四日目 「走」

 ホテルの内部は、野次馬や緊急車両の音でざわめく外と違って不気味に静かだった。


 決して人が一切いないのではない。宿泊客はみんな部屋の中に避難しているのだ。



 日本は世界的に見て治安はいいが、それでも犯罪はある。今回の神隠しのように強力な神通力を駆使して罪を犯す人も少なくなく、中には戦車の主砲級のもあるから自然的に公共施設の建物は強固な作りになる。


 ただでさえ自然の災害に対応するために建築基準が他国より高いところで、対神通力用も合わせると日本の建築は世界最強級となり、今では爆破解体が不可能なほど頑丈だ。


 もっともそのレベルは公共施設の話で、一般住宅は自然の災害に強い程度である。


 それゆえに公共施設内で依巫による犯罪が起きると、逃げることよりは立てこもる方を推奨される。そしてその頑丈さに目をつけた王政の国では宮殿に施工してくれないかと打診があるくらいで、数年前に中東の国に技術輸出したらしい。



「……機動隊は撒いたんだ」


 四十五階建てで四十二階スイートルーム。そこに神隠しはいた。


 宿泊客がいたかどうかは判断付かないが、部屋を暗くし、壁一面の窓からは大都市と比べて劣る繁華街の光が入って神隠しの影を浮かび上がらせている。


 階段に逃げた神隠しを追った機動隊たちの姿は無かった。エレベーターで直行したから階段で何が起きたのかは分からない。



「結構楽しめたぜ。持ってるアイテムを奪い取るなんてボス級のウザ技は効いたけどな」


「神隠し、貴様はもう終わりじゃ。仮に警察から依り代を奪っておろうと、最初に会った時の戦力はあるまい」


「ん、ここまで追い込まれたのは初めてだ。万能系を相手にするにゃまだまだ足りなかったよ」


「……さて、そろそろ面倒に巻き込んでくれた仕置きをしてくれようか。そうだな、とりあえずは土下座させて、その後で全裸にして野次馬に神隠しであることを自白させるか」



 月筆乃命は会話をするつもりはやはり無いようで、さっさと自分の要求を告げる。それは貫之も同様だ。現実とゲーム感を混ぜている神隠しと何を話そうと収拾なんてつくはずがない。


「少しは話に乗ってくれてもいいだろ」


 貫之と月筆乃命は口を開けない。



「……んだよつれねーな。前のお前なら付き合ってくれたじゃねーかよ」


「前の?」


「顔を変えてるからな。まだ気づかねーか」


「貫之、こいつは何を言っとるんじゃ?」


「し、知らないよ」


 真っ暗なスイートルームに明かりが灯り、暗闇に慣れたことで視界全体が真っ白になる。



「……なっ!」


「貴様は、佐一!」


「ようやく気づいたのかよ。相変わらずトロいな」


 窓際にいるのは見間違いようもない。貫之から散々略取をし続け、月筆乃命の顕現と同時に信用を失った貫之の兄の佐一だ。



「な……は? なんで兄ちゃんが!?」


「……辻褄は合う。ここの券を渡したのは佐一だし、昨日警察署にあいつは来てなかった。それに妾の力を知っても不思議ではない」


「じゃあなんで脈が起きた日に奪わなかったんだ!」


「奪えなかったんだよ。俺の依り代は顕現したのじゃないと奪えないからな」


「水晶玉なんて一度も見たことないぞ」


「誰が見せるかよ馬鹿」


 口調も声色も全部が佐一で、貫之の全身から汗が噴出する。



「佐一よ、貴様が神隠しの正体ならどうして教える。まさか身内だから擁護するとでも思っているのか?」


 家族とて犯罪者をかくまえば幇助として犯罪者に成り下がってしまう。貫之本意の月筆乃命がそんな事を容認なんてしないし、家族とて罪を償うほうに考えが及ぶはずだ。



「んなの簡単さ。お前らの力を奪って記憶を書き換えりゃいいだろ。そうすりゃ力も奴隷も手に入って一石二鳥だからな!」


 兄にとって弟は体のいい下部とも言える。しかも記憶まで書き換えれば親に告げ口をされる心配すらない。


「貴様の性根は昔から腐っていたと思ったが、そこまで堕ちていたか! 貴様が月宮家長男と思うと恥じるばかりじゃ!」


「家系とか長男の尊重っていつの話をしてんだよ。今の時代で長男も次男もないだろ」



「そういう考えが腐ってるというんじゃ。どんな家系であれ、長男として生まれたのなら誇りを持たぬか!」


「誇りだけで自信が持てるのかよ。誇りがあったら、こんなことになるのかよ!」


「だから身を固めるに反応したんだな。何をやっても、最初はうまくいくのに調子に乗ってマイナスで終わるから、プラスで終わりたいからプラスしかない依り代を集めたんだな! 他の人たちをマイナスにしても、自分さえプラスならそれでいいのかよ!」


「ああいいね。思いやりとか他人に優しくとかクソ食らえだ。上っ面だけの礼とか受けてなんだ。自分が苦労して他人助けて、ならその他人は俺を助けるのかよ」


「その手助けが輪になって、大きな事が起きたら一致団結して動けるんだろ」



「綺麗事並べんなガキが。テレビのこと鵜呑みにしてんじゃねぇよ。いざってときは他人なんか捨てるのが人間だ。民族とか関係あるか!」


 佐一の自己中心的な物言いに反論している内に息が荒くなる。


「……兄ちゃん、もう手遅れだけど警察に自首しよう。これ以上続けたってプラスなんてない」


「テレビが世界の中坊が図々しいこというんじゃねぇよ。世間のことなにも知ねぇくせによ!」


「そういう貴様は貫之のことを何も知らんな。知ろうともしないから追い詰められとるんだろ」



 肩から重さが消える。


 月筆乃命が肩から跳び下り、佐一は少し腰を下ろす。だがその顔は勝ち誇ったかのような顔をしていた。


「なーんて」


 貫之もまた、へっと笑ってそう呟いた。



 前方に向かって跳び下りた月筆乃命は着地をするとすぐさま踵を返し、貫之の後方に向かって手を突き出した。


 鈍い音が貫之の後方で起こり、床に長円形の凹みが生まれた。そして凹みの中心に、人がうつ伏せで現れる。右手にはサバイバルナイフを持ち、左手には鈴を持っていて、その顔にはロビーで見たのと違うお面を付けている、水晶玉の神霊だ。



「なっ……」


 驚きの声を上げるのは佐一だ。


「何を驚いておる。裏をかくのは貴様の十八番だろ。なら裏の裏をかけばいいだけじゃ」


「う、動けない……」


「今の貴様の体重は約三百倍だ。三百倍の力が今出せるか?」


「なぜ、分かった」


「裏をかくのを見せすぎなんだよ。裏ってのは表を見せ続けてこそ引っかかるんだろ」



 逆に裏をかき続けて表を出したところで怖くはない。


 そもそも神隠しが佐一と晒して動揺を誘い、否が応でも対応しなければならない間に万年筆を奪おうとすることは、古川が成った神隠しから聞いていた。


 こう来るだろうと『予測する裏』から『確定した裏』になれば、もはやそれは裏でもなんでもない。なにせ本人から自白させたのだから狂いようもなく、ある意味未来を聞いたようなものだ。


 貫之はポケットから万年筆を取り出す。



「この小さな万年筆の力は凄いよ。万能系って呼べるだけあって、生活の中で出来たらいいなってことの大半が出来るんだから。あんただけじゃなくてたくさんの人が欲しがるのも分かるよ。でも、多分……ううん、万能だからって他人のシチコを有効に使えるのは誰だって無理なんだ。あんたのシチコはきっと僕には扱え切れないし、僕のシチコを完全に使えるなんて出来ない。何とか系って種類別されても、微妙な力加減が違って完全に使えるのはその依巫だけなんだ。だって神も力も物も、その人の愛を受けて生まれるんだから」



「んだよ。俺に説教するのか」


「説教して改善するほどあんたの行いは軽くないだろ。子供のイタズラじゃないんだから。たださ、その他のシチコを支配する水晶玉はきっと誰にも迷惑をかけない使い方があるんじゃないかなって思ってね」



 貫之は佐一と知った時の衝撃なんて無かったかのような顔をして、指を一本立てた。


「あ、それと一つ言い忘れたことあるんだ」


「なんだ」



「兄ちゃんってことで驚いたけどさ、ホントはあんたが兄ちゃんじゃないって知ってるんだ」



 瞬間、佐一に成っていた神隠しはその場に倒れた。


「なっ!?」


「よし! 思い通りにいったな!」


 水晶玉の神を踏みつける月筆乃命は高らかに叫ぶ。


「フミ、ここに操られた機動隊はいる?」


「いやないな。この部屋には三人と二柱しかおらん」


「三人……?」


「僕さ」



 うつ伏せに倒れる神隠しの背中に乗っかるようにして、月宮貫之が空間から現れる。


「はあああ!? なんでてめぇがもう一人いんだ!」


「ちなみに、今まで話をしてた僕が偽者であんたを捕まえてるのが本物だから。といっても僕も本物と言えるからややこしいけど。それとこの万年筆はホテルから借りたやつね」


 と月筆乃命と一緒にいる月宮貫之が呟く。


「てめぇの力、見た目だけじゃなくてコピーも作れるのか!?」


 律儀に答える必要はなく、誰もが口を開けない喋らない。



 もちろん偽の貫之は【陣】によって形作ったものではなかった。


【陣】は仕様上、同時に二字は使えない。一応貫之と月筆乃命はそれぞれ独立した使い方が出来るが、変身などで一字を使ってしまうと本物の貫之を消すか神隠しの神を黙らせるかの二択になってしまう。それではこの構図にするにはいささか難しい。


 そこで登場するのが古川の神の力だ。


【写心】が名前のインスタントカメラの神通力は、写した現時点の人に成れる。『成り切る』のではなく『成る』ので実質本人が二人いることになって状況の説明が面倒なるのだが、作戦を知った上で使うと説得の手間がない。



 古川がしぶしぶ秋雪に説得されて貫之に成ると、作戦を知っているためすぐに偽貫之は偽者なのだと認識して別行動に移せた。それでも本人と思う偽貫之にすれば信用したくないだろう。


 ちなみに偽の神隠しから聞いた情報では、貫之が襲ってきたところで佐一に化けて動揺させ、その隙に姿を隠していた水晶玉の神霊によって万年筆を奪い、滑空出来る神通力ですぐさま逃げるものだった。


 作戦は悪くない。神隠しとして辻褄が合う佐一があのタイミングで登場すれば、頭の中は真っ白となって奇襲に対応できることはなかっただろう。知っているからこそ防いでさらに奇襲を仕掛けられたのだ。



 ただし【写心】にもデメリットがある。それは成った自分と成る相手の目が合うと解けてしまうことだ。今後古川が潜入をするかはさておき、敵陣に潜入は確実に出来ようと、そこで当人とかち合ってしまうとすぐさま敵に囲まれる構図が出来上がってしまう。


 ただそれも姿を消してしまえば目線を合わせようもない。


 よって本物の貫之が姿を現したことで、貫之に成っていた古川は元の女子の体へと戻った。



「……うまくいったのね」


 成っている間は古川の意識はない。彼女からすれば一階のロビーからすぐさまこの場面になった感じだろう。予定通りの状況に安堵の表情を見せる。


「すまんな古川、この恩はお前の望む形で返すよ」


「当たり前よ」



 古川と月筆乃命が話をしている間に貫之は、押さえつけている神隠しの水晶玉を部屋の隅へと転がした。時間がなかったので偽の神隠しから大雑把にしか聞けなかったが、水晶玉は正真正銘神隠しの依り代で力は物体の収納らしい。その副作用で他の依り代を収納すると暴れないためにシチコを支配してしまうようだ。収集方法は単純で水晶玉と道具が触れれば自由に出し入れする権利を持てる。


 よって、万が一でも水晶玉に万年筆が触れてしまってはここ二日の防衛の意味がないので、出来る限り離したのだった。



「おい、なんでお前の兄貴に変装してるって分かった。あの女のか?」


 この場面での台詞で、神隠しは古川のシチコを知らないことを確信する。


 神隠しの識別方法は、道具を見ることでシチコの有無と内容を知ることだった。もちろん他人から奪ったものであったが、古川は日頃から依り代を出さないため分かることが出来なかったのだ。



「彼女は協力してくれただけ。僕たちの力だよ」


 ここで勝ち誇り、馬鹿正直に言ってしまえば墓穴を掘るだけだ。


「さて、はた迷惑な事件もこれで終幕だな」


「……それはどうかな」


 赤い一閃の光が迸った。


 光は神隠しと貫之を中心に窓側を扇状に襲った。真横の壁から一面の窓、反対の壁まで綺麗に一閃が刻み込まれ、窓ガラスが大きな高音を響かせながら崩れて部屋に風が入ってくる。


 周辺からも物々が地面に落ちる音が響き、部屋の明かりが明滅して落ちた。



「え……?」


 呟くのは幸運にも一閃が来なかった古川だ。


「頭と右腕を押さえても左手が残ってんだよ。詰めが甘かったなガキ」



 左手に持つのは手の平サイズのレーザーポインタ。『レーザー』からして何でも分断するレーザー光線を掃射したのだろう。一瞬の通過で壁や窓ガラスを軽々と切断出来るからして高出力だ。あの土壇場で取ったのだから最強の威力を持っていると見ていい。それを隠し持って貫之を両断しようと振るったのだ。


 だが、



「誰の詰めが甘いって?」


 一瞬の面を描いたレーザー一閃は貫之の胴体を水平に捕らえていた。普通ならば胴体が切断されて即死当然。でも生きている。


「なにっ!?」


 神隠しの驚きの声に演技は見られなかった。本気の驚きの声を上げる。



「なんで、生きてんだ」


「……なんで透明で押さえつけたのに姿を見せたと思う?」


「………………あ」



 そう。【陣】は治療など一度使えば永続で消えない場合もあれば、【硬】のように他の【陣】を使うと消える場合がある。その線引きは今の貫之には分からないが、透明だったのに姿を現したのは後者が適応されたに他ならない。


 使った【陣】は【無】。考えた内容は無効。よって使って自分以外の神通力の一切をあの木刀のように光にさせたので貫之の体には傷一つ付かない。


 ただ、レーザーポインタを持っていくとは偽の神隠しでも言わなかったからまさに土壇場で選んだのだろう。しかし、神隠しなら何かしでかすだろうと信じて【無】を使ったのが功を奏した。



「言っとくが、この子女を狙ったところで同じように無力にさせる。人質にはならんぞ」


「た、タカツミ! 何とかしろ!」


「む、りだ。動け……ない」



 神に頼るところまで来たら奇策もなく、打開もこの状況ではどうしようもない。


 貫之は神隠しと神の動きに注意をしながら左手に【眠】を書く。これを押し付け、神隠しを警察に突き出せば全国を騒がせた事件は終わりだ。


 念入りに起きないように考え、神隠しの頭に触れ――ようとした瞬間、左手は神隠しのすぐ横のカーペットに触れた。



 地面が揺れて外したのだ。



 このタイミングで地震の考えは貫之の脳裏には過ぎらない。すぐさま神隠しの仕業と断定して、もちろん【眠】を発現させてこれ以上余計なことはさせなくする。



「な、なによ今度は!」


「貫之! 神隠しは!?」


「眠らせた!」


「あいつ! 地震の神通力でも持ってんの!? もうやだー!」



 物々が落ちる音が増大する。その中で、貫之の耳に嫌な擬音が飛び込んできた。


 何か巨大なもの同士がこすり合う様な音である。


 つい数十秒前の記憶が戻り、暗い地面を凝視する。



「……っ! 早くここから逃げないと! ホテルが倒れる」


「た、倒れるってなに? なんで倒れるの?」


 古川は揺れの恐怖でぺたん座りをしながら呟く。



「神隠しのやつ、この建物を縦に切ったんだ!」



 そう断言できるのは、神隠しの左手そばのカーペットが二十センチくらいに渡って切れ目があったからだ。もしレーザーポインタの神通力が想像以上に強力で、切断に要する時間がほとんどないのなら高層ビルを切断することはありえる。


 いたちの最後っ屁にしては臭過ぎだ。


 揺れるからして真下ではなく斜めに切った可能性が高い。真下であれば重心が変わらず上階が繋がっていて支えられるが、斜めではずれしまう。


 貫之は【直】を書いて直ると念じて地面に叩き付けた。しかし揺れは変わらず、それどころか二十センチだった切れ目は一気に壁にまで広がった。



「貫之! いくらなんでも一字でこの建物全体は直せんぞ!」


 依り代の動きを感じて月筆乃命は叫ぶ。直す力はあってもさすがに力不足か。


「とにかく出ないと」



「……貫之! なんとかして地上に行け、この建物は何とかできる!」


 何をするのか、狭まる貫之の思考では思い浮かばない。けれど月筆乃命が言うなら何か奇策はあるはずだ。


 部屋を横断するように広がった床の亀裂が数センチ上下にずれ、貫之は焦りながら【想】を書いて胸に押し付る。



「古川、逃げるぞ!」


「に、にに、逃げるって、どどどどうやって!」


「階段で逃げるんだよ!」


「か、階段て、その前に倒れるわ!」


 こんな状況だ。いつも威勢のある高圧な顔は出来ず、恐怖に心を握りつぶされた女子の顔を古川はしている。貫之はその顔をせめてやめさせようと、普段とまったく違うと自覚しながら口を開けた。



「倒れる前に降り切るから大丈夫」


「そんなの出来るわけ……」


「出来る!」



 ここまで断言したことが今までであったのか思い出せない。それでも貫之は口と体を動かす。


「古川、巻き込んだ責任はあとでたっぷり取るから、今は僕のことを信じてくれ。間に合わなくても絶対に死なせないから!」


 神隠しを無視して駆け出すと、駆け出した瞬間に地面に走った亀裂が上下にずれた。そのずれ幅は三十センチとあろう。古川たちがいる入り口側が沈下し、亀裂の走っていない天井は何とか支えているがぐにゃりと変形する。



「フミ! 古川を小さくしろ!」


 いくら体を強化しても貫之より背が高い古川を抱えて移動するのは困難だ。それに暴れない保証も無く、一度でもすってんころりんしてしまえば黄泉の世界にホテルごと落ちてしまう。


 月筆乃命はすぐに貫之の意図を察し、身動きの取れないでいる古川の脚に手を当てた。


 瞬間、古川の体は縮み始め、月筆乃命と変わらぬ背丈に服装ごとなった。貫之は走る速さを落とさず、それは獲物を狙う隼のように走りながら古川の胴体を左手で鷲づかみにした。



「くへぇっ」


 と空気が洩れるような声を漏らすのは古川である。


 なにせ人形並みに小さくなった古川にしてみれば、肉の車が衝突してきたようなものだ。いくら優しくと心がけても、いきなり時速数十キロに加速すれば体には多大な衝撃が走る。だが、そこは同じ体で生活をしている月筆乃命のことだ。必ず小さくするに合わせて衝撃に強い体にしていると信じて案じることはしなかった。



 まだ変形を免れているスイートルームの扉を開けると、部屋と同じで廊下も停電をしていた。建物が縦に切られたのだから配電や配管が断裂しているのは考えれば当然と言えよう。それでも廊下の足元には非常灯が灯っていて階段への道は示している。



「古川、これから揺れるけど我慢しろ。酔って吐いてもいいから」


「誰が吐くか!」


 威勢のいい返しが来て安堵する。


 左手で鷲づかめるまで小さくなった古川を胸に軽く押し付けた。走っている間に落ちてしまわないように小指を股の間に入れるようにして、出来るだけ締め付けは緩くする。


「ちょっと! この変態 どこに手ぇ入れてんの!」


「お前を落とさないためだよ!」



 間髪入れずに叫び返すと古川は顔を強張らせながら黙り込んだ。同時に貫之も、こんな状況とはいえ声を荒げ、命令口調になった自分に驚いた。


 標榜とまでは行かなくも出来る限り温和な口調を使ってきた。高圧な口調は不快な空気しか作らないし、反面教師の佐一もあって嫌ったのだが、さすがに切羽詰るとその標榜も瓦解してしまうらしい。


 もう【陣】の無制限の使用権要求は確実だろう。無理に説得して協力してもらい、生き死にの状況に陥らせて怒鳴ったのだ。それで万人が欲しがる万能系に言及しないはずがない。



 それでも今は脱出が最優先と、小さくなった古川の肉質なんて感じる余裕もなく非常灯を頼りに走る。


 この階に客はいないようだった。廊下を走っても人とすれ違うことも人の声も聞こえない。旅行シーズンでもなければ草間市は全国的に有名な観光名所があるわけもない。それでもってスイートルームともなると客自体が来ないのだろう。同じ街に住んでいるから思う。どうして四十五建てのホテルがあるのか、貫之には長年の疑問だ。



 その疑問のせいで苦労しているが、巻き込まれただけのホテルを責めてもどうしようもない。


 建物の全体像が見えないからどのくらい危険なのか、あと何分持つのか脳内で想像すらできない。ふと胸元を見ると、小さくなった古川は貫之の服を小さな手で掴んで震えていた。


 いくら気を強く持っても女子であり一般人だ。一般人は貫之も同じだが、力の有無で大きな違いがある。せめて怖いだけで痛い思いはさせたくない。


 非常階段に着いた貫之はすぐさま一度の跳躍で階と階の間にある踊り場へと跳ぶ。足への負担は強化されたことによってほとんど無かった。



「ふぶっ!」



 その代わりに衝撃が古川に向かって嫌な声が出る。


 跳べば時間短縮でもそれはやめた方がよさそうで、二段飛ばしで階段を駆け下りる。


 時計回りの階段であったのは不幸中の幸いだ。踊り場に足を下ろすと同時に手すりに右手を伸ばし、制動を掛けず一気に百八十度反転出来る。


 けれどこれでは一階分降りるのに時間が掛かる。今までの習慣で、どうしても階段の角度に対して垂直の姿勢になれないのだ。重力に逆らう降り方をしているからせっかく理想の体の強さにしても速さは普段と変わらない。



 もっと速く、重力に逆らわない降り方をしなければ。


 階が三十七階に差し掛かったところで、右手を使っての方向転換をやめた。それによって踊り場で曲がろうとしても曲がりきれず正面の壁にぶつかってしまうが、ほんの一瞬早く階段の壁を横蹴りすることで進行方向に角度をつける。


 そして角度をつけたまま踊り場の壁に着地、次の足で蹴って、階下に続く階段の壁へと進行方向を変えた。それを繰り返す。



 つまり壁走りである。



 各面の壁を着地と跳躍の二歩だけで移動し、普通に階段を使うより遥かに早い時間で駆け下りる。いや、駆け落ちると表現すべきだろう。


 これを成しえているのは体を強化するには連想しにくい【想】にあった。


【想】を押し付けた時に考えたことは、『強くなった体を想い通りに動かす』である。【陣】はなにも直接的な言葉を必須としない。一字を見たときに書いた人が連想できればそれで良く、このことによって単に強化された体では出来ない器用なことができるようになった。



 神隠しと対峙した時に体が思うように動かなかったのは、強くなった体に比例して積み重ねなければならない経験が不足していたことにある。ならその経験不足を【陣】によって無理矢理補ってやれば、強くなった体を自在に使える考えだ。


 大抵の人は、簡単なダンスを見たとしても同じ動きをすぐにはできない。何度も反復練習を経て出来るようになるのを、【想】は練習過程を無視し、見たり想像したりした動きをそのまま経験を積んだ状態で出来るように短縮させるのだ。



 自然的に逆らっていた重力は受け入れなければ階段に沿って降りることが出来ず、落ちないためにより速くすると遠心力によって蹴る力が強まり、さまざまな相乗効果で一階ごとに速くなる。



 階が二十階を過ぎた。



 耳をつんざくような轟音を共に建物全体が大きく揺れた。上階での支えが一段階崩壊したのか天井が一気に落ち、間接的に宙に浮いている貫之の左肩に天井が当たる。


 ただでさえ乗用車が走るくらいの速さで動いているところでの障害だ。バランスなんてあっという間に崩れて地面に頭から向く。



「ひっ!」


 落ちてたまるか!


 絶対に動きを止めてはならないと、刹那の時間で体勢を整えるイメージ図を構築する。



 体を捻って近づいた天井に右手を強く当てて角度を下に向ける。真下は階段。左足で階段を蹴って踊り場の手すりに方向を変え、手すりを掴んで完全に浮いたまま反転。尋常ではない遠心力で右腕を中心に悲鳴を上げるがそれを耐え、階段の壁方向で手を離して元の壁走りへと戻る。


 冷や汗も安堵をする余裕もない。



 と、貫之は踊り場の壁に右手と両足で体当たりをして壁走りをやめた。数十キロと出ていて一気に止まったために強烈な衝撃が体に掛かる。


「おいどうした?」


 万年筆に戻っていた月筆乃命が肩に顕現する。



「人が下にいるんだ」


 当然と言えば当然だ。依巫や神の暴走の際は部屋に引きこもれば大事に至らずとも、建物全体が崩落するのなら誰だって逃げる。


 大勢の人々の声が階下から聞こえた。


「この忙しい時に」


 それは客とて同じだ。責めるわけには行かない。


 また地面が一気に下がり、下から悲鳴の声が上がる。



「……あのさ、思ったんだけど、下に沈むってことは一階って潰れてるんじゃない?」


 涙目ながらも嗚咽をこぼさず古川が呟き、降りるのに夢中で考えていなかった重大な事に気づく。


「……出口がない」


 いや、正規の出口が無いというべきだ。なら脱出は潰れていない階から脱出することになる。



 今いるのは十三階。おそらく大広間のある三階くらいまでは潰れて実質の高さは十階分、しかし三十メートルは優にあるはずだ。【陣】を使って飛び降りるにしても安全の保証はない。


「フミ、治癒ってどれくらいの重態なら確実に治る?」


「生きて体が吹っ飛んでなければ完治できるが、まさか飛び降りる気か?」


「無理よ! 死ぬわ! チビ神だって言ってたじゃない。その力でも飛べないって」


「なら飛ばなきゃいい」



 貫之は十三階の扉を開けて、一番近くの客室の前に立って取っ手を回す。やはり鍵が掛かっていて開かず、古川を肩に乗せて手に【開】と書く。想像するのは鍵が掛かっても無条件で開くことで押し付けると、鍵が開く音がして扉が開いた。


 適当に選んだ部屋は無人で、何度もの沈下で家具は倒れて窓ガラスは割れていた。貫之は構わず入り込んでベランダへと出る。



 地上では数十台もの緊急車両が並んでパトランプを煌かせ、数百人もの野次馬が崩落に向けて進行中のホテルを見ていた。建物の根元では沈下した影響か瓦礫の山が出来ていて、飛び降りは自殺としか言いようがない。火災も起きているのか煙も随所で上っている。



「無理よ! なにをやったって死ぬわ! あたしまだ死にたくない!」


 目の前を大きなガラスが落ちて、瓦礫の山の上で盛大に四散する。


「ひっ! ねぇ、考え直してよ。いくらあんたらの力が強くったってこの高さは無理だって! 責任取れとか言わないから、ね?」



 古川の主張は全うだ。十人中十人考え直すように言うし、貫之とて【陣】がなければそんな無謀なことに賛同したくない。


「……いや行こう」


【陣】は書いた字が力として発現されると消える性質がある。貫之は古川を再び肩に乗せ、綺麗になった左手に【重】と書いて胸に押し付けた。



「なるほど、確かにそれなら落ちても平気だな」


「チビ神までなに言ってんの! 自分の依巫が死ぬのよ!?」


「いいや死なん。恐怖こそどうしようもならんが、今日、お前が傷つくことはないよ」


 貫之は万年筆をポケットの奥へとしまい、時間惜しさに間を作らずに柵を越えて三十メートルから飛び降りた。途端、下からは悲鳴の声が上がる。



「いやああああああああああああああ!」



 悲鳴は必然。だが死まで必至ではない。


 落ちる速さは見る見る上がり、ジェットコースターの最初のくだりのように内臓が浮く快感とも不快感ともとれる感覚が貫之を襲う。


 三十メートルの高さとあっても落ちれば数秒にもならない。貫之は瓦礫の上へと落ちた。



「………………し、死んでない?」


「だから死なんと言ったろ」


「なんで? なんで死なないの?」


「【陣】で僕の体重をほとんど無くしたからだよ」



 落ちて人が死ぬのは、落ちて地面にぶつかった時の衝撃を人体が受けきれないからだ。位置エネルギーは質量と速さと高さで生まれ、ならその一つをなくしてしまえばいい。分かりやすい例えで、空っぽのカプセルボールと砂利をつめたカプセルボールを落とせば後者が壊れる。貫之は【陣】を使って体重を一キロ以下にした。そして骨や筋肉の強度は上げたので、三十メートルから落ちても死ぬことを免れたのだ。



 これは【陣】あっての芸当だ。体重を減らして体積や強度を上げるなんて保存則から出来るはずがないからである。【陣】はまさに理不尽で化け物級の力だ。


 だからと言って安堵は出来ない。空からは次々と外壁や窓ガラスが落ちてくるし、誰よりも速く降りたのはこの惨事を何とかするためだからだ。


 と、動こうとした矢先に転んでしまった。体が軽くなりすぎたことでかえって動けず、すぐに【回】を打ち付けて疲れを回復する。



「貫之、ひとまずひぃ子を放してやれ」


 瓦礫の山を転ばないように駆け下り、とにかくホテルから離れる。


 一番近くにいる人ごみまで走った貫之はそこで短くも長い間拘束していた古川を解放する。途端、月筆乃命と同じ大きさだったのが人間大まで急激に戻った。


 その光景に周囲からざわめきがするが無視する。



「フミ、それでどうやってホテルを直すんだ?」


【直】を使っても直らないのにどうやる。まさか顕現した神の力は依り代の数倍とでも言うつもりか。


「なに、一字で力不足なら複数の字を足せばいい。三字以上の【陣】を仕掛け、それを同時に発現させるんじゃ」



 新たな【陣】の使い方に貫之は絶句した。で、気づく。陣と呼ぶ意図に、栞日記の最後の使い方に。


「【陣】は使い方によって出来ること出来ないことがある。だからそれを他の【陣】で補って一つの事象を発現させるんだ。説明する時間が惜しい、とにかくお前は一周しろ」



「一周って、このホテルを?」


「そうだ。【陣】を使っていいからとにかく速く走れ!」


 ホテルがついに限界に達した。地面に固定している側と滑ろうとしている側を接続する上層階が、大きな炸裂音を出しながら千切れたのだ。そして五階まで切れ目が入っていた固定していない側が滑り落ちて粉塵が上る。まだ摩擦力が高いのか滑る速さはさほどではない。しかし、止まる様子は見られず崩れるまで三十秒と掛からないだろう。



 貫之は【走】を胸に叩きつけ、チーターよりも遥かに速い脚で駆け出した。


 上層階が千切れたことで外壁やガラスがより多く落ち、逃げる野次馬に襲う。


 と、次々に人、動物、植物、妖怪の格好をした神々が顕現してその落下物から人々を守ろうとし始めた。崩れるのが分かるのだから避難すればいいものを、どうしても人というのは分かっていながらも見ようと危険に近寄ってしまう。



 走る貫之の目の前にもガラスや瓦礫が落ち、それを紙一重で避けながら最初の角を曲がる。


 この間にも月筆乃命は通常とは違う【陣】を仕掛けている最中なのだろうか。貫之的にはただ全力で走って月筆乃命こと万年筆の位置を変えているだけだから実感が持てない。


 ただでさえホテル内では大勢の人が押しつぶされ、倒壊することで何千人も人を巻き込もうとしているのに走っているだけではどうしても不安が過ぎる。



 でも!



 月筆乃命が何とかすると言ったのだ。貫之が信じなくてどうする。


 月筆乃命は貫之本位な性格だ。貫之を最優先して他人は見捨てる主義だから、ホテルや他の人を見捨てて逃げようと気にも留めない。それを覆してまで助けようとしているのだから何とかできる根拠になる。


 四角形のホテルの二つ目の角を曲がった途端、消防車が停車して行く手を阻んでいた。気づいたところから消防車まで十メートルと無かった。


 避けるにしても距離がない。貫之は脚に力を込めて跳んだ。


 消防車の屋根に手を置き、体を水平にして二メートルとある車幅を越える。



 手首に痛みが走る。【走】は脚力と操作性だけを上げただからその他には負荷が掛かるのだ。ピキと骨が悲鳴を上げ、それでも貫之は歯を食いしばって我慢する。


 ここまで来たら根性の一点だ。使命感とか義務感、人助けなんて取っ払い、ただ根性と全力でホテルを一周することに神経を研ぎ澄ませる。


 三つ目の角を曲がる。ずれ落ちる面に差し掛かり、瓦礫の山と粉塵が視界を妨げてきた。空と横からガラスや瓦礫が体中に容赦なく落ち、全身に激痛が走ってバランスを崩す。



 激痛が走ろうと苦労があろうと、体の小ささに準じて心まで小さくなってたまるか。


 痛みと出血で体がかつて無いほど熱くなる。間違いなく【陣】で瞬間的に治さなければ死ぬのが本能で分かり、貫之は目に涙を浮かべながらも歯を食いしばって人生で最大の激痛を我慢する。


 右顔面をガラスが直撃して右目が死んだ。



「ああああああああああ!」



 けれど走る速さだけは変えない。


 変えてなるものか。


 足に何かが貫いた。左だけ残った視界が一瞬消えるも、全身の痛みで失神すら許さない。走りきらなければ終わらないのなら――。


 しかし、全身に激痛を覚え、実時間にしては一秒にも遥かに満たない、まさに走馬灯ともいえる時間で貫之は思う。


 どうして逃げたところで誰も咎めないのに、全身を痛めながら走っているのだろう。僕は被害者で、ホテルを倒そうとするのも多くのシチコを奪っているのも全部神隠しであって責任も義務もないはずなのに。


 なのに僕は何とかしようと走っている。神隠しがしでかした尻拭いをするために、今すぐに病院に行こうと死んでしまいそうな傷を負ってまで走っている。



 なんで? 月筆乃命が言ったから? 赤の他人でも何百何千って人を苦しめそうだから? 古川や秋雪も巻き込まれるかもしれないから? 激痛を代償にホテルを治せても、その先に僕に戻ってくる恩はあるのか?


 分からない。分からないけど、今、ここで投げ出すのは大きな恥だ。生き残って、いずれ出来るだろう子供や孫に自分のシチコを話すとき、今日のことを話せるだろうか。


 出来るわけがない。



 お父さん、お爺ちゃんは自分の命ほしさに大勢の人を見捨てたんだって、言えるわけがない。


 例え逃げようとお咎めなしだとしても、自分で自分の心に咎を持たせて次の日の目覚めがいいわけがない。


 明日を気持ちよくするために今日をがんばる。


 他人からの感謝は、今は考えない。自分で自分を誇るために走りきってやる。



 走る速さは絶対に落とさない。


 ずれ落ちる面を超えて四つ目の角を曲がる。


 視界が揺らぐ中で、走り出した地面に白く光る何かが見えた。


 あれは、陣だ。陣が白く光る文字となって地面に刻まれている。



「あの光る陣まで走れ!」


 もはや周囲の音は消えて月筆乃命の声だけが聞こえる。もう走り終わった後のことは考えない。今を全力する。


 邪魔をするかのように落ちる瓦礫を、痛い足を黙らせ、卓球部で培った反復横とびで避けて、


 貫之は跳ぶ。白く光る陣と書かれた地面を越え、



 世界が真っ白になった。

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