へ異動になったのは去年の暮れのことだから。

 この仕事をしていると、こういう他愛もない嘘を考えるのがうまくなる。

 人間の価値観で言えば、あまり褒められたことではないのだろうけど。


「へえ、そうだったんスね。じゃあ俺とおんなじだ」

「君と同じ?」

「はい。俺、逆に海外に興味があって。ぶっちゃけ英語は全然なんスけど、漠然と留学したいなーとか考えてるんスよ。その留学先の候補にイギリスも入ってて」

「留学か。それはずいぶんと意欲的だね。だけどどうして海外に?」

「んー、まあ理由は色々あるんスけど。やっぱ死ぬまでに世界中の色んなところを見ておきたいっていうか……狭い日本に閉じこもって、外の世界のことをなんにも知らずに死ぬのってなんかもったいないよなーって思っちゃったんスよね。あとはベタだけど自分探しの旅? みたいなのを夢見てて。俺、子どもの頃から将来の夢とかあんまりなかったから、やりたいことを見つけにいきたいんです。なあなあに生きてなあなあに死ぬんじゃ、人生絶対つまんないから」


 太洋はまた頭を掻きながら、照れた様子で自分の夢を話してくれた。

 おそらく彼は世間や身の回りのことだけじゃない、自分の人生をも一歩引いたところから俯瞰して、そうすべきだという結論に達したのだろう。

 僕は彼の笑顔を眺めながら昼間上司から送られてきたメールの内容を思い出す。

 十和田太洋、二十歳。学生。両親は健在。上には兄、下には妹がいて、経済的に何ら不自由のない家庭で温かくも平凡な人生を歩んできた。

 少なくともあの資料から僕はそう読み取った。そして彼の話を聞く限りその予想は事実から大きくはずれてはいないのだろう。けれど彼の人生はもうすぐ閉じる。

 僕が取り出した懐中時計の文字盤は、いつの間にか二十時を指し示していた。

 彼の死亡予定時刻終了まであと一時間。我らが上司の決定は絶対だ。たとえ天地が逆転し、大地が裂けて地獄が降ってこようとも忽せにされることはない。

 彼は死ぬのだ。いつか世界へ飛び出して夢見ることを夢見たまま。


「太洋、これ最後のお肉。そろそろ見に行くんでしょ? 急いで食べちゃってくれる?」


 と、そこへ黒いポニーテールを揺らした女性がやってきて、太洋に紙皿を差し出した。昼間僕に声をかけてきた女性のひとり、あずまひよりだ。

 日のあるうちは大胆に肌を露出していた彼女も、この時間となるとさすがに上着を羽織っていた。とは言えシャツの下から覗く脚は剥き出しのままで、すらりと長く引き締まった脚線美に目を奪われる。どう見ても日常的にスポーツをしている人間の脚だった。穏やかな物腰の中に溌剌はつらつとした印象を受けるのは、きっと本能的に体を動かすことを好む人物であるからだろう。


「お、悪い。そういやもうそんな時間か。じゃ、食ったら移動しないとな」

「まだどこかへ行くのかい?」

「はい。実はちょっとしたサプライズを用意してて。歩いて二十分くらいのところに夜しか見れないがあるんですけど、よかったら一緒に行きます?」


 ふたつ手渡された紙皿の一方を差し出しながら、屈託なく笑って太洋が言った。

 夜にしか見られないとは何だろうと僕が首を傾げれば、膝から伸び上がったチャールズが紙皿に手を伸ばしてくる。

 どうやら串焼きにされた鶏肉が食べたいらしい。


「僕もご一緒して構わないのなら、ぜひ同行させてもらいたいところだけれど」

「じゃあ一緒に行きましょう。みんな食べるのに夢中でゆっくりお話できませんでしたし。私、イギリスのお話とか色々聞きたいです。外国の方とお話させていただくの、はじめてなので」


 答えたのは太洋ではなくひよりの方だった。年齢は太洋と同い年だと聞いたが、はきはきと丁寧な日本語を話す女性だ。親の教育がしっかりしているのか、はたまた接客業に携わっているのか。僕はタレつきではなく塩胡椒が振られている方の鶏肉をチャールズの前にぶらさげながら考察した。人間を前にするとついプロファイリングまがいのことをしてしまう往年の悪いくせだ。人間観察を好む死神は多いけれど、僕の場合はいきすぎだと以前チャールズに叱られた。


「僕なんかの話でよければいくらでも。あまり面白い話は得意ではないけれど」

「いいんですよ、それで。実はここにいる太洋が海外留学を考えてるらしいんです。なのでイギリスでの生活とか、日本へいらしたいきさつとか、なんでも話してもらえると……」

「ひより。その話、俺もさっきした」


 半分黒こげになったキャベツを頬張りながら苦笑とともに太洋が言う。

 するとひよりは「あっ、そうなの?」と軽くおどろき、次いで頬を赤らめた。


「じ、じゃあ早く食べて移動しよ。なにを見せてくれるのかいい加減気になるし」

「分かったよ。荷物は一旦ここに置いていくから、あいつらにもそう言っといて」


 太洋が告げるとひよりは頷き、身をひるがえして駆けていった。そんな彼女の一連の動作が僕にはなにかから逃げ出したように見えて、内心おや、と気づいてしまう。


「君と彼女はいわゆる恋人同士というやつなのかな?」


 思ったことを率直に尋ねれば、缶ビールをあおっていた太洋が突然むせた。

 口の中の液体を噴き出さんばかりの勢いに、鶏肉を堪能していたチャールズがびくりと跳ねる。


「ち、ちが……ちがい、ます」

「そうか。それは悪いことを訊いたね」

「いえ、まあ……そうなれればいいなとは、思ってるんスけど……」


 掠れた声で小さくそう言ってから、太洋はみるみる耳まで赤くなった。

 自分の言葉に自分で照れたらしい。

 彼はシャツの袖で口もとを拭うふりをして、僕から数瞬顔を背けた。


「……いや、初対面のひとになに言ってんだ、俺。スンマセン、今のは忘れてください……」

「忘れろと言われれば忘れるけれどね。告白はしないのかい?」

「い、いや、だから……!」

「先ほどの反応を見る限り、彼女も君を慕っているんじゃないかな。少なくともまったく脈がないということはなさそうだ。あるいは僕をこの席に誘ったのも、イギリス人の僕と君を引き合わせるためだったのかも」


 太洋は依然真っ赤な顔で反論したそうにしていたが、何度か閉じたり開いたりを繰り返した唇から言葉が紡ぎ出されることはついになかった。やがて観念した様子で額を押さえると、彼は長風呂でのぼせたみたいにうなだれてため息をつく。


「……なんか、さすがイギリスのひとっていうか。シャーロック・ホームズみたいッスね」

「僕はホームズほど華麗な推理を披露したつもりはないよ。昼間からの君たちの様子を見ていれば、おのずと察しがつくことだ」

「けど、俺……わりとマジで留学考えてるんで。そしたら日本を離れることになるから、今のままの関係でいるのが一番いいんじゃないかとか考えちゃって……」

「……〝女に恋しながらなにかを為すのは困難だ〟だね」


 おどろいた拍子に落とした鶏肉を睨みつけながら、チャールズが八つ当たりめいた皮肉を吐いた。砂浜に落ちた鶏肉はすっかり白い衣をまとってしまい、さしものチャールズもあれには手を出せないようだ。


「それでも、打ち明けた方がいいんじゃないかな」

「え?」


 あてつけに抜き出されたトルストイの言葉を聞き流して僕は太洋にそう告げた。


「何も告げずに悔いを残すよりは。君の本当の気持ちを、打ち明けておくべきだと思う」


 見開かれた太洋の瞳に、無表情でそんなことを言う僕の姿が映っていた。

 彼はこれから一時間のうちに、この言葉の真意に気づけるだろうか。


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