5-9

 八月二十九日、深夜二時。

 吹く風は生温く、ひどく蒸し暑い夜だった。

 星々の瞬きは、静かな空に確かな輝きを灯している。なにも変わることなく、そこに存在し続ける。

 そんな中、半分に割れた月だけが、まるで失われた半身を探すように地上を見下ろしていた。

 悲しげに浮かぶ月に渚砂を想い、つい三日前の出来事なのに昔のことのように感じる過去を思い出す。

 割れ落ちた半身は渚砂のクローン……。

 ふとそこで、浮かんだ像を払拭するように頭を振った。ずいぶんと感傷的だなと、自嘲気味に笑みをこぼす。

 これからその悲劇を生み出した男と対峙するというのに、そんなことでどうする。俺はそう心の中で自分を叱咤した。


 恭介と二人、温い夜風を肩で切り裂きながら、昼に送られてきたメールで指定された場所へ向かう。

 死角になる場所での取引、そう思っていたが。予想外にもそこは中央にある噴水の前だった。

 水が噴き上がるのを今か今かと待っているように、月光に浮かぶ白亜の彫像が静かに佇んでいる。

 手前には神崎岳人と、その後方に控え立つ帯刀の姿が。


「――レイちゃん、キョウやん!」


 後ろ手に縛られ噴水の縁に座らされた美夜が、俺たちを認識するなり声を上げた。

 声音からは不調を感じさせない。どこもおかしなところもなく、いつもの美夜がそこにいた。

 ちゃんと飯は食わせてもらっていたようだ。衰弱していなくて安堵する。

 一週間以上も会わなかったことなんて、いままで一度もない。

 久しぶりで妙な照れくささと、そこにいるだけでいい安心感を覚えた。

 大丈夫か? そう声をかけて再会を喜びたかったが――危惧していたものが突き付けられたことで、そうも言っていられなくなった。


「……物騒なもん向けんじゃねえよ」

「渚砂はどうした?」


 オールバックで髭面。テレビで見たままの神崎岳人の、低く沈んだ声が鼓膜に響く。

 向けられている黒い自動式拳銃には、やはりサプレッサーが装着されていた。


「渚砂はあんたの元には帰りたくないそうだ。またクローン作られちゃ敵わないんだとさ。嫌われてんな、父親なのに」

「無駄口を叩くな。しかしそうか。お前たちは知ったのか、神崎の闇を……。だがな、俺は渚砂を連れてこいと言ったんだ。……どうなるか分かってるんだろうな?」


 怒気を孕んだ声に、心臓が少しだけ萎縮する。

 不安要素の一つ。約束を反故にした場合、岳人は美夜に銃を向けるであろうことだ。

 案の定、銃口は美夜に突き付けられている。


「レイ、ちゃん……」


 月明かりに照らされた美夜の目元が、涙でキラリと光った。俺に向けられているその瞳に恐怖はあれど、しかし絶望はない。信じてくれてるんだ、俺が助けてくれることを。


「待てよ、美夜は関係ないだろ。これは渚砂の意思だ。それを無視して捻じ曲げてまで、あんたは連れ帰るつもりなのかよ」

「当たり前だ。あれには金が成る。俺の資産の一つだからな、持ち帰るのが当然だろう」

「資産……? てめぇ人をなんだと思ってんだ! 大事な娘だろうが!」

「だから大事にしているだろう。死なせんようにクローンを造ってまで、大切にしているだろう? くくく――」


 肩を震わせ不気味に笑う、その姿はマッドサイエンティストを彷彿とさせた。


「狂ってやがる」

「なんとでも言え。世の中金だ、金が全てだ。渚砂の血さえあれば、不老不死も夢じゃなくなるだろう。その薬が出来たらどうだ? 世界の富豪がこぞって買い求める! 金が手に入る! 金さえあれば、あらゆるものを牛耳ることも可能だろう! これほど愉快なこともない」

「その為だけに渚砂は生かされてんのか、あんたに……」

「そうだ」


 逡巡もなく即答された。

 走馬灯のように思い返された出来事一つ一つを拳に握りしめ、俺は駆け出した。

 殴ってやらないと気が済まない。殴ったところで収まるものでもないけれど、殴らずにはいられなかったから。

 二メートル。

 あと二、三歩で拳が届く。そう思った俺の体は――、岳人が向けてきた銃から避けるため、咄嗟に体を捩っていた。直後、バスッという鈍い空気漏れの音とともに、左腕を掠めた銃弾。

 俺は地面に倒れ、受け身を取りつつ勢いのまま転げる。


「――くっ」

「レイちゃん!? 」

「零司!」


 美夜の叫びと、珍しく心配そうに俺の名前を口にした恭介の声が耳朶を叩いた。

 俺は被弾した箇所に触れる。シャツの切れ間から肌に触ると、ぬるっとした生温い感触に手が濡れた。けれど、幸い掠り傷のようだった。


「心臓を狙ったはずなんだけどな、悪運の強いやつだ、」


 どこか呆れ口調の岳人は完全にこちらへ体を向けると、ついでと言わんばかりに銃口も向けてきた。


「これが最後だ、よく聞け。渚砂を今すぐに連れてこい。死にたくなければな」

「だから言ってんだろ、渚砂はあんたの元には帰りたくないって」


 俺を見下ろしながら、岳人は実験用のモルモットでも嘲笑うかのように肩を震わせる。


「……くくく、分かったぞ。お前ら、寄ってたかってうちの娘を誑かし篭絡したんだろう、そうだろう! 残飯処理屋の分際で身の程を知れ!」

「残飯処理、だと?」

「違わないだろう? 爪弾きされたクズ共が集ってつまらん依頼をこなすんだ。金を取るなんてのはお門違いもいいところだ。そんなものはボランティアでやれ、無駄なんだよ」

「てめぇ――」


 俺は貶されても構わない。でも、麗華が作った黒鴉を侮辱することは許さない!

 俺の居場所だ。麗華が苦手な父親にまで掛け合って作ってくれた、大切な場所なんだ!


「おっと動くなよ。こちらに人質がいることを忘れているんじゃないだろうな?」

「っ――」

「零司、落ち着け」


 敵意を表し牙を剥いた俺を宥めたのは、恭介だった。


「なんで止めるんだよ!」

「俺は冷静になれと言っている」

「俺たちの家が、家族が貶されてんだぞ! 落ち着いてなんていられるかよッ」

「そんなことは聞いていれば分かる。とりあえず止血しておけ。掠っただけなら大丈夫だろう」


 恭介はジャケットの内ポケットから、黒いスカーフのようなものを取り出した。しかし平べったくなく、何かを包んでいるように見えた。

 そのスカーフらしき布を外すと、そこから銃身の短い拳銃が姿を現したのだ。


「恭介、それは……ていうかお前、黒鴉は犯罪はしないって――」

「お前から神崎渚砂の話を聞いてな。こんなこともあろうかと思って用意してきたんだ」


 冗談だよな? そう訊ねたかったが、恭介の目はどう見てもそう物語ってはいない。

 受け取ったスカーフで腕をキツく縛り、俺はゆらりと立ち上がる。

 岳人に目を向けると、どこか呆れるように半笑い、


「それはなんの冗談だ?」

「冗談だと思うのか?」

「なら、俺に向けて撃ってみろ」

「………………」

「どうした?」


 撃てないのか? と岳人は勝ち誇ったような顔をして問いかける。

 恭介は黙したまま何も答えない。

 まさか――、


「偽物……?」

「……まあな、モデルガンだ。暗がりだが、さすがに実銃持ってる奴にはバレるのか」


 威嚇くらいにはなると思っていたが――言いながらトリガーガードに指を突っ込み、綺麗なガンスピンを決めて見せる恭介。そしてわざとすっぽ抜かすと、そのままモデルガンを放った。地面に落ちると、明らかにプラスチックらしき安っぽい音がカンッと軽快に響く。


「お前バカか! こんな時に冗談言ってる場合かよ!」


 悪い、と普段通り両手を適当に上げるジェスチャーで、大して悪気なさそうに謝る恭介。

 気に障って美夜を撃たれでもしたらどうするつもりだ――軽率な行動を非難しようとそう口にしかけた時、


「だが、どの道あいつは神崎渚砂を連れてきたところで、俺たちを殺すつもりだ。違うか?」


 峻烈な目を向ける恭介の指摘に、岳人は鼻で笑い、


「なかなか勘が鋭いな。見所のあるやつがいるじゃないか。……恭介と言ったか?」


 愉快げに笑みを湛えながら、恭介を名指しした。

 氷のように冷たい視線を意にも介さず、岳人は続ける。


「そこのスカーフを殺れば、お前だけでも生かしてやってもいいぞ」

「なに?」

「俺はお前のような人材が欲しい。この場に及んでも冗談が言える奴はそういない。冷静で沈着、頭もよくキレそうだ。お前のようなやつが俺の側近をやるべきだ。金なら積んでやるぞ?」


 そういって岳人は上着の懐から紙束を取り出し、ペンで何かを記入した。そして一枚を切ってこちらへ投げてくる。

 それはひらひらと、木の葉が舞い散るようにして俺の足元に落ちた。


「これは……」


 拾い上げたそれは小切手だった。神崎岳人と癖のある字で名が書かれている。


「そいつにいくらでも書き込むがいい。契約金だ」


 言って、岳人は屈みながらこちらへ向かって銃を滑らせる。アスファルトを滑った拳銃は、ちょうど恭介の足元で止まった。岳人は歪な笑みを口元に刻んで黙って返答を待つ。

 俺は恭介に振り返る。


「ふんっ」


 と不機嫌そうに鼻を鳴らすと、恭介は俺の手から小切手を奪い取った。

 小切手、そして足元に転がる拳銃を順繰り眺め、


「貴様の態度には嫌気が差すな。まるであの女と同じだ。金で全てが買えると思っている」

「金さえあれば大抵の物は手に入る、違うか?」

「どいつもこいつも……反吐が出るな。生憎、俺はいまの仕事に満足している。それに、人使いの荒い所長に出来の悪い所員、そして小うるさい小娘の面倒を見なきゃならないのでな」


 言い終えるや、恭介は小切手を破り捨て、拳銃を岳人とは違う方向へ蹴飛ばした。

 ガラガラと擦れながら地面を滑っていく拳銃。

 それを横目にしていた岳人は、大して驚きもせずただ不敵な笑みをこぼした。


「――残念だ」


 小切手を取り出したのとは逆の内ポケットから、新たな拳銃を取り出すと、セーフティを外してスライドを引く。流れるような慣れた手つきで、岳人は美夜へ銃口を向けた。


「――待てッ――」


 距離的に大股でも五歩以上はある。走っても間に合わない!

 一連の動作、時間がスローに流れる。どうしてこの時の夢を予知夢で見られなかったのか。対策くらいは出来たかもしれないのに。自分自身を呪いたくなった。

 救いを求める言葉か、美夜がなにかを口にしかけた刹那――

 鈍い空気漏れの音が、緩慢とした時間を切り裂いた。

 頭蓋骨を後頭部から撃ち抜かれ、引き金に指をかけたままの岳人の動きが制止する。

 ややあってその体がぐらりと傾ぎ、地面に崩れ落ちていく最中――、岳人を撃った人物が幽鬼のように姿を現した。

 微かな硝煙を上げる銃を構え、倒れた岳人を無感情に見下ろしていたのは帯刀だ。


「なっ……!? 」


 驚きのあまり目を瞠ると、静かに銃を下ろしポケットから携帯を取り出してどこかへ繋いだ。


「……私だ、……ああ、岳人は始末した。後処理を頼む……」


 それだけ告げると、携帯の電源を切ってこちらへと歩んでくる。


「始末って……岳人は死んだのか……こんなあっさりと?」

「ああ」


 信じられず、さっきからうつ伏せのまま動かなくなった岳人を見やる。

 血だまりを下敷きにする岳人の頭は、鼻の辺りが見事に撃ち抜かれている。脳幹をピンポイントで狙われたようだ。だがそのおかげで、岳人に撃たせることなく殺せたのだろう。


「でも、なんで殺したんだ」


 発して気づく、自分の声が掠れていることに……。

 夢の中で幾度も目の当たりにしたはずの殺人による死という概念、それがすぐ側に落ちている。明晰夢と勘違いしそうな非現実的な光景に、にじり寄るような恐怖を覚えた。

 しかし帯刀は大して罪悪を感じてなさそうな、普段通りの冷静さで口を開く。


「こうするほかなかった。お嬢様を救うためには……」


 いままで何度も殺そうと思ってきたと、帯刀はつらつらと語る。その度に、渚砂の顔が浮かんだ。母親だけでなく、父親までいなくなったらと考えると、なかなか実行には移せなかった。あんな奴でも肉親だ。それに自分を側近に取り立ててくれた岳人への恩義もあるからと。

 ――以前渚砂が母親はいない、そう言っていたことを俺は訊ねた。


「お嬢様を心から想っていた奥様は、岳人がクローンを造ろうとしているのを知り、猛反対していた。しかしそれを煩わしく思った岳人に、病死扱いにして殺されたんだ」


 夢の不穏な空気、その結末か。そうじゃないかと思っていたが、つくづく救いのない話だ。

 母親を亡くして以降、渚砂は内に籠るようになった。渡された写真の渚砂が暗そうに見えたのも、母親の死に起因するものなのだろう。

 そしてクローンが生まれた。渚砂は自分のせいで生まれ出でたクローンに心を痛めていた。

 自分の代わりに、一生出ることのできない鳥籠の中で、死ぬまで血を抜かれ続けるという現実を知ったから。

 それから月日が経ち、偶然クローンの寿命を知った渚砂はクローンを逃がす計画をし、俺たちに依頼をしたことを帯刀に告げた。自分を頼ってくれたことが嬉しかったと帯刀は語る。


「私はお嬢様の笑顔に救われていた。だが母親が死に、クローンが生まれ、その生が長くないことを知ったお嬢様から笑みが消えた。あの日、クローンに外の世界を見せたいと決意を口にされたお嬢様の瞳は力強かった。今までに見たことがないくらいに。芯の部分は如何ほども崩れていなかったと知り、私はそれを手伝うことにした」


 あの日黒鴉に写真を持ってきたのは偶然ではなく、保護する対象をはっきりと渚砂であることを俺たちに知らせる為だったのだ。

 不意に、帯刀は小さく笑むと、


「そういえばお前には以前、銃を向けたことがあったな。癖とはいえ悪かった。そして月島美夜にも謝罪しよう」


 俺たちを順に見て、軽く頭を下げる。


「けどそんなことなら、もっと早く俺たちに教えてくれてもよかったんじゃないのか?」

「いや、」そう言って首を横に振り、「――私はどこかで期待していたんだ」


 帯刀はもう一つ思惑があったことを語った。

 渚砂がいなくなったことで岳人が改心し、真っ当な生き方をして父親らしくなってくれれば。そんな淡い期待を抱いていたのだと。


「期待はやはり裏切られたがな」


 自嘲にも似た力ない微笑を湛える。自身の浅はかさを悔いているように見えた。


「だから、殺すことを選んだのか?」

「そうだ。もうどうしようもない処まで来ていた。殺さなければまたクローンが生まれていただろう。そのことでお嬢様の精神が病み、廃人になる未来しか私には見通せなかった」


 帯刀は一つため息を落とし、サプレッサーを外して銃を仕舞う。

 その時、公園内を歩いてくる数人の足音を聞いた。


「来たか」


 目を向けると、帯刀と似たような黒服の中に、以前渚砂を連れて逃げた時に見たガタイのいい男たちの姿を見つけた。


「あんたたちは……」

「あの時は世話をかけた。渚砂お嬢様を逃がすための演技だったが、お前たちに無事見つけて貰えて安心した」


 ……なるほど。端から俺たちは手の平の上で踊らされていたってわけか。

 少し話がうますぎるとは思ったんだ。


「――時間はあまりない。急いで処理してくれ」


 帯刀が懐中時計を見ながら指示すると、男たちは「了解ボス」と返事して作業を始めた。

 遺体をゴミ袋に入れて、ゴミ収集を装った台車に乗せる。地面を汚していた血液を洗浄し綺麗に拭きとると、そこに今まで死体があったことなど分からないほど綺麗になった。

 落ちていた拳銃とモデルガンを回収し、男たちは先に行くことを帯刀に告げると礼をして立ち去った。


「これから、あんたはどうするんだ?」


 俺の問いに、帯刀は答えない。

 黒服たちも心配だが、帯刀が気になった。岳人を殺した犯罪者だ。逃げ続ける未来なのだろうか。それとも自首するのか。だとしたら、取り調べでいろいろ出てくるかもしれない。

 それだと、渚砂は……。


「あんたがいなくなったら、あいつはどうする? また一人だ。それを考えなかったわけじゃないだろ」


 真一文字に噤んでいた口を開くと、帯刀は小さく息をつく。


「……私たちは、影からお嬢様を見守ることにする。こんなに血に塗れた私たちには、側にいる資格はないからな。その覚悟はしてきたつもりだ。それに、お前が憂慮している事象のほとんどは心配ない。こちらで全て手を打っている」

「全て? 殺人もクローンも、ブリードも問題ないってことなのか?」

「そうだ。全ての犯罪が表に出てくるわけじゃない。秘密裏に処理済みだ」


 処理済み。その言葉が背筋を凍らせた。

 沈黙を保っていた恭介が、珍しく話の腰を折るように発言する。


「なるほどな、お前たちはアチラの世界の住人か」

「ふっ、そういうお前も似たようなニオイがするな」

「昔の話だ」

「そうか」


 全て……。その言葉の意味を考えていた俺は、帯刀と恭介の話を遠くで聞いていた。

 ブリードを知る者、クローンを知る者、殺人を知る……


「って、まさか俺たちまで殺すつもりじゃ――」

「お前たちはこのことを忘れろ。私はもちろん、岳人も、クローンも、ブリードも。私もお前たちのことは知らないし関係などない。……利用してしまったことは詫びよう、迷惑をかけたな」


 会釈程度に頭を下げる帯刀。

 俺は胸につっかえている気がかりを訊ねる。


「……一つ聞いていいか」

「なんだ?」

「渚砂はこのことを知ってるのか?」

「……いや、お嬢様にはなにも伝えていない。殺すか最後まで悩んでいたからな。全て私の独断だ。だが、岳人が人質に手を出そうとした。無事に返す約束をした手前、殺らせるわけにはいかないだろう」


 約束だけを守ってくれたわけか。どいつもこいつも変なところで律儀だ。

 噴水の縁に腰かける美夜に顔を向けると、辛そうな表情で黙って話を聞いていた。

 俺たちは何をしてやれるだろう。このことを渚砂に伝えるか? いや、話せない。少なくとも俺たちの口からは。それに話せば渚砂は責任を全て一人で背負い込みかねない。それは帯刀の意図するところじゃないだろう。

 だからといって、犯罪を見過ごすことは出来ない。だが全てが公になれば、クローンの存在も渚砂の血の秘密もマスコミに面白がられるだけだ。

 せっかく自然に笑えるようになってきた渚砂の部屋が、また闇いものになってしまう。また心を閉ざしてほしくはない。笑いながら死んでいったクローンのためにも……。どうすればいい――。

 やり場のない思いをぶつけるように地面を睨んでいると、


「迷惑ついでに頼みがある。私がこれを言える立場にはないかもしれないが」

「聞けないかもしれないけど、話くらいは聞くよ」

「……お嬢様がなにか困ったら、助けてやってくれないか。勝手な願いだとは思う。だが私には、お前たち以外に信用し頼れる者がいない。だから――」


 俺はその言葉を遮った。そんなこと、言われるまでもない。


「渚砂は黒鴉の仲間だ。困ってるなら助けるさ」でも――溜めるようにそう前置き、「いつかあんたが助けてやれよ。理由はどうあれ殺した。それを真面目なあいつが赦せるかは分からないけど。あんたの口から全て説明しろ。そのためにも、絶対に渚砂のもとに帰ってこい」


 俺は感じていた想いをそのままぶつけるため、帯刀の目を睨み付ける。

 それに応えるように、帯刀も烈しい目付きで見返してきた。

 突然ふっと相好を崩し、「お前たちなら信頼できそうだ」言いながら時間を気にした帯刀は――そろそろ行くと踵を返す。

 木々の合間に消えていく背を、俺は見えなくなるまで睨んでいた。

 どこへ行くかは告げなかった。俺も聞かなかった。けれど、いつか戻って渚砂に全て打ち明けてほしい、そう願わずにはいられない。

 ようやく緊張から解放されたのか、美夜が立ち上がってこちらへ駆けてくる。


「レイちゃん!」


 勢いのまま胸元に飛び込んできたのを抱きとめる。

 黒鴉のバッヂの尖った部分で美夜を縛っていた縄を切ってやると、抑制されていたバネが解放されるようにして背中に腕が回された。

 蒸し暑さの中さらに体温も加わり暑苦しかったが、その言葉は口から出てこなかった。


「ったく、あんまり心配させんな」

「……ごめんなさい」


 悪戯を咎められる猫みたくシュンとする。トレードマークの猫耳みたいに跳ねる癖毛も、鳴りを潜めているようだ。

 なんだかこれ以上叱るのは可哀そうな気分になってきて、「ふぅ」とため息一つで流すことにする。

 ぽんと頭に手を置き、さらりとした髪を撫で、


「大丈夫だったか?」


 身を案じて声をかけると、美夜はキョトンとした後、嬉しそうににへらと笑って言った。


「大丈夫、傷物にはなってないよっ」

「そこの心配じゃねえよ」

「え~っ、心配してくれなかったの?」


 まあ心配はしてたけどな。でも、それどころじゃなかった部分も多々あって……。


「レイちゃんの困り顔って、なんか萌えるよね」

「……はぁ?」

「ま、レイちゃんが心配するようなことはなにもなかったってこと! 帯刀さんは良くしてくれてたよ。ごはんもちゃんと食べさせてもらえてたし」


 だろうなとは思ったけど、まあ安心は安心だ。

 美夜に気づかれないように、ほっとした息を吐く。


「でもさ、」


 体を離して呟き神妙に眉をひそめると、美夜は帯刀が消えていった方を眺めた。


「これから、どうするの?」


 訊ねられた答えは、自分には出せそうにない。恭介にどう考えるか訊こうと目を向けると、立ったままうつらうつらと舟をこいでいた。

 オール出来るなんて豪語してた割に、ずいぶんと眠そうじゃねえかよ。

 恭介なりに今夜のこと、渚砂や美夜のことを考えていたのかもしれないな。こいつはこいつで、仲間想いなことは知ってるし。


「……まあいまは考えるだけ無駄だろ。帯刀も忘れろって言ったんだし、忘れるのがいいんじゃないか? どうせ麗華に忙殺されて忘れそうな気もしてくるしな」


 きっと忘れられないだろうけど、いまはそう言う他ないのかもしれない。

 少なくとも、美夜にはそういうしがらみや憂いを引きずって欲しくはないから。

 ――それにしても。

 黙っていても打ち明けても、誰も幸せにならない。理不尽という言葉は生きている限り往々にしてあることだけど、ここまで後味の悪い出来事もそう経験することはないだろうな。

 半分に欠けた月を見上げ、俺はクローンの姿を重ねた。

 笑いながら逝ったあいつは、この結末をどう感じるのだろう。

 それでも思う。

 勝手な想像に過ぎないけれど、クローンの渚砂ならきっと、渚砂自身の幸せを願うはずだと。

 だから俺たちも、それを一番に考えてやるべきなのかもしれない。いつか真実を知るその時が来るとしても、だ――。

 月に浮かべた像を消し去り、俺は小さな背中に声をかける。


「そろそろ帰るか」


 美夜は栗色の髪を揺らしながら振り返った。

 刹那どこか物憂げな顔をして、けれど「――うん」次の瞬間には、やわらかく笑顔を見せて頷いた。

 そうして恭介を起こした俺たちは、麗華と渚砂が待つ事務所へ揃って帰社したのだった。

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