△1二 相談

 翌日、昼休みに教室を抜け出して旧校舎へ向かった。


 目的地は化学準備室。相談相手は僕と同じく将棋部一年、三間飛車党・黒木舞である。本来は二時限後の休み時間に済ませようとメールしたのだが、本人から直接場所と時間を指定された。中庭の休憩スペースでお弁当を広げる女子たちを横目に、渡り廊下から旧校舎へ入り、そのまま階段を上がる。四階の廊下は地上の騒がしさとは無縁のはずだが、化学室からは人の気配がした。


「おう、黒木に用事か?」


 化学室に近寄ると奥にある化学実験室の扉から男子生徒が顔を出した。スリッパの臙脂色で2年生だと分かる。


「あ、どうも。えっと」

「吉田だ。科学部の副部長、黒木なら準備室でサボってるぞ。君からも手伝うように言ってくれ」


 どうやら何かの作業中らしい。実験室内でガタゴトと音がする。まだ部員が何人かいるようだ。


「善処します」


 要望を苦笑して受け流し、僕は案内を受けた化学準備室側の扉の前に立った。ノックをすると「どうぞ」と反応がある。建付けの悪い扉を開けるとガラガラ大きな音が鳴った。標本と薬品棚に囲まれた室内に一人、女子生徒が座っている。部屋の中心に置かれたテーブルの上でアルコールランプが炎を揺らめかせ、三脚台に置かれたビーカーの中で黒い液体が躍っていた。


 薄暗い教室でおかっぱ頭の女生徒がこちらを睨む様はどことなく怪談めいているが、彼女の場合、これがデフォルトの表情である。彼女を見ると、僕はいつもこけしを連想する。本人に伝えたら不機嫌になるから言わないけれど。


「先生に見つかったら怒られるよ」


 コーヒーの香りに鼻腔をくすぐられながら僕は言った。


「誰が来たかぐらい、足音で分かる。磨りガラス越しに背丈や性別も」


 黒木さんは淡々とした口調で返してくる。やめる気はないらしい。


「急いで隠したって、匂いまでは消せないんじゃない?」

「そんな時は、これ」


 そう言うと黒木さんはキャスター付きの椅子に乗ったまま器用に移動して、引き出しから缶コーヒーの空き缶を取り出して見せた。


「まさに今飲んだところだったという事にする。密閉していたから、香りはそのせい、という言い訳が成立する。歴代の科学部員の知恵」

「そこまで偽装工作をするほどの事かな」


 ポットとインスタントコーヒーを持ち込めば済むはずだが、きっとそれでは駄目なのだろう。日常のちょっとしたスリルなのかもしれない。


「それで、何の用? 今もわりと忙しいのだけど」


 忙しい認識があったのか、と僕は驚いた。きっと他の科学部員たちに伝えても同じように驚いてくれるだろう。後でこの衝撃を共有したい。


「この時期にみんなで大掃除?」

「まぁ、そんなとこ。警察が来るかもしれないんだって」

「何やらかしたの」


 想定外のワードが飛び出してきた。思わず実験室の方を見てしまったが、勿論そこには壁があって向こう側は見えない。


「さぁ、私も吉田さんから聞いただけだから。薬品関係で問い合わせがあったらしいってことまでしか知らない」


 黒木さんはコーヒーをぐいっと飲み干した。それから脚を組み直して、こめかみに指を当てながら僕を見る。


「本格的な捜査ならそんな情報自体が外に漏れないだろうから、多分来ないと思うけど、先生たちは敏感になるでしょう? 抜き打ちで管理状況の検査があるかもしれないから、先回りして掃除しているの」


 黒木さんはそう言って肩を竦めた。この態度から察するに、見つかって困るものが幾つかあったのだろう。恐らく黒木さんの入部前から存在するものではないか、と僕は想像した。そうでもなければ、上級生が慌てる一方、新入生の黒木さんがこうまでふてぶてしい態度をとれるわけがない。そう信じたい。


「話が逸れちゃったけど、何の用事だっけ」

「宝さんから聞いてない? 新入部員獲得の件」

「ああ、それなら昨日メールもらった。ハンナさんは無理だと思うよ」

「友達なの?」

「私H組だから、美術がI組と合同なの。それで少し喋ったことがあるだけ。矢吹君だって見たことぐらいあるんじゃない、金髪だから目立つし」

「そんな子いたっけ?」

「……矢吹君は、もう少し人間に興味持った方がいいと思う」


 黒木さんが呆れ顔で言った。まさか僕の周辺で一番人間に興味を持っていなさそうな人物に言われてしまうとは。というか、金髪なんて校則違反じゃないのだろうか。うちの高校に不良がいるなんて噂は聞いたことがない。


「卓球部の子から聞いたんだけど、彼女、色んな部活に体験入部しては辞めてを繰り返してるみたい。結局、正式に入部してはいないらしいから、確かに狙い目ではあるけど」

「無理だと思う理由があるわけだ」


 頷く代わりに黒木さんは僕をちらりと一瞥し、鞄から菓子パンを取り出した。50%引きの表示が付いたメロンロールだ。黒木さんが袋を破るとメロン果汁の香料が僕のところまで漂ってきた。


「最初の授業で初めて会った時、ハンナさんから話しかけてきたの。『私も兄と同じ将棋部に入りたいから、よろしく』って言われた」


「え」思わず声が出た。それなら話が早いではないか。将棋部に入る意思があるのなら願ってもない。女子で将棋に興味があるなんて、それだけで希少だ。江戸時代から現代に至るまで慢性的な絶滅危惧種なのだから。保護しなくては、という義務感すら覚える。


「でも次の授業で会った時には『ごめんなさい、やっぱり難しいみたい』って言われたの。謝られるようなことは何もないんだけど、直接伝えてきたぐらいだし、今でも入る意志はないでしょう」

「そっか、一度断ってるのか」


 何かが頭の中でひっかかった。黒木さんの言葉を反芻して考えてみる。理由はすぐに分かった。


「最初の美術の授業って4月第1週だよね。クラスも違うし、部活の仮登録もまだ始まってないのに、初対面の黒木さんが将棋部に入ることを二条さんが知っていたのは何故?」


「ああ、それは私が授業中にスマホで詰将棋を解いていたから。将棋好きなのかって訊かれて、将棋部に入るつもりって私が答えたの」

「美術に集中しなよ……」

「詰将棋は芸術だからセーフ」


 黒木さんは悪びれることなく言い切った。まぁそれは否定しない。


「兄と同じ将棋部、というのが気にかかるね。そんな先輩、いないはずだけど」


 二条という苗字の先輩は僕の知る限りいない。幽霊部員か、卒業生か。それとも辞めてしまったか。あるいは、別の高校で将棋部に所属しているのか。話の流れからすると同じ高校に通っている風に聞こえるが、黒木さんはその点を確認しなかったという。


「仕方ないでしょう、その時はまさか1か月後に勧誘する話になるなんて思わなかったんだから」黒木さんはメロンロールを頬張りながら器用に唇を尖らせた。「ニュアンスからして、卒業生じゃない気がする。卒業生なら『兄が所属していた』って過去形で言うだろうから」

「なら転校したか、退部したか」

「高校生で転校って相当珍しいケースでしょ。妥当に考えるなら退部」


 独り言のように呟きながら、黒木さんが立ち上がり実験室に繋がる扉を開けた。

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