一日目 「兆」



 十五年間大きく壊れることなく使い続けた万年筆に脈が起こったのは早朝のことだった。



 それはバイブレーションなものと比べてあまりに生物的な脈として、硬質な本漆仕様の樹脂本体から手へと伝わる。完全な不意打ちであったばかりに、脈に気づいた瞬間、ぎょっと体が強張って落としかけるところ両手で握りなおす。



 脈が一つ打つ度に興奮もうなぎ登りで、十月の第一週を過ぎて涼しくなってきていると言うのに体が熱くなり背中から汗がにじみ出た。


 いてもたってもいられずに部屋を飛び出る。この現象は月宮貫之の人生に於いてたった一度しか起こらないのだから冷静になる方が無理だ。



「母さん! 起こった! 起こったよ!」


「なーにー? 何に怒ったのぉ?」


「……じゃなくて起こった! 僕の万年筆に脈が走ったんだよ!」



 つまらない同音異義語のボケをする母の紗江子にツッコミを入れながら万年筆を差し出す。脈は持ち主以外でも分かるから言うより早い。


 焼き物の途中であった紗江子は、信じていないようでやや眉をひそめながら万年筆を持つ。



「あら……あらあら嘘! 本当に脈があるわ!」


 不信だった母の顔はたちまち歓喜に満ちる。


 約半世紀前までは識字率と同じくらいに発生していたこの事象は、大量生産大量消費時代のあおりを受けて、今では三人に一人と減って看過できないほど深刻化している。その三人の内一人に入れることが確定したのだから喜ばない親はいない。



「そっか、壊れずに大事にしてたものね」


「貫之、脈が出たのか!? 間違いじゃないのか!?」


 驚きと興奮を押し混ぜた声で語りかけてきたのは、台所と隣接する居間のソファーに座る父の憲明であった。



「本当だよ。ほら」


 貫之は万年筆を憲明に差し出して触らせる。


「そうか……出たんだな。よかったな」


 興奮するや一転、落胆のような声で呟いて貫之の頭を撫でた。


「父さんにもいつか起きるわよ。だから腕時計、壊れても直して使い続けているんでしょう?」


「もう二十年の付き合いなんだがな。ここまで来たらもう起きない気がするよ」


「そんなこと考えちゃ腕時計がかわいそうよ。使い続けるだけでもきっと腕時計はよろこんでるわ」


「気長に待つよ。貫之、おめでとう。一生に一度だから壊さないようにな」


「うん」



「貫之、ご飯できたから佐一呼んできて。あと今晩赤飯にするから」


 テーブルには四人分の朝食が置かれていて、貫之は頷くと兄である佐一を呼びに二階へと向かった。


 佐一の部屋は階段の真正面にあり、扉に『佐一の部屋 勝手に入んな!』と小さな看板がぶら下がっている。


 ちなみに貫之の部屋は一階の和室で佐一の部屋は洋室である。理由は割り当てる部屋がないためで、その代わり佐一の部屋より一・五倍と広い。


 ノックを三回ほどして返事を待つが起きている気配はない。ただ、今まで親に無断でこの時間まで帰ってこなかったことはないからいるはずだ。


 一応起こしてくるよう言われて大義名分はあるから、貫之は一度深呼吸をして扉の取っ手を掴む。



「兄ちゃん、朝ごはんだって」


 一浪を経て大学に進学したのが今年のこと。家にいた頃は勉強漬けの毎日であったが、大学生になってからはその反動か毎日のように九時過ぎに帰ってくる。両親は大学生だからととやかく言わないとしていて、この時間に起きているか寝ているかは運次第だ。



「兄ちゃん入るよー」


 返事がないまま部屋に入る。佐一の部屋は小奇麗で、鞄やビニール袋が散乱していても汚いには程遠い。ベッドが壁際に置いてあり、そこに膨らみがあった。



「兄ちゃん、朝ごはん!」


「うっせーなー、いらねーよ。毎日毎日呼びにくんじゃねーよ」


 熟睡しているところを起こされ、佐一は舌打ちを混ぜながら悪態を打つ。


「別にいいけど、ハシラミが黙ってないと思うよ?」



 もぞもぞと布団の中で動く佐一の動きが止まった。親なら我侭を通せても、月宮家には通しきれない存在もいる。


「あー、せっかく気持ちよく寝てたのによぉ!」


 ぼさぼさな髪の毛をかきむしりながら文句を言いながら、のそのそとスウェット姿でベッドから起き上がる。背丈は貫之より三十センチ以上高い一八四センチで、不機嫌な顔とやや良い体ともあって威圧感が強く受ける。


 中三の貫之にしてみれば一五〇センチの身長は平均からすると低いものの、だからといって気圧されるほど貧弱さは持ち合わせていないつもりだ。



「だったら早く寝ればいいじゃん。あと聞き飽きた」


 佐一は一度貫之を睨んだ。上目遣いのまま怖気づかずにいると、無理矢理腕でのけて通り過ぎていった。文句を言いながらも朝食の時に寝続けていたことはない。



「貫之よ、お前もうちっと年上を敬えよな」


「もちろん敬うよ。でも兄ちゃんに敬ってどうすんのさ」


 四年とはいえ人生の先輩に対して敬えと言うなら、敬いたいと思わせることをしてから言ってほしい。いくら王様であっても悪政の王を敬うのは甘い汁が吸える側近だけで、兄として誇れるなら起こし方だって丁重にする。


 そしてもう畏怖しなくてもいい理由がポケットにある。



「兄ちゃん、実は僕の万年筆に脈が起きたんだ」


 二階と一階の間にある踊り場で佐一の足が止まった。


「あ? お前に? まさか」


「だからもう兄ちゃんの指図は受けないよ」


「……はっ、分かりやすい嘘をつくんじゃねーよ。だったら触らせてみろ。確かめてやる」


「やだね。何されるか分からないし、依り代になった以上監督責任は僕にあるんだ。罪を犯すなんて出来ないね」



 脈を確認しなければ事実なのかも分からない。ゆえに佐一は手を出して寄こせといい、貫之ははっきりと拒む。


 道具に脈が起きた瞬間、その道具は法律の強い庇護下に入って器物破損より重い放火級の罪が科せられるのだ。それは持ち主にも当てはまるのだからどんな関係であれ拒むのは当然の権利である。


「いつ顕現するかは分からないけど、でも決まったから」


 貫之も階段を降り、踊り場で立ち止まる佐一の横を通り過ぎて台所へと戻ったのだった。



 三人になりかけながらも毎日四人で取る朝食。今朝の話題は当然、月宮家では母に次いでで顕現の確定をした貫之の万年筆についてだ。


「やっぱり遺伝ってあるんだろうな」


 納豆をかき混ぜ、熱々の湯気が立ち上るご飯に盛り付けながら憲明がつぶやいた。


「お父さん、それ迷信らしいわよ。どんな血の強い家系でも顕現する人といない人がいるから」


「貫之、くれぐれも大事にするんだぞ。一生に一度なんだからな」


「分かってるよ。十五年大事にしてやっとなんだから」



 脈が起こる前に万年筆が壊れてしまっても、新たな万年筆を大事にすれば脈が起きる可能性はある。しかし起きてしまえばもう後戻りは出来ず、壊れてしまうと残りの人生、どれだけ再び万年筆を大事にしようと脈が起きることは二度とない。それは他の道具も同じ事である。


 一人に対して脈が起こるのは人生でたった一度であり一つの物だけなのだ。



「佐一はもったいなかったな。貫之と同じように万年筆を大事にしてたら今頃はもう顕現してたのかもしれないのに」


「子供の頃にそんなこと言ったって壊すなって方が無理だろ」


 佐一も貫之同様に祖父から万年筆を渡された。これは全国で行われている古い風習で、生後前後に親族が長年使えて誰が見ても恥のない道具を渡すことになっている。祖父は万年筆を作る職人をしていて、風習に倣って渡してくれたのだ。



 だが佐一の万年筆は小学生の頃に壊してしまったらしい。事情を話してもいまいち飲み込めない時期だ。壊したところで罪もその重さも大して思わないだろう。逆に貫之はペン先をひん曲げる程度で大破するまでには至らず、ほぼ同い年で過ごしてきた。



「ところで貫之、名前はこれから考えるのか? それとも神主さんにお願いするか?」


「自分で考えるつもり」


「やめとけやめとけ。どうせ変てこな名前にするに決まってるさ。ミカエルとかな」


「外国の名前なんかつけるもんか。しかも神じゃなくて天使だし。立派で恥じない名前を考えるよ」


「ああそうかよ」



 よほど自分より先に弟に脈が起こったことが気に入らないらしい。それには両親も同情して態度の悪さに何も言わず、佐一は食器も片付けずに居間から出て行った。



「当分はそっとしておきましょう。あまり自慢しないようにね。佐一だけじゃなくて学校もね」


「この前彼女ができたって散々写真見せて自慢してきたけど」


 同じサークルの先輩らしく、卑屈なしに美人と言える人との写真を見せつけ、そんな話のない貫之を佐一は散々弄くった。悔しくはあっても怒りはない。なにせ付き合っても大半が自分の性格の悪さですぐに別れるのだ。むしろ心の狭さを見せ付ける形となって哀れみすら覚える。自慢をするなら出来たことより、どれだけその人と相思相愛であるかだろう。その方がうらやましく思う。



「神と彼女は違うもんさ。彼女は後先考えられても神様は考えられないからな」


 最初はその仕返しとして自慢をしようかと思ったが、怒って壊されては困ると我慢する。まだ実感は湧かなくても確かに前兆は来たのだ。世界で日本人だけで、しかも三分の一の確率で生涯に一度しか現れない存在。


 貫之は胸に手を当て、服越しでも脈を確かに感じ取る。



 国名、神聖大日本国。


 暦、『昭和』から『陽正』に改元してから久しい十月九日。


 世界でもこの国しか存在しない『八百万の神』を記した憲法第零章零条がある。


 憲法改正時、『大日本帝国』から候補の『日本国』にせず、『神聖大日本国』にした謂れだ。



 この国には、建国する以前より神が暮らしている。

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