夜を急ぎて 一

「今日は、曇りですけど」

 あらかじめ天気予報で曇りだとわかっていたが、彼は予定を変えなかった。妙に思った僕だったが、素直にいつもの河川敷へ車を走らせた。


「今日は空を見たいんじゃないんだ」

 堅い表情のスズさんに、自分が何かしでかしたかと不安になった。スズさんが望遠鏡を持ってきていないことに気が付いて、僕は車から望遠鏡を下ろすのをやめた。


「ファミレス、行きます?」

 スズさんは無言で首を振った。

「でも、予報は雨ですよ」


「知ってるよ。でも、今日は雨に濡れたい気分なんだ」

「風邪、引きますよ」

 ただでさえ最近は寒くなりつつあるというのに。


「引いてもいいんだ。ぼくはどうせ働いているわけでもないし」

「働いてなくたって、風邪を引くわけには……」

「意外とね、ぼくは風邪を引いてるくらいが丁度いいんだよ。ぼくは生きるのが下手だしね。婚約者がいた時はもっとうまく生きていた……」


 そこでスズさんの唇が止まった。


「いや、彼女がいてもいなくても、ぼくは生きるのが下手だな。だから、ぼくは夜に生きようと思うんだろうね。夜はぼくのことも受け入れてくれるからね」

 そして、夜は僕のことも受け入れてくれる。


「スズさん、夜に生きるのは駄目ですか」

「え?」

 スズさんは怪訝そうな顔をした。


「昼に生きていたって、別にいいことはありませんよ。世間と同じだってだけです」

「ぼくは羨ましいんだ。朝起きて、昼にちゃんと仕事をして、夜に星を見ている君のことが。ごめんね、嫉妬して」


 生きるのが下手なスズさんは、何か引け目があるとすぐに謝る。それは、彼にはそれ以上の引け目がないということでもある。

「僕は夜に生きているスズさんが好きです」

 それは本心だった。僕は本当に夜に生きているスズさんが好きなのだ。


「……ありがとう。でもぼくは君に甘えちゃいけないんだ。君は優しいから、どうしてもぼくはそれに甘えてしまう。それじゃ、駄目なんだよ」

 彼は僕の言葉に首を振る。しっかり者のスズさんならそう言うだろうと薄々分かってはいたのだが、やはり僕には悔しい。


「駄目じゃありませんよ」

 だがスズさんはまた静かに首を振った。遠くから、夜中も忙しく稼働している工場の音がする。


「スズさん、どうしてそんなに無理をするんですか?」

 僕は思わずスズさんを止めていた。スズさんのそんなつらそうな姿を見ていたくなかったからだ。


「ぼくは無理をしているんじゃない。ぼくはやりたくてやっているんだ」

 スズさんは静かにそう言ったが、僕の方は見ていない。

「僕にはスズさんが頑張りすぎているようにしか見えません」

「無理をしている君に、言われたくないな」

 ……そうなの?


「自覚もしていないのかい? そんな馬鹿な。君は、本当に君なのか?」

「僕が、僕?」

「ぼくが見ている君は、ぼくが見つけた君は、誰なんだ?」


 純粋に疑問をぶつけてくるスズさんの言っていることがわからなくて、ただスズさんの方を見つめていた。雲は晴れることはなかった。そして、雨が降り出した。だが遠くから聞こえる雫の音を聞きながらも、自らの濡れる肩と腕を抱きながらも、その場を動くことはできなかった。スズさんも動かなかった。こちらの目を覗き込むように見つめるスズさんの髪の先から、ぽたぽたと雫が垂れ落ちた。


「雨の日の君は、君じゃないように見える」

 雨だ。スズさんと一緒に過ごす、初めての雨だ。


* * *


 最近、妙に雨が多い。スズさんと星を見る日も何度か延期になっていたから、あの後スズさんと顔を合わせてはいなかった。午前は雨だが夜には晴れるだろうとのことで、朝から二度寝三度寝を繰り返していた。スズさんと一晩中、星を見られるように。


 睡眠を邪魔したのは一本の電話だった。番号を見ると知らない番号からで、電話を切ってやろうかとも思ったが、仕事関係だと困るからと渋々電話を取った。


「もしもし」

「久しぶりだね」

「スズさん……」


 電話の主はスズさんだった。僕は驚いた。電話番号も交換していたが、いつもはメールばかりで、電話が来るのは初めてだったからである。

「どうしたんですか」

「久しぶりに昼に起きてみようと思ってね、いろいろ考えてみたんだ」

 スズさんの声は細かった。僕は不安になった。


「無理はしないでって、言ったじゃないですか」

「でも頑張らないとね。このままじゃ、いけないと思うから」

「スズさん!」


 僕が叫ぶように言うと、電話の向こうから音がフッと消えた。

「……スズさん?」

「夜っていいよね」


 当たり前のことをスズさんがうっとり言う。いやな予感がする。

「ぼくは星になりたいんだ」

 スズさんはいつもの口調で不思議なことを言い出した。


「ぼくは宇宙に行ってみたいんだ。ほら、宇宙は生命の源だろ」

「……生命の源だから、なんなんですか」

「地球から星を見るのもいいし、宇宙を見るだけでもぼくは満足なんだけど、でもいつかは宇宙に行ってみたい」


「生命の源に飛び込むってことですか?」

「そう。よくわかってるじゃないか!」

「そんなの、地球でいいじゃないですか。地球も宇宙の一つですよ」


 僕はわざと彼の話には同調しなかった。

「もう地球は飽きたんだ」

「ちょっと、やめてくださいよ」

「真面目な話だよ」


 いつもの静かな口調にわずかにとげが混じる。それは、僕がスズさんの話を真面目に受け取らないからスズさんが苛立っているのだと気づいた。スズさんはこれを、僕が真面目に受け取るべき話だと思っている。


「宇宙の仲間にも出会えたし、時計を渡す約束もしたし、いろんな話をしたしなぁ。やりたいことと、やらなきゃいけないことは全部やったんだよね。昨日、それに気づいたんだ。ぼくは君を見つけた。君が誰であろうとも、君は君でしかない」

「スズさん、急にどうしたんですか? 疲れてます?」

「まさか。ぼくは元気だよ」


「あの、スズさん、もう、やりたいことは何もないんですか?」

「宇宙に行きたいって言ってるだろ。でも今はできない」

 僕はスズさんが目的を見つけてしまったことに気が付いた。


「そうだ、君にタグ・ホイヤーをあげる約束だったね」

「あの時計ですか」

「ああ、ぼくはずっと探していたんだよ。あの時計を渡す人を」

「……ちょっと待って、スズさん。急がないでください。何もしないで僕のことを待っててください」


 きっと、久しぶりに日中に起きてしまって落ち着かないのだろう。僕はそう思うことにした。僕は鍵と財布と携帯だけひっつかんで、慌ててスズさんの家へ向かった。初めて行く街だったから時間はかかったが、以前に教えられた住所を頼りに何とか辿りついた。裏道に面した小綺麗なアパートの二階である。


 ドアノブを握る。ノブは回った。その時点で僕の手に何かいやなものが指から腕に流れるように走ったのだが、僕はドアを開ける手を止めることができなかった。彼は部屋の中にいた。


 キッチンから居室に入る扉のノブで、彼は首を吊っていた。


 靴も脱がないまま、僕は部屋に上がり込んでスズさんの元に駆け寄った。彼の半分だけ見えた体の奥には望遠鏡があった。スズさんはこちらに見えたノブに紐を括り付け、ドアの上からそれを通して首を吊っていた。


 スズさんに駆け寄った時、何かを踏んづけた。僕の足の下にあったのは小さな紙の包みである。包み紙はスズさんのメモで、君にあげる、とそう書かれていた。中身はスズさんのタグ・ホイヤーの腕時計だった。僕はスズさんの手首を見た。やはりタグ・ホイヤーの腕時計は手首にはなくて、代わりに幾多もの醜い傷がついていた。


 親指の付け根には、米の字のような放射状の傷がいくつも重なり、痛々しく盛り上がっていた。僕はその傷たちが妙にいとおしく見えた。手首に平行についた傷、そしてその上に重なる小さな放射状の傷は、本気で死のうとしたけれども躊躇って躊躇って、結局病院に駆け込んで縫われた痕だ。膨らんだ傷を指でなぞると、スズさんの死にたいのに死ねなかった自己嫌悪という生きている証が伝わってくる。その生きている証が、スズさんが死んだ今、傷を通して僕に伝わるのはとても皮肉に思えた。


 そのまま指をするりと下ろして触った彼の身体はまだ生暖かかったが、生きている人間の体温ではなかった。ふと、なぜそれを最初に確認しなかったのかと僕は自問した。僕は、スズさんが生きていないと端から思い込んでいたのではないか。もしかして、生きていてほしくなかったのではないか。だから体温を確かめもせずに腕時計なんか拾っていたのではないか。だがそんな残酷な疑問には、いくら考えても答えなど出ない。


 自問をやめた僕の手は震えながら腕時計をポケットに入れていた。僕はその手で電気ストーブに毛布を掛け、スイッチを入れた。毛布の下でストーブが赤く光っているのを見て僕は部屋を後にした。


 スズさんの部屋は全焼した。

 十二月三日、雨がしとしと降る昼下がりのことだった。

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