△3四 元奨

「私たちも知ろうとしたよ。仲裁したいと思ったし、実際しようとした。でも二人とも黙秘してるの。結局、バルさんが4月から来なくなって今日に至ってる。あ、週明け荷物取りに一回だけ来たかな。部活動としては参加してない」

「高槻さんには俺と恐山で直訴したんだが無理だった。どうしても事情を知りたいなら俺と一局指せ。負けたら二度と事情を訊くな、と言われて勝負することになってな。あの人が本気出したらもうダメだ。手も足も出なかった」

「私もその後で指したけど惨敗。元奨だからね、あの人」

「え、そうなんですか」

「うん。早い段階で見切りをつけたらしくて、あんまり話したがらないけど。前にぽろっと言ってた」


 初めて知った。奨励会はプロ棋士になるための登竜門だ。一番下の奨励会6級ですら、アマ四段程度の棋力が求められる狭き門で、各地から集った神童たちが鎬を削り、勝ち上がった者たちが再び篩にかけられてをプロ棋士である四段に至るまで延々と対局を繰り返す。人生と才能と矜持をぶつけ合う、僕には想像すら難しい世界だ。


「つまり、期待に応えられなくて申し訳ないんだが、俺たち二年生も喧嘩の原因は知らないんだ。それに、約束を反故にもできないから表立って動けない」

「だけど、あくまで私たちが直接詮索できないのであって、一年生が事情を調べるのを止めさせろ、という制約ではないわけよ」


 熊田さんと宝さんが目を合わせ、それから僕と黒木さんを見た。


「僕たちにやれ、と」

「上手くいけばハンナちゃんが将棋部に入るかもしれないんでしょ? 一石二鳥じゃない」

「どうして分かるんですか」

「そりゃお前、わざわざ連れてきてバルさんの話するんなら、そういうことだろ」


 なるほど、それもそうか。

 客観的にみれば、勧誘した相手の悩みを解決するために動いているのだ。悩みの解決は、勧誘の成功に繋がる。ハンナさんは膝の上に手を重ね静かに座っていた。兄を慕う二年生の存在を前に、どんな気持ちでいるのか僕には分からない。


「高槻さんと指して勝てたら教えてくれるんだろうけど、難しいよね」

 黒木さんが顎に指を当てて言った。僕も話を聞いて考えはしたが、棋力が違い過ぎるので現実的な手段ではない。下手をすれば、僕たち二人も事情を調べられなくなって手詰まりだ。


「俺らとどっこいどっこいのお前らじゃ望み薄だ」

「部でも公式戦以外は気ぃ抜いてるから、割と勝てたりするんだけどね」

「あ、でもそうなると、ハンナさんのお兄さんは、えっと、バルトシュ先輩は強かったんですね」

「いや、そこまでじゃないぞ。俺らとそう変わらん」

「そうなんですか? さっき見せてもらった棋譜では勝っていたので。ハンナさん、棋譜をみせてもいい?」

「ええ、もちろん」


 不思議そうな顔をする先輩たちに、僕は先程ハンナさんから貰った棋譜の画像を送った。どうやら喧嘩に至った原因である一局という新情報に二人とも興味津々の顔で眺めていたが、やがて先程の僕たちと同じ結論に至ったようでスマホを伏せた。


「喧嘩したのは春休みだと思ってたが、この棋譜が原因だとすると卒業式の前日に起きてたんだな」

「卒業式の日、二人は喋ったりしてましたか?」


 熊田さんの言葉を受けて、黒木さんが訊く。


「式が終わって将棋部の卒業生を囲ったが違和感はなかったぞ。もう険悪だったんだろうけど、その場では一時休戦したのかもな。卒業した先輩たちとも仲良かったから私情を持ち込むのは野暮だし」

「卒業生は、部活案内の写真に載っていた人ですか?」


 集合写真を思い出す。左側に少し離れて立っていた二人は、大人びて見えた。


「あ、そうそう。岡田寛治先輩と飛山都乃香先輩ね。まだ一カ月と少しだけど、なんか懐かしいなぁ。元気かなぁ二人とも」

「岡田さんが名大で、飛山さんは早稲田だっけか。宝の偏差値だと会えそうもないな」

「なにおう! まだこれからよ! 大体、自分だって似たようなもんでしょうが、竹刀で頭叩かれる度に脳細胞がバチバチ減る呪いをかけるぞ!」

「あの先輩方、話が逸れちゃうので」


 僕が制止してから五秒後に、宝さんのアイアンクローが外れた。


「この棋譜の日、3月20日って部活はあったんですか」


 眼前の戦いを完全に無視して、黒木さんが尋ねた。彼女の場合、この手のじゃれ合いは僕に丸投げして我関せずといったスタンスが入部当初から一貫している。


「俺は確か剣道部で不在だ」

「どうだっけ。部活自体が休みだった気がするなぁ。ちょっと待って」


 宝さんが立ち上がり、部室の壁に貼られたカレンダーを捲った。カレンダーは各月にプロ棋士の写真が載っている連盟公認のものだ。3月は前棋聖が盤の前で瞑想している。


「あれ、7月に誰か予定書いた?」

「なんで未来の月を見てるんだよ、過去だ過去」

「うっさいな、間違えたの。ね、7月2日に『K』って書いてあるんだけど誰か知らない?」

「大会か何かありましたっけ?」

「平日だよ。誰が書いたんだろ、恐山かな」


 まぁいいか、と自己完結して宝さんはカレンダーを逆に捲っていく。3月の絵は女流棋士だった。鮮やかな柄の着物で駒を持ってこちらに向けている。よく見かける構図だが、何故駒をカメラに向けているのかは誰も知らない。


「あ、ほら。棋譜の将棋が指された日は部活休みだよ。バツ打ってある。てことは、二人でこっそり指したんだね。なんか怪しいなぁ」


 カレンダーの3月20日の欄には、赤いペンで大きなバツが描かれていた。将棋部は基本的に出席も休みも自由だが、月に何日かは皆の予定を聞き合わせて、予め休日を作っておく決まりがある。そうしておけば、他の日の出席率は上がるので効率がいい。僕も4月の入部当日に訊かれたのを覚えている。


「この日に、何かが……」


 ハンナさんはカレンダーの赤いバツを凝視し、それから先輩たちの方を見た。


「私も兄が元気を失ってから、理由を問いただしたのですが、兄は黙って首を振るばかりで何も教えてくれませんでした。皆さんにも同じでしたか」

「うん。バルさんは高槻さんと違って常識人だから、将棋でどうこうとは言われなかったけどね、だからこそ無理に聞き出せない感じ」

「恐山は珍しく食い下がってたけどな。あいつ、バルさん慕ってるから。でもやっぱり何も教えてもらえなかったらしい」

「そうですか。あ、いえ、すみません。兄がご迷惑をかけて」

「いやいや、どうせ原因は高槻さんだから気にしなくていい」

「そうね。バルさん優しいもん。悪いのは高槻さんだよ多分」

「ありがとうございます」


 ハンナさんは力なく呟いた。表向きは気丈に振る舞っているが、落胆は隠せていない。僕も同じ気持ちだった。何か分かるかもしれないと希望を持ってきたのに、大した進展を得られなかったのだから。


「これ以上は具体的な情報がないと、指す手がないですね」


 黒木さんが言った。宝さんが脚を組み直し、ううんと呻る。


「さりげなく本人の口から聞くしかないかも。あ、でも将棋部だと私たちがいるから喋らないか」

「そういえば、僕たちを悩ませている張本人はどこに?」

「なんか事件があったらしくてな、今日はもう帰ったぞ」

「あ、千堂先生から聞きました。公園で将棋を指していた人が被害者で、高槻さんと顔見知りらしいから事情聴取があったって」

「おう、それそれ。そこまで親しいわけじゃなかったんだろうけど、ショック受けてたな。明日土曜だから事件があった公園行くって言ってたし」

「焼死体が見つかって、犯人まだ掴まってないんでしょ。怖いよね」


 事件があったのは道徳公園だ。家からは離れているが、小さい頃、屋台目当てに盆踊りへ連れて行ってもらった思い出がある。林もテニスコートもある広大な敷地だった。誰もいない公園で死体が燃えているところを想像すると、少し背筋が寒くなる。


 まず確実に、この事件は三年生の喧嘩とは無関係だ。しかし、全く関係ない事件だからこそ、高槻さんと話す理由付けにはなるかもしれない。


「行ってみようか」


 僕は言った。黒木さんとハンナさんの顔を見て、あらためて提案する。


「明日高槻さんと道徳公園で会って聞いてみよう。部室だと聞けないし、僕たちになら教えてくれるかもしれない。それにハンナさんだっている」


 私ですか、とハンナさんが目を丸くした。この場において、彼女だけが将棋部ではない。高槻さんからすれば予想外の存在だろう。無下にはできないはずだ。


「私は空いてるけど」

「私も大丈夫です」


 黒木さんとハンナさんが頷き、明日の予定が決まった。

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