第五節 落下飛行
グレイインは魔界の赤い月から虚空に入り、光る魔方陣と化した緑の月に向けて真っ暗で重力の無い空間を直進している。
装いを取り払った月は、虚空に浮かんだ魔方陣による天球儀だった。
「グレイイン、ここが真空でなくて良かった」
グレイインが口を開けて深呼吸してみせる。預言書にある虚空という言葉から、真空を想像して懸念は伝えてあった。
僕とレンは不可侵の身体なので、苦しいが真空では死なない。しかしグレイインはそうでは無い。
「綺亜、先日言っていた空気が無い事? それは魔法には難しいかも」
レンが興味を持って口を挟んできた。
「そうかな」
僕には元々魔法の素養があったようだが、リシャーリスに対抗出来る力を付けるために、セラシャリスと未来の魔法使い達にみっちりと上級魔法を教え込まれた。
未来の魔法使いが認めた事なので、そう名乗った事は無いが僕は魔法使いだ。
その上で見解を述べさせて貰えるのならば、この世界の物理法則は東京におけるそれと変わらない。
魔力源と成る色の付いた力と、それを物理的な力に変換して魔法として発動させる魔法経路さえ導入すれば東京でも魔法は使えると確信している。
「魔法では器を作る事が出来ない」
「それは、シーランの加工技術があれば可能だと思うんだ」
変形剣シーランは、可動する刃の固定に精度の高い鋼球を使う。
ゴムが存在しないこの世界では、ガスケットが使えないので容器の蓋は金属を研磨して摺り合わせる必要がある。
「マクデブルクの半球と言った。シーランの職人はシーランだから作っている」
そうかもしれない、シーランは神授の武器の模倣品だ。東京における日本刀がそうであったように、精神性と深く結びついている。
時計や六分儀も最初の物は神授であり、飛竜に騎乗する事が神聖視されている中で模倣された。
変化の少ないこの世界においては、絶え間ない神の介入によって技術革新は抑制されている。そして神の介入は理不尽な奇跡によって為される。
「やはり神の意に反する物を作るのは難しい。それでもヘリオトスは亜人やヘリオトス牛、ミレニアは燭水晶を作った」
「そう。人間界は輪廻から外れていたから、神の介入が薄かったのかも知れない」
人間界が永続した場合の未来では、人間は水晶剣を回収して破壊するにまで至っている。
「虚空に入って一時間経った」
懐に入れた時計が時報を知らせてきた。この時計は任意のアラームを設定する事は出来ないが、時報を一定時間ずらす事が出来る。
重力も水平線も無い虚空の内部で、六分儀の計測は当てに成らなかったが、およそあと半時間で緑の月に達するはずだ。
「緑の月を超えた先が人間界であったとして、どの方向に落ちるんだい」
聞こえていたらしいグレイインが瞳孔だけをこちらに向ける。
緑の月が気を利かせて重力の方向を合わせてくれるなんて事は無さそうだ。
「んー、綺亜、命綱は一定の力で金具が外れるから、振り落とされないようにしがみ付いて」
騎手の命を守るためには無意味な命綱だが、これは気絶して絡んだ騎手が飛龍を巻き込まないようにするための仕組みだ。飛竜より騎手の希望者の方がはるかに多い。
ましてや不可侵で不死身な魔王とその王妃の保護は、疎かに成る。
「まただ、緑の月に引き寄せられている」
赤い月がそうだったように、一定以上の範囲に近付くと月の魔方陣の方がこちらに力を及ぼす。
見る間に緑の月が大きくなっていった。
「綺亜、振り落とさ……」
「グレイイン、翼はまだ広げ……」
自発光する巨大な魔方陣との距離を測り損ね、全員予期しないまま緑の月を超えた。
急に眩しいぐらいの光に包まれて、身体に重さが戻る。
グレイインは切りもみで落下し、僕とレンは案の定投げ出された。
「レン、グレイイン!」
周りを空色と緑色の半球が、でたらめに回転する。
僕は四肢を広げると、地面に対して水平に身体を安定させた。
襟巻が飛ばされ、口の中が乾いて痛い。目が眩んでよく見えないので、風防眼鏡に遮光板を重ねる。
真下に見えるのは河畔に建築された城砦だ。要塞の特徴的な形状から見てアンテ城だろうか。
同様に降下姿勢を安定させたレンが、降下速度を増やして背後から近付いてきた。レンは襟巻を失った僕の耳に大声で叫んだ。
「綺亜、一緒に降下魔法。グレイイン余裕が無い」
「レン、下はアンテ城」
「都合良い。セラシャリスの塔がある」
僕は右手でレンの左手を握り、レンは僕の左手を握る。降下魔法は、変化の少ないこの世界でようやく開発された少しだけ飛行する魔法だ。一人で三軸と速度を制御するのは難しく、ヨーとピッチ、ロールと降下速度に分担して二人組で降下する。
翼を閉じてひたすら高度を速度に変換していたグレイインが翼を広げて飛行に移った。
脇を抜けて上空に飛び去ったように見えるが、実際にはグレイインの降下速度が落ちただけで、私達はまだ高速で落下している。
グレイインが巻き起こした風でレンは姿勢を崩し、それを僕は抱きとめた。
「速度をもっと落とさないと、レンこのまましがみ付いて」
「セラシャリスを通して横流しした魔法だと言うのに、綺亜は立派な使い手に成って」
「レン?」
なるほど三百億年後の世界において、この魔法が存在しない理由を理解した。
「私の勇者、私の伴侶、綺亜。信じている」
「ありがとう、レン」
そう言うと僕は降下速度を急激に落とし、その減速の加速度分だけレンをしっかりと抱きしめた。
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