その笑顔

 僕の記憶の中に、仲の良い母と父はいなかった。

 毎日のように怒鳴り合い、啀み合いで喧嘩するの毎日。

 その喧嘩に終わりはなく、無限に互いの不満をぶちまける。

 そして、終わった頃には家を出ていく。

 二人揃って、互いに、バラバラに、家を出ていく。

 でも、また次の日には家に帰ってきてくれる。

 それだけが、僕にとって僅かな希望だった。

 これだけ喧嘩をしてもなお、家に帰ってきてくれるのは、母も父もそれなりに思うところがあるのではないか。

 仲直りをしたいという気持ちが少なからずあるのではないか。

 ただ、そんな希望もはかなく散る。

 母と父は帰ってこなくなった。

 怒鳴り声が聞こえなくなった家に、僕はどこが寂しさを感じていた。

 僕は、希望も抱くことさえ許されないのか。そんなことさえ思った。

 冷蔵庫を開けても、食材ひとつなく、今まであったはずの母と父の持ち物が、綺麗さっぱり無くなっている。

 まるで空き家になってしまったかのような、殺風景な部屋が僕の視界を包んでいく。

 


* * * * * *


 俺は香月の話を聞いた。

 長くも、そして短い、香月の人生の話を。

「そうか。それは、よく頑張ったな」

 俺は率直に、思った事を言う。


「いいや。僕は頑張ってないさ。なにも、頑張れなかった」

 首を横に振りながら、香月は素っ気なく言う。


「お前は頑張ったんだよ。俺が保証してやる」

 いったい、俺になにが保証できるのかって思ったが。

 俺は、少しでも香月の気持ちが楽になればという一心で、俺は言う。


「ふふ。お前になにが保証できるんだよ」

 からかうような笑みを浮かべ、香月は言う。


「まあ、正直これまでのお前からは、そんな事情を抱えてることなんて分からなかったよ。いっぱい気を使わせたろ?ごめんな」


「別に、何気お前らといる時は楽しかったからな。色々と忘れることが出来たから」


「そうか。なら良かったよ」


「でもさ、お前も一緒だろ?」


「え?」

 唐突に、胸を刺される感じで聞かれたその質問に、俺は動揺してしまう。


「いや、これは僕の勘なんだけど。お前さ、いっつも死んだような目をしてるからさ」


「やっぱ、分かるもんなのか」


「まあ、具体的になにがあったかまでは分からないけどな」

 

「別に、お前と似たようなもんさ。色んな家を転々として。まあ、もう既に終わったことだよ」


「あっそう。まあ、僕の話ももう終わったことかな」


「終わってはないだろ。まあ、今すぐってわけでもないか。何年、いや何十年後かにまたお前は、目を逸らしてただけって事を痛感するだろ」


「そうかもな」


「だからさ。辛くなった時は、ここに帰って来いよ。お前がどんなに悲しい顔してても、俺が笑ってお帰りって言ってやるからさ」


「…………。お前に笑顔なんてできるのか?」

 そう言った香月の声は、震えていて、どこが泣いているような気がした。

 でも、その涙は悲しみから来るものではないだろう。


「できるさ。笑ってやるよ」


「…………。カッコつけて、何言ってんだよ」


「うるせ」


「……でも、ありがと」

 か細く、震えている声で言ったそのありがとうは、風に飛ばされ、消えていく

 俺の、胸の中へと。


「別に、礼なんていいよ。俺とお前は、友達なんだろ?」


「ははっ。そうだな。そうだったな。友達だ」


「だからさ、また悩みがあれば言えよ。聞いてやるから」


「ああ。その時は、そうするよ」

 俺の方を見て、ニコッと笑った香月の目から涙がこぼれ落ちる。

 そうか。俺は、これが見たかったのか。

 こんなふうに笑う香月を見たかったのか。

 良かった。俺との相談で、香月の気持ちが少しでも楽になれたなら。

 ただ、この話はこれでは終わらない。

 終われなかった。

 一週間後。俺と香月は早くも気付かされる。

 目を逸らしているだけじゃ、逃げたことにならないって事を。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る