カロンの渡し舟

紺道ぴかこ

カロンの渡し舟

「ジェシカ、起きて……ジェシカ!」

 体を激しく揺さぶられ、ジェシカは目を開けた。視界に入ったのは、よく見知った姉の顔だった。

「ヴェロニカ姉さん……?」

 ぼんやりした調子でつぶやくと、ヴェロニカは安心したように表情をほころばせた。

「よかった、目を覚ましてくれて。それじゃ、行くわよ」

 ヴェロニカに手を引かれ、立ち上がる。思わずうなずいてしまったが、踏みしめた草の感触に疑問を抱いた。手をつないだまま歩き出したヴェロニカの背中へ訊ねる。

「ここはどこなの?」

「見ればわかるでしょ、森の中よ」

 辺りを鬱蒼とした木々に囲まれているのだ。ここが森であるのは間違いないだろう。しかし、ジェシカが聞きたいのはそういうことではない。

「どうして私、こんなところにいるのかしら?」 

「なんでこんなところにいるのかは……あたしが聞きたいくらいだわ。あたしはあんたを探しに来ただけだし」

「そうなのね。私、また居眠りしちゃったのかしら……」

 ジェシカに背を向けたまま、ヴェロニカが軽く肩を揺らして苦笑を漏らす。

「それで、どこに行くの?」

「……うちに帰るのよ。それ以外なにがあるの」

 そっかとうなずき、ヴェロニカに手を引かれながら柔らかい草の上を歩く。足取りに迷いがないところを見ると、帰り道を完璧に把握しているのだろう。さすが姉さん、知らない間に知らない場所で眠り込んでしまう自分とは大違いだ、とジェシカは心の中でつぶやいた。

「それにしても、私どこまで来ちゃったのかしら。うちの近くにこんな森はなかったわよね?」

 ヴェロニカは心ここにあらずといった様子で「そうね」と小さく口にした。らしくない返答に首を傾げる。「知らないわよ、あんたが勝手に来たんでしょ」くらいの返答は予想していたのだが。

「もしかして、お父さんの実家の近くかしら。よく一緒に虫取りとか木登りとかしたわよね」

 幼い頃住んでいた場所は見渡す限り田畑が続いているような田舎であったが、両親を事故で亡くして都会の親戚に引き取られてからは、背の高い建物が多く立ち並ぶ中で暮らすことになったのだ。引っ越した当初は落ち着かなかったが、今はもう人工物に囲まれた生活が当然のように思えていた。つい最近も近所で新しいビルの建設がはじまったんだっけ、とジェシカが思考を巡らせていると、「ふふっ」とヴェロニカが小さく笑った。

「ジェシカったら、あたしがやめろ、って言ってんのに、がんばって木に登ろうとしてたわよね」

「それは……一緒に遊んでるんだから、私も同じことしたいじゃない」

 快活で行動力のある姉と正反対に、ジェシカは自身が「大人しい」に分類されると自覚している。それでも幼い頃は、姉と同じことがしたかった。虫取りも木登りも苦手だったけれど、それらを姉がしている姿を見るとうらやましくなるのだ。

「一緒に、か。……ねえ、ジェシカ」

 ヴェロニカが足を止め、振り返る。なに、と聞き返そうとして、しかし言葉が出なかった。ジェシカを見つめるその瞳は、あまりにも真剣な色を宿していたから。

「これからも、ずっと……あたしと一緒にいてくれる?」

「当たり前じゃない」

 答えの決まりきった質問に拍子抜けしながらも、ジェシカは力強くうなずく。ヴェロニカが目を伏せる。握ったままの手が、少しだけ震えているように感じた。

「急にどうしたの?」

 ジェシカの問いかけに答えようとはせず、ヴェロニカは唇を震わせ、言った。

「死ぬときも?」

 おもむろに絞り出された言葉に、一瞬言葉に詰まる。しかし、考えるまでもないことだ。先ほど同様、ジェシカはきっぱりと答えてみせる。

「もちろん。ずっと一緒だったんだもの、死ぬときも一緒よ」

「……そう」

 ヴェロニカが背を向け、再び歩き始めた。

「約束よ、姉さん」

 ささやくような言葉に返事はなかったが、微かにうなずいたのが後ろからでも見て取れ、ジェシカは安心したように微笑んだ。

 つないでいた手は、いつの間にか離れていた。


 木々の合間を抜けても、見慣れた都会の風景は戻ってこなかった。

 森を抜けた先にあったのは、大きな川。穏やかな流れの向こう側は、白い霧に覆われ見通すことができない。

 川べりには古ぼけた小さな木の舟が停まり、その脇には櫂を手にした少年が控えていた。少年は二人の姿を目にすると、ほうと息をついた。

「ちゃんと連れてきたんじゃのう。あまりにも遅いから来ないのかと思ったわい」

 若々しい見た目に反し、その口調は年老いていた。しかしそれ以上に、ジェシカには気になることがある。少年の口ぶりからして自分たちを待っていたようだが、少年の姿に見覚えはない。老人のように話す少年など、一度知り合えば忘れそうにもないのだが。

「約束よ、カロン。あっちに連れていってくれるわよね?」

 首を傾げるジェシカをよそに、ヴェロニカが一歩前に踏み出す。少年はヴェロニカの知り合いのようであるが、違和感を覚える。得体の知れないもやもやが、体全体に広がっていくような感覚に襲われた。

 にらみつけるようなヴェロニカの視線に、少年は快活に笑ってみせる。

「無論。もとはといえばこちらが間違えて連れて来たんじゃからのう」

 少年が舟とへりをつなぐ紐に手をかける。ジェシカは困ったようにヴェロニカに視線を送ったが、「乗って」と静かにうながされた。

 聞くのは後でもいいか、と舟に乗り込む。舟はきしんだ音を立て、水面に波紋を作った。見た目は古いが、乗ってみると案外頑丈そうだった。

「じゃ、行くかの」

「えっ? ちょっと待って」

 こぎ出そうとした少年を慌てて制止する。ヴェロニカは、まだ岸に残っている。 

「姉さんがまだよ。ほら、つかまって」

「……」

 舟から身を乗り出してヴェロニカに手を伸ばすが、彼女はそれを掴もうとしてくれなかった。胸の前で握りしめたこぶしが、震えている。

「すまんのう、その娘は連れていけんのじゃ」

「……へ? どうして」

 小さな舟ではあるが、あともう一人くらいは乗せられるだけの広さはある。

「ジェシカ」

 抗議を口にしようとしたジェシカを、ヴェロニカの静かな声が遮った。

「あたしは帰れないの。一人で行ってちょうだい」

 姉の言っていることが理解できず、言葉が出ない。そうこうしている間に、少年が櫂を川へと下ろした。

「そういうことじゃ。行くかの」

 舟がゆっくりと動き出し、腰を浮かしていたジェシカはしりもちをつく。止める間もなく、舟はどんどん岸から離れていった。

「ま、待って! どこに行くの? 姉さんは一緒じゃないの!?」

「無論、おぬしを帰すのじゃ。あの娘は、自身が言っていた通り帰すわけにはいかぬのでな」

「意味がわからないわ……姉さん!」

 遠ざかる岸に向かい、叫ぶ。陸に残されたヴェロニカは、笑顔で手を振っていた。いつもと変わらぬはずなのにどこか違う姉の表情に、胸がざわく。さっき感じたもやもやが、より色濃くなってジェシカをのみ込む。

「姉さん、姉さん!」

 舟が進むにつれ辺りは白い霧に包まれ、姉の姿が見えなくなっていく。ジェシカの意識も、徐々に白い中に飲まれていった。

「先は長いでな。少し、眠るといい」

 舟をこぐ穏やかな音を聞きながら、ジェシカはまどろみの中へと落ちていく。最後に耳に届いた言葉と一緒に、溶けるように。

「さよなら」

 

 ゆがんだ視界の中で、白が映えて見える。さっきまで辺りを包んでいた霧とは違い、はっきりとした白だ。

 ベッドに横たわったジェシカは、白い天井を見上げていた。ぼんやりとする中で、アルコール独自のツンとしたにおいが鼻をつく。部屋に漂うにおいは、ここは病院なのだと教えてくれた。

 すぐ近くで、ピッ、ピッと規則正しい電子音が鳴っている。きしむような痛みに耐えられず、体を起こすことは叶わなかった。仕方なくシーツに身を預けたまま、視線だけを音のする方向へ動かす。

 隣のベッド――電子音を鳴らす機械につながれている人物を見て、はっとした。

「……姉さん」

 隣のベッドに寝かされた姉は、頑なに目を閉ざしていた。体中に巻かれた包帯が、見ているだけで痛々しい。

 傷だらけなのはジェシカも同じだが、姉の比ではない。いったいなにが。鈍痛が頭に走り、記憶を呼び起こす。


 二人で買い物に出かけた帰り道。建設中のビルの前を歩いていたときのことだった。凄まじい音を立てて頭上に鉄骨が迫ってきて、そして――。

『ジェシカ!』

 落下する鉄骨を呆然と見上げていたジェシカは、叫んだ声の主に突き飛ばされた。おかげで、直撃はまぬがれたのだ。

 ジェシカをかばった、ヴェロニカの代わりに。


「……姉さん」

 痛みに耐え、ヴェロニカへと必死に手を伸ばす。呼びかけても、柔らかい頬に触れても、もう手を掴もうとはしてくれない。

 岸から手を振る姿が、最後の言葉が、脳裏によみがえった。

 彼女はおそらく、わかっていた。自分はもう、こちらに戻ることはできないと。

 わかっていて、ジェシカだけを送り返した。

「嘘つき」

 頬を流れるしずくと一緒にこぼれた言葉は、停止を示す無機質な音にかき消され、消えた。

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カロンの渡し舟 紺道ぴかこ @pikako1107

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