第12話 「じゃあな」


 轟音が響いた。

 恋詩の周囲にあった塀が、たった一振りで粉々に砕けた。

 上半身が人間のようで、下半身が巨大な百足の異形は、悠々と大型の錨”アンカー”を振り回す。その風圧だけでも、吹き飛ばされそうだと恋詩は思った。


「ッ」


 吹き飛ばされた塀の破片が恋詩の頬を掠った。

 頬が軽く裂ける。視界の右端に、小さな血飛沫が見えた。


(一発でも貰ったら、間違いなく死ぬ)


 ドクン、ドクンと心臓の鼓動が妙に大きく聞こえる。 

 アドレナリンが過剰に生み出されていく。

 異形の左腕が振るわれる。

 錨が恋詩の真横にあった。

 

「ッ」


 考えるよりも先に身体が動いた。

 身体の力を抜き背を反らす。

 視界に、夜の暗闇が広がる。

 ほんの鼻の先を、青い巨大な錨が通過した。

 そしてまた轟音。


 反らした身体を、前に戻すのではなく、後ろにそのまま回転させる。

 バク転のような動きだった。


 この2ヶ月の経験が、恋詩を動かしていた。

 どうすれば避けられるのか、自分の身体はどこまで動くのか、それを恋詩はすでに知っていた。幸いにも、あの異形は、錨を無造作に振り回すだけかつ、そのスピードはそれほど速くない。少なくとも自分の目で視認できる程度には。

 

 錨を避けながら、恋詩は思い出していた。

 あの世界での修練を。


 ”初めに敵と周囲をきちんと知りなさい”


 修練の中で、影静が言った言葉。

 異形に集中しながらも、周りにも目を向ける。


 車二台がギリギリ通れるであろう道幅。

 右斜に道路標識があり、自身の3mほど後ろには電柱と、その近くに路駐しているシルバーの軽自動車。

 両隣にある塀はもはや完全に破壊されており、そこから異形を通り越し数十m離れた場所には、仕事帰りであっただろう女性が倒れている。


(地面は)


 道路には、粉々になった塀の残骸が転がっている。

 それに足を取られれば、死から逃げることは不可能だ。

 

「それに武器はなし……か」


 異形が咆哮する。

 思わず恋詩は、顔を顰めた。

 異形は未だに恋詩を、仕留められていないことに苛立っているようだった。

 異形の上半身はほぼ人間。その人間の、目が赤く染まった。

 ぎゅるりと、カエルのように動かし恋詩と目があった。


 やっと敵として認識した。恋詩にはそう見えた。

 

 恋詩は走り出す。後ろにではなく、右斜の方向に。

 その顔は、至極冷静で、その瞳には恐怖は映っていない。


(怯えるのは後にしろ)


 自分に言い聞かせ、前を見る。

 また、異形の左腕が振るわれる。


(?)


 後ろに下がらなくても、この距離であれば錨は届かないと恋詩は思った。空振になる。だけど……強烈に嫌な予感がした。瞳の後ろが、何かを発するように痛かった。

 

 そして何故か錨が、恋詩のすぐ横にあった。

 異形の左腕から伸びている触手が、さらにその長さを変えていた。

 さっきよりも長大になっている。


「ッ!!!」


 下に避ける。恋詩は目を見開いた。

 異形は自らの触手を伸ばし、間合いを広げていたのだ。

 危なかった。あの予感に従わなければ死んでいた。

 異形が咆哮する。


 だが恋詩は、口角を釣り上げた。

 それは紛れもない笑みだった。

 恋詩は、腰を屈めてそれを拾った。

 赤い丸に青い文字で”30”と描かれた道路標識。

 それが先程の錨で根本から折られていた。

 

 折られた部分は、鋭利になり思った以上に頑丈そうだ。

 少し想定外のこともあったが、ほとんど思った通りに上手くいった、これなら大丈夫そうだ。


「よう、これでやっと戦えるなぁオイ」


 あの世界での血の滲むような修練(物理的に)は、少なからず恋詩の精神にも影響を与えていた。こうして、戦いの最中、冷静に行動し、戦いを楽しめるくらいには。だが、油断は一切していない。


 そのとき、異形が変化した。

 左腕にだけあった触手が、右腕からも産み出ており、腕に巻き付いて巨大な右腕になる。大木を思わせる大きさだった。


 駆け出す。地面を蹴る感触が伝わる。

 近づくに連れ、生臭いような土のような匂いが、鼻を通り抜けた。

 海の生臭さと、腐った土のような。


 恋詩の横を、錨が掠る。

 痛いが、耐えられないほどでもない。

 そして、恋詩はその左腕に飛びのった。

 異形は、振り落とそうと身体を振り回す。


 異形の巨大な右腕が変化する。

 まるで先端が槍のように変化し、恋詩の側面から貫こうと伸びている。

 それを、標識の丸い頂部で防ぐ。

 異形は狂ったように暴れる。

 だが恋詩の左手は、きちんとその異形の手を、錨を掴んでいた。


 破壊される道路の破片が宙を舞う。

 一つ一つが恋詩の目には見えている。


 そして、恋詩は異形の背中に登っていた。

 異形の頭部を左手で掴んだ。


「じゃあな」


 そして、鋭利に折られた道路標識の残骸を、異形の首に突き刺した。

 血が顔を濡らした。恋詩の視界が赤に染まった。

 だが、それでは終わらない。

 恋詩は、左手で異形の頭部を掴んだまま、身体を持ち上げた。

 異形の頭に、腹部が乗るように。

 そして首に刺さったままの標識の残骸を”ぐるり”と一周させた。

 ブチブチブチブチブチと音が鳴った。異形の首の肉が千切れる音だった。


 恋詩は、異形から身体を離すように下に降りた。

 力を失った異形の身体が崩れ落ちる。


「……」


 数秒、恋詩は異形を見ていた。死ぬよなという期待を込めて。

 そして息を吐いた。

 異形は完全に絶命したようだった。


 力が抜ける。

 まだ壊されていなかった塀に、保たれる。

 そして。


「アァァァァァァ、怖かったァァァァァァ」


 死ぬかと思ったと、恋詩は震えた。

 緊張感が抜け、一気に恐怖が襲ってきた。

 今、死んでいたかもしれないという恐怖。


 修練場での戦いは、なんだかんだで影静がいつも見ていた。

 怪我はしても、命に関わる寸前で影静が手を貸してくれる。

 それをわかっていたからこそ、戦えていた。

 だが、今回は違かった。その場に影静はいなく、今まで以上の恐怖が恋詩を襲っていた。


「はぁ~、良かったぁ、生きてて」


 まるで人が変わったかのようだった。

 その光景を、他人が見ていればそう思っただろう。

 それほどの変わりようだった。


 また影静が言っていたことを思い出す。


 ”目の前に敵がいれば、倒すことだけを考えなさい”と。


 この一ヶ月の修練で脳裏に染み付いた言葉。怯えたり、泣いたりするまえに戦うことだけ、自分がすべきことだけを考える。その思考は恋詩の深い部分に刻み込まれていた。


 恋詩は、ゆっくりと立ち上がり、倒れていた女性の元へ歩いていく。

 首の脈を確認すると、力強く脈打っていた。

 狭間から滲み出た――の影響で、気を失っているだけであった。


「にしても、さっさとあの陰陽師が来る前に帰らねぇと」


 バレたら、どうなるかわからないが、少なくとも面倒事になるのは間違いなかった。

 恋詩は女性を、安全そうな道路の脇にまで移動し、立ち上がろうとした、その瞬間。恋詩は頭を下に向けた。自分でもなぜこんなことをしたのかわからなかった。


「……ッ」


 巨大な何かが、恋詩の頭上を通過した。

 轟音。振り返る。

 異形がそこにはいた。奥の塀には黒い闇が広がっている。

 狭間が開いていた。


「嘘だろ……ほんとによ」


 見上げる。もう1体の異形。狭間からでてきたのだ。

 上半身が女の人、下半身が先程の個体と同じように巨大な百足。

 腕は、どちらもタコの腕のような触手がうごめいており、赤い錨を固定していた。先程の個体と似ている。あれが、雄であれば、これが雌の異形と言えた。

 錨は、雄の個体のものよりも鋭利でそれが今、恋詩の目の前にあった。


「ッ」


 避け……ようとして気づいた。

 今、自分が避ければすぐ下で横たわっている女性は死ぬ。

 間違いなく。


 世界がスローモーションのように見える。

 

 ほんのすぐそこに赤い錨があった。

 今にも恋詩に触れそうだ。

 瓦礫が舞う。

 何の音も聞こえない世界。


 恋詩の脳裏を、今までの人生が流れてきていた。

 間違いなく走馬灯であった。

 幼い頃の家族。優しかった父と母。

 母の遺体がある病室。

 昔、幼馴染の朱里と遊んだ記憶。

 中学校の頃の友人。強がる柊子の姿。

 一ノ瀬の姿。


 そして、影静の姿。

 微笑む影静の姿が強く恋詩の中に残っていた。


 死。

 完全な黒。

 

 死。

 恐怖。


 死。

 

「――えいせい」


 そして錨が振り落とされた。

 





「……恋詩、言ったでしょう、私はあなたの剣であると」


 声が聞こえた。

 夜を切り裂くような凛とした美しい声。

 いつも聞いている声だった。

 衝撃は襲ってこなかった。


 着物を着た影静が、錨を止めていた。

 ただ、錨に指を当てているだけにすら見えた。

 その指先には、血すらついていない。


 その表情はいつも通りで、異形を見てすらいなかった。

 異形が咆哮する。


「今度こそまじで死ぬかと」

「私がいる限りあなたは絶対に死なせません、たとえ何が来ようとも」


 恋詩、私の手をとってと影静が言った。

 言われた通りに錨を押し留めていない方の手を取る。


「ッ」


 その瞬間。膨大な力が恋詩の身体に流れ込んだ。

 影静の姿が変わる。

 人の姿から、美しい刃に。


 懐かしい感覚だと恋詩は思った。

 最近は、自分の修行ばっかりで、影静を握ることはそうそうなかった。


 だが、なぜだろう。以前よりも視界がはっきりと開く。

 そして気づいた。以前のように影静が身体を動かしていないことに。


 巨大な赤い錨を弾き飛ばす。

 力が溢れる。すべての細胞が、燃えているような感覚があった。


「影静どうして」

「大丈夫、今までと同じように戦いなさい」


 不思議な感覚だった。

 影静が身体の中にいるのに、身体は自分の意思で動かせる。

 

 身体が自由に動く、何者にも縛られない。

 力が溢れる。


 怒った異形が、力任せに錨を振るう。

 影静を――妖刀を斜めにし、捌く。錨が後ろへ流される。

 身体は全く微動だにしない。


 身体が熱い。今ならなんでもできそうだ。

 

 走る。

 一歩で、世界が変わった。


 振り向くと、異形を通り越していたことに気づく。

 一瞬で数十mほど移動していた。

 しかも、まだ限界ではない。

 まだまだ、上限などないかのように力が湧いてくる。


 今なら、戦車だって軽く片手で持ち上げられる。そんな気がする。

 

「恋詩」

「あぁ」


 妖刀を握る。

 そして振るった。


 影静の意思と、自分の意思が1つになる。

 そんな感覚があった。






 巨大な異形が細切れになるのに、1秒もかからなかった。





 そして世界は静けさを取り戻した。






「おめでとう恋詩、あなたはまた一つ壁を超えた」


 力が抜ける。

 終わった、今度こそ。


「後は私に任せて、休んでいなさい」


 身体が勝手に動いた。

 影静が恋詩の身体を動かしていた。


「影静、カバンとらないと」


 最初に投げ捨てたカバンを拾う。

 砂埃に塗れていた。


「そろそろ彼らが来ますね」


 飛ぶ。そして、近くのあった住宅の屋上にたどり着いた。

 彼らとは、この世界にいる異形”鬼”と戦う存在であり、漫画でよくいる陰陽師のことだ。


「……」


 カンカン、音が鳴る。

 そして身を屈めて、下を見た。


 彼らが来ていた。

 異形の亡骸の前で、なにやら呆然としている。

 黒い装束を纏った7人。

 前見たのとは、メンバーが違う。

 

「あ」

「恋詩?」


 呆然と彼らを見る。

 その中にいた。


「朱里……」

 

 今日の昼に話をしたばかりの元恋人である御堂朱里という少女が、黒い装束を纏ってそこにはいた。そしてその隣には、思い出したくもないあの金髪の男がいた。



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