第43話 忘れないで・三

 その雪が不意にどういうわけか、小さい頃に桃矢とうやの家で見た景色と重なった。暖房が効いた防音室の窓から見た、柿渋色の塀を背景にした雪が積もる日本の庭。


「…………前にも言ったと思うけど、私と桃矢はあの教会のところが運営してる幼稚園に通っててさ。そのおかげで、教会で年に何度か聖歌を聞いたり歌うことが普通だったんだよ。その上、桃矢のお母さんは声楽曲が好きでね。桃矢の家には昔から、ピアノと声楽のCDがいっぱいあったんだよ」


 瞼に浮かぶ情景につられたように、私の唇は勝手に思い出を語りだした。


「そのせいか桃矢は、私がピアノを弾いてってねだるたびに、じゃあお前これ歌えって、声楽のCDを私に押し付けてきてたんだよ。難易度なんてお構いなしにね。子供だったから仕方ないけど、モーツァルトの『レクイエム』を歌えって言ってきたこともあってさ。無茶ぶりしすぎだよね」

「確かに」

「でも私は桃矢にピアノを弾いてもらいたかったし、歌えないって言うのもなんか癪でさ。それで、CDの歌を聞いては真似して覚えて、桃矢の前で歌うことにしたの。そしたら桃矢が伴奏してくれて。……そのうちに、お母さんに頼んで、桃矢と一緒の音楽教室に通わせてもらうようになったの」


 桃矢が私に音楽をくれた。物語ならそんなふうに表現するんだろうけど、私もそう思う。桃矢のピアノを聞きたくて、桃矢の評価が気になって、私は歌が上手になりたいと最初に思ったんだから。桃矢がいたから、歌えって言ったから、私は歌うことを好きになったんだ。歌は私の大切なものであると同時に、思い出と併せて私たちを繋ぐ絆だった。桃矢と真彩まやが付き合うようになって苦しくてどうしようもなくても、思い出と歌があったから、私は一人で泣きわめくだけで済ませることができた。

 ――――――――――なのに、私はそんな大切なものを、自分で台無しにしてしまった。


 さっき倉本くらもと君に指摘されて、気づいた。練習室のときも、公園のときも、桃矢は私の反応を知ろうとしてたよね。まるで飼い犬が飼い主の、小さい子供が親の機嫌を窺うみたいに。桃矢は、私から言葉を引き出そうとしてた。


 もしかしたら桃矢は、さみしかったのかもしれない。自惚れじゃないなら、あの日まで私は桃矢の一番の女友達で、そばにいるのが当たり前な存在だったのだから。当たり前じゃなくなるのがなんとなしに不安で、だから、私との距離を確かめようとしてたのかもしれない。


 もしそうなのだとしたら、そりゃ桃矢は怒るよね。桃矢が真彩と付き合うようになってからは私、桃矢と距離をおくようにしてたもの。そこに、あのやりとりじゃあね…………私は手を二度も払ったし…………。

 とはいえ、高校生にもなってこんなことでいつまでも怒ってるって、子供すぎでしょ。確かに馬鹿馬鹿しい。


 でもそれは、私も同じだ。いくら好きな人と絶交になったからって、心がおかしくなるなんてどうよ。コンクールのときにはあんなにも簡単にできていた、感情を込めて歌うことすらまともにできなくなってるし。一体どこの曲に出てくるか弱い女の人だよ。

 ……ああ私、やっぱり大木おおき君と同じだ。希望なんてもう欠片も残ってないのに、前を向けない。救いようのない想いに飲み込まれて、動けないでいるだけだ。


 桃矢が留学することを決めて良かった。こんな私のままじゃいつかきっと、大木君の二の舞になるところだった。そんなの絶対に嫌。おかしくなった私なんて、桃矢に見られたくない。

 桃矢は私に近づいてこないし、留学は明々後日。私は明日と明後日、いつものように過ごせばいいだけだ。そうすれば、私は桃矢を傷つけられなくなる。

 早く時間が過ぎてしまえばいい。私がまた桃矢を傷つけてしまわないように、桃矢がもっとプロのピアニストに近づけるように。どこか遠くへ行ってしまえばいい。


 倉本君の相槌もなく、私が桃矢との思い出を語るあいだにゴンドラはいつのまにか、一番高いところまで上がってきてた。雪が止まない空はさっきよりもずっと暗くなって、建物の明かりが増えてる。もう黄昏時じゃない。夜だ。

 ここまできたから、あとはもう下りていくだけだ。下りてしまったら、私は家に帰らなきゃいけない。――――桃矢の家に近い、私の家へ。


 重苦しく、亀みたいにのろのろと時間が過ぎていくあいだ、私はぼんやりと桃矢のことを思い出してた。というより、勝手に頭の中が桃矢のことで埋め尽くされていった。私は疲れて、もう何も考えたくないのに。ありふれた幼馴染みとして過ごした時間の欠片が、雪のように私の頭の中をひらひら舞う。


 小四の冬に、私のお気に入りだったぬいぐるみが原因で桃矢と喧嘩をしてしまったこと。

 中一の春、教室で友達と恋バナしてる最中に外にいた桃矢と偶然目が合って、不覚にもときめいてしまったこと。

 中二の秋、桃矢が日本で開催された国際コンクールで優勝したお祝いで水族館へ遊びに行って、桃矢が好きなんだと気づいたこと。

 去年の夏、花火大会で桃矢に誕生日祝いのネックレスをもらったこと。

 それから、それから――――――――


 ……………え…………?

 え、倉本君?

 いやちょっとこれ――――――――

 ――――――――え?


 思い出に気をとられてた私は、自分の身に起きたことをとっさには理解できなかった。

 だって、倉本君が席を立って、私の隣に座って。それから――――――――

 腰に手を回されて、頭を抱えられて、首筋に頬を当てて。

 私、倉本君に抱きしめられてる――――――――?


「……何もしないよ。僕は涼輔りょうすけじゃない。ちゃんと弁えるさ」


 私が身動きもできずにいると、苦笑が頭のてっぺんに降ってきた。倉本君の息が、私の髪を揺らす。

 でも、怖く、ない。


「……考えるの、やめなよ。斎内さいうちのこと。少なくても、僕と一緒にいるあいだはさ」


 倉本君は穏やかな声で言った。


水野みずのさん、忘れないで。僕は君の味方だから」

「……」

「他の誰にも甘えられないなら、僕には甘えていいんだよ」


 そう私にささやく声は、柔らかく優しく、甘い。秋にお母さんが同僚の人からもらった和三盆みたいに、ほんのりとしてほどよく、いくらでも身体に溶けて馴染む。

 そうだと、私はとても当たり前のことのように倉本君の言葉を受け入れた。


 そう、倉本君は私の味方。私の本音を引き出して、振り回して、けれど寄り添ってくれる。桃矢や真彩には言えない、桃矢や大木君のことでも、倉本君には話すことができた。倉本君は意地悪だけど、賢くて聡くてとても優しい。


「君は、涼輔のようにはならないよ。君は自分の想いよりも、他の大切なものを優先する人だから。そんな人は、あんなふうに狂ったりできないよ。……だから僕は、君を放っておけないんだ」


 ほら、また。私が楽になれるよう、言葉をくれる。私を甘やかしてくれる。

 胸がじわりと熱くなった。体の内側からぽかぽかしてきて、顔が火照る。その中で、目の周りだけで異様に熱くなる。

 …………私、泣いてる。


 首筋に私の涙が流れても、倉本君は何も言わない。子供をあやすみたいに私の背中や頭を撫でさすり、声もなく涙を流す私が落ち着くのを待ってくれる。手袋を外した素手のぬくもりや肌触りが心地いい。

 それがただ、申し訳なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る