かわくじらのなつ
みずたまり
本編
――黒い雲の間から月がのぞいていた。
もうすぐ、夏だね。あ、ナツのことじゃなくて季節の方ね。
夏……僕が夏って聞いて思い出すのは五年前の、僕とナツが出会ったキャンプなんだ。五年前――えっと、僕が小学三年生だった時だね。
最初に言い出したのは確か母さんだったかな……とにかく、僕は自分の意志でキャンプに行ったわけじゃなかったんだ。
キャンプへ行くって聞かされた瞬間から僕は首を横に振ったよ。だって初めてのことだったし、何よりそれが子供たちだけのキャンプで、親は全く参加できないものだったから……まぁ、結局は押し切られたんだけどね。
一日目で釣りとかカレーとか他にも色々あって、二日目だったんだ。ナツと会ったのは。
薪を集めていたらいつの間にか川に出て、そこにナツがいたんだ。
……ナツ。名前の理由を知りたい?
……うん。僕とナツが出会った季節。捻りがなくてごめんね。
◇
蒸した夕方だった。
天気予報で伝えられている長雨の圏内ではなかったが、雨は家の屋根をしきりに叩いていた。
少しは休めばいいものを、指揮棒は昨日からずっと振るわれている。
夏と言うにはまだ早いのに、僕は自室のクーラーをつけたい欲求に駆られた。ひんやりした場所を探してベッドを転がっていたが、我慢できない、とリモコンに手を伸ばした瞬間、母の晩御飯に呼ぶ声が耳に届いた。
ダイニングキッチンのドアを開けると暑さから解放されるかと思いきや、僕を迎えたのはカレーの熱いにおいだった。
「……ねぇ、暑くない?」
うんざりを隠さずにきいた。
「暑いから熱いのを食べるのよ」
不満を言われたからか、口調がいつもよりキツかった。
「身体にイイモノ入ってるし?」
あと気合いとか。
「そう。汗かいても、お風呂沸いてるから」
「……あーい」
生返事をしつつ、僕は棚から食器を出した。
◇
カワクジラ。哺乳類。体長は一メートル~ニメートル。その姿はヒゲクジラ類とよく似ており、主に河川に棲息することからその名がつけられた。
小魚やプランクトンの他に、ヒゲクジラ類のような硬いヒゲで、石、岩についたコケを削いで食べる。
普段は泳いで移動するが、生息地を変えるような時には飛ぶ姿も見られる。
日本には亜種のニホンカワクジラ、キタカワクジラが棲息しているのみである。
昔は空を群れで渡る姿がよく見えたそうだが、個体数は年々減少しており、綺麗な河川でしかその姿を見ることはできない。
僕が小学三年生だった時に自由研究で調べたものだ。
◇
食事も中程に差し掛かった時だった。
幾筋も流れている汗を拭うのを諦め、カレーを口に運んでいると、唐突に、
「最近カワクジラの数が減少してるんだって」
と母が言った。
独り言だと判断して僕は黙って麦茶を飲んだ。
テレビは静かに河川の増水のニュースを伝えていた。
「聞いてるの?」
「僕に話しかけてたの?」
「祐介以外に誰がいるのよ」
知らないとは言えず、僕はとりあえず相槌をうつことにした。
「ふーん」
僕の反応が薄かったからか、母は大げさにため息をついた。
「昔はカワクジラって言ったら騒いでたのに」
「……いつの話をしてるんだって」
残り少なくなったカレーを無理やり口の中に押し込んだ。
「ごちそうさま」
「はい。風呂入ってらっしゃいね」
風呂場は雨が入ってきそうな程に騒がしかった。
そんな中、ぬるめの湯に身体を包まれている。冷たい縁にあごを乗せてぐったりと目を閉じていた。
ゆっくりと、まどろみが僕を襲う。
約束は守るためにするものだと思う。
ただ単に約束を守るのではなく、それは信頼や友情といったものを守ることにも繋がっていると思う。
『悪ぃ、忘れてた』
彼らにとっての僕の存在は希薄だと実感する。
ないがしろにされた僕の感情の行方はない。ただ、スゥ、と何かを喪失した感覚があって、それらは消えていくだけだ。
そして穴だらけになった僕のどこかは、自身を守るために一つの命令をだした。
誰かを信じるな、と。
ぼんやりしながら風呂を出ると、いつのまにやら父さんが滝のような汗をかいていた。
「おかえり」
「ん、ああ。ただいま」
早い風呂だなと言う父さんにカレーを指さすと納得したように汗を拭いた。
「クーラーつかないかな」
「電気代がかさむから母さんが許さないと思うよ」
「せめて除湿を――」
「――ダメです」
母さんはテレビを観ていて関心がないようだったが、父さんが席を立つと俊敏な反応を見せてくれた。
渋々お酒を飲む父さんから、僕は母さんがしているようにテレビに視線を移した。
「……え?」
目を疑った。
「田無川に昨日から現れたんだって」
黒雲の下に広がっていたのは、汚れた川に浮かぶ白い物体。
「珍しいこともあるもんだなぁ」
それが何か、僕にはわかっていた。
「カワクジラって綺麗なところでしか生きられないんだろう?」
雨の中、増水した川に漂うキタカワクジラ。雪のように白いはずのその身体は、ゴミがへばりついて所々汚れていた。
僕の意志に反応したように、カメラが白い身体の一部に寄った。
食事時にはあまり相応しくないのか、明確ではなかったが、はっきり彼の目が潰れているのがわかった。
キャスターの言葉が理解はできないが頭に蓄積されていく。
「そこ、どこ」
「カワクジラのいるところか? 田無川だって」
「何で」
北陸でしか生息していないはずのキタカワクジラがこんな南にいるなんてありえない。
「迷い混んだんじゃないか?」
「……祐介、どうかしたの?」
ナツがお世辞にも綺麗とは言えない田無川出てくる理由なんて。
「……あ」
その理由を、僕は思い出した。けれど、それを信じるにはあまりに荒唐無稽すぎて。
「なんでもない」
僕が絞り出したと同時に中継が切られた。
変わって画面にはキャスターが写り、次のニュースを読み上げだした。
僕はそれを聞くこともなく、自室に引き返した。
◇
「ねぇ、ナツって呼んでいいかな」
五年前、僕はナツと出会った。
「ナツとまた会おうって約束したんだってば!」
四年前、僕は再会を願った。
「ねぇ~ナツのところに連れてってばぁ!」
三年前、僕は願い続けていた。
「今年は……どこも行かなくていいや」
二年前、僕は約束を忘れた。
◇
ダラダラと雨は傘を伝う。着替えた服も肩に張り付いてきている。
風呂から上がった後、ナツを見て僕の心は揺れた。
別にナツが約束を守ろうとしてくれているとは思わない。
ただ、やはり僕は――約束を忘れてしまった僕でも、ナツともう一度会いたいと思った。
「……自分勝手、だよね」
もしもナツが人間だったとしたら、僕に何と言うだろう。
口の中で苦い味が広がった気がして、僕は歯を噛み締めた。
電車で一駅越えた所にナツがいる。
撥ねる水も気にせずに駅に急いだ。
飛び乗った電車が速度を緩めた時から、雨はようやく回復の兆しをみせていた。
駅を出て、傘を開かず道を急ぐ。田無川の河岸までは残り五分くらいで着ける距離。
僕は更にスピードを上げた。
雨が止んだ頃に田無川に着いた。テレビで見ていた時よりも増水した川の中に、ナツの白い姿は見えなかった。
「ナツ……」
ここにきて、僕の心の中で、ある感情がその首をもたげた。
焦りだった。
タイムリミットは、存在する。
上流か下流か迷っている時間ももったいなかった。僕の足はその場に張り付いたままだった。
このまま会わない方がいい。
心のどこかに空いている暗い穴から、しきりに声が聞こえてくる。
会わずにまた忘れてしまえば、傷つかなくて済む。
それを意識する度に、僕の心臓は痛くなり呼吸も浅くなるのがわかった。
その声を振り切るために、強くアスファルトを蹴った。
上流へ。遥か向こうにある僕とナツが出会った所に近づこうと思った。
走ったり歩いたりを繰り返して何度目か、僕は夕方のニュースで流れていた所へ辿り着けた。それと変わらず、キタカワクジラはそこにいた。
「ナツ!」
自分の声ではっとした。
どうして僕は叫んだ。人の声がカワクジラに届くのか。仮にナツが気づいたとしても、僕はどうするつもりだ。なぜここに来てしまったのか。会わせる顔があるつもりだったのか。
穴からの声を感じる。
静かな雨に打たれながら僕は立ち尽くしていた。
やっぱり帰るべきだ。
背を向けようとした瞬間、ナツの体が動いた。
ナツは緩慢な動きで近づいてくるほどに、僕はかたまっていった。
壁面に限界まで近づいたナツはそこから僕のいる高さまで上昇した。
「…………」
少し丸みを帯びた口先が僕の胸元を軽く突いた。
傘を持っていない左手がナツに触りそうになったが、僕はそれを抑えた。目の前の白い皮膚に、はっきりと数多くの筋が入っていた。
もう一度、ナツはさっきよりも強く僕を突いた。
よろけそうになる体を、ナツにもたれかかるようにして支えた。
「ナツ……」
僕はそっと壊れかけの身体をなでた。おうとつが手の平に痛かった。
手の届く範囲のゴミを取ってやり、開いているナツの目を見た。
「……な」
声を出そうとすると、その代わりに涙が出そうになった。
「ごめん、ナツ」
僕はもう一度抱きしめた。その中で、ナツは確かに頷いたように感じた。
「こんなになるまで待たせて、ごめん」
ニュースキャスターの声が脳裏をよぎる。
ナツはもう死んでしまうだろう。そんなことは、近くで見ればわかる。
「……もう、帰るんだね」
満身創痍のその身体は、ゆっくりと動き出した。
◇
山の向こうに満月があるのがわかる。雨を降らしていた黒い雲はいつの間にか裂け、白い光が目に届く。
僕が歩く速度でナツは飛んでいた。
……ごめん。それで、もう少し話しさせてね。
……僕、自分のこと、棚に上げてたんだよ。
あんなに忘れないって言ったのに、忘れて。だから、きっと他にも守れなかった約束とかがあると思うんだ。ただ、そのことも忘れてしまっているだけで。
ナツは、きっと覚えていてくれたのにね。最低だよね。
……ナツ、もう一度僕を信じてもらってもいいかな。今度は絶対に忘れないから。
もう少し頑張ってみるよ。せめて、ナツみたいになるまで。
僕が言い終えたのと同時に、大きな影が風を残して僕の頭を追い越した。
慌てて追いかけるが、全力で走っても追いつけない。
黒雲を背にし、カワクジラは空を翔ける。もう地上のどこから手を伸ばしても届かないところまで離れてしまっていた。
歯を食いしばって走り続ける僕の網膜に、丸い月に向かって飛んでいくナツが焼きついた。
了
かわくじらのなつ みずたまり @puddle-poodle
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