一日目 「探」



 まるで親指が痛みもなく無くなったような喪失感だった。



 十五年間、持ち続けた万年筆がなくなってまだ数時間しか経っておらず、寝ている間よりも短いはずなのに例えようもない不安感が貫之の心を蝕んでいく。



 普段はしない貧乏ゆすりが起こって止まらず、怠けてならない勉強もまったく身が入らない。もし、もう二度と戻らないのではと考えが頭を駆け巡る。



 なにも鳥の雛のように、顕現して最初に見た人を依巫と思いこまないと分かっても、佐一もしくは知らない人のモノになってしまうと考えると胸が締め付けられる。



 もはや今朝の有頂天はどこへやらだ。


 午後九時を回っても、佐一は狙ってか風呂に入ろうとしない。



 他の家庭は知らないが月宮家は一応毎日風呂に入っている。まず先に貫之と紗江子がそれぞれ入り、そのあと帰ってくる父の憲明と佐一が入るのだ。だから日課として佐一も入るのが自然なのだが、貫之と紗江子が済ませてもまだ入ろうとはしなかった。入ってもらわないと部屋に侵入することが出来ない。



 もしかしたら貫之の考えを読んで今日は入らないのかもしれない。一日くらいシャワーを含めしなくても今の時期ならまだ平気だ。


 せめてここで彼女から連絡が来て出て行ってくれればいいが、一緒に持っていかれると無意味だから家にいるときに探したい。



「佐一ぃ、あんたせっかく早めに帰ってきてるんだからお風呂はいっちゃいなさーい!」



 ファインプレーとも言える言葉が、襖越しで聞こえてきた。貫之は握りこぶしを作り、ほとんど身が入らない勉強を中断して襖に耳を近づける。



 分かったよ、の返事がかすかに聞こえ、機会は一度と胸に刻み込んだ。さすがに佐一も探しに来るだろうと見込んで、それこそ通帳を隠すくらいのがんばりをするかもしれない。しかし引くわけには行かないのだ。


 一縷の望みを原動力に、階段を下りる足音と共に貫之も行動を起こした。



 貫之の部屋は洗面所から近い。浴室の扉が閉まると同時に部屋を出て、まずは洗面所に放置された佐一の脱ぎ捨てた服をあさる。月宮家の浴室の扉は上半分が曇りガラスで下は通気口になっている。背を低くし、物音を立てないように脱ぎ捨てた服を上から触れて硬いものがないかを探る。二十秒も掛からない検査では見当たらない。なら部屋と、これまた物音を立てないようにしながら二階に向かうことにした。階段がある居間では紗江子がテレビを見ていて、階段に向かう貫之を一目見たが何も言わないので階段を上がる。



 幸運にも佐一の部屋には鍵がない。前に付けたいと憲明に懇願したそうだが、鍵をつけないと困るようなことをするつもりなのかと却下されたことがあった。


 部屋に入ると、今朝とあまり変わらない部屋模様が廊下から入る明かりで浮かび上がる。



 さて、どこから探すべきか、と貫之は部屋の蛍光灯をつけて周囲を見渡す。


 部屋の中で物を隠すのは、昔はタンスの奥底だったが今では死角空間が有効とされている。タンスでは場所を教えているようなものだから当然で、逆に死角空間ではどこにあるのか入念に探さないといけないから時間が掛かる。



 しかし時間がない今、その空間を探す余裕が無い。とにかく今回は定番を埋めてしまおうとクローゼットを開けた。


 色々鮮やかな衣服が飛び込んでくる。まるで女が買い揃えたくらいの衣服がハンガーに掛かっていて、確実に貫之の三倍はありそうだった。佐一が風呂から上がるのは最短で見て十分。多少雑になるが、高速で調べていかねばならない。



 貫之は服を挟むように叩いて素早く調べる。


 ハンガーに掛かる夏と秋用の服には無いのを悲しくも確認し、次に意識を向けるのはプラスチックのチェストだ。下着から冬物と分けられ、抵抗を覚えつつも腕を突っ込んでまさぐる。下着は強い抵抗があるが万年筆のためと我慢だ。



 しかし見つからない。クローゼット内の全ての服を体感で数分以内に調べても、万年筆はおろか硬質のものも入ってはいなかった。定番は予想通りなし。見落としてしまっては元も子もないが時間も無い。耳を澄ましても階段を上る足音はまだなし。きっと紗江子のことだ、何かしら合図を送ってくれるかもしれない。



 事情を知って見逃してくれたのだから、約束をしていなくてもしてくれると信じる。


 次に目を移すのは机。佐一の机は貫之の学習机と違ってL字型のパソコンデスクで、その下には独立移動式のワゴンが置いてある。机の上は少し物が乱雑に置かれているが何かが埋もれるほどではない。一見だけでないと分かり、ワゴンの引き出しに目を向けて引っ張り出す。


 いつ佐一が上がってくるのかわからない焦燥感から探す手がさらに雑になる。



「いつっ!」



 鋭い痛みが中指を襲い、反射的に引き抜いた。指を見ると一センチの線が走り、赤くにじんで血が湧き出てきた。引き出しの中を見て見ると、一本のカッターの刃が外に飛び出てきた。



 指を口に加えながら血と痛みを我慢して探索を続ける。


 一段目、二段目、三段目、四段目と見ても、十五年間大切にしてきた万年筆は見つからない。


 いよいよ時間もなく、探す場所も広がって額と背中から汗が吹き出る。



「どこに……どこに行ったんだよぉ……」



 まさか本当に外部の人間が持ち出してしまったのか。ならばもう顕現した神が自力で戻ってくるまで貫之は被害届を出すしか出来ない。


 それでも貫之は佐一が犯人と揺るがず、細かな部分も探そうとベッドに向かった瞬間、下から声がした。



「佐一、もう上がったの?」



 その声を聞いて貫之は探索をやめた。


 さすが依巫で事情を知っている母だ。貫之の心情を汲んで合図を送ってくれて、すぐさま部屋を出る。扉を閉める音もほとんどさせず、偽装として両親の寝室から出てくるようにした。


 二階の階段に差し掛かったところで湯上りの佐一と遭遇する。



「……なんで二階にいんだ?」



 家族で同じ家に住んでいるのに、二階に行くことに理由があるのかと憤りを必死に自制する。



「母さんに借り物があったからだけど?」



 ないのだから見せられないが、さすがに見せろとは言わないだろう。


 貫之は横にずれると蔑むように貫之を横目で見下して横切り、さっさと降りてしまおうと階段に足を置き、ドアが開いたのは同時だった。



 背中に衝撃が襲った。



 年間を通して一度経験するかどうかの制御不能の力。おまけに殺気のような感情まで伝わった気がして、貫之の体は宙に浮いた。


 反応をする暇もなかった。


 階段の中腹が顔面に迫る。何かを考えるまでもなく、顔を守るため両腕が動いて階段の角に落ちた。


 まるで雷が近場に落ちたかのような轟きと衝撃が家中に響き渡る。


 激痛はあまりの衝撃がふっとばし、階段が目の前に迫った次の瞬間には一階方向を見ていた。



 思考が現実を認識しない。



 一階から紗江子が驚愕の形相で駆け上がってくるのが見えた。


 肩をゆすり、声を荒げているのは分かってもひどく耳が遠い。


 ここでようやく息すら止まっていることに気づき、咳き込むようにして新鮮な空気を肺へと取り入れ、それをきっかけに遅延していた知覚が取り戻されていく。


 腕に痛みから始まって全身の各所から痛みの信号が脳へと集められる。だが足の指は動いていて、背骨が無事であると分かった。



「貫之! 貫之しっかりして!」


「……生き、てるよ」


「佐一! あんたなんてことしてくれるの!」



 滅多に聞かない紗江子の怒号。前に聞いたのは、佐一が天狗になりすぎて高校受験に失敗したときだったか。



「俺はなにもしてねーぞ! こいつが勝手に転んだんだ!」



 白々しいを通り越して呆れる言い訳だ。それでもってごまかすように、佐一は動けない貫之を無理やり起こそうとする。あまりの激痛に息が詰まった。



「やめなさい! いま救急車呼ぶから!」


「だ、大丈夫……救急車呼ぶほどじゃない、から」



 両腕の骨は不安だが、それ以外は時間が経てば治ると思われる。それに時間はもう夜だ。騒ぎになっても困るから朝まで異常が続いたら病院に行けばいい。



 しかし、部屋を覗いたから蹴ったのだろうがなぜ分かった。動かしたものはそのまま元に戻したと言うのに。



 その疑問は、踊り場からも見える佐一の部屋を見て分かった。


 入る時は暗かった部屋が明るい。蹴られたのがドアを開けてすぐだから点けてはないはず。つまり消し忘れたのだ。



 だからと言って蹴り飛ばすか?



 無断で入ったのだから怒るのは分かる。それは仕方ないが、何も言わず即座に階段の上から蹴り飛ばすのは、殺意を元々持っていたとしか思えない。


 佐一は、前々から貫之に殺意を抱いていたのだろうか。今まで口論も拳も交えず、歯噛みをしながら我慢していたと言うのに、一体どこで殺意を抱かせた。


 搾取され始めて五年間、憎しみは持っても殺意は持ったこと無かったのに。



「貫之、本当に滑って転んだの? 佐一に突き落とされたんじゃないの?」



 ここで佐一に突き落とされたと言えば紗江子も憲明も信じてくれる。警察の出番はなくとも佐一は完全にこの家では孤立するはずだ。


 兄弟喧嘩はまだ微笑がある。しかしその喧嘩で武器や露骨な殺意が出れば笑えない。ここははっきりと主張して罰を与えないと同じことをまた繰り返すはずだ。



 逆に佐一をかばうと、貫之はこれくらいのことをしてもかばうんだと考えを植えつけてしまう。さすがにまた起きれば問答無用だろうが、これで家族関係を崩壊させるのは気が引けた。『弟を突き落とした』ではなく『依り代を盗んだ兄』で罰を受けさせたいのだ。



「一階に戻ろうとしたら気づいたら落ちてて、滑ったのか落とされたのか分かんない」



 貫之は体中の悲鳴に耐えながら立ち上がる。打ち身が激しく、痛みの風呂に浸かっている気分だが動けないわけではない。



 ただ、その中で特に腕が焼けるように痛かった。

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