△3二 前進

 棋譜が映されたスマホを黒木さんに渡して、カルピスを一口含んだ。


 内容についてぼんやりと考える。棋譜の将棋は、ハンナさんの兄・二条バルトシュ氏が勝っている。一局だけで棋力は測れないが、それでも高槻さんに勝つのは並大抵ではない。相当の実力があるか、研ぎ澄ませた用意の作戦だったのか。


 休憩スペースは沈黙が支配していた。目を瞑って集中すると、幽かにブラスバンドの演奏が聴こえる。3階の音楽室から漏れているのだろう。


「相居飛車というのは、この棋譜の将棋のこと?」

「そう、どちらも飛車を振っていない。ハンナさん、将棋は指さないの」

「一応ルールぐらいは知っているけど細かい戦法までは」


 さっぱり、とハンナさんは首を振った。


 僕は黒木さんからスマホを受け取り、あらためて棋譜を眺めた。かなり激しい将棋だ。横歩取りに近い動きは大駒が飛び交うので短手数になりがちだが、それでも三十八手の決着は早い。超至近距離の殴り合いで一手間違えれば即死という戦いだったはず。


「分からないな」黒木さんが言った。「お兄さんと部長が将棋を指して、それで何で喧嘩になるの?」

「私もそれが分からないの。けど、溜め息をつくたびにこの棋譜を取り出してこっそり眺めていたから、きっと関係があるんだろうと思って、兄が朝から出かけた隙に机に置かれていたのを隠し撮りしたんだけど……」

「撮ったのはいつ?」

「今週の土曜日」


 5月7日、と頭の中で日付に変換する。


「手掛かりってわけね。ねぇ、この画像送ってもらえる?」

「あ、うん。いいよ、黒木ちゃんはiPhone?」

「ええ。……何してるの、ほら、矢吹君も」


 黒木さんに睨まれた。そう簡単に女子と連絡先なんて交換しても良いのだろうか、と健全な躊躇をしていた僕としてはありがたい。


「そうだね。えっとハンナさん、僕にも貰えるかな」

「勿論です。これでお近づきになれましたネー」


 再びハンナさんは悪戯っぽい笑みを見せた。兄を心配する曇りのある表情が、年相応の少女らしさに様変わりする。隣にいるこけしみたいな女子が無表情なだけに、表情豊かなハンナさんは対比的な眩しさがある。


 連絡先を交換して、画像を受け取った。あらためて、じっくりと棋譜から情報を読み取る。対局開始から終了まで二十四分。アプリやパソコン画面を通じて指すのとは異なり、これは人間同士が実際に行う対局だ。腕を動かし、駒を掴み、指して、チェスクロックを押す。一連の動作が加わるから、手毎に時間を要する。

 

 しかし、それにしたって序盤はノータイムと考えれば、三十八手の短手数で二十四分はかなり長い。黒木さんはスマホを置き、ハンナさんにも見えるようにアプリの将棋盤で棋譜を再現していった。


「20切れかな」

「多分ね」


 20切れは互いに二十分の持ち時間で指していき、持ち時間が無くなれば強制的に負けとなる。地方大会の予選で多く採用されているし、将棋部内の公式戦もこのルールだ。棋譜を残すような将棋が部室で指されたのなら、可能性は高いだろう。


「備考欄の御前試合というのは、将軍や大名の前で戦ったって意味だよね。昔はそういう制度があったって聞いたことあるよ」

「江戸時代の将棋指南役のことなら、御城試合というはずだけど。でもまぁ、意味は同じかも」

「うちの高校に将軍がいたということ?」


 ハンナさんが素朴な疑問を口にした。僕が認識している範囲では、将軍が馬にまたがって校庭を闊歩していた事はない。


「備考の意味は読み取れないから飛ばそう。他には――」

「この棋譜ってお兄さんの字?」


 黒木さんが尋ねた。


「ううん、兄の字はもっと汚い」

「高槻さんの字でもないよね。名前は書いてないけど記録係がいたわけだ」


 言われてから僕も棋譜の文字に注目した。鉛筆で書かれた綺麗な字だ。拡大してみると、最終手△7九龍の字が急に細くなっている。手が指される前に鉛筆を削ったのだろう。その余裕があった。つまり、かなりの長考があったはず。


 そこで気付いた。最終手△7九龍を見てから、もう一度勝敗を見て、その違和感の正体が分かった。


「これって変じゃないかな。高槻さんが後手だよね?」

「ああ、本当。順番がおかしいかも」

「どういうことです?」


 黒木さんが理解し、ハンナさんは首を傾げた。これは指す側でないと気付かないかもしれない。

「将棋の決着は詰みか、投了のどちらかなんだ。この棋譜は先手勝ちだから、後手の高槻さんが投了したことになる。でも、最後に指したのも高槻さんなんだよ」

「それが、おかしいの?」


 ハンナさんは眉をひそめた。


「投了は相手が指した後でするものなの。なのにこの棋譜だと、高槻さんは自分で指してから投了している。普通なら考えられない」


 相手の指し手をみて、もうこれ以上は無意味だ、指しようがないと認めて、己の負けを認めるのが投了だ。


「でも相手が考えている最中に、自分が負けたと気付く場合もあるのでは?」

「相手の手番で自玉の詰みを見つけても、相手が指してから投了するんだよ。相手が見逃して緩手を指すかもしれないし、何より礼儀としてそうする」


 だからこそ、この棋譜は異常に思えた。高槻さんがそんな真似をするわけがない。将棋を覚えたての子供だって体感できるルールだ。先後を誤ったのか、書き漏らしか。いや考えられない。誤りなら途中で気付くだろうし、最終手は棋譜の結びだ。ここで終わりと意味する斜線も、最終手の下にしっかり引かれている。


「これだけだと、ちょっと分からないな」


 僕はスマホをポケットに戻した。


「ううん、ありがとう。無理な事を言ったのは私の方だから、気にしないで」

「でも少しは前進したと思う」


 黒木さんが珈琲缶を脇にどかして、カルピスに手を掛けた。ぷしゅっと小気味良い音をさせて一口飲む。口の中で珈琲の余韻と混ざらないのだろうか。


「ハンナさん。この際だからはっきり言うけど、我々将棋部は貴女を勧誘したいと思ってる。部員が足りてなくて、このままだと一学期の終わりで同好会に格下げされてしまうから」


 淡々とした物言いを聞きながら、僕も頷いてみせた。


「でも、私はそれも仕方ないと思ってた」えっ、そうなの。思わず横を見たが僕の驚きを無視して黒木さんは続けた。「興味のない人に無理に頼み込んで、無意味に延命したって虚しいだけだもの。けど、ハンナさんが将棋部に入るのを止めた理由が、将棋以外のところにあるなら話は別。将棋に興味を持った人を邪魔する要因があるなら、私は躊躇なく蹴り飛ばす」

「その、もしもなんだけど、お兄さんと高槻さんが仲直りして元の関係に戻れたら、入部を考えてもらえないかな。勿論、納得のいく理由がなければ入らなくてもいいからさ」

「そういうこと。どうかしら、ハンナさん」


 二人でハンナさんを見る。結局、人気のない場所で、彼女を囲んで勧誘してしまっている。女子テニス部をどうこう言えないな、と思った。ハンナさんは自分のスマホに映し出された棋譜を見つめ、数秒目を瞑った後、顔を上げて僕たちを見た。


「そうですね。元はといえば私が黒木ちゃんに先走ったことを言ったのが原因ですし。それに――」


 ハンナさんが正面に座る僕を真っすぐに見る。僕はその瞳から目を逸らすことができなかった。


「先程の矢吹さんの推理は凄かったです。貴方たちならもしかして、兄と高槻さんが喧嘩した理由を突き止めることができるかもしれない」


 ハンナさんの言葉に小さく拳を握りしめた。


 一歩前進だ。

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