第2話【日常サーカス】(妻視点)

 はベッドの上で目を覚ました。昨日の事を思い出しまだイライラする。もう何度繰り返しただろう。考えても無駄なのに思考は渦を巻く。


 娘を起こしリビングへ降りる。そこには今は顔も見たくない夫が居た。何か仕切りなしに話しかけてくる。私が欲しい言葉が出る訳でもないみたいだ。全てをシャットアウトし、娘と食事を済まし、シャワーを浴びた。


 娘の長い綺麗な髪を乾かし服を着させた。風で絡まぬよう三つ編みを編んでいると、いつもの様に夫はソファに座りぼーっとしている。


(暇なら紗代子の髪でも編んでくれたら良いのに)


 無駄だと分かりながらも、一度だけ夫に目線を向けた。どうせ夫が編んでも、ボサボサになり、結局やり直すのだ。それならば食器を洗えば……いや。思うだけでは駄目なのだ。指示を出さねば。


「紗代子を車に乗せて」


 娘の準備が済み、夫に今日初めての指示を出す。まだ話したい気分ではないが仕方がない。そうでなければ動かないのだから。


(あ、今日は少し寒いと天気予報で言っていたな)


 私は娘のパーカーを取り出し着させた。夫がこちらをじっと見ていたが、いつもの事なので気にしないことにしておく。


(最低。せっかく楽しみにしていたサーカスなのに)


 私達を乗せた車は高速道路を抜けてお台場までやってきた。途中窓から見えたビル群は都会らしさを私に伝える。同じ都会でもお台場は道も広く、海が近いせいか空気が綺麗な気がした。


 車から降りて一度大きく息を吸う。住んでいるところは排気ガス臭く感じるが、ここは何故かそうとは感じない。普段は娘と二人、狭くはないが開放的とは言えない家で過ごす。久々の外出はイライラしていた私の心を少し軽くしてくれた。


 駐車場からサーカスの会場まで歩く。娘は既に歩くのを拒絶し夫に抱っこしてもらっている。普段出かける時はベビーカーが必須だが、こういう時にはやはり役に立つ。


 少し歩くと大きな青い壁の建物が見えてきた。屋根は黄色と青の縞模様で帽子のような奇妙な形をした突起が三つ乗せられている。目線を地面の方へ下げると行列ができていた。


(人気なんだなぁ。楽しみだなぁ)


 そう思いワクワクしていると、夫が再度話しかけてきた。一度目は無視をしたが、同じ内容を繰り返したため、生返事を投げる。その一言で気を良くしたのか、際限なく話しかけてくるようになった。無視し続けるのも面倒になったから、短い返事を返すことにした。


 開演まではまだかなりの時間がある。私はいつも余裕のある行動が好きだ。時間に余裕があれば焦る必要も無くなる。好きなことをして時間も潰せる。私達は少し早めの昼食をとることにした。


「このお肉美味しいねぇ。柔らかいよ。あ、これ食べてご覧よ。少しあげるね」

「ありがと」


 夫は一口食べて美味しいと評価したステーキを大きめに切り、私のプレートへと乗せた。私は夫のこういう所が好きだ。喜びを分かちあおうとしてくれるのだ。


「私これ食べないからあげる」

「ほんと? ありがとう!」


 私は苦手な肉の脂身と、玉ねぎのソテーを夫のプレートへと移した。嬉しそうに夫が頬張る。夫は本当になんでも美味しそうに食べる。見てて飽きない。


 開演時間になり席に着く。夫が必死で探していたので黙ってついて行ったが、入口に各シートの場所が貼られていた。それを見ていればもう少し簡単に見つかっただろう。


 開場時間を過ぎた辺りで私たちは会場近くのレストランから出た。既に入場は進んでおり、先程の長蛇の列も今やわずか数名ほどの長さしか無かった。


 クラウンの案内とともにショーが始まった。その頃にはだいぶ昨日の怒りもなりを潜めていた。私は純粋にこれから繰り広げられるショーを楽しむことにした。


 初めはお手玉だった。しかし手に持つのは鋭い少し反った形をした剣だ。映画などで海賊かなにかが持っているようなそれだった。


 初めは二本、次に四本。次々と増え、空高く舞い上げられる剣は照明の光を反射し怪しく輝く。私は演者と飛ぶ剣を観るため、首を上下に動かす。最後に八本の剣を見事投げた後受け取る。演者は盛大な拍手の元ステージを後にした。


 次は複数の演者によるアクロバットだった。全身を色の揃えた煌びやかな服装で着飾っている。床を飛び跳ねバク宙をしたと思ったら、他の人がそれを受け止めさらに高くへと舞い上がる。別の演者の肩に座るように着地する。まるで人が子供が遊ぶ積み木のように次々と積み重なっていく。


 それが積木くずしのように崩れていく。あっ! と声を上げるまもなく次々と繰り広げられる演技に私の胸は強く鳴り響いていた。


 次はステージが暗くなり様々な色のレーザーライトが会場を照らした。一人の女性が現れた。先ほどの躍動感溢れる演技とは反対に、ゆっくりとした動きを魅せる。軟体を活かした演技のようだ。あらぬ方向に身体を折り曲げたり、通り抜け出来そうもない隙間を潜ったり。幻想的な音と光に助長され、女性は何か神秘的な物に視えた。


 やがて人気だという空中ブランコが始まった。二人の女性は、まるでお互いが一つの生き物のように、一寸の狂いもなく、双方のブランコの間を行き来していた。それはまるで物語に出てくる妖精達のようだった。


 異変に気付く。左のブランコの紐が一瞬たわんだように見えた。次の瞬間、自分が出していることを忘れるほど夢中で悲鳴を上げた。


 落ちていく妖精。いやあれは人だ。恐怖のあまり過呼吸になる。自分の気を落ち着かせるため、右手で夫の手を握った。その手がこちらを力強く握り返した。自分の手が震えているのが分かる。手だけではない。喉が酷く乾いた。


 無事だった……。どうやら事故は安全対策により大事に至らずに済んだようだ。身体は嫌な汗で濡れていた。ふと横目で夫と娘を見る。そこで大きく息を吐いた。どうやら万が一のことが起こってたとしても、夫のおかげで娘はトラウマを植え付けられずに済んでいたようだ。


 私は溢れでる自分の涙を拭くために、左手で目を覆う。助かった現実と、助からなかった仮の世界とが私の心を激しく揺さぶる。落ちた女性と娘が一瞬重なって見えた。もしあれが娘でもし助からなかったら……ありえないもしが私の頭を支配する。


「今宵わたくし共が提供させて頂いたのは、強い感情でございます!」


 クラウンが何か言っていた。強い感情? まさにその通りだ。これが仕組まれたこと、事故どちらでも関係ない。私は酷く心を揺さぶられたのだ。これはエンターテインメントでは無い。感情への侵略だ。暴力だ。


 酷く疲れた……残りのショーは眺めていたが、ほとんど頭に入ってこなかった。私の右手は同じ格好を続けたため、少し痺れてしまっていた。


「どうする? もう帰ろうか?」

「そうね」


 ショーが終わり夫が帰ることを提案してきた。普段ならせっかく来たのだからとどこかへ行くのが普通だ。私の事を気遣った訳では無いと思うが、素直に意見を言う。これも夫の良い所だ。私も思った事はすぐ口に出すので口論は絶えないが。


「あの時、剣の位置が一つだけズレていたのがあったのよ。私声には出さなかったけど、あっ! って思ったもの」


 夫の運転する車の助手席で、私は今日観たサーカスの感想を話す。今思い返すと、やはり面白かった。来てよかったと思う。私一人なら朝の気分では来なかっただろう。前向きな夫が少し羨ましい。


 午前中喋らなかった分を取り戻すかのように、私はひたすらに話した。夫は「うん。うん」とだけ言い、聞いてくれる。自分でも知っているが私の話は冗長だ。思いついたまま取り留めもなく話す。思考の速度に口が追いつかないのだ。


 夫が全てをちゃんと聞いていないことは知っている。だがそれでいいのだ。人付き合いが苦手な私は、夫以外では遠くで暮らす母親くらいしか相手がいない。夫が聞いてくれないならば、壁に向かって話すしかないだろう。


 話している間に空中ブランコを思い出した。再び胸が締め付けられ、頬を涙が伝う。私は両手で顔を隠す。口だけを動かし、感情を吐露する。夫はいつも通り優しい声で慰めてくれた。


 家に着いても娘はまだヨダレを垂らし眠っていた。夫に「起こして」と言おうとしたら、先に起こしてくれた。珍しいこともあるものだ。


 リビングへ入ると、夫が荷物を床に置く。さて、これが片付けられるのはいつになるだろうか。それを横目で見ながら、私は話を続けた。


「どうやら、機嫌はすっかり良くなったみたいだね? いやぁ、サーカス楽しかったね。行ってよかったよ」


 夫のその言葉にいたずらを思いつく。


「は? 何言ってるの? 私許してないから。許して欲しかったら私の好きなチョコでも買ってきてよね」


 私がこう言ったら、そのチョコは一つしかない。家から自転車で15分位の隣の駅前にあるデパートで売られているチョコだ。


 夫は文句も言わずに外へ出た。あそこは混んでいるから帰ってくるまでそれなりの時間がかかるだろう。


 私は娘をテレビの前に置くと、急いで準備を始めた。邪魔されている暇はないのだ。予め準備をしていた食材を手際よく料理していく。外で食べるかどうか分からなかったから、準備をしておいて良かった。


 普段はかけてないテーブルクロスを机にかけ、出来たての料理を並べていく。ズボラな夫は忘れているだろうが、そもそも今日は結婚記念日なのだ。なのにいくら昨日喧嘩したからと言って、お祝いの言葉の一つもないとは。


「ただいまー」


 夫が帰ってきた。テーブルの上を見て驚いた顔をした。「ああ、そうか……」などと呟く。やっぱり忘れていたようだ。私が嫌味を言おうとしたら、「はい、これ」と手に持ったチョコの入った袋を手渡すと慌てた様子で床に置いたままの荷物を漁る。


 しばらくした後、満面の笑みをした夫の手には小さな箱が握られていた。


「チョコ渡したから機嫌は直ったよね? それじゃあ、改めまして。結婚記念日、おめでとう」


 そう言いながら手に持つ小さな箱を渡してきた。私は驚きながら、震える手で蓋を開ける。中には可愛らしいピアスが入っていた。


「この前ピアス無くして、付けるのがなくなったって言っていたでしょ? そんなに高いもんじゃないけど、気に入ったら付けてよ」


 付属のカードには「愛する妻へ」の文字。残業が多く、帰りも遅い。休日はほとんど私達と共に行動をする。いつ買ったのだろうか?


「ありがと」


 お礼の言葉を言い、私は今日、三度目の涙を落とした。

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日常サーカス 黄舞@9/5新作発売 @koubu

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