▲1一 銅将

 高らかな駒の音が初夏の空気を震わせた。


 窓ガラスに付いた水滴が触れ合って繋がり、一つになって、自らの重みに耐えかねて流れ落ちていく。さっきまで空を覆っていた雲の隙間から零れる日差しを、水滴が反射して輝いて見えた。耳を澄ませば、屋根のある体育棟の周りを走る運動部の掛け声が聞こえてくる。


 部室には僕と宝さんしかいなかった。窓から盤上に目を戻す。指された駒は銀将、それも不成。直感で僕は負けを悟った。恐らく受けなし。将棋を指していると、まだ確かめてもいないのに、先に答えが見える時がある。飛躍して得られた発想を目指して、後から頭の中で一手ずつ確かめていく。


 負ける道筋を辿る事ほど辛いものはない。

 けれど、そうしなければ強くはなれない。

 十三手詰めだった。指されてみれば当然の一手に見える。どうして気付けなかったのだろう。


 ちらりと目線を上げると、宝さんはまだ静かに盤上を見据えていた。赤縁眼鏡の奥にある瞳は真っすぐに駒を見つめている。肩まで伸びた髪の一本すら微動だにせず、セーラー服のリボンを握りしめながら、彼女もまだ読んで、確かめている。勝てる道筋を間違えないように。


 △7八玉で避ける。宝さんはノータイムで持ち駒を使って▲8六桂を指した。同歩は早詰み。逃げても結論に変わりはない。

 これ以上指し続けるのは、相手への不信のように思えて、僕は大きく息を吸った。


「ありません」


 溜め息と共に僕は頭を下げた。同じぐらい大きく宝さんも息を吐く。張り詰めていた緊迫感が嘘のように萎んでいき、柔らかな空気が部室を満たしていく。


「大駒の清算が失敗でしょう。あれで捌けた」

「優勢だと思ってたので力押しでいけるかと」

「強引すぎたね。相変わらず、早指しだと急に弱くなるんだから面白い」

「どうしても考えちゃうんですよ」


 将棋は、相手の王将を詰ませるゲームだ。相手にどれだけ時間があろうと、持ち駒が駒台にうず高く積まれていようと、こちらが詰ませれば勝つ。だからこそ、終盤が近付くにつれて詰むや詰まざるやを考えてしまう。というよりも、もはやこれは性分として、考えざるをえないのだ。


「詰将棋ならそれでいいけどね。考えすぎで時間がなくなって慌てて悪手を指してたら世話ないでしょうが。ある程度は妥協を覚えないとダメだよ。か細い神の手順より、凡手で着実に寄せればいいの」


 言われた通り、駒損を覚悟で指し続けたものの、受け流されて攻めが細くなり、ついには途切れて反撃を許してしまった。いつものパターンと言えばそれまでだけれど。


「さて、負けた矢吹にこれを進呈しましょう」


 はいどうぞ、と宝さんは僕に一枚の駒を渡してきた。摘まんで眺めてみると、見慣れない文字が彫られている。


「これは……銅将どうしょうですか。中将棋の駒ですよね」

「良く知ってるね、偉い偉い」

「前に遊んでみたいから覚えろって言ったの先輩でしょう」


 銅将は中将棋という十二かける十二マスで行われる古い将棋で使用される駒だ。前後方と前方斜めに1マス動ける。オリンピックのメダルによる格付からも連想されるように、金将に比べて二マス、銀将に比べて一マス動ける範囲が狭く、かな駒の序列としては第三位。将棋という遊戯が、いわゆる現在の本将棋の形に落ち着くまでの間に、時の洗礼を受けてリストラされた哀しき駒である。


「そのどうしょうはね、今の将棋部を表しています。意味分かる?」


 僕が怪訝な顔をしてみせると、宝さんはにこりと笑ってこう言った。


「どうしよう」


 駄洒落である。


 それを言いたかったがためだけに、わざわざ用意したらしい。

 宝さんは微笑みをキープしていた。彼女は僕が所属する将棋部の副部長だ。高校2年生。花も恥じらう乙女かどうかは知らないが妙に押しの強い人で、僕の愛想笑いを無視してトレードマークの赤縁眼鏡を中指でかけ直した。


「いやね、冗談じゃなく、本当に不味いの」

「赤点でも取ったんですか?」

「失礼な、成績優秀・眉目秀麗・才色兼備・諸行無常の宝稔子みのりこを前にして、よくそんなことが言えるね。部の存続に関わる話だよ」


 最後の四字熟語については触れない。一々付き合っていると時間が幾らあっても足りない。


「熊田さんが失踪したとか」

「クマは今日剣道部の日でしょ」

「恐山さんがサボって帰ってしまった」

「それはいつものこと」

「なら、黒木さんが科学部に取られた?」

「今日は歯医者さん行くって連絡もらってる」


 あ、だから今日いなかったのか。二人しかいない部室で僕は得心した。


「後はええと、高槻部長が実は留年していたため、宝さんが部長になれない、とか」

「我らが部長は確かにあんなんだけど、あんなんでも実は結構頭いいから心配ありません。受験勉強で視力落ちてメガネだってかけ始めたし」


 メガネと頭の良さに相関性はない気もするが、ないという根拠もまたないために指摘はしなかった。もう他に思い当たる理由がない。僕は降参して小さく両手を挙げた。


「いい、矢吹。今あげた部員を数えてごらんなさい」

「ええと、高槻部長。宝先輩。熊田先輩。恐山先輩。黒木さんに、僕。六人ですね」

「そう。で、高槻さんは三年だから一学期末で抜けるのが確定してる。そうなると、残る将棋部はたったの五人。そして部の成立要件は五名以上の正規入部者を必須としているわけ」

「ぴったりじゃないですか」


 六人から一人引退して五人だ。かくして、将棋部は今年も正式な部活として存続するのである。めでたしめでたし。


「そうでもないのよ。や、私も昼休みに知ったんだけどね、兼部って0.5名でカウントするんだって。クマが剣道部、黒木が科学部と兼部でしょ。一本でも人参、二人いても一名。生徒会長様が直々にやってきて通告してきたわ」


 このままだと部員が足りないざますけど! と宝先輩が眼鏡の蔓をくいっと持ち上げた。モノマネのつもりだろう。ただ、これは僕の勘だが、絶対そんな事言われてないと思う。会長の人となりは知らないが、もう少し穏やかな通知だったはずだ。


「一学期末の登録で部費の予算配分を決めるらしくて、書類上5名を揃えないと同好会に格下げになっちゃうんだって」

「なるほど。それは困りますね」


 ここではじめて僕は真面目に頷いた。間違いなく部費は減る。下手をすると部室も変えられて、冷暖房設備のない旧校舎に追いやられてしまうかもしれない。


 入部して1カ月とはいえ、すでに部室にはそれなりの愛着が湧いていた。図書館から近く、検討用のパソコンもあるし、ロッカーは鍵付きだ。たった六人しかいない部活動にしては破格の待遇と言える。平成の時代に所属していた沢山の部員たちの遺産と言えるものなのだろう。


「何とかしないと」

「話が早くて助かる、流石は次期部長候補生」

「棋力は黒木さんの方が上ですけど……」


 見え見えの煽て文句に乗せられるほど僕はお調子者ではない。決して弱い方ではないと自負しているものの、最近黒木さんに連敗中の僕としては安易に頷けなかった。


「部長云々は棋力だけじゃないけど、基本そうしとかないと格好が付かないからね。石田流の対策でも覚えたら?」

「対策したうえで負けてるんですよ。向こうは鰻屋スペシャリストですから」

「私と指す時はそうでもないんだけどなぁ。ま、矢吹は居飛車党だから目の敵にされてるのかも」


 黒木さんも宝さんも生粋の振り飛車党だ。熊田さんと僕は居飛車党、恐山さんも強いて分類すれば居飛車サイドなので、丁度男女で綺麗に別れている。党派の違いは思想信条に等しく、互いが理解し合うことはない、というのが通説である。


「まぁ、そういうわけでね、部員を獲得しないといけないわけよ」

「もう五月ですよ? 未だに無所属の人なんていないのでは」


 桜場高校は部活動が必須ではないが、進学校に行った地元の友人から話を聞くに盛んな方ではあるらしい。バイトが禁止なので結果的にありあまる青春の時間を部活動に捧げる人間が多いのだろう。若者、閑居として部活動を成す、である。運動部で汗を流して青春を謳歌するなり、怪しげな一人同好会で孤独を謳歌するなり、その種類は問われないにせよ何かに夢中な人はあちこちにいる。しかし、桜を吹き散らす嵐のような新入生勧誘シーズンはとうに過ぎ去った。仮登録期間もゴールデンウィーク明けに終わっている。


「誰かいない? 入ってくれそうな子」

「友達に聞いてはみますけど、さっきの話だと、部員数が部費に直接関わってくるんじゃないですか? 無理に異動させると元の部から恨まれますよ」

「十三手詰めは見逃す癖に、そういう事だけ鋭いんだから」

「不成は意識の外だったんです」

「じゃあ、やっぱりプランBで行くしかないか」

「なんですかプランBって」


 僕がそう訊くと、宝先輩は口角を上げた。

 嫌な予感がした。この人が笑みを見せるのは、決まって猛烈な攻めを仕掛けてくる前触れなのだ。成立するかしないかギリギリのところでも、その勢いに圧され、受け間違えて潰された思い出が蘇る。


「1年Ⅰ組、二条ハンナ。知ってる?」

「いえ、僕はB組ですし」僕は首を振った。「お知り合いですか?」

「ううん、直接は知らないんだけどねぇ。うーん、なんていうか、あ、写真で見たことならあるよ。スタイル良くて、髪はさらさらっとしてて、すっごい可愛いの」

「それ他人でしょう」

「そうなんだけどさ」


 宝先輩にしては珍しく歯切れが悪い。


「まぁ、その子ならまだ部活に入ってないはずだから誘ってみてよ。早くしないと他の部活から魔の手が忍び寄っちゃうかもだし」

「知り合いでもないのに部活に登録しているかどうかは知っているの、おかしくないですか?」


 当然の疑問をぶつけてみる。いくら宝さんが事情通とは言え、流石に個々の生徒の部活事情までは把握していないだろう。


「この世はね、おかしな事だらけなの。いきなり二年生の私が行くと怯えさせちゃうかもだから、同級生の矢吹に頼めないかなぁ。一応男子一人で行くのもあれだったら黒木も誘いな」


 一応男子という部分に引っ掛かりを覚えたものの、何とかスルーした。


「勧誘なんて、上手くいくかどうか」


 すっごく可愛い、という事前情報のせいか、何となく及び腰になる。やぁ美しいお嬢さん、将棋に興味はありませんか。宜しければ一局、知らなければ手取り足取り教えてさしあげましょう。なんて。ただでさえ人見知りだというのに、そんな怪しい口説き方をする自分はどうやってもイメージできない。


「成せば成る。敵陣に攻め込まないと、成る駒も成れないの。ま、駄目元でさ、お願い」


 両手を合わせて拝む様なポーズを取った宝先輩は「ナムナム」と呟き、満足したのかさっさと荷物をまとめて出ていってしまった。ボードゲーム部の友達と遊ぶ約束をしているらしい。この際、将棋もボードゲームの一種なのだから、そっちに合併させてもらえばいいのでは、とも思ったが口には出すのは憚られた。それはきっと最後の手段だろう。僕たちの交渉が失敗した時を案じて、念のため、その布石を打ちに行くに違いない。きっとそうだ、と信じたい。

 お守り代わりに渡された銅将を掌の上で弄びながら、僕は小さく呟いた。


「どうしよう」

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