第44話 終焉への踊り場・一

 練習室の外へ出ると、明かりが点いてないがらんとした廊下の静寂が、私を迎えてくれた。


 ……放課後の練習棟の廊下が静かなのは当然なんだけど、なんか、静かすぎる気が……静かにしとくよう先生たちに言われてた時間も過ぎたし、この時間ならまだ外で練習できるのに…………。

 ……って、練習室、誰もいないじゃん。ここ、石田いしだ君が練習してたと思うんだけど。

 練習室の扉のガラス窓から見える限り、石田君がいないどころか鞄もない。ということはもう帰った? まさか他のオケ部の人たちも?


 ………………。

 うーわー、他の部屋もいないよ。皆帰ったか、上の階へ行ったみたい。私、練習室の窓閉めてたから、わからなかったんだろうな。

 ってことは、一人か……和子かずこと駅まで一緒に帰るつもりだったんだけどなあ。和子も声かけてくれたらよかったのに。

 ため息をついて、私は練習室の扉に鍵をかけて廊下を歩きだした。


 授業に出て、どこかでご飯を食べて、練習室で練習するかさっさと家に帰る。そんなありきたりな高校二年の日々もあと一ヶ月足らずな今日の放課後の校舎は、オケ部が敷地内や廊下で練習していなくて、いつもと比べるとずっと静かだ。今日は他の学校の先生たちも集まっての会議か何かがあるらしくて、うるさくしないようにって担任の先生から通達があったからね。だったらテスト期間中にすればいいのに。他の学校の先生とかが来るそうだから、そっちのスケジュールに合わせてなんだろうけど。


 歩いてるうちに視界の隅に入ってきた教室の窓は、どこも明かりが点いてなくて真っ暗だった。桃矢たちの教室だけきっちりカーテンを閉めてあるからまだ人がいるのかわかんないけど、この時間からすると、もう明かりが落ちててもおかしくない。というか、落ちててほしい。お別れ会の帰りにばったり桃矢とうや真彩まやと会うなんて、冗談じゃないよ。


 そう、明日、桃矢は日本を発つ。だから桃矢のクラスはお菓子とかジュースとか皆で持ち寄って、放課後にお別れ会をすることにしたんだって。カラオケ屋だとお金がかかるから、だったら学校でしちゃえってなったらしい。


 ……あ。ヴァイオリン…………。

 練習棟の端まで来てつい立ち止まっちゃってた私は、後ろから聞こえてきた旋律につい振り向いた。

 スキップしてるか鼻歌歌ってるみたいな旋律だ。それか、くるくる踊りながら回ってるか。でも優雅って感じじゃなくて、道端とかもっとありきたりなところで踊ってる感じ。村のお祭りとか? それにしてはなんかちょっとあやしげなところがあるけど……ともかく楽しそうな旋律。


 何の曲だろ、これ。桃矢が弾いてるの聞いたことがあるけど、タイトルがわかんないや。オケ部でやる曲なんだろうから、和子に聞いてみればわかるかな。ピアノ曲でもあるなら、明希あきか真彩に聞いてもわかるだろうけど。……倉本くらもと君はやめとこう。デートじゃないとしても、何を報酬に要求されるのかわかったものじゃない。


 あ、ヴァイオリン一本だけだったのが二本になった。クラリネットも。いいな、こういうの。途中から加わっていって、もっとお祭りっぽい。

 音の聞こえかたからすると、多分二階の廊下で演奏してるのだろう。一応先生たちの用事が終わってるから、廊下で演奏しちゃえって誰か言いだしたんだろうな。うん、オケ部は悪くない。放課後はずっと防音設備が整った部屋以外で練習するの禁止――――って通達しなかった先生たちが悪い。


 あー、なんかもっと聴いてたいな…………急ぐ必要ないし、少しくらいいいよね。

 そう自分を納得させて、私は鞄を床に置くと、廊下の窓を開けて身を乗り出した。上の階に耳を向け、少しだけ大きく聞こえるようになった気がする演奏に耳を傾ける。


 観覧車から出たあと、予想どおりに倉本君は雪が降る中、家まで私を送ってくれた。『今度こそ家まで送らせてよ』なんて言われたら、そうするしかないでしょ。泣きはらした顔でゴンドラから出たから、スタッフさんとかには別れ話切り出されたんだろうとか誤解されてそうなのが申し訳ない。スタッフさん、客の様子なんてさっさと記憶から消し去っちゃってください。


 でも、倉本君に抱きしめられながらさんざん泣いたおかげで、息がしやすくなった気がする。感覚が現実に近づいたっていうか、分厚いガラスが薄くなって、心に空いた穴が少し塞がって、前よりもずっと色んなものを素直に受け止められてると思う。最近は全然感情が乗ってないって心配してくれてた時田ときた先生も、元の調子が戻ってきたって言ってくれたし。それも嬉しかった。


 こんなふうに、曲をもっと聴いてたいと思えるようになったのも進歩だ。一昨日までの私なら、いい旋律だなあで終わって、帰ってた。萎れてた草花が水を得て瑞々しさを取り戻すように、自分が前の自分に戻っていくのが全身で実感できる。

 それは、まだ過去のことにできない桃矢とのことでも私は苦しい思いをしなきゃならないってことでもある。けど今の私はコンクールの夜みたいに、それに耐えていける自信があった。倉本君が言ってくれたように、私は大木おおき君みたいに道を踏み外してしまったりしない。そう確信をもって言える。


 …………うん、私、頑張らなきゃいけないし、頑張れるはずなんだ。桃矢が始まりだったとしても、それとは関係なしに歌うことが好きなんだから。歌ってたいなら、私は強くならないといけないよね。

 明日から桃矢が日本のどこにもいない毎日が始まって、私の人生は続いていく。倉本君の優しさに甘えてばかりじゃ駄目だ。私、もっとしっかりしなきゃ。


 これからも歌おう。自分の中にあるありったけの感情を込めて。一度では無理でも何度も繰り返せばきっと、去年のコンクールのあとみたいに、桃矢への想いから私は解き放たれるに違いないのだから。


 そんな決意と予感を胸に、私はオケ部の合奏に耳を澄ます。中世の道化師みたいな恰好をした人が一人、妖しい踊りを踊ってる様子を思い浮かべる。

 ――――――――のに。


 ……………………ちょっと。

 誰よ、人がせっかくオケ部の演奏を聞いてるのを邪魔する奴は。なにこれ、二人? 喧嘩中? 会話は聞こえないけど、険悪な感じなのは確かだ。

 あーもう、いい気分で聞いてたのに台無しじゃん。演奏も今終わったみたいだし。最悪だ。


 言い争いはまだ続いてるけど、せっそくの静聴タイムを邪魔した人たちになんて興味ない。私は鞄を拾い、嫌な人たちに背を向けた。

 ――――――――そのときだった。


「君がそうやってはっきり本音を言わないから、彼女たちはあんなに泣かなきゃいけなくなったんじゃないか!」


 …………え?

 今の、今の声って――――――――


「お前に関係ねえって言ってんだろ!」


 初めて聞く荒げられた声に、ものすごく怒った声が即座に返る。……久しぶりに、声。

 そして、防火壁に人が叩きつけられる音。


 ―――――――――っ

 私は考えるまでもなく振り返って、走った。そのあいだにももう一回、防火壁が派手な音を立てる。

 階段の一階の踊り場へ駆けこんで、私は頭の中に浮かんだ名前が正しかったことを知ることになった。

 お腹を抱えてむせてる倉本君と、駆けつけた私を見てぎょっとしてる…………桃矢。頬に、殴られた痕がある。

 二人の間に何があったのか、聞かなくてもわかる。何よこれ。なんでこんなことになってるの? 何やってるのよ。


「桃矢! 何やってるのよ!?」


 怒鳴って、私は桃矢と倉本君の間に割り込んだ。倉本君を庇って桃矢のほうを向く。


「人に殴るなとか言っといて、自分は人殴ってるじゃない! しかも友達を! 喧嘩なら口で済ませなよ!」

「っ倉本が」

「ホントのことじゃん! 言い訳しないでよ!」 


 私は怒りに任せて桃矢の胸倉を掴んだ。

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