第22話

 りいの行動は素早かった。あの分ではやはりかなり前から探られていたのだろう。時折感じていた気配も気付いた異変も、それがずっと続いていたというのなら、辻褄は合う。気のせいだと言い聞かせようとしていた自分はあまりにも甘く滑稽だ。

 もうそんな悠長なことは言っていられない。

 それは分かっているが。

 それほどまでに彼女を駆り立てるものが何か、市倉は知っている。知っていて──それでもいつか終わるものだと思っていたのだ。

 けれど。

 電話の向こうでは呼び出し音が続いていた。思いもよらず長引いてしまった先程の連絡に、くそ、と呟いた。腕時計を見る。もうすでに終わっている時間を過ぎている。音を切ったままなのか、市倉は一旦電話を切り、別の番号に掛けなおした。

 長く呼び出し音が続く。

「出ろよ…」

 少し遅かったかと焦りが込み上げてきたとき、相手が出た。

 はい、と低音の男の声がした。

「──お待たせしました、カフェ食堂コンタットです」



 紙袋を下げて夜道を匡孝は歩いていた。紙袋には浜村に渡されたテイクアウトボックスとスープの入った保温容器が入っている。歩くたびにカサコソと音がした。

 行くと言ってしまった自分を思い出す。

 結局は会いたかっただけなのだと匡孝は思った。

 会いたいだけ。顔を見たいだけ。確かめたいだけ。りいが、そこにいないことを。

「いたらどうすんだ…」

 零れた呟きに深くため息を吐く。いたら、…

 どうしよう。

 どうしよう…

 道の先に明かりが見えて来る。目印のようにいつもあるコンビニの光だ。暗い夜道を照らしている。十字路はもうすぐだ。右に曲がれば市倉のアパートに辿り着ける。いっそ知らなければよかったと匡孝は思った。

(バカだな俺…)

 いつか、夏の初め、帰り道の先に市倉の背中を見つけて、そのままこっそりと後をついて行ってしまった。古いアパートの2階の端、鍵を開けて入っていく後姿に後ろめたさと罪悪感が込み上げて、すぐに走って帰った。それ以来1度も行ったことはないが、知らなければ、行こうなんて思わなかったのに。

 十字路に着いた。

 ひと息を吐き、暗い外灯の下を匡孝は右に曲がった。

 心臓が痛いくらいに早くなっていた。



 遠目に見えたアパートの市倉の部屋は暗かった。

 匡孝ははーっと道の真ん中で息を吐いた。

 どく、どく、と心臓が鳴る。

 いない。

 いないんだ…やっぱりどこかに行ったのか。

 そして思い当たる。

 いるけど消してる、とか…

「あ…」

 自分で思ったことにすうっと指先が冷たくなった。

『あの人は大人だから…』

 そうか、きっと。そうなのかも。

 どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。

 泣きそう。

 手に握っている紙袋の中身がずっしりと重みを増していく。

 どうしよう。

 …どうしたらいいのだろう。

 足が動かない。

 暗闇の中で考えに沈んでいた匡孝が、かすかな振動音に気付いた。

 耳を澄ました。

 携帯だ。そういえば音を切ったままだったと、肩から下ろしたリュックの中をあちこち探っていると、それを指先に見つけた。

 表示されている名前を見て匡孝は驚いて、慌ててボタンを押した。

「は──」

「おまえ今どこにいる⁉」

 はい、と言い終わるよりも早く市倉の声が被さってくる。

「え?え、?」

「どこにいる⁉」

 普段よりも強い声に匡孝は混乱した。

「せ、せんせーんちの、アパート、見えるとこ…?」

「十字路入った道か⁉」

「うん、そ…」そうだけど、と続けると市倉が短く息を呑んだ。

「そこにいろ──動くなよ」

 と言って市倉は電話を切った。

「え、先生?…?」

 無言の携帯を匡孝は見つめた。何だったのだろう。

 手の中の携帯の光がふっと暗くなり、足音が近づいて来るのを匡孝は聞いた。目を凝らすと暗闇の先に走って来る人影が見える。市倉だとすぐに分かった。

 案外近くにいたようだ。

「せん──」

 先生、と言うよりも早く、伸びてきた大きな手にぐい、と腕を取られて匡孝はよろめいた。手の中の光が完全に消え、辺りが闇に戻った。

「うわっ…!」

 構わずに市倉は匡孝を引きずりながら来た道を引き返しはじめた。

「来い」

「え、なに…⁉」

 唸るように言われて匡孝は怯んだ。上腕を強く握りこまれて痛かった。指は食い込むほどで、匡孝は市倉を見上げたが暗闇の中では何も分からない。

 ただいつもと違う雰囲気に匡孝はひどく焦った。

「ちょっ、どこ…何⁉」

「いいから!」

 振り返る事もなく鋭く言われたその声は苛立ちの気配を含んでいて、匡孝はどうしようもなく混乱した。

「なんでっ?俺何かした⁉」

 たまらなくなって匡孝は足を踏ん張った。連れられる力に抗い、立ち止まり、掴まれた腕を引き抜こうとした。

「先生っ…!」

 前を行く市倉が引かれて立ち止まり、ようやく匡孝を振り返った。暗がりの中で視線が絡む。少しの間の後、市倉はため息をついた。それからゆっくりと、掴んでいた手を緩めた。

「悪い、…痛かったか?」

 匡孝は頷いた。市倉の声はまだ少し硬さを残したままだ。

「…俺なんか怒らせた?」

 市倉が首を振り、片手で額を覆うようにして髪をかき上げた。

「違う。違うんだ俺が──焦っただけだ」

「え?」

 焦った?

「おまえの携帯に電話したけど繋がらなくて、店に掛けたらもう出たって、おまえが俺の家に行ったって聞いて…行ったのか?」

 匡孝はゆるく首を振った。

「浜さんが先生に飯持ってけって、それで、俺、だけど電気ついてなくてどうしようって思ってて…だから、行ってない」

「そうか…」

 その途端に市倉の気配が緩んだ。市倉が心底安堵したように呟いた。周囲が暖かくなって、その温度差に匡孝のうなじが強張った。

 なにそれ。

 匡孝は思わず目を逸らした。そんなに、──

「そんなに俺が行くのやだったんだ?」

 そんなに、苛立つほどに嫌だったのかと思うと、もう駄目だった。匡孝はぎゅっと両手を握りしめた。目を逸らし、市倉が何か言いかけたが構わずに早口で捲し立てた。目じりに何かが滲んだがどうでもよかった。暗いから分かるわけがない。

「ごめんそんなに嫌なんて知らなくて。家には行ってないし何も見てないし、知らなくて悪かったよ、じゃあこれ浜さんからだから!」勢いよく紙袋を市倉に押し付ける。「スープ入ってんのは店のだからさ、だから後は俺の下駄箱にでも入れといてよ」

「江藤」

「帰る」

「ちょっと待て、おい──」

「帰るって!」

 押し付けた紙袋をさらにぎゅうぎゅうと市倉の胸に押し付けた。顔を覗き込まれるよりも先に市倉の横をすり抜けようとして、その瞬間に手首を掴まれて正面を向かされた。「江藤…!」

 匡孝はその手を振り払った。

「だから帰るってば!帰りゃいいんだろっ…⁉」

「違う、あのな」話を、と言いかけた市倉を上目に睨んだ。

「な、んだよ…!」

 触れられた箇所が燃えるように熱い。市倉はそれでもまた匡孝を捉えようと腕を掴んだ。両手で肩を包まれるようにして引き寄せられて、匡孝は身をよじって抵抗する。カッと全身が燃えるように熱くて、それを知られまいと抗った。ふたりの間で宙に浮いた紙袋がアスファルトの上に落ち、交差するふたりの足元でがさがさと音を立てた。

「もういいって!もうやだよ、なんで…!」

「江藤、違うよ」

「なにが、何が違うんだよ、なんで、がいいならなんで優しくすんの⁉期待なんか!見込みないの分かってるけど俺が──」

 好きなの知ってるくせに。

 市倉が目を瞠った

 それに匡孝は気づけない。

「…して、あんな、っ…!」

「──江藤」

「先生のこと悪くばっか言ってるあんな女のどこがいいんだよ……っ」

「江藤、なんでおまえ──」

 市倉が匡孝の肩を掴んで揺さぶった。その指は強くて匡孝は痛みに顔を顰める。食い入るように覗き込んでいる市倉の顔を匡孝は見上げた。

 闇に慣れた目に、信じられないものでも見るような顔を市倉はしていた。

「なんでその名前を知ってるんだ…‼︎」

「──」

 しまった。

「江藤‼︎」

 市倉にも匡孝の、息を呑んだ気配が伝わったのか、掴んだ肩を揺さぶられた。がくがくと揺れながら匡孝はなんと言えばいいか分からなくなっていた。

「江藤ちゃんと言え!なんで知ってるんだ⁉︎どうして、何かもう言われたのか⁉︎なあ⁉︎」

 言われた?

 匡孝はぎこちなく首を振った。

「何もないのか⁉︎俺の事で何かおまえに接触して来たんじゃないのか…!」

「ち、違っ、違う…」

「じゃあどうして──」

 匡孝の目を市倉は怖いくらいに凝視していた。目を逸らしたくても出来なくて、匡孝は違うと首を振りながら震えそうになる声でどうにか言った。

「バイト入ったばっかりの頃、あの人よく来てて…っ、それで先生の悪口ばっか言ってた。その時はそれが先生のことだって、分かんなかったけど、でも、…そのあとせんせ、来たから……っ」

 だんだんと語尾が掠れて、匡孝はそこで深く息をついた。

「先生は知らない…でも俺は先生が来る前に一回会ってて、そうかもってずっと、ずっと思ってて……!」

「うん」

 上手く言えないもどかしさに匡孝は唇を噛み締めた。ちゃんと言え、と自分を奮い立たせて匡孝は市倉を見上げた。

「酷いことするってりいが言ってて、だから俺、先生のこと守ろうと、好きだからこっち向いて欲しくて…っだから…!」

 だから。

「りいのとこに行かないで…!俺の事見てよ……っ」

 江藤、と耳元で声がした。

 息を呑むとその言葉ごと市倉に抱き竦められていた。痛むほどに腰を抱えられ、匡孝の肩の上に市倉の額が当たっていた。

「見てるよ」

 ひく、と喉の奥が鳴った。

「俺は江藤を見てるから」

 泣かないでくれ、と言われて初めて匡孝は自分が泣いていることに気がついた。しゃくり上げる声が止まらなくなりそうで、匡孝は奥歯を噛み締めて肩を震わせた。

「行ったりしない、大丈夫だから」

 しー、と宥めるような市倉の声がした。背中に回った手が、とん、と匡孝の背筋を叩いた。とん、とん、と何度も何度も市倉は繰り返した。子供を寝かしつけるように市倉はそれを続けた。首筋に市倉の髪が触れていた。煙草の匂いのするそれに匡孝は顔をすり寄せた。

 耳をくすぐるように、何度もその傍で、しー、と囁かれた。

 重なった胸から鼓動が伝わってくる。

 ゆっくりしたのと、早いのと、どちらがどちらのものだろうと、匡孝は思った。その音に耳を澄ませる。

 たったそれだけのことなのに、すうっと気持ちが凪いだ。

 混乱した思考が波が引くように落ち着いてくる。

「俺が悪かった…驚かせたな」

 少し上向いた匡孝に覆い被さる市倉の背中を、匡孝は両手で握りしめた。冷たい革の感触がもどかしかった。もっと暖かいはずなのに。もっと。

 もっと欲しい。

 右目の視界だけが滲んでいて、瞬くと、残った涙がこめかみに流れて落ちた。

 市倉が匡孝の髪を撫でた。

「まさか知ってるなんて思わなかったよ…」

 怖かったな、と匡孝の肩の上で市倉は息を吐いた。深く。

「違うんだ。俺は彼女とはそんな関係じゃない。おまえが思うようなそんなものじゃないんだ」

 何か言おうとして、けれど喉の奥は何かが詰まったようになっていて、声が出なかった。答えるかわりに縋るように背中を強く掴むと、市倉がふっと笑った。

「おまえはいつも考えすぎるんだな」

「俺…、ごめん…」

 どうにか声を絞り出して言うと、市倉が笑いを零した。

「大丈夫だよ。ちゃんと、…話をしよう」

「ん…」

 頷くと、市倉が安堵したのが分かった。

 少し身じろぐと、またぎゅっと抱き込まれる。もういいよ、と呟いた匡孝の肩の上で市倉がかすかに笑う気配がした。

 とん、とん、と背中を叩いてまた、しー、と言う。

「いいからもう少し…こうしてるから」

 触れている市倉の胸が膨らんでしぼんでいく。市倉の呼吸で触れている肩が温かく湿って、そこから波紋のように熱が伝わっていった。黒い髪が頬をくすぐってその髪に思わず指を伸ばすと、また引き寄せられて、市倉の冷たくなった耳を押し当てられた。

 よかった、と市倉が小さく呟いた気がした。

 熱を分け合うように首筋に擦り寄るその仕草が、まるで大きな動物のようだ。そう感じた時、縋りついているのは匡孝なのに、なぜか市倉の方が自分に縋りついているように思えて、匡孝はこの手を自分から離してはいけないような気がした。


***


 本当は怖かったのは自分の方だったのだと思った。

 匡孝の体を抱きしめながら、胸の奥にしまっておきたいと願った。

 いつも先手を行くりいの、先の読めない行動に初めて市倉は焦燥を覚えた。何度掛けても繋がらない電話が、それをより強くした。

『ここのバイトの子だよね?それで、エイくんの生徒だよね…』

 自分に向けられるはずの悪意が匡孝に向かうのだと感じた。りいは既に匡孝を自分に近しい者として認識していたからだ。

 だからコンタットにまで電話を掛けた。

『おー先生?江藤ならもう帰りましたよ』

 そう答えた浜村に、どれくらい前かと尋ねた。

『15分くらい前。ところで先生今出先なの?いや、昼間の試作が余っちゃったんで先生んち知ってるっていうから食事持たせたんだけど。もう帰る感じですか?入れ違いになるかな…』

 なんとか礼を述べて電話を切り、再び匡孝に掛けた。出ない。繋がらないそれに焦りは募った。車を自宅に向けながら何度も何度も繰り返す。

 家に行っては駄目だ。

 りいは自宅に帰っていない。あのままホームを降り、戻っているだろうと聞いていた。ならば彼女が市倉のアパートを見張っている可能性は大きい。そこに匡孝が行き、りいと鉢合わせをしたらと思うだけで心臓が跳ねた。自分はどうでもいい。彼女を怖いと思ったことはないし、これからもそうだろう。

 でも匡孝は──

「くそっ…!」

 何度目か分からないくらいのリダイヤルを押す。コンビニの駐車場で車を降り、家に向かって走りながら再び試みる。繋がらない。出てくれ、と祈った。頼むから。

「出ろよ…!」

 その瞬間、呼び出し音が途切れた。

「は──」

 その声に何もかもが飛んだ。気がつくと叫んでいた。

「おまえ今どこにいる⁉」

 そうして聞き出した場所に全速力で向かった。

 外灯のない暗闇の中、ぼんやりとした光が人の手の高さに浮かんでいる。

 見つけた。

 あれだ。

 早く、と思った。

 その存在を確かめたい。

 触れて、早く、その温かさを。

 抱きしめて、胸の中にしまっておきたい。

 匡孝がこちらを見ている。

 光が消える寸前、その手を摑まえた。

 自分が思うよりもずっと強い力や口調に市倉には気付けない。ただ、誰にも渡せないと──それだけだった。

 それは市倉が、もうどうしようもない程に、この20も年下の青年に惹かれてしまっているのだと、自覚した瞬間だった。



***


 匡孝の手を引いて暗闇の中を歩いた。

 コンビニの駐車場に止めてある市倉の車を見て匡孝は言った。

「アパートの駐車場は?」

 ピ、とロックを外して市倉は苦笑した。匡孝に乗るように促してから自分も運転席に滑り込んだ。

「まあ、見られてるから、だな…」

「は?」

「…とりあえず移動しよう」

 狭い車の中、近い距離からきょとんと見返す匡孝に言う。エンジンをかけていると、匡孝が、あ、と声を上げた。

「何?」

「店長」フロントガラスの向こうをじっと見ながら、匡孝がほら、と指さした。

 コンビニから漏れる光の外側を、グレーのコートを着た大沢が俯きぎみに横切っていく。どうやら店の方へと戻っているようだった。

「どこ行ってたんだろ…」

 独り言のような匡孝の呟きに市倉はさあな、と肩を竦めて返した。あまりあの人とは相性がよくない気がする。

「──行こう」

 と言って市倉はアクセルを踏んだ。

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