一日目 「暴」



 その後、階段の事故に万年筆の紛失を知った憲明の反応は激しかった。消防署に連絡や家中を大掃除しなければとか原因は何だと三つのことを同時に進行しようとしたのだ。



 貫之の中では全て佐一と決まっていても、何一つ証拠がないのだからここは泣き寝入りするしかない。よって三つのこと全てを後日に保留にしたいと主張し、せめて病院には行かせたい意見もねじ伏せて何一つ解決しない着地点に降りたった。



 貫之は今夜様子を見て明日病院に行くかを決め、万年筆は次の休みに家中を大掃除して探すことと、佐一にとって嬉しい結果となった。



 話をしている際、佐一の不適に笑った顔は今後数年と忘れない。



 今は甘んじて佐一を天狗にさせる。しかし、全てが明るみになったその時、今度は貫之がその矮躯で巨躯の佐一を嘲笑しよう。



 そして時間も時間で迎えた就寝であるが、眠れるわけがない。


 万年筆がない不安からではなく、両腕が尋常ならざる激痛を発しているのだ。


 脈と同じ間隔で痛みが襲い、瞼が重くなるくらいの眠気はあっても眠れる気配が一切なかった。


 腕を見てみると前腕部分全体が膨れ上がっていた。憲明が帰ってきた頃にはまだ膨れてなかったからよかったものの、朝になった時青ざめる二人の顔が目に浮かぶ。


 やはり小柄でも落下する体を両腕で支えるのは無理だったのだ。あの場ではどうしようもなかったとしてもこれでは誤魔化しようがない。



 時計を見るともう深夜二時だ。


 いつもならぐっすりと眠っているのに、ここまで起きているのも初めてだ。



 今日――昨日は最高の日と同時に最低の日だ。間違えた選択をした覚えはないのに、どうして最高の日を上塗りしてしまうほどの最低のことが起こるのだろう。



 神が実在する日本にとって天に向かっての神頼みは現実的ではない。するなら神社か寺か身近な神だ。そうなるとこの地に住まう氏神かまたはハシラミか。なんにせよ神の手助けはほしいところだ。



 しかし、神ほど気まぐれな存在はない。家族のハシラミでさえ気分次第な行動をして、階段から落とされても顕現すらしないのだ。神頼みはまさしく神頼みと言え、神が実在しようと日本人全員が幸せではない。



 諸外国同様犯罪もあれば、貧富も差もあってホームレスもいる。


 犯罪率は先進国中最低なのに自殺率は最高。神国と謡おうとその本質は他の国と大差ない。


 ただ一点、人外にして人以上の存在が当たり前に住んでいるだけ。




「――――――――――――――――――――――――――――――――――――」




 例えれば、去年の夏に落ちた雷のざっと百倍以上の音だろうか。


 体験したことのない想像だけの表現ですれば、第二次大戦時末期にイタリアとドイツの合同艦隊を一撃で消滅させた核兵器の炸裂音だろうか。



 とにもかくにも、街はおろか県に眠る人々が全員起床してしまうような音が前ぶりもなく炸裂した。


 しかしそれは突然の轟音による衝動的な比喩だ。実際は鼓膜すら割れない程度の音量だったが、それでも激痛の両腕を耳に持っていくほどには大きかった。



 激痛と騒音が織り成す拷問に、貫之は歯を強くかみ締めて耐える。


 家中でもその轟音によって親が起きたのか物音がいたるところからする。



 貫之は布団の上で起き上がった。たかが数時間では全身の打ち身はほとんど消えていない。首は痛いし腰も足も痛む。それでも体は動いた。


 雷にしては光や雷鳴が無い。何より、家の外からというより家の中から聞こえた気がした。



 痛い体を引きずりながら部屋を出る。二階ではがたんごとんと物音と同時に、困惑する両親の声が聞こえた。


 居間の電気を点け、目を細めながら明かりに慣れて一通り見渡す。


 特に異常らしい異常は見られない。ダイニングテーブルに仰向けで、一見すると宇宙昆虫が死んでいるとしか思えないハシラミが寝ているくらいだ。



 基本、土地や大自然の神である氏神と違って物に宿る付喪神たちは睡眠を必要としない。魂を持とうと、元来の肉体が物であるため従来の生物とは根本的に異なって、睡眠や食欲、物欲と言った考えが希薄なのだ。それによる利用価値は多大にあっても、利用しすぎるとそれを上回るしっぺ返しは来るが。



 なのに眠り、爆音でも起きないのだから神の神経はよく分からない。


 二階から両親が降りてきた。二人とも寝巻き姿で、貫之を見た瞬間、正確には貫之の腕を見た瞬間目を大きく見開いた。



「貫之! その腕はどうした!」



 明かりの中で見える貫之の腕は、まるでそこの部分だけ太ももになったかのようにぷっくりとしていた。肌色よりは少し赤みが強い。



「ひびが入ってたみたい。さっきは平気だったんだけど」


「アホ、腕が痛いなら早く言え! 母さん、救急車呼んで。貫之を病院に連れてくぞ」



「ええ」


「ま、待って、それよりさっきの音って……家の中からだよね」



 雷くらいの音になると壁くらいの遮蔽物は平然と突き抜けて耳を襲う。それ以上の音なのだから外とも言えるが、自分の耳を信じると家の中からとしか思えない。



「でもこの家にはそんな音を出すものはないわよ。ハシラミ起きて」


 紗江子は仰向けで寝る蟷螂の腹に手を当て、揺らして目を覚まさせる。


「んだよぉさっきからよー」



 鎌の付け根、人間的には手首の部分でハシラミは目をこすりながら六本足で起き上がる。



「うおっ! 貫之、お前腕すげーことになってんな!」


「痛そうだから斬るとか言うなよ」


「……そう言えば佐一が降りてこないな」



 ぼそりと憲明が呟いて、三人と一柱は階段の上を見た。



「もしかして今の音って佐一が?」



 佐一の部屋にはオーディオがあったはずだが今まで大音量で流したことは一度だってない。


 いや違う――貫之はそう直感し、痛い体を動かして二階へと急いだ。腕の骨にヒビを入れた段を踏みつけ、蹴落とされた場所も越えて佐一の部屋の前に立つ。



 そのすぐ後ろから両親の足音がしてくる。


 貫之は痛い腕を動かしてドアノブに手を近づけた。


 触れる寸前、ドアノブが勝手に回って扉が開いた。



「あ、にい……」



 扉が開き、佐一が出たことで一瞬強張るがすぐに様子が違うことに気づく。目がうつろで耳からは血が垂れているのだ。


 扉が開くに連れて佐一は倒れこみ、思わず受け止めるが脱力しきった七十キロ以上を支えられず貫之は尻餅をつく。



「佐一! どうしたの?」


「おい佐一!」



「案ずるな。失神しとるだけよ」



 女の声だった。この家には紗江子以外女性はいないし、佐一の彼女が家に来ていないのも一睡もしていないから分かる。


 真っ暗な佐一の部屋から、廊下から照らされる明かりの中に着物を着た女性が現れた。



 着物は女袴で、上半身の小袖は亜麻色を基調に薄紫の刺繍で花模様がちりばめられ、下半身の袴は紺を基調に金糸の線が斜めに走っているのを着ていた。


 髪型は輝くように黒く腰まである髪を一本結びしていて、目は若干のつり目で色は茶色に近い黒。ただその目に帯びる生気は神々しかった。



 その姿は女神――としては誇張であろうが、小町にはまず抜擢されるだろう。成人式や大学の卒業式にいても違和感はないはずだ。


 背丈が女性の背丈ほどあれば、だが。


 佐一の部屋から出てきた神で間違いないそれは、佐一の背中の上で気風堂々と立っている。なのに背丈が二十センチそこそこしかなく、さながら人形神であった。秋葉原で売られている精巧なフィギュアと良い勝負かもしれない。



 人の姿をしていようと、二十センチしかなければ八百万の神々だ。それも三つに大別される、『人』『動植物』『妖怪』の中で小人を表すのは妖怪だろう。



「妾を拉致した下衆を懲らしめたんよ。顕現したのがつい数分前であったが、この半日は苦行であった。その念を全て発散するにはこの程度ではまだ生ぬるい」



 半日。それは貫之の万年筆が紛失した時間だ。


 人ならざる存在が現れた時点で分かっていたが、より確信へと繋がる。



「……万年筆の、神様?」



 佐一の体から這い出ながら貫之はかすれるような声で呟いた。すると人形神は格好いい微笑を浮かべながら頷いた。



「そうだ。妾は正真正銘、万年筆の神霊よ。そして万年筆の持ち主は月宮貫之以外にない。間違っても月宮佐一ではないぞ」



 分かってはいたが、やはり佐一が万年筆を盗んだのだ。そして顕現をして罰を与えた。



「なに、ちょっと待て。万年筆って失くした貫之のだよな。佐一が盗んだのか!?」



 憲明が叫ぶ。加害者被害者どちらとも否定していたのだから当然だ。



「貫之が眠っている間にな。無論昼寝を待ってはおらんでな。ほれ、勉強の最中に母から差し入れがあったろ。あれの元に睡眠薬を入れたみたいじゃ。下衆な笑いをしながら言っておった」



 確かにおやつとして牛乳とアンパンが来た。この家で牛乳と言えば貫之と結びつくように、背を伸ばすのに牛乳はあまり意味がないと分かっていながらも毎日と飲んでいる。ならそのことを知る佐一が薬を仕掛けるのは簡単だ。



「でもどこにあったんだ? さっき探したのに」


「危うく落ちかけたわ。こいつ、外側の窓枠に妾を貼り付けたんよ。部屋の中にあると思い込んでおれば決して見つからんな」



 佐一はどこまで警戒して隠しているのだ。探しに来るのは前提だとしても、ただでさえ脆くなっている脈の状態で外に放置するなど正気の沙汰ではない。



「そ、それで万年筆は……?」


「背負っておる」



 人形神は背中を見せる。そこには襟に万年筆のクリップを引っ掛け背負う形で確かに持っていた。神は佐一の背中から跳び下り、トコトコの表現が似合う歩き方をして貫之の前へと立つ。



「出来れば顕現して最初に見るのが、こいつの寝面ではなくて貴様でありたかったんだがな」


「あ……ごめんなさい。助け出そうとは思ったんだけど、出来ればハシラミや父さんに頼らずにしようと思って……」


「やはりな。今まで見てきた貴様ならそんな考えをすると思っとったよ。おっ、挨拶が遅れた。貫之の両親よ、妾は万年筆の神霊じゃ。以後、お見知りおきを」



 ここで人形神は貫之の両親に頭を下げた。



「それとお前がハシラミか、仲良くやろうぞ」


「女の癖に古ぃ言葉遣いするんだな」


「こればかりはいかんともしがたい。性格など原因を探せばありふれとるからな」



 そう言えば万年筆の製造者である、父方の祖父は人形神のように堅物な人だった。正月やお盆に会ったときも笑った記憶は一度もないくらいに。ひょっとしたら人形神の性格は万年筆と製造者の性格を引き継いだのかもしれない。


 ただ、その見た目と中身に、貫之は思うほど差異を感じなかった。それでこそとも思えた。



「さて、ひとまず犯人の処罰を決めるとするか。ああ、こいつは先の音で気絶しておるだけじゃ。血が流れてても外傷はないし耳も聞こえるはずだぞ」



 三人と二柱は佐一を見る。そう言えば耳から垂れている血は、出てはいても出続けてはいなかった。血が出る時点で外傷があるはずなのに無いとはどういうことだろう。


 ともかく憲明は人形神の言葉を信じて佐一の上半身を起こさせた。



「おい佐一! 佐一目を開けろ!」



 肩を揺すって叫ぶ。すると閉じていた目がうっすらと開いた。



「……おや、じ?」



 佐一はうつろな目で周りを見る。新しい家族を踏まえ、月宮家全員の顔を見まわした。



「俺、なんでこんなところにいるんだ? あとこの人形なに?」


 寝ぼけてまだ頭の回転が追いついていないらしい。


「ひょっとして覚えてない?」


「覚えるも何も、寝ているところに至近距離から叫んでやったからな」


 くくく、と人形神は悪役顔負けの笑みを浮かべる。



「佐一、お前……貫之の依り代を盗ったのか?」



 解釈のしようのない核心の問いに、佐一のうつろな目は一気に見開いた。その反応だけで盗んだと認めたと言える。夕食の時には平然と惚けられても、寝起き直後に大黒柱の父親から問われれば惚けきれるわけがなかった。



「いや、それは……」



 目を逸らしながら口ごもる佐一に、追い討ちを掛けるように人形神は貫之が今まで腹の中に飲み込んでおいたことを暴露した。



「ちなみにこいつ、五年以上前から貫之から金や物を散々奪っては返さないでいるぞ。額にすれば十万は下らんかな」


「五年も前から!? 佐一お前、貫之からそんなに盗っていってたのか! 貫之、どうしてそのことを今まで言わなかった。佐一に何か弱みでも握られてたのか?」



「ちが……出来れば自力で取り返したくて」



 それが佐一を天狗にさせた理由なのは分かっている。だからこそ力を付け、屈服たるところまで来たら取り返すつもりだった。


 それが人形神の顕現で達成できてしまった。



「俺は盗ってなんかない! 嘘言うんじゃねぇぞ!」


「なら妾の体が貴様の部屋から出てきたことにはどう説明する。馬鹿ではあるまいし、わざわざ命の次に大事な万年筆を貴様の部屋に置きに行くとでも?」



 日本人が絶対にやらないからこそ、この状況が最低でも佐一が貫之の万年筆を盗んだ証明となった。


 佐一は苦虫を噛み潰した。どう釈明しようかと口と目を小刻みに動かす。



「……明日、じっくり話を聞くからな。大学が終わったらまっすぐに帰って来い。俺が帰って来る前に帰ってなければ家には二度と上がらせないからな。いいな!」



 突然の事実にご立腹になった憲明は、佐一の胸倉を掴みながらそう叫んだ。


 佐一は言葉を発せず、一度こくりと頷くだけだった。



「あ、そうそう。こいつの動機な、最近出来た女に依巫である証を見せるために盗んだらしいぞ。何でも交際条件が依巫であることらしくてな、会う約束を電話でしておった」



 最早佐一に救う術はない。盗んだ動機に大義名分があれば情状酌量の余地はあれど、不純すぎるその動機は日本人として大いなる恥だ。



 そして貫之に改めて憎悪が湧いた。たかがそんな動機のために、十五年の想いを重ねてようやく生まれようとする神を盗んだのだ。しかも奪っておきながら殺意を込めて突き落とされたとあっては、二階から突き落としても気は収まりそうにない。



 だがそこまでくだらないことを聞いては手を出す事自体が恥とも同時に思え、貫之は無言のまま痛む両手を床に立つ人形神に近づけた。と、そこで掴んでいいのか一瞬迷うと神様のほうから触れに来た。



「今まで持っておいて不安がるな」


「ごめんなさい」



 この両手に収まる人形の神様は、今まで使い続けた万年筆そのもの。現代日本風で言えば擬人化したようなものだ。貫之は一言謝り、腕よりは痛まない両手で人形神を持ち上げた。



「やはりお前に掴まれる方が安心する」



 言って神は微笑み、多分、貫之も微笑んだだろう。

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