病みアンソロジー「やみのまにまに」(12,283字)

20191124 文学フリマ Tokyo

夜を急ぎて 〇

 僕がスズさんと出会ったのは、僕の自宅から三十分ほど車で走ったところにある河川敷だった。彼は一人で望遠鏡を覗いていた。車を運転していた僕は、彼のその姿を見て思わずブレーキを踏んだ。それまで孤独に星を見ていた僕が星を観察する人を見たのは彼で初めてだったからである。


「星を見てるんですか」


 車を停めた僕は、背後からそっと彼に声をかけた。相手は振り向いた。夜だから顔がはっきりと見えるわけではないが、まだ若い男のようだった。


「ええ、まあ」

 僕は彼に自分の望遠鏡を見せた。僕も彼と同類だと、そう示したかったからだった。彼はそれを見ると自身の横の地面をぽんぽんと叩いた。座れ、ということなのだろう。僕はそれに従って腰を下ろした。


 僕と彼は互いにほとんど喋ることなく望遠鏡を覗くだけだったが、それでも隣に同好の士がいるのは良いものだ。僕らは互いに連絡先を交換して、週に一度くらいのペースで星を見るようになった。


 彼は友人からはスズと呼ばれているから、と僕にそう呼ぶように勧めた。年齢を聞いてみると、僕より数歳年上だった。だが決して先輩ぶることはなく、いつも物腰は穏やかで、楽しそうに望遠鏡を覗いていた。親しみを込めてスズさんと呼ぶようになったのは出会ってから数週間たって打ち解けてきたころだった。僕がスズさんと呼ぶと、スズさんはまんざらでもなさそうに微笑んでいた。


 実を言うと、元々スズさんの名前だけは知っていた。すずいずみ。同じ高校の出身である。なぜそれを知っているか、それは高校の図書館の本にスズさんの名前の入った貸出カードがたくさんあったからだ。図書館中の星に関する本にはスズさんの名前があった。その彼の名前のすぐ下に自分の名前を書き、本を借りたのは大切な高校時代の思い出だ。僕の青春の一つを作っていた彼に、僕はとうとう出会ったのである。


 スズさんは僕が入学したころには卒業していたから、彼は僕のことを知らない。だが図書館の天文の本をすべて制覇したスズさんは憧れの対象だった。憧れの人とこうして同じ場所で同じ星を見ているという状況に、僕は感動を覚えていた。


 だが僕は彼にそのことを知らせないまま、夜になると河川敷に車を走らせる日々を送っていた。特に理由はなかったが、この感動を占有しておきたい、という少しわがままな気持ちが僕の中にあった。


* * *


 彼と出会って二ヶ月ほど経った頃から、僕ら二人はひととおり星を見てから深夜のファミレスで軽食を取るようになった。どちらが言い出したのかは覚えていない。僕はグラタンだとかパスタだとか、いかにも食事らしいものを選ぶことが多かったが、スズさんは決まってプリンを食べていた。


「スズさん、今度、一緒にご飯にでも行きませんか」

 ぼくは軽い気持ちでスズさんを食事に誘った。最近、仕事場の近辺でうまい店を見つけたからである。


「ご飯?」

 スズさんの表情がわずかに曇ったのを僕は見逃さなかった。

「駄目、ですか」

「……それは、昼かな?」


「昼じゃ駄目ですか」

 別に昼食でも夕食でもよかった。だがスズさんのただならぬ雰囲気に、僕は思わず彼の心中を知りたくなった。左手の人差し指の爪で親指の腹を何度も引っかくという地味な動作が、僕には異様に見えて気にかかった。


「昼は、苦手なんだ」

「夕方とか、夜でもいいんですけど」

「夕方は駄目だ」


 スズさんの語気が強まった。僕は驚いたが、スズさん自身、自分の声に戸惑いを感じているようだった。目がきょろきょろして、口元に手を寄せる。そしてその手は少しだけ震えている。


「……あのね」

「はい」

「ぼくは夜にしか外に出ない」

 そうなんですか、と僕は答えた。


「昼は太陽が出てるだろ」

「え、ええ」

 当たり前のことを言われて僕は戸惑う。

「太陽は、ぼくに近すぎる」


 スズさんは星と太陽の距離を比較しているのだった。太陽が近くて駄目なのならば、地球上のすべてのものが駄目じゃないか。


「それじゃあ、どうやって生活してるんですか」

「夜にだけ起きてるんだ」

 スズさんは、家の近くのコンビニと深夜営業のスーパーをめぐって生きているのだと言った。仕事は一年以上前に辞め、貯金を切り崩して生活しているのだと。


「前は、気象通報も聞いていたんだけどね。今はもう聞けない」

 気象通報というのは全国の気象状況を伝えるもので、ラジオなどで放送される。慣れるとそれを聞くだけで気象図を描けるようになる。星を見る者としてのスキルの一つだ。勿論、僕も描ける。


「夜にしか生きられない生活ってのは、不便だよ」

 スズさんは自嘲気味に笑う。

「どうしてそんな……」


 どうしてそんな生活を、と言おうとして僕の言葉が詰まる。僕の目をじっと見る彼と目が合ったからだった。濃い鈍色の瞳に見つめられて僕は思わず目をそらした。


「……君は、焼けた死体というのを見たことはあるかい?」

 スズさんと目が合うのを避けて顔を上げられない僕は、どういう返事を求められているかわからず、おそるおそる首を振った。


「焼けた死体というのはね、真っ黒なんだ。腕と足が大きく曲がっていて、片方取れてたりする。彫刻みたいにね。体躯はびっくりするくらいに痩せていて、とても硬いんだ。そして目は真っ白になってて、すすがちょっとついてて、覗き込んでもこちらと目が合うことはない。勿論、表情もない」


 一体急に何を言い出すのかと思ったら。僕は唾を飲み込み、黙ってスズさんの焼死体談義を聞いていた。

「スズさんは、その、焼けた死体を見たことがあるんですか」

「あるよ」


 スズさんは目を伏せて、しかし涼しい声でそう答えた。どうしてあるのか、誰を見たのか、そして今その話を持ち出してきたのはなぜなのか。気になることは多くあったが、臆病な僕は尋ねることなどできない。


「一年ちょっと前かな。家が火事に遭ったんだ」

「火事ですか……」

 鈍い僕にも先は見えたが、スズさんは答え合わせをしはじめた。ぼくの心臓が高鳴る。


「放火魔だよ。ほら、最近、このあたりで有名だろう?」

「放火魔……」

 その話は聞いたことがあった。半年ほど前から、ボヤ騒ぎを何度も起こす放火魔がいると僕の職場でも聞いている。僕も気を付けているようにしているが、その放火魔がまさかスズさんの家を襲っていたとは知らなかった。


「その放火魔、たいしたことないと思ってました」

「ぼくの家だけなんだ。その放火魔による火で全焼したのはね。警察には、いたずらでボヤ騒ぎを起こすはずが思いのほか燃えて、マンションの一室なら軽く燃えたんだろうって言われたよ」


「その部屋の中に、人が……」

 焼けた死体の話をするというのはそういうことなのだろう。僕は体全体が硬直してるのを感じていた。

「僕の婚約者さ」

「…………」


 スズさんが外に出られなくなるくらいなのだから、薄々予想はついていた。だが実際にそう言われてしまうと、僕はやはり居心地が悪くなってスズさんから目をそらし、いかにも食事然とした料理が机の上に載っているのに気づいて、さっきまでそれを呑気に食べていたことがとても恥ずかしく思えてくるのだった。


「すみません」

 僕は深く頭を下げた。スズさんを視界に入れないようにするためだ。

「いや、いいんだ。いつかは言おうと思ってたことだから」

「でも……」


「君は悪くない。これはぼくの問題だし、ごめんね、ぼくのことで心配をかけてしまって」

 スズさんに頭を下げさせてしまった僕は赤くなって恥じ入っていた。気まずい時間が流れている。僕はその後どうやって帰ったのか覚えていないのだが、少なくとも次に星を見る約束をきっちりしていたことだけは確かだ。


* * *


「こないだは、すみませんでした」

 望遠鏡を用意しながら、僕は前回の非礼をもう一度詫びた。

「いいんだよ。ぼくこそ、悪かった」

「あの、スズさんは、どうして星を見るんですか」


 結局僕はすぐに話題をそらしてしまった。スズさんは笑って許してくれたとはいえ、興味本位で手を突っ込んではいけない部分を覗き込んだ罪悪感もあった。

「ぼくは、宇宙を見ているんだ」

「宇宙?」

 意外な答えが返ってきて、僕は素っ頓狂な声で訊き返してしまっていた。


「ぼくは真っ暗な宇宙を見ている。どれだけ光があっても、宇宙は全ての光を抱き込んでしまう。本当の黒さ。その中で、星が必死に光っているだろ。黒に対抗するようにね。ぼくはそれを見ているんだ」


 スズさんは無理やり話題を変えた僕に乗っかってくれた。

「生命はね、宇宙から生まれたんだよ。あのどこか、ぼくたちには見えない星にも生命はきっといるだろうし、地球で生命が生まれた瞬間も、どこかの星で誰かがそう思っていたかもしれない。誰かがぼくらを眺めていたかもしれない。四十六億年前に」


「宇宙か……」

 そう呟いた僕は、望遠鏡から目を離して倒れるように空を見上げた。新月で真っ暗な夜空に、小さな光の粒が無数に広がっている。

「星じゃなくて宇宙のことを考えるときは、そうやって寝転がるのが一番いい。君とは感性が合うね」


「そうですか?」

 スズさんにそう言われて僕は照れた。だが暗い夜空の元では隠し通せた。


「君は?」

「僕は……」

 言うか迷った。だが嘘はつけなかった。持論を曲げたらスズさんに失礼だと持ったからだ。


「僕は、星を見ているんです」

「星か。星は最高だ」

 スズさんは決して僕を否定しない。


「遠くに、ずっと遠くに、星はめらめら燃えているでしょう。僕には絶対に手を触れられない位置に。太陽より大きな星が、数えきれないほど燃えている。……火は、美しいでしょう」


 火は美しい。その言葉に、スズさんの瞳が大きく揺れる。それはまるで炎のようだった。僕はその目にぐらりと心を揺らされた。


「君は、火が好きなのかい」

「ええ。好きなんです」

「ぼくは、火を美しいと思えない」


 火事の話を聞いた今、それはもっともなことだ。彼にそんな話をしてしまった今、彼に絶縁されても文句は言えないと思っている。けれどそれは僕の中の事実だ。悲しいことに。


「でも、星は好きなんでしょう」

「勿論」

「……星のことを燃えているって言う僕のこと、きらいですか」

「いや」

 スズさんは首を振った。スズさんは決して僕を否定しない。


「同じ空を見る仲間じゃないか」

 スズさんはそう言って力なく笑った。申し訳ない気持ちとスズさんに嘘はつけないという僕の意地が、その言葉を聞いた途端に虚ろになって消えた。


* * *


「スズさん、星座は好きですか」

「好きだよ」

 宇宙を見ている、という彼にしては少し意外に思えた。


「ぼくは空のことなら何でも好きだ」

 そこで僕はスズさんが図書館中の天文の本を読んでいたことを思い出した。何でも、と言える自信が僕は羨ましかった。例えば僕は星座を好きだが、逆に言えば星座を構成していないような小さな星にはあまり興味がない。勿論、そんな星も燃えているから好きではあるのだが、やはり星座を作るような大きな星に興味が向いてしまう。


 スズさんは公平に星を愛していた。宇宙を愛していた。空を愛していた。夜を愛していた。僕にはそんな熱意もないし、星を見る動機は歪だ。僕はスズさんのことをもっと知りたかった。僕はこんなに純粋に愛せるものを持っているスズさんのようになりたかった。


 炎は愛すべきものではない。街ゆく人に尋ねても炎を好きだという人はいないだろう。スズさんだって炎はきらいだ。僕は愛してはならないものを愛してしまっていた。できれば、スズさんのように真っ当なものを愛していたいのだ。


 誰にだって、僕のように何か人に言えない嗜好を抱えながら生きているのだと思っていた。だがスズさんはどうあっても僕のような人間ではなかった。たとえスズさんに唾棄すべき嗜好があったとしても、これだけ星を愛し、夜に生きている人間は許されてしかるべきだ。僕と違って。


「……今日はそろそろ引き上げようか」

 星を見ようとしていたのに、いつの間にかそんなことを考えていた僕に、スズさんが声をかけてきた。


「随分早いですね」

「何を言ってるんだ、もう四時だよ」

 スズさんは時計を見る。ほとんど光のない中でも、しっかり手入れされた時計はわずかに光を反射していた。


「……その時計、すごいですね」

 スズさんの顔がぱっと輝く。

「わかるのかい? これはね、タグ・ホイヤーなんだ」

「ええ、まあ……」


 と言ったものの、僕はせいぜい有名な時計メーカーということくらいしか知らない。だが、スズさんの頬の緩んだ表情と指先だけでそっと時計を撫でる細い右手を見ると、きっと大切にしている時計なのだろうということは分かる。


「ぼくの婚約者と二人でつけていたものなんだけどね。でも、今はぼくひとりでつけてる。大事なものではあるんだけど、でももう意味をなすものではないんだ」

 僕はなんと言えばいいのか分からなくて黙っていた。


「そうだ」

 スズさんは急に手を打った。音は小さかったが、静かな河川敷の空気が音を広げる。

「この時計、いらなくなったら、君にあげる」

 僕は驚いた。タグ・ホイヤーは高級時計だ。それも、愛する彼女とのペアウォッチじゃないか。


「え、思い出の品なんでしょう? いらなくなるだなんて……」

「ぼくはいつか、この時計をつけなくなる」

 スズさんは僕を宥めるように言った。


「ぼくの婚約者はもういない。縋り付くのは、そろそろやめなきゃと思っているんだけどね……」

「いいじゃないですか、ずっと縋り付いてたって」

 僕だったら、ずっと縋り付いているだろう。


「彼女と約束したんだ。この時計は、大事にしたい人に受け継いでいこうって。ぼくらに子供が生まれたら子供に受け継ごうってね。でもぼくに子供はいない。誰か受け継ぐ人を探さなければならない。ぼくは君を選んだんだよ。それだけだ」

「僕を選んだんですか」

 やめておいた方がいいのに。僕は目をつぶった。


「だって、ぼくには時計を渡すべき人なんて、君しかいないから」

「…………」

「この時計を受け取ってくれないというのなら、これは捨てるほかない。それも趣だけどね。でもぼくの選択は間違っていないと思う」

「え、ええ……」


 それでもやはり僕は迷っていた。スズさんの一番きらいな炎を愛している僕が、タグ・ホイヤーの時計をもらっていいのだろうか。

「この時計、いつ君にあげることになるかはわからないけど、早くあげられるようにしたいな」


 早くあげたい、という彼の言葉に僕は慌てて両手を振った。彼女を忘れたい、そう言っているように聞こえたからである。


「急がなくたっていいと思いますよ。その時がいつ来たっていいし、来なくたっていい、そうじゃないですか?」

「でも、早くあげたいというのは、ぼくの気持ちでもあるんだ。ごめん、自分勝手で」


「謝らないでください。僕が口を出すことじゃありませんでした。すみません」

 そりゃ、ただの高級時計なら僕だって欲しい。でもスズさんの思い出の品なわけだから受け取る気にはなれない。早くあげたい、という言葉は彼の焦りが生んだだけであって、それは後々きっと彼を傷つける。僕はスズさんを後悔させたくはないのだ。


「スズさん、こんなことを僕が言うのもなんですが、婚約者の方のこと、忘れないであげてくださいね」

「そりゃ忘れないよ」

 快活な笑顔が却って不安を煽る。


「苦しんだ、いや死因は焼死ではなくて一酸化炭素中毒だから苦しんだわけではないだろうけど、志半ばの彼女のことを忘れることはできない」

「…………」

「でも、同じなのかもしれないね。火事で焼けた死体として見つかるのも、死んで火葬されるのも」


「同じ、ですか」

 僕の心には引っかかってしまって、思わず首を傾げた。

「結局、身体が燃えた煙は宇宙に向かうじゃないか」


「スズさん、宇宙に行きたいんですか」

「うん。子供のころからの夢だったし、やっぱり彼女がいるところだからね。

――こんなことを言うと、また君を心配させてしまうだろうけど」


「じゃあ、スズさんはアメリカとかイスラム圏には行けませんね」

「そうなの?」

「だって、土葬の地域でしょ」

「そうか、じゃあぼくは一生日本にいることにするよ」


 スズさんは笑った。いつもの、あの優しい笑顔だ。僕はほっとした。だって、スズさんが戻ってきたから。

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