△2四 飲料

 休憩スペースの出入口を塞ぐように、少年のような顔をした黒髪の男子生徒が立っていた。一人のようだ。肩に通学鞄を掛け、昼休みに会った時と変わらず制服の第一ボタンまできちんと留めている。


「やぁ黒木、それに先程のお客さん。それと、君は初めましてだね」


 張り付いたような笑顔のまま、額田部長が僕たちの顔を順番に見ていく。ハンナさんが怯え、黒木さんが大丈夫と小声で囁いた。


「昼休み、君たちに見られたのは失敗だったな。まさかそんな事でバレるとは。万全を期して、教室に鞄を置いてから戻るべきだったよ」


 すたすたと休憩スペースに入ってきた額田部長は、落し物の鍵とスマホケースを拾い上げ、段ボールを隠すようにして僕たちに向き直った。室内に緊張が走り、自販機の冷却装置からジィーンという重低音だけが重苦しく響く。


「あそこで会わなくても、辿り着けたと思います。その箱の中身が何であるかを考えれば推測は可能です。箱の中身に興味を持ちうる素養と、材料を手に入れられる環境を持つ人物は誰か、と考えれば」

「まさか、ハッタリだろう。君はまだ箱の中を見ていない」


 額田部長が狼狽した様子で表情を強張らせた。


「はい。まだ見ていません。なので、信じていただかなくても構いませんが」

「……いや、この張り紙と落し物だけでそこまで推理できたんだ。見当はついているのかもな」額田部長は卑屈な調子で大きく息を吐く。「だが、僕は受験生なのでね、できれば大事になるのは避けたいんだが」


 穏やかな物腰ではあるが、その言葉にはかなりの熱が込められているように感じられた。誤魔化して逃げられるような状況ではない。黒木さんとハンナさんを見ると、二人とも僕を見ていた。元々僕が始めた推理だ。終わらせるのも僕であるべきだろう。


「その落し物の拾い主である額田部長が、張り紙の通り責任持って回収いただけるのなら、僕たちはこれ以上関与しようとは思いません」


 額田部長の目を見る。僕はともかく、二人を危険に晒してまであの段ボール箱の中を見ようとは思わない。そこまでの苛烈な正義を僕は持ち合わせていない。


「そうか。すまないな。お互いにその方が安全さ」


 額田部長は通学鞄の口を開けて、段ボール箱を中に詰め込んだ。教科書が大量に入る容量とはいえ、段ボール箱の体積はかなり大きい。チャックを閉じても角が主張をしていた。後は持ち帰るだけだから多少不格好でも構わないのだろう。放課後になってしまえば手荷物検査は心配がない。


「ああ、せめてものお礼に、いやお詫びかな、何か奢るよ。いや買収というわけではないんだ、それぐらいはさせてくれ」


 ポケットから財布を取り出して、額田部長が自販機を指さした。黒木さんが珈琲を、ハンナさんがミルクティーを持っているのに、僕だけが手ぶらなのに気付いたのだろう。購入する前に考え始めてしまったので、そういえばまだ飲み物を買っていなかった。


「では遠慮なく。何でもいいんですか?」

「ああ、これぐらいなんでもないさ」


 自販機に並んだ飲料を眺め、そのうちの一つに目が止まった。


「では、そうですね、カルピスが良いです。それが


 僕がそう言うと、額田部長は眉を上げ、声を出さずに笑った。カルピスは150円だ。ペットボトルタイプなので、この自販機のラインナップでは一番高い。特に好きというわけではないのだが、今はお茶や珈琲より適切だろう。


「凄いな君は。本当に、よくそこまで」

「今はそれで我慢するしかないでしょう」

「うん、その通りだ。全くね、耳が痛いよ」


 自販機に硬貨が投入され、ガシャンという音と共にカルピスが排出される。額田部長が取り出したそれを受け取ると、冷却されたペットボトルが掌を冷ましてくれた。僕の身体は、知らず知らずのうちに興奮していたらしい。それから続けざまに、ガシャンガシャンと二度音がした。


「良かったら君たちも飲んでくれ。不要なストレスを与えて申し訳ない。こっそり持ち帰るべきだったんだが、自分の名前が聞こえて思わず出てしまった」


 黒木さんとハンナさんにもカルピスを手渡し、それじゃあ、と別れの挨拶を残して額田部長は去っていった。休憩スペースには膨れ上がった風船の空気が一気に抜けていくような安堵がやってきて、僕はソファに全体重を預けた。


「き、緊張しました。このまま始末されてしまうのかと」

「額田部長はそんなことしないよ。でも、そうだね、少しドキドキはしたかも」


 ハンナさんと黒木さんも胸を撫で下ろしている。本当に、まさかあのタイミングで登場してくるとは思わなかった。


「それでそのぅ」


 ハンナさんが両手でカルピスのペットボトルを弄びながら上目遣いで僕を見る。


「あの箱の中には何が入っていたのですか?」

「私も、まだ分からない」


 黒木さんも首を振った。脚を組み、じっとりとした目で刺すような視線を僕に向けている。


「条件を絞れば、かなり限定できるよ。いいかい、万が一にも教師に見つかると不味いもの。30立方センチ程度の段ボール箱に収まるもの。大体、2Lのペットボトル4本分ぐらいの大きさだ。それが他の科学部員も知らない場所に安置されていた。科学部の部長と副部長が共犯関係にあるなら、恐らく部費を流用して購入できるものだ。とはいえ、他の部員たちから怪しまれる買い物ではない」


 得られた情報を整理して羅列していく。


「極めつけは道徳公園で焼死体が発見された事件だ。僕も詳しくは知らないけど、我らが将棋部の高槻部長がどうやら被害者と顔見知りかもしれないって話で、警察が事情聴取に来た。でもさ、冷静に考えたら、それで科学部の部長が慌てるのは変じゃないか」

「確かに、言われてみたらそうかも」

「ですが、実際に額田部長さんは警察や教師が化学室に捜査の手が伸ばすかもと思ったわけですよね」

「そう。実際に何かの保有量や管理について質問があったのかもしれない。その何かとは何か。毒殺なら、化学室へ薬品の捜査がありうる。けど公園で見つかったのは焼死体だ。焼死体に必要な、化学室に存在するものといえば――」

「可燃性の液体燃料。そっか、エタノール」


 黒木さんが僕の言葉を繋いだ。


「なるほどね、うん、確かに部内の伝統で、コーヒーを沸かすのに使ってる。私も今日使ったし」

「という事は、あの箱の中身は」

「自家製のお酒だろうね。葡萄やお米あたりを入れていたのかも」

「エタノールというのは、飲んでも大丈夫なものなんですか?」

「工業用のものは不純物を添加してあるから駄目よ。それで毎年死亡事故も起きてる。でも、少し高い、酒税分が含まれた高純度のエタノールなら一応飲用に使える。逆に言えば、お酒として流用できるから酒税分だけ高いの」


 成分をよく見ないとかなり危険だけど、と黒木さんが苦々しい表情で言った。


「ポーランドにも、高度数のお酒があるよね。スピリタスだっけ」


 世界史の授業中にこっそり調べていた知識を披露してみる。


「あれは確か96度だったはずです。飲んだことはないですけど」

「額田部長が使ったのは多分純度95%のエタノールよ。もしかしたら、薬局で安い燃料用を買って、こっそり部費で購入したのと入れ替えたのかも。大量にエタノールを買ったから、薬局の監視カメラに写った自分が警察に疑われていると勘違いしたとか」


 黒木さんが言った。誰かに向けてではなく自分の考えを整理するために声を出しているようだった。部費で購入されたエタノールがどのように扱われたのか、この場で確かめる術はない。段ボール箱も額田部長も消えてしまった。


「お酒って、そこまでして飲みたいものなんでしょうか」


 ハンナさんが首を傾げ不思議そうに呟いた。


「作ってみたかっただけだと思う。アルコールの発酵も、化学実験の一種だから」

「まぁ、僕たちのような未成年にはまだ先の話だよ」


 僕は額田部長に買ってもらったカルピス――乳酸菌”発酵”飲料の封を開け、喉を潤した。

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