第9話 昼の邂逅

 冷水の跳ねる鋭い音が狭い浴室に反響していた。

 シャワーを止めると高坂は頭を振って水滴と夢の内容を壁や天井に飛ばす。浴室を出てバスタオルを使い入念に体を拭いていく。

 冷たく濡れたバスタオルを洗濯物カゴの中に投げると、全裸のままベッドへと向かいそこに倒れた。もぞもぞと掛け布団をかぶり縮こまるが、しかし、いつまで経っても眠気が襲って来ることは無い。それはそうだ。冷水を浴びてスッキリと定まっている頭を寝付かせるのは相当難しいのだから。


 一時間程何もせずに布団にくるまった高坂は突然起き上がり、下着を身につけその上から灰色のパーカーを被り、ブルージーンズを履いた。

 家の鍵だけをポケットに入れて家を出た。スマートフォンはリビングのテーブルに置かれたままだ。日中、高坂は死神を象徴するスマートフォンを所持しないようにしていた。目を向けることさえほとんどない。


 ポケットの中で家の鍵を片手に弄びながら、深夜よりは幾分騒がしい、しかし自分の足音がしっかりと耳に届くほど静寂な住宅街を進んでいく。10分ほど歩くと黄色い遊具が備えられた公園があり、そこに高坂は入っていく。

 公園には遊具の置かれている場所と、丘のある草原がある。休日ではあったが、公園は人気がほとほと無い。また、そこが高坂がここを気に入っている点でもあった。


 高坂は遊具の前を通り過ぎて草原に入っていった。足元から草花を踏みしめる音が聞こえる。草原に備えられた幾つもの木の1つから一匹のカラスが侵入者を訴えるように鳴いて飛んでいく。

 これで公園には高坂のみとなった。

 遠くにカラスの鳴き声が聞こえたが気にならない程度だ。


 高坂は週末の唯一の外出としてこの公園に来る。この公園は近所で一番、視界を緑で埋めつくしてくれる場所だ。緑に囲まれて涼やかな風に吹かれていると何も考えなくても良い気分になる。長い時では、夕焼けも沈み、空が紫に色づく頃まで高坂はベンチに座り、何も考えなかった。

 今日もいつもと同じベンチに腰掛けぼーっと、時間を無意味に費やしていく。


「──あれ? 高坂くん?」


 突然、背後から聞こえた声に高坂は動揺した。肩をビクッと跳ねさせて後ろを向く、とそこには佐伯さえき 智華ともかがいた。

 佐伯は昨日と同じく甘栗色の髪の毛を後ろで結って端正な顔に頬笑みを浮かべている。昨日と異なっている点はスーツではなくスポーツウェアを身につけており、額や首筋にはうっすらと汗をかいていた。頰も上気し、肩で息をしている。


「やっぱり高坂くんだ」と、佐伯は高坂の顔を見て嬉しそうに言った。


 どうして僕の名前を? 高坂はそう疑問に思ったが訊くのはやめた。一言も発言していない、机に伏せていた高坂の名前すら覚えているのだ、きっと彼女はクラス全員の名前を覚えているのだろう。

 加えて、高坂の場合は名前と顔を合致させやすい。高坂の右頬にある火傷の痕が印象に残るからだ。


「どうしたんですか、佐伯先生」と、高坂は言った。「いつもはこんなところ走ってませんよね」


 高坂がそう言うと佐伯は少し驚いた。一定のペースで忙しない上下動をしていた肩が、一瞬だけ乱れる。

 佐伯は高坂がコミュニケーションを取るのに障害があるものだと思っていたが、彼の話し方は堂々としていて自分のペースがあるようだった。

 佐伯が思ったように、高坂は決してコミュニケーションを不得意としている訳ではなかった。しっかりとした受け答えをできるし、テレビや流行りの話題には疎いが情報量には富んでいる。

 だというのに、彼が学校で一切話さないのは“死神”のせいだ。日中に目をキラキラとさせて相手の話を聞いて的確な相槌を打つ、ただそれだけをする体力も気力もない。


 それに彼には昔──“死神”を始めた頃──人に対する恐怖症を患っていた。毎晩のように人殺しをしている自分が誰かと話すことに酷く憂いと、後ろめたさを感じていた。一緒にいる人をどうしようもなく汚していると思えてしまう。今はそう感じることは少なくなったがふとした瞬間、満潮によって海岸が侵食されるように彼を不安が苛んだ。


「学校の先生って意外と体力使うんだよね。だからランニングの距離を伸ばしたの」と、佐伯は戸惑いを隠すようにはにかんでそう言った。「ちょっと教師っていう仕事を舐めてたかも……あ、今の先生には内緒ね?」

「わかりました」

「君はここで何をしていたの?」

「何も考えずに、ぼーっと座ってました」


 特に隠すことも無いため高坂は素直に言った。

 へぇー、と佐伯が感心したようにため息をこぼす。首にかけていたタオルで首と額の汗を拭くと佐伯は高坂の横に腰を下ろした。

 汗に混じってシャンプーの香りが高坂の鼻腔をくすぐる。汗とシャンプーが混淆こんこうして、とても魅力のある誘惑的な香りになっていた。


「なんか、自然ー! って感じだね」と、佐伯が草原を見ながら高坂に言った。

「近所だとここが一番緑が見られるんですよ」

「……高坂くんは不思議なことを知ってるんだね?」


 ふふっと大人っぽい笑い方をする佐伯。そのあどけない容姿と不釣り合いな笑い方に高坂は少しむず痒さを覚えた。

 話題を変えるために、寒そうに二の腕を摩る演技をする。ぶるっと体を震えてみせるおまけ付きだ。


「寒くなってきましたね……佐伯先生も汗が冷えて身体を壊したら大変でしょう?」


 高坂がそう言うと佐伯はまるで合わせるみたいに首をすくめた。


「確かに。教育実習を初めてそうそうに体調を崩したら怒られちゃうかも」

「かも、じゃなくて確実に怒られますよ。うちの担任はこの時期になると、私は風邪をひいたことがないって自慢を始めますから」


 曖昧な微笑みで高坂が立ち上がると佐伯もそれに続いた。頬笑みを浮かべた佐伯は、君も走る? と高坂を誘ったが呆気なく断られた。

 昨夜は4人に“死神”を行使して疲れているんだ。わざわざ自分から体力を浪費させるなんて冗談じゃなかった。

 佐伯は悩む素振りもなく断られた事に少し項垂れたが、直ぐに背筋を伸ばす。


「じゃあまた月曜日にね」佐伯は既に足踏みを始めながら言った。


「はい、また今度」


 ────


 その日、高坂は40代のOLを一人殺すと“黒い靄”を纏って再び佐伯の家まで来ていた。

 しかし、高坂は佐伯の家に入る事なく、その場を後にした。リビングには灯がともり、佐伯とその両親、他にも4人がいることがわかった。赤い文字が一つ、青い文字が6つ浮かんでいた。

 高坂はターゲットが起きていた場合、同じ深夜に出直すか、翌日に“死神”を行うようにしていた。翌日も起きていた場合はターゲットが寝るまでひっそりと待って。

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