些末事

 夢から目覚めると、目の前にはレティシャの顔があった。


 ゆっくりと思考が立ち上がるまでの間、私はレティシャのことを眺めていた。私を起こそうとベッドの上に膝立ちで上がってきたレティシャは白い腿が露わになっていた。


「先生…大丈夫ですか??うなされておりましたが…」


 レティシャが気づかわし気に眉を歪める。


 私は少し引き攣った笑みを浮かべて、レティシャから差し出された清潔な白いタオルを受け取った。


「ああ…すみません…レティシャ」


 時計を見ると時刻は13時だった。


「…午後の診察まではまだ時間があるようですね?」


 レティシャは、少しためらう素振りを見せた。


「その…レザボア様がいらっしゃっております。午後の診察まではまだとお伝えしたのですが……如何致しますか?」


 私はシェルフの眼鏡を取って顔に笑みを張り付けた。


「…仕様のない患者様ですね…」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「今回のは上物だ」


 私はレザボアから輸血パックを受け取るとそれを医薬品の棚の引き出しへとしまった。


「…あなたのそれは余り当てにはなりませんがね」


「そういうな、こっちだって仕入れには苦労してるんだぜ?」


「ええ、分かっています。…それではまた一か月後に」


「ああ」


 猫背の男はレザボア。この男との付き合いは長い。専ら、悪友として。


 レザボアは私の診療所の中をいつもの油断のならないギラギラと光る眼で見まわしたので、私は些か居心地の悪い思いだった。


「仕事は順調なようだな?」


「ええ、お陰様で」


「…順調といえば、あの女よく育っている・・・・・・・よわいは?」


 私はレザボアの言葉に顔の筋が過敏に反応するのを感じた。


 あまり気取られてはいけない。この男に対して価値と弱みは同義だ。


「17です。とても素直に育っています」


「旨そうだな…お前もそう思うだろ?」


 この男の下品な舌なめずりが、少しだけ勘に障った。


「…それにしてもお前も奇特だな。こんな貧民街にわざわざ開業しようなんて医者は他にはいないだろう」


「…そうですか?」


「そうとも、そんな虫も殺さねえ優男みたいなつらをして。それは慈善か、それとも偽善か?」


 レザボアは椅子から立ち上がり私の目の中を覗き込んだ。


「…いいや、そのどちらともちがうよな、クライド。もっともっと厭ったらしい……お前の奥底の昏い昏い何かがそうさせるんだ、なあそうだろう?」


 レザボアの愉悦のこもった視線が私を嘗め回した。


 この男の露悪趣味は他人の精神を解剖し、凌辱することに悦びを見出す。


「……さあ、どうでしょうね」


 レザボアは悪辣な笑みを浮かべ、しばらく私を見つめてから踵を返すといつもの足を引きずるような歩き方で診察室を後にした。


 私はレザボアがちらりと受付のレティシャを一瞥し、扉を出ていくのを見送ると診察室の自分の椅子に深く身体を沈み込ませた。


 時計を見ると午後の診察まであと15分もなかった。私は机に常備しているレザボアから仕入れた赤色の固形栄養食・・・・・・・・の封を一つ開けるとそれを口の中に放り込んだ。


「先生、またそれですか?」


 レティシャは受付からいつの間にか診察室の前に立っており、咎めるような視線をこちらに向けていた。


 私は咀嚼してから、レティシャに一袋示してみせた。


「…午後の診察まで時間がないですからね。レティシャも食べますか?」


「要りません。きちんと熱を通したものを食べるようにとレギアス先生から言われたのではないですか?医者の不養生というお言葉を、先生はご存じですか?」


 レティシャはまなじりを上げて私に迫った。この娘は大人しく見え、存外気が強い。


「…夜にはレティシャの作ってくれる美味しい夕餉を食べているから平気ですよ」


「だからといって昼は手抜きでいいだなんてことにはなりません」


 こうなるとレティシャは梃子でも動かないことを私は経験則で知っている。


「わかりました…スープを食べます。さっきからおいしそうな香りがしていましたからね」


「……私に口うるさく言われなければ食べようとしない程度に、ですけども」


 レティシャは私の愛想笑いからふいとそっぽを向くように踵を返すと二階のキッチンへと向かった。


 しかし、言い訳がましく聞こえるかもしれないが、私とて故なく不摂生をしているわけでない。


 私は吸血鬼ヴァンパイア。所謂、亜人である。


 亜人などという人類至上主義的な呼び方に批判的な気持ちはあるが、今は脇に置いておこう。


 亜人。吸血鬼ヴァンパイアはその中でも他種を供物にする寄生種パラサイツとしてとりわけ人類には忌み嫌われている。


 人類というものは生あるまま自我を喪失することについてグロテスクな恐怖心を想起されるものらしい。吸血鬼の眷属や喰種グールにされるについては、近年流行り病の如く流行り出した“人権”などという概念が広まるとともに人間達も日増しに神経質になっているようだ。


 そういった諸般の事情及び私個人の紆余曲折の結果、人に混じり文化的な社会生活を送るために私は自らの正体を隠すということを学んだ。


 近代社会とは支配と抑圧の産物であるとは誰の言葉だったか。言い得て妙だ。


 この近代社会の中で生活する超越者オーヴァードたる吸血鬼ヴァンパイアが無力で哀れなる人間よりさらに絶え間ない抑圧により心身を疲弊させているなど、まるで悪い冗談のようだ。


 しかし私が目下最大の問題としていることからしてみれば、それこそ些末事だ。


「先生…まだよくなりませんか?」


 スープの入ったポットを手に階下へ戻ってきたレティシャが心配そうにこちらの顔を覗いてきた。私は無意識にこめかみに当てていた手を放す。


「…いえ…大丈夫ですよ……レティシャ…」


 そう、そんなことはどうだっていい。


 この、ひどい頭痛に比べたら。

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